1話 はだしの女神様
波の音。潮の匂い。水と砂の冷たさ。
自分が海辺に寝転がっているのだと理解したのは、心臓がどくんと大きく跳ねた後だった。
目を開く。両目に飛び込んできたのは、乾冷季特有の灰空ではない。蒼天だ。
……
飛び起きて上半身だけ体を起こす。
【うぇっ! ぺっぺっ!】
塩水が口の中に入ってきた。塩辛い。死ぬ前に水が飲みたいとは思ったが、違う、そうじゃない。
というかそもそもだ。俺は死んだんだよな? それとも夢を見ているだけか? 夢にしては意識と感覚がはっきりしすぎている。
【くそ、髪が邪魔くせえな……ん?】
自分の声が変だ。まったく聞きなれない。良い声ではあるが。まるで女みたいな――。
【……いや、女だ。女の体だ】
落ち着け。状況整理だ。こんなに混乱するのっていつぶりだ? マーシー海戦でくそったれな商会ギルドに裏切られて自部隊が壊滅しそうになった時以来か? やべえ、ちょっと楽しくなってきた。
まずは傷だ。意識が飛ぶ前に付けられていた傷は全て完治している。左腕もしっかり動くぞ。
しかし女だ。若い女の体になっちまっている。肌は薄めの褐色。ジルフォリアの民特有の肌色と同じだ。干した根菜みたいだった肌の質も、茹でた卵を丁寧に剥き上げたような滑らかさだ。たまんねえな。
体格も俺好みだ。締まるところは締まり、出るところは出ている。男を惹くには申し分ない。ちょいと胸が出っ張りすぎて足元が見にくいが、ご愛敬だな。
髪は艶のある銀髪が腰まで伸びていた。褐色の肌と銀の髪。色の対比が映えて素晴らしい。指で梳ける髪ってのは自分で触っても気持ちがいい。
総評。体良し。声良し。あとは顔が良ければ男にとって理想の女だな。鏡を見るのが楽しみだ。これだけ理想の体を用意したのだからツラもいいだろ、うん。
とはいえ全裸。全裸である。どうりで寒い訳だ。こいつはいただけなかったな。
そして何よりも、この極上の体を男として味わえないのは何よりも苦痛でならない。
【……逝きそびれたな】
間違いなく地獄の刑罰などではない。
【さて】
心臓は動いてるし確かな寒さを感じる。若干の空腹と喉の渇きも感じている。死んだ魂ではなく生きている人間となった想定で動いたほうがいいだろう。
周囲に人工物がある以上、人間が周囲に居る可能性が高い。まずは人を探して衣服を貰えるよう交渉だ。死んだばっかりなのにまた凍え死ぬなんて結末は笑い話にもならん。食は狩りや採取でどうにかできる自信がある。住居は無しでも結構。野宿で問題ない。
【動くか】
それにしても、はてさて。どういう経緯なのだろうかね。
そもそも何故成人の女に変える必要があった? 力を削ぎたいなら赤子とするか老人のままにするべきだろう。神々の試練か。はたまた
【しかし歩きやすい】
対して草花や虫は俺が知っているものと大きな変化は無さそうだ。魔物はおろか動物の気配は無し。そんでもって人間の気配もさっぱりだ。いっそのこと野盗でも出てくれねえかな。
【む】
道の脇から生い茂る背の高い草の隙間から建物が見えた。そちらへ向かって道沿いに歩くと朱色の建造物が俺を出迎えた。
丸太を地面から垂直に2本。丸太の間に木材を挟み込むように1本。そして丸太の上に大きな木材を置くように1本。形は門だが扉はついていない。
見たことがある……見たことがあるぞ!
