77話 雪解の季節
―― エージェント 『
『よくやった、『
厳罰覚悟で、ほぼありのままを報告した私にかけられた声は、予想外にも称賛であった。上層部としてはターゲットとの友好関係を結べた結果を大きく評価しているようだ。
『お前はそのままターゲットへの接近を続行しろ。彼女の信用と信頼をより強く勝ち取れ』
「仰せのままに。全力を尽くします」
『いざという時のために、ターゲットの関係者に下級のエージェントを待機させておく。いざという時の交渉材料にせよ』
「人質ですね」
『そうだ』
「お言葉ですが――」
『?』
関係者を人質にすると聞いた瞬間、私は考えるよりも先に声を上げていた。衝動に身を任せた行動に対し思わず戸惑ってしまう。
『何か意見があるか?』
全速力で論理を組み立て、口に出した。
「……申し訳ありません、言葉を選んでおりました。彼女に対して恐喝という手段は危険極まりないと具申します」
『本部の方針に不満か』
「そうではありません。実に正しい判断かと思われます。ただし、常識の範疇の相手ならば、という前提です。
こと彼女に関しては判断基準を慎重に定めるべきかと。八重橋会が彼女から襲撃を受けた理由は、彼女の領域を侵し、彼女と敵対したからです。敵対さえしなければ、彼女の利用価値は計り知れません」
『我々を彼らと同じ系列に括られては困るな。身内ながら見くびられたものだ』
「……失言でした」
『先程のアドバイスは検討しておく。定期連絡と報告を怠るな』
『我ら天の民が幸福へ導かんことを』とお決まりの挨拶で通信が締めくくられる。私は端末をベッドの上に放り投げ、自身も寝転がって天上を仰いだ。
信用と信頼を勝ち取れ。簡単に言ってくれる。相手が並の人間の感性ならば容易い。
だが。
『その道化は見ていてあまりいい気分はしないな』
拒絶の念ありきとはいえ、あの冷徹を極めた声は、いま思い出しても悪寒がしてしまう。だから機関のエージェントとしてではなく、私という個人で事に当たらなければならない。
しかし私個人で人付き合いなど経験はない。ましてや友人など呼べる人間は存在しない。
私は、彼女とどう向き合えばいいのだろうか。
そんな悩みを抱えたまま、彼女との再会の日がやってきた。
結果。
「悩みに悩んだ末、この大量の銘菓の数々というわけか。やっぱり君は面白い人間だな、リン。むははははっ!」
第1回目の来訪で待っていたのは、ルルーファ・ルーファの爆笑であった。なぜ笑われているのか理解できないが、不快な気分でないことは確かだ。
「いやすまんすまん、馬鹿にしているのではないのだよ。リンがあまりにも可愛らしい対応をするものだから、ついつい愛おしくなってしまってな。姫を初めて家に呼んだときとまったく同じ反応だよ」
「姫……六条安未果ですか」
「おっと。姫の正体もご存知か。決して口外しないでくれよ」
「勿論です。貴女とは敵対したくありません」
「そうか。ありがとう」
彼女は上機嫌な態度を崩さぬまま、鍋に火をかけて何かを煮出していた。香りからするとミルクティーのようだ。
「ところで、俺が作った料理と菓子は食べてくれたか? 味はお気に召したかい?」
「え。あ、いや、食べていません。ええと……心遣いはありがたいと思っていますが……」
「敵の善意は受けんか?」
「滅相もない! 重ね重ねお伝えしますが、敵対の意志はありません。ただその……他人の手料理はあまり……職業柄、苦手でして」
特にスパイと認識された相手には、例え身内からでも食の施しは受けない。毒物・催眠剤・自白剤を仕込んでおく可能性がある。好き嫌いの問題ではなく、そのように教育されているのだ。だから彼女の料理は冷蔵庫に眠ったままとなっている。
「押し付けが過ぎたな。悪かった。中身は処分していいし、容器は次の機会にでも持ってきてくれ」
