追憶──または運命

 リヤンはその足をスラムへ向けた。

 どこへ行っても、そういった貧困層の吐きだめは存在している。

 そして今のリヤンにとって、最も相応しい居場所でもあった。


 昼間なのにやけに薄暗い、すえた匂いの漂う場所だった。

 崩れかけた建物が並び、道にはいたる所に糞尿が散らかっている。

 道端に人間が転がっていて、大量の羽虫が群がっていた。もはや生きているのか死んでいるのかも定かでは無い。


 リヤンは人の少なそうな場所を探して腰を下ろす。今まで見ないふりをしていた長旅の疲れが、どっと全身から溢れるのを感じた。

 そうしてしばらくその場でじっと身を固めていると、不意にひとりの男が近づいてくるのに気づいた。


「へへ、見ない顔だな。新入りか?」


 60歳は越えているであろう老人が、リヤンの隣に腰掛ける。

 頭に髪はなく、灰色の煤けた髭だけが立派に蓄えられていた。

 身なりはリヤンとさして変わらないみすぼらしさだ。


「運がいいな。今夜は〝晩餐会〟がある──モーリッツ家のな」


 男はにやにやと薄ら笑みを浮かべていた。

 リヤンは彼の言葉を聞き、やや間を開けてから目を見張った。


「……あのモーリッツか?」


「なんだ、あんた噂を聞いて流れてきたくちかい」


「いや、そうでは無いが……」


「情報料でもせしめてやろうかと思ったのに──」


 そう言って、男はペラペラと話を続けた。

 だがその内容はいっさい耳には入ってこない。

 リヤンは自分の思考に集中していていた。


 モーリッツ──それはかつて自分も名乗っていた家名だった。

 町でも有数の資産家であり、貴族でありながら、貧民に対する慈善活動を惜しみなく行う。

 搾取ばかりのイメージを持つ貴族階級の中で、奇特な名家として名を馳せた一族である。


 リヤンはモーリッツ家の長男として育てられた。

 生活は裕福で、食べるものに困らず、大抵のものは手に入った。

 しかし、多くを強制され、重荷を背負わされ、家というものに縛られて──息苦しかった。


 自分が自分で無くなると確信した。

 それは決して、誇張表現では無い。


「──晩餐会に行けばよ、仕事を斡旋してもらえるんだ。どんな奴にだって、だぜ?」


 男の話は続いていた。

 確かに、慈善活動の一環として、貧困層を雇っていたこともあった。


「俺達みたいな吐きだめの人間に、チャンスをくれる聖人さ。おこぼれがもらいたかったら、あんたも忘れずに参加することだな」


 その言葉を最後に、男はスラムへと消えていった。


 残されたリヤンは、虚な瞳の奥で逡巡する。


 もう二度と顔を合わせることは無いと思っていた。

 消し去りたい過去として、記憶に封をしていたところがある。

 果たして今、両親に会ったとして──かつて自分が捨てたものを前に、その華々しさを目にして冷静でいられるだろうか。


 しかし──。

 これは何かの巡り合わせかもしれない。

 ふらりとこの町に戻ってきたことも、幾度となく死ねなかったことも。


 全てに何か意味があったのかもしれない。


 そんな思いを抱き、リヤンは静かに立ち上がった。

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