幕間1ー4話 この一歩だけは


―― 撮影ディレクター『カトー』 ――


『君も苦労したね、カトー。実は俺も君に隠していたことがある。俺、子育ては得意中の得意分野なんだ。

 君は運がいい。話したのが俺で良かったな。ちょっとした助言を送っておくよ。鞄の中を見ておいてくれ。

 後は君がやるんだ』


 脳内から響くルルちゃんの声と、強烈な吐き気と頭痛で目が覚めた。見慣れた我が家のソファーベッドの上だった。

 肉体の限界サインに従い、洗面所でしこたま吐いてから、部屋着に着替えて胃薬や頭痛薬をかきこみ、再び横になった。日が昇り始めた真冬の早朝は普通に寒い。


「かっこ悪い……」


 でも今日はお休みだからのんびりできるね。娘にお出かけしろとせっつかれることもないし。悲しい。

 そういえばルルちゃん、鞄の中を見ろって言ってたような。見てみますか。

 鞄の中を覗くと、お菓子の材料が入ったビニール袋と、可愛らしいデザインの便箋が入っていた。便箋には僕へのメッセージが書かれた一枚と、お菓子のレシピが書かれた一枚の二枚構成で、英語の筆記体のような独特なクセを持つ日本語で書かれていた。読んでみたけど……これがルルちゃんの助言?

 

「これ、やるの? こんなことで瑠菜るなと仲良くなれるって?」


 それもなかなか手厳しい内容だった。実行するにはかなりの勇気がいるぞ。でもルルちゃんが関わって悪い方向に転んだためしが無いんだよね。

 やってみよう。幸運の女神様がついていると思えば怖くない。



 

 ルルちゃんの助言は三つあった。

 一つ目は、とあるお菓子を作れ――それもなるべく早いタイミングで、との内容だった。主戦場は我が家のキッチンである。

 全然やったことないけど、まあ何とかなるでしょ――そう思っていたのは最初の三分くらいだった。普段料理なんてまったくやらないから、キッチンのどこにお目当ての調理器具があるのか分からないし、見慣れない専門用語や食材が出てきて途方に暮れることもしばしば。いやこれ、ホントに大丈夫? 素人でもできるんだよね? おじさん、ちんぷんかんぷんだよ、ルルちゃん。


「……なにやってんの?」

「ひっ」

 

 絶対零度を想わせる冷え切った声に、僕はびくりと震えた。震えた拍子で砂糖をすくったスプーンを落としそうになったけど、セーフ。


「お……おはよう、瑠菜るな

「なにやってんのって聞いてるんだけど」

「お菓子……作ってます」

「は?」

「クッキー、作ってる」


 鋭かった瑠菜の視線が更に鋭くなる。

 そりゃ睨みたくなるよね。小麦の塊を焼いたお菓子を作ってるんだから。小麦アレルギーの瑠菜にとっては毒の塊だもん。

 

「あたしを殺したいってこと?」

「いやいやいや!?」

「あのモデルさんにでもプレゼントするって?」


 あのモデルさん……ルルちゃんのことか。僕を連れてきたときに会っているんだな。ルルちゃん、何か瑠菜にアドバイスとかしてないかな。

 

「瑠菜に食べてらおうと思って」

「あぁ!?」

「瑠菜でも食べられる、米粉を使ったクッキーなんだ」

「それまであたしはどうしろって? 朝ごはん食べたいんだけど。今日は目玉焼きハムエッグって気分なの。さっさと片づけて、どいてくれない? どうせ作れっこないんだから。計量カップとか泡だて器とか、どこにあるか知らないでしょーし」

「そ……それは……」


 ごもっともである。娘の朝食を妨害してまで作るものではない。うう……完全に僕が悪者だよ……今すぐ片づけたい……。

 でも。それでも……信じるよ、ルルちゃん!


「それは……ごめん、それはできない。作らせて」

「はぁ!? あたしへの嫌がらせなの!?」

「そういうわけじゃないけど……それでも作らせて。おねがいだよ」

 

 ルルちゃんからの助言は残り二つ。

 二つ目は、瑠菜から何を言われても、どんな妨害をされても、絶対に僕がクッキーをつくること。

 二つ目がすっごく辛いぞルルちゃん。今すぐビンタされそうだよ。


「………………」


 瑠菜は無言で睨み続けていた。

 僕は瑠菜の圧から逃げることなく、彼女の目を見つめ返していた。

 最後の三つ目。瑠菜の視線から絶対に逃げない事。これもきっつい。人生で最高にハードなにらめっこだ。

 ここは退いたら駄目だ。ここだけは絶対に負けちゃならない。僕が瑠菜と一緒に暮らすためには、きっとここだけは破っちゃいけない。ルルちゃんがわざわざ書き起こしたんだもの。僕だけなら負けちゃうけど、ルルちゃんが味方なら前に進める。

 1分。2分。お互いに微動だにすることなく睨み合っていると、瑠菜の方から視線を外した。僕の脇を通って冷蔵庫から牛乳を取り出す。

 

「お腹すいてるから、さっさと作れ」

「あ……うん」


 よし、関門クリア! 飛び上がりそうなくらい嬉しいぞ! 久しぶりに肯定してくれたぞ! よし、作ろう。また機嫌を損ねる前にやってしまおう。

 ええと、米粉と、コーンスターチと、アーモンドパウダーをボウルに――。

 

「ねえ。材料ちゃんと量ってる?」

「わっ」


 牛乳が入ったマグカップを片手に瑠菜が隣に立っていた。びっくりした……。

 