「……いや、処分には及びません。貴女の好みを把握する必要があります。料理の味や材料も報告の対象ですので、全身全霊を賭して食べさせていただく」
「食うのに全力を尽くすとは……であるならば、ゆっくり味わってくれ。しかし日を置きすぎては駄目だぞ。作り置きが出来るといっても、冷蔵でも1週間は保たん。すぐに食べないなら冷凍しておくといい」
そうアドバイスをしながら、彼女は鍋からポットへ移した紅茶をキッチンから運んできた。そしてはっと何かに気づいた表情になる。
「ということは……この紅茶も君は飲めんな」
「あ」
お互いが気まずい表情になった。
「俺としたことが迂闊だった……ううむ……スパイと言えど、友人らと同じように振る舞おうとは思うたが、なかなか上手くいかんのう」
「あの、お気になさらず――」
「ようし」
彼女はミルクティーを水筒に詰め、洗面室へ向かった。ゴソゴソと音を立てて身だしなみを整えていた――かと思えば、銀髪を隠した変装姿で現れる。
「今日はリンの親睦会として動画や配信鑑賞のつもりだったが予定変更だ。ショッピングに行こう。君が飲み食いできる既製品とタッパーの予備の調達に……それと、君の服も買いに行こう。そのビジネススーツ姿で遊びに来られては、ちと背徳感があってやりずらいからなあ」
「え」
「ふふふ。金の心配はしなくていいぞ。最近はとうとうYaーTaプロから給料がドカンと入ってきたからな。
君も、もう少し顔を隠す格好にするといい。なにせ俺は変装越しでもモテるし、君の美貌も大概だ。きっとナンパで男が寄ってくるぞ。覚悟したほうがいい」
そう言ってクローゼットを開け放ち、真剣な表情で服を選び始めるルルーファ・ルーファ。私は彼女の観測という任務を果たせれば良いので外出に異論は無いけど……彼女の陽気な言動に合わせるのは少し骨が折れそうだ。
とりあえず、買い物の金は経費として組織に払ってもらおう。でないと申し訳ない気分になってしまうから。
・・・・・
・・・
・
そんなぎこちない馴れ初めが続きながらも、私達は順調に親睦を深めていった。戸村睦美としてスタッフの仕事をする時は、あくまで仕事仲間として。スパイの
彼女との交流は本当に他愛もない雑談が主だった。とはいえ彼女の友好関係や、その友人たちとのエピソードも隠すことなく開示するし、なんと彼女の転生前である異世界事情も躊躇なく私に教えてくれた。直接の接触と撮影こそ許可されなかったものの、彼女の武器である
『君の組織は、俺の住居や勤務先もすぐに特定したし、俺の力もそれなりに把握している。つまり逆に考えれば、隠し事なんぞせずに話せるってことだ。案外、リンが思っている以上に心の発散となっているよ』
『……本当に逆転の発想ですね』
『それに、俺の世界の情報を語ったところで、こっちの世界では空想の絵空事以上の発展はしない。むしろ俺達の世界への知見が広まる良い機会だと思っとる』
また、彼女は私の組織事情にも触れようとはしなかった。私の組織への興味が無かったし、そもそも彼女には後江慧悟という社会の裏事情に詳しい人物がいるので、わざわざ私に聞く必要がない、という理由もあったにはあっただろうが。
『俺に話したらリンの立場が悪くなるんだろ? 最悪、処分もありえる。であれば詮索しないよ』
『私は自分の話が出来なくて、聞いてばかりだ。貴女は退屈しないのですか?』
『リスナーへの雑談配信みたいなもんだよ。それに君は俺の話をしっかり聞いて、ちゃんと君だけの反応をしてくれる。その様子を見るだけでも十分に楽しいぞ』
他人には益を与え、自身には無益を通す。そんな慈愛に満ちた聖女のような振る舞いにどこか胡散臭さと申し訳無さを感じてしまう。しかし居心地の良さのあまり、ついつい立場を忘れて居座ることが日に日に多くなったし、彼女に対しては自分を取り繕わなくなっていった。
