混乱──または疑念
その言葉を最後に、リヤンは二人のもとを離れた。
机に並んでいた酒杯をひとつ、いっきにあおる。そして肺の底から大きな溜息を漏らした。
自分はいったい何を心配していたのだろう。
積年の積もりからくる諍いか──。
それとも、親子の感動の再会か──。
どちらにせよ、そんなものが起こるはずは無かった。
私はもう──リヤンなのだから。
体を強張らせていた緊張が解けた時だった。
宴の席が沸き立つのを肌で感じ取る。
部屋の奥を見れば、足元が一段高くなった上座に人だかりができていた。
「今日の主役がお出ましだぞ!」
そんな声が聞こえて、リヤンは何事かと思わず席を立った。
観衆の視線を集めていたのは一人の若い男だった。
漆黒の──総髪と礼服。雪のように白い肌。すらりとした手足に、整然とした佇まい。
絵画の如く美しい美貌を持つ青年だった。
撫で上げられた髪から、遊ぶように垂れる数本の前髪。その下で、切れ長の瞳が濡れた睫毛に守られている。
息を呑むリヤンと、男の視線が一瞬だけ重なった気がした。
「本日はこの晩餐会。ひいては、私が16を迎える宴に参加して頂き、大変嬉しく思います──」
形の良い唇から、そんな言葉が紡がれる。
少しあどけなさの残る、少年のような美声。
そこから演説のような語りがつらつらと続けられた。
だがリヤンの耳には一切の内容が入ってこなかった。
あまりの衝撃を受け、がたがたと手足が震えるのを抑えられなくなる。
リヤンにとって黒髪の美青年は──かつての自分と瓜二つだったのだ。
「ヴィレ・モーリッツ卿──なんでも、数年前に養子を長男として迎え入れたらしい」
どこからともなく、そんな囁きが聞こえた。
「跡取りが居なくて困っていたらしいが、実に羨ましい話だ」
「俺も若ければなあ」
「馬鹿だな。あれだけの美貌が無けりゃ、そんなこと万に一つもありゃしねえよ」
「しかも頭だって切れ者ときたもんだ。性格だって、親二人に負けず劣らずの人格者だって言うじゃねえか」
「こりゃモーリッツ家も安泰だな──」
いつのまにか巻き起こっていた称賛の嵐。
その喝采の中で、リヤンだけが一人、途方も無い孤立感を味わっていた。
漆黒の青年──ヴィレ・モーリッツは、歓声の中でも落ち着いた様子で静かな笑みを湛えている。
その色香、そして秀美さは、まさしく芸術の域に達していた。
完成された男だ。
そんなヴィレを前に、リヤンは完膚なきまでに打ちのめされた感覚だった。
彼は──私がどう足掻いても手に入れられなかったものを持っている──。
演説を終えたヴィレにリヤンの父と母が寄り添った。
そうして並んでいると、まるで血の繋がった家族のようだ。
かつて自分がそこに存在していたという事実は、すでに綺麗さっぱり無くなってしまっているのだ。
ぐわん。
と、視界が大きく揺らいだ。
吐き気がする。
リヤンは混乱していた。
なぜそんな感覚に陥るのか、自分でも分からなかった。
未練など無いはずなのに──。
意識が揺らぎ、リヤンはその場に崩れ落ちた。
「──大丈夫ですか?」
倒れかけた体を支える腕があった。
ヴィレがリヤンの背中に腕を回し抱き留めたのだ。
社交ダンスの一幕を切り取ったかのような光景に、周りの人々から感嘆の声が漏れる。
「具合が悪いのなら、どこか休める場所を用意させますが──」
そう言いながら、彼はリヤンをひとまずその場に座らせた。
細く、白い指がリヤンの手を取る。
見た目に反するその暖かさ──柔らかく、きめ細やかな肌。
関節の描く曲線と、整った爪先。
そこで何故か、リヤンは違和感を感じた。
その正体を暴きたくて──リヤンはおもむろに、ヴィレの胸元へと抱きついた。
指を這わせ、艶かしい手つきで彼の体をまさぐる。
「──っ!」
驚いたヴィレは咄嗟にリヤンを突き飛ばした。
二人を見守っていた観衆のあいだで、ざわりとどよめきの声が上がる。
「──失礼。突然のことで驚いてしまって」
「いえ、こちらこそ……すいません」
頭を伏せたリヤンの顔には、周りが気付かない嘲笑が浮かべられていた。
──違った。
こいつは〝同じ〟だ。
紛れもなく──私自身だ!
「誰か、この方を休める場所に──」
そう言いながらヴィレは身を翻す。
そのがら空きの背中に、ゆらりとリヤンの両手が伸ばされて。
ガリッ──と、〝飴〟の砕け散る音が鳴った。
硝子製の小さな球体から、舌を刺激する液体が滲む。
次の瞬間、リヤンはヴィレの首筋に喰らい付いていた。
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