76話 我ら倫類の隣人なり


―― エージェント 『16シーリゥ』 ――


 私の手には負えない。もっと極まった専門家が必要だ。そう判断した私は本部へ応援を要請した。

 しかし私の要求は却下された。


『ミッションの難易度として、君の派遣は過剰な采配とさえ言える。人員の派遣には期待しないでほしい。エージェントとしての矜持を見せたまえ、『16シーリゥ』』


 矜持で任務を完遂できるならいくらでも捧げるのだが。とはいえ弱音を吐いてはいられない。どちらにせよ撤退は許されないのだから。

 保険をかけるのであれば関係者を餌に脅しをかけたいところだが……過度な刺激は非常に危険な相手だ。愚直に繰り返すしかない。

 幸い、事務所が入っているビルの監視カメラは既に細工済みだ。ルルーファ・ルーファの行動をある程度は把握することが出来ている。彼女が事務所にいるタイミングで再び出向き、再度カメラと盗聴器の配置をすることにした。今度は敷地内ではなく、周辺の家屋へ設置し、指向性を持たせて外部から監視を行う方針だ。流石の彼女も警戒の範囲外ならば気づくことはあるまい。

 事務所の監視カメラと画面を共有したスマホの画面を見ながら、ルルーファ・ルーファの動向を警戒する。彼女は別のスタッフとの会合中である。暫くは安全だろう。私は昼休みという時間帯を利用し、近くの店で昼食を取る名目で外出した。


「こんにちは。ご苦労さまです」

「ありがとうございます」


 通りすがりの中年女性に会釈を返す。通常の会社員の格好で住居地をうろつくと怪しまれる可能性があるので、今の私は戸村睦美とは別人の、調査員としての変装をしている。体格も、中肉中背な戸村睦美とはひと目で判断がつかないよう、少しふくよかな格好をさせてもらっている。今の私が道端を歩き回っても怪しまれないし、私を戸村睦美と認識する者はいないだろう。


「やあ。ご苦労さま」

「どうもありが――」


 背後から声をかけられ振り向いた瞬間、私は完全に呼吸を忘れてしまった。事務所にいるとばかり思っていたルルーファ・ルーファから声をかけられれば誰だってそうなる。咄嗟にスマホを見る。開け放たれた窓から身を乗り出し、驚きの表情で周りを見渡すスタッフの姿があった。


「大丈夫かい? 汗だくじゃないか」

「ご、ごめんなさい。貴女のような美人から声をかけられるとは思っていなくて……何か御用でしょうか?」

「それ、答える必要があるかい、睦美? 特に変装で素性を隠すような者には答えたくないな。そのあからさまに作った声もあまり受け付けんからやめて欲しい」


 見抜かれている!? それも、私が戸村睦美だと認識したうえで!? 馬鹿な。私の変装を見破られた経験など一度たりとて無かったというのに。最初に会釈したときから会話もしていないから、ほとんど初対面に近いんだぞ!?


「今の状況が分からないといった様子だね。それくらいなら答えるよ」

 

 彼女は自宅の方向へ指を指した。


「見えるかな? 監視カメラだ。おそらく君が用意してくれたものだね。あれでスマホ越しに不審者の様子をうかがっていたんだ。俺の友人の部下に、この手の技術に詳しい者が居てね。君の機材を再利用して、彼女に環境を用意してもらった。ほら、盗聴していたときに俺と話していた男が居ただろう? 彼の部下だ」

「ええと、何のことか――」

「そのわざとらしい猫なで声をやめろと言った」


 私が誤魔化そうとした瞬間、尋常ではない殺意が私に向けられた。全身の血管が一気に収縮するような感覚。私は無意識に自分の口を手で塞いでいた。呼吸ですら死に至るとさえ感じてしまう。


「その道化は見ていてあまりいい気分はしないな。それよりも、素の君と話がしたい」

 

 私が怯えていると話が進まないと思ったのか、彼女はすぐに殺意を解いて肩の力を抜いた。

 

「話を戻そうか。と言っても、もうこちらから話すことはあまり無いがね。変装した戸村睦美という不審者の存在を検知して、事務所から飛び出し、家屋の屋根上伝いに直線距離を移動しただけだよ。俺なら1分もかからずここまでたどり着ける。おっと、家屋への不法侵入になっちまうか、これ?」

「………………」

「とまあ、こんな経緯いきさつだ。ちなみにアドバイスなんだが、もう少し匂いと歩き方に気をつけたほうが良い。部屋に残っていた匂いがすれ違った時の君にそっくりだったし、君の歩き方は人よりも少し足音が小さすぎる。俺の経験上、歩き方に気をつけている人間はだいたい裏に精通していると思っていたら、やはり正解だったようだ」


 匂いは無臭を徹底しているし、一般人と大差ない歩き方をしていたのだが。

 

「さて、次は君が打ち明ける番だ。嘘偽り無く、すべて正直に答えろ。少しでも誤魔化す気配があれば、その瞬間に。まずはその変装を解いてもらおうかな」


 もはやどんな抵抗も無駄だろう。もはや私に残された道は、いかに敵対せずに懐柔できるかに尽きた。失敗すなわち自害も覚悟せねば。

 顔の変装を解き、ウィッグを外した。すると彼女は驚きの視線を私に向けていた。

 

「なんと。よもやよもやの、俺にも劣らぬ美女ではないか。わざわざ隠す必要も無かろうに……いや、それでは意味がないか。とりあえず名乗ってもらおう。戸村睦美は偽名だな。本当のお名前は?」