【トリイ! ということは奥の建物はジンジャ! 小さいがジンジャだ! 『
陽が沈んでも街は星々が舞い降りたかのように眩く、人々は顔を合わせずとも魔法の鏡越しに会話を交わす。暑さ寒さを感じることなく年中を過ごし、国の王が贅を尽くして作らせるような食べ物が毎日捨てるほど湧いて出る。空には『
恒久の平和が約束された理想郷。まさに
【よもやレーワの世界とは……たまげた。ジルフォリアから追い出される前にレーワの研究者になっていなかったら、この感動は無かったな】
ここがジンジャならばミソギの水があるだろう。不愉快な潮水を洗い流すことにしよう。
テミズシャと書かれた心もとない水場でミソギを済ませるも、思いのほか体が冷えるのでジンジャの中へ退避した。衣服の問題は解決してないな。見慣れない祈祷の道具が飾られているので布はあるが……神聖な道具である。手を出すのは止めておこう。
「――♪~」
【おん?】
歌が聞こえる。若い女の声だ。ジンジャを背にして歌っているということは祈祷ではないだろう。
しかし……いい歌い手だ。
不安と緊張で押しつぶされそうな自身を仲間に悟られぬように奮い立たせる応援歌といったところだろうか。早めの曲調と洗練された歌詞に沿って感情をありったけ乗せている。
酒場で出会った
「はぁぁ……だめだ。やっぱり歌が乗らない」
おや。中断されてしまった。出るのを躊躇うくらいには聞き惚れていたんだが。
残念に思っていると、表で金属が落ちる音と力の籠もった拍手の音が聞こえた。確かジンジャにはサイセン箱に金を入れて願い事をする風習があったな。悩みを聞く代わりに教会へ積立を強いるフォニア導教と似たようなものか。文明は違えど宗教の根本は大して変わらんようだ。
「神様仏様、どうか合格できますように……!」
なるほど必死だ。やれやれ。仏様はよく知らねえし神様じゃねえけど年長者として助言はしてやるか。
俺は外へ出た。祈りを捧げていたのは少女だった。
年は15〜6ほどだろうか。東国系の愛くるしい顔立ちで、顔の右半分を覆うように黒い髪が伸びている。眼鏡をかけているが度は入っていないようだ。己の魅力を引き出す小道具の役割もあるだろうが――。
【傷隠しか】
彼女の左頬には抉られたような深い傷跡が遺っていた。隠れた前髪の隙間からも、より深い傷跡が見えている。おそらく顔の右半分はほとんどが傷跡なのだろう。祈りを捧げる際に外したと思われる帽子も脇に抱えている。普段は帽子と髪と眼鏡で顔を隠しているのだろう。全身が引き締まっており普段から肉体を動かしている者ではあるだろうが……戦士ではないな。身体には傷跡が見当たらない。綺麗すぎる。とはいえ虐待を受けていた者特有の陰鬱さも感じられない。奇妙な傷跡である。
「えっ、えっっ」
そんな彼女は目を見開いて言葉に詰まっていた。神殿から出てきたから神様と勘違いされているのか。
【安易に祈るな】
「はい!?」
【祈りは可能性への諦め。万策尽きたと勘違いした者が行う時間の空費だ。その時間は己の研鑽に努めろ】
「なっ、ななな――」
兵への軍事指導でよく使った言葉だ。もうやれることが無いと思い込んでいる時ほど神頼みに頼りたくなるが人間の
「あ、あの、あのあの」
【なんだいお嬢ちゃん。年寄りの助言は聞いておくもんだぜ。胡散臭くともな】
「何言ってるのか全然分かんないですけど……」
おっと。レーワ文明に来たのだからレーワの言葉で話さなきゃだな。こう見えてもレーワ研究の第一人者を自負していた身。レーワの言葉も習得済みだ。
「すまんすまん。俺が言いたいのは、祈りは最後の手段であって、祈ってる時間があれば鍛錬しろと――」
「あの、ごめんなさい、その前に」
「む? 俺のレーワ語はおかしかったか? 10年ぶりに話すが自信はあるぞ。物覚えは良いほうだ」
「レーワ語って何なの!? いやそうじゃなくて……ええと」
「なんだい。言葉が通じるんだったら会話しようぜ」
「話をする前に……何でもいいから服を着てえぇぇーっ!」
「おおっと」
耳まで真っ赤にしながら彼女は渾身の絶叫を放つのだった。
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