『最近、スパイを引退した後の事を考えるんです。こうしてお喋りをして一緒に過ごす日々を毎日のように過ごせたら良い――そう思っている自分がいます。普段の私なら、今日をどうやって生き延びるのかばかり考えてしまうのに』
『現役を引退しても後世への指南教導が待っているだろうがな』
『分かっています。でも貴女と話していると、そういう夢物語も見たくなるのですよ。とりあえず私が後輩を指導する際は、自分から死にたくなるぐらい厳しくしつけるつもりです……やだ。想像したら、ちょっと楽しみになってきました』
『なかなか愉快な考え方をするね。ううむ……そんな発言を聞いていると、スパイという枷が解けた君を見たくなるぞ』
『幻滅しますよ』
『そんなお茶目も君の姿だ』
最初の拒絶が嘘のように、彼女は私という存在を肯定してくれた。その肯定がたまらなく心地良い。
何故、私に良くしてくれるのか。ある日、聞いてみた。
『リンという個人を気に入ったってのもあるけど……スパイやってる友達って、普通いないだろ? 面白そうだと思ったんだ。実際よく楽しんでいるよ』
『私が言うのもおかしな話ですが、いくらなんでも楽観的すぎません?』
『ちゃんと俺なりに対策はしているよ。それにだな……んー……ちょっと押し付けがましい意見になるからリンが不快に思ってしまうかもしれないが、それでも君には話しておこうか』
『?』
『君を見た第一印象は、だね。『昔の俺に似ている』なんだ。君は銀星団に入る前の俺に似ているから、ついつい構ってしまう。誰も頼れないと勝手に思い込んで、ひとりぼっちでもがいで苦しんでいるように見えるんだよ。それこそ、パンを食べるために誰かを殺さなくてはいけない――常日頃から自分にそう言い聞かせているような、不器用な強迫観念に囚われた生き方だ。
だから放っておけない気持ちになってしまった。俺は君に伝えたいんだ。もっと肩の力を抜いて、もう少しだけ遠慮のない生き方をしてみるといいってね。きっと世界が変わってくる』
『……肩の力を抜いて、遠慮をしない……ですか』
『そうそう。素直になるのは気持ちいいぞ』
……正直に告白しよう。彼女との出会いからひと月ほど経過し、4月を過ぎる頃には、既に彼女の虜になっていた。
顔を合わせれば合わせるほど。声を交わせば交わすほど。今までの自分が否定されている気分になる。それでも一瞬たりとも決して不快にはならなかった。最低でも1日に1回は服用していた
「――本日分の報告は以上となります」
彼女とのやりとりを報告として文字に起こす度、どのように報告をすればいいのか四苦八苦し、その過程を楽しんでいる自分がいる。定期報告をしている今、諜報活動らしさの欠片もない内容を見て、上層部は今どのような顔をしているのだろうか。
とはいえ、これは任務である。私の喜びと任務の本質を切り離して考えなければならない。あくまで彼女は観察対象なのだ。
『ショッピングに映画批評、ゲームレビューに英語の家庭教師……お前のレポートを見ていると、女子大生の
私もそう思う。
『お前も随分と楽しんでいるようだ。文面から見え隠れしている』
「要らぬ誤解を与えてしまい申し訳ありません。ただ、あくまで任務を遂行しているだけにすぎないことをお伝えします」
『そうでなくては困る。今からエージェントに戻ってもらうぞ』
「今から? と仰るということは――」
『お前の考えている通りだ。現在遂行中の任務の一時中断を申し渡す』
……ああ。そうだった。
私は『
少し浮かれすぎていたようだ。
『新しい任務だ。我が機関が誇る工作員のエリート――『
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