第8話

「まおうざま、ごめんなざい~」


 顔中を涙やら鼻水やらで、べしょべしょに濡らしながら腕を掴んでいる引蛇の頭を二、三度軽く叩く。


「まったく、どうしたらあんなことになるのかしら」

「それがワタシにもわからなくて。ぐずっ」

「魔王ちゃんに迷惑かけるんじゃないわよ、この駄目蛇!」

「何よ! アンタこそ淫魔のくせに魅了されてんじゃないわよ!」


 また睨み合いが始まった二人を見て、ようやく肩の力が抜けた。


 あそこで魔力が流れて来なければ今頃どうなっていたか。

 植物が消え失せたと同時に魔力の存在もまた消滅していたので、痕跡も探ることができなかった。


 この世界に、何かが起こっているのだろうか。


「魔力のほとんどないこちらの世界の植物があのように変化するなど、ありえません」


 思考を読んだかのように氷椿が呟く。


「そうね。実際にわたくしが使えた事実は存在するし……」

「この世界に魔力が流れ込むことなどあるのでしょうか」


 或いは誰かが、あちらの世界からこちらの世界に干渉してきているか。

 実際にそんなことが可能かどうかは不明だが。

 だとしても、目的はなんだろう。

 この世界の征服でもするのだろうかと、冗談めいた考えに自身でも笑ってしまう。


「戻れるんですかね」


 感情を表に出さない氷