「名前は無い。コードネームで『16シーリゥ』と呼ばれている」


 名前は素直に白状する。名を知られたところで私が検知される事態にはならないだろう。裏に精通する者ならば話は別だが、精通しているのならば私の存在を認知した時点で気づくはずだ。

 

「コードネーム……だと? 俺の想像以上に物騒な立場じゃないか。スパイか工作員か……どこの所属だ? 秘密結社か? どこの国の機関だ?」

「………………」

「答えられないか」


 私は頷いた。口に出せば死が待っている。これ以上の情報を渡す訳にはいかない。私の沈黙に対し、容赦のない追撃を覚悟したのだが――彼女の態度は私の予想外だった。

 

「さよか。残念無念だ。名前が聞けただけでも御の字といったところか」

「答えなくていいのですか?」

「まだ興味本位でしかないからな。必要かどうかは、次の回答次第だよ。さて、肝心のお願い――いや、通告だね」


 鋭い眼光が私を射抜く。いよいよか。プライベートを覗かせて欲しいと言われて許諾する者など居るまい。彼女の反応はもっともだ。

 だが、こちらも任務なのだ。どんな些細な任務でも、こなせなければ死が待っている。

 監視を止める選択肢はない。上層部への中止要請などもってのほかだ。しかし彼女に発覚されず監視する打開策など思いつかない。

 彼女はプライベートへの干渉を拒絶しているだけであって、我々の存在そのものには興味が無い様子だ。現状では、の話だが。私の回答次第では、私の組織への――果ては祖国への介入も視野に入れるかもしれない。しかしイエスとノー、どちらの回答も私にはありえない。

 自害するか? いや、そもそも自害が必要な状況か? 迂闊な自害は余分な情報を与えてしまう。

 抵抗するか? しかし彼女を始末する理由が皆無だ。そして彼女を始末できる力量も持ち合わせていない。

 ……なんだこの状況は。八方塞がりなのに、前例が無さすぎてどうすればいいのかまるで分からない。


「ううむ、参ったな」


 うん? いつまで経っても通告が来ない。私の顔を覗き込んでは考え込んでいるのだが……どうしたことだろう。

 

「ああいや、ガツンと突き放してやろうと思ったんだが、君の表情を見ていると、ちと可哀想に思えてきてしまってな」

「かわいそう?」


 彼女の予想外の言葉を、思わずオウム返ししてしまう。

 

「今の君の表情、すごいぞ? 駄々をこねたが意見が通らずに拗ねてしまった子供みたいな顔だ。よく見た表情だよ」

「はぁ?」

「そんな顔をされてしまっては、こちらが申し訳無く感じてしまう」

「いやあの、その……えぇと……ごめんなさい」

「むはは。なぜ謝る。謝るくらいなら任務など捨て置けば良いのに……そうも言えない立場という話か。うん。面白いな、君。本当にスパイなのか疑わしくなっちまうくらい、面白い子だ。んー……参った。すっかり気が変わっちまったぞ。この出会いを終わらせるのは惜しいな」


 何だ? 何を考えている? 生まれてこの方、面白いなどという評価をされたことはないのだが。この女の思考が全く読めない。分からない。理解できない。


「あの……」

「おお。閃いた。面を向かってなら監視されても問題ないか」

「え?」

 

 彼女は「ちょっと待っとれ」と言い残し、彼女は私を残して自宅へと戻ってしまった。かと思えばすぐに引き換えしてきた。その手にはコンビニのビニール袋に入った荷物が吊り下げられている。


「手を出して」


 分からないまま従うと、彼女は私の手に硬く冷たい何かを握らせた。


「鍵?」

「我が家の合鍵だ。無理やり侵入されるくらいなら、もう渡しておくよ」

「は?」

「一方的な監視は嫌だが、遊びに来るぶんには大歓迎だ」

「……は?」

「君に興味が出た。だから、まずは友達から始めよう、という事だ。俺は友人が増える。君は監視という目的を果たすことが出来る。WinーWinウィンウィンというやつだな」


 言葉の意味が理解できない。ついさっきまで拒絶していたというのに、どのタイミングで手のひらが返ったんだ?

 

「お近づきの印に、これをどうぞ」


 今度は中身がずっしり詰まったビニール袋を渡された。中には自作と思われるクッキーや料理が入ったタッパーで埋められていた。

 

「タッパーの中身は作り置き料理だ。毎週月曜の朝7時は作り置き料理の配信をやっていてな。その配信で作ったものだよ。配信はなかなか好評だし、味も保証する」

「………………」

「RIMEはやってるか?」

「え、あ……いや、やっていない。許可されていない」

「そうか。じゃあ睦美としての連絡先でいいから交換しようぜ」

「それなら大丈夫……です」


 怒涛の応酬を前にして、しどろもどろの回答になってしまう。組織や企業への潜入任務のために社交辞令は履修しているし、完璧にこなせる自信はある。しかし、それは自分がスパイであることを隠しての前提条件だ。自分をスパイと知って友好関係を結ぼうとした者など一人も居なかった。

 未知の体験が、いま私の前で繰り広げられている。


「オッケー、番号を登録した。ところで、名前なんだが、なんと呼べば良い? 変装無しの君を睦美は呼べんし……シールゥで……んん、ちと呼びづらいか。勝手に呼び名をつけさせてもらうぞ」


 彼女はいくつか案を口にしてから、こう命名した。

 

「『リン』と呼んでも構わんか?」


 その問いを否定する理由が、私には見つからなかった。


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