「大さじですりきり一杯ずつ入れてるよ。だから……大体あってるはず」

「粉は? かけた?」

「え? 粉なんでしょ。全部同じくらいの大きさじゃない。やる必要ある? それにウチにそんな器具、無いよね?」


 瑠菜は盛大な舌打ちと共にキッチンの収納を開き、見たことも無い金属製の調理器具や、小さな体重計みたいな器具を取り出した。


と量り」

「こんなのウチにあった?」

「買ったの!」

「いつ!? お金どこから!?」

「買う時間も金もいくらでもあるわ! どっかの誰かさんが無駄にお金を渡してくれるおかげでね! どけっ!」

「あいたっ!」

 

 すねを蹴られて怯んだ隙に立ち位置を占領されてしまった。片づけられちゃう、と思いきや、とても慣れた手つきで調理のセッティングを始めた。


「レシピ見せて」

「あ、はい」

 

 反射的にレシピを差し出すと、即座にむしり取られてしまった。ルルちゃんのアドバイスが書かれた紙はまだ僕の鞄に潜んだままだ。よかった、見られなくて。さすがに見られたら気まずい。


「何よこのレシピ。こんな凝った手順、こいつに出来るわけないのに。バッカじゃないの?」


 情けない父親でごめんなさい。


「あたしがやるから、どっかいってろ」

「え? いや、それは、えーと……できない。僕が作らないとダメなんだ」

「じゃああんたが出来なさそうなことやるから、あんたは単純作業して。混ぜるとか固めるくらいはできるでしょ」

「一緒に作ってくれるの?」

「あたしは早く朝ごはんが食べたいんだ! ちょっとそこで待ってろ! 仕事やるから。これであんたが作ったことになるでしょ。さっさと終わらせるよ」


 そう言うや否や、瑠菜は恐ろしく慣れた手つきで材料や器具の用意を再開した。

 知らなかった。瑠菜が、こんなにお菓子作りに詳しいなんて――。いくら嫌われているとはいえ、何年も同じ屋根の下で暮らしているのに、全然知らなかったな。

 あれ、そういえば。こんなに長い時間、瑠菜と話をしたことあったっけ。いつぶりだろう。


「今日は何なんだ、まったく……ほら、材料入れたから混ぜて。ダマ作らないようにしっかり混ぜて混ぜて混ぜまくれ」

 

 ……なんだ、そうか。


「僕、嫌われてなかったんだな」

「はぁ? キモいこと言ってないで早くやれ!」

「うん」


 そうやら僕は、問題を大げさに捉えすぎてしまっていたようだ。拒絶されるまでは嫌われていない。僕が勝手に距離を置いて怖がって目を背けていただけ。僕たちの問題って、とても簡単に解決できる問題だったんだな……。



・・・・・

・・・


 

「この場合、慎重と臆病は同意義だよ、カトー。君の美徳でもあるが欠点でもある。もっと大胆になれ。積極的になれ。たった一歩の踏み込みで、世界なんて簡単にひっくり返るぞ」


 その後の顛末をルルちゃんに話したら、そんな感想をいただいた。出会った場所と同じ屋上の喫煙スペースで僕らは休憩している。二人ともタバコではなく、ホットの缶コーヒーで寛いでいた。

 顛末については長く語るほどではない。「お母さんが欲しい」の言葉が日常から消えたくらいだ。些細な変化でも大きな第一歩である。

 

「1回悩みを話しただけでよく解決策を思いついたね」

「娘さんがカトーの及び腰に苛立っていたというのは、なんとなく予想できた。あとはきっかけの後押しさえあれば、すぐに解決するだろうと思っていたよ。俺のアドバイスをしっかり守って、君は『父親』から逃げなかった。だから上手くいった。

 君の言っていた拒絶ってのは拒絶じゃねえんだ。拒絶してるのなら娘さんはもっと過激な行動をするはずなんだよ。それこそカトーが無事でいられないような。

 取りつく島なんていくらでもある。一人娘の反抗期ってのは人生の可愛いひととき、愛すべきイベントのひとつだよ。

 もっと娘さんに向き合え。話し合え。歩み寄れ。君の想像以上に、娘さんは可愛いはずだ」


 まるで――いや違う。父親となった我が子へ助言するように、ルルちゃんは言った。反抗期を経た子を実際に持っていたとしか思えない。彼女は20歳だ。彼女が14にもなる子供を持つなんて絶対にありえないのに。

 ルルちゃん。君は一体、何者なんだい?


「何か言いたげだな、カトー」

「ルルちゃんにどんなお礼をしようか考えていたんだ」

「礼なら、この前俺が払った呑み代とタクシー代を今日のギャラに上乗せしといてくれ。それで手打ちだ」

「あ、はい。誠心誠意対応します」


 はぐらかされちゃった。ま、ルルちゃんが何者か聞いたところで、今みたいにはぐらかされるだけなんだろうな。

 いいじゃないか、何者だって。ルルちゃんは恩人であり、幸運の女神で、将来有望なモデルの女の子だ。中身が何者かなんて、さして重要じゃない。


「でもそれだけでいいの? 欲しいのあるなら何でも買ってあげちゃうよ。短絡的でごめんだけど、おじさんそれくらいしか思いつかない」

「えーよえーよ。あんまり貸し借り作りすぎるのも離れづらくなっちまうし」

「離れるって?」

「お? そういえばカトーに伝えるのは初めてだったか。俺、今度の撮影でモデルの仕事を辞めるんだ」

「え」

「元々決まっていた本業へ本格的に取り組むことになる。悪いが就職先は話せないから容赦してくれよ。守秘義務契約がガチガチの厳しい仕事なんでな」


 ……晴天の霹靂って、まさにこのことだね。


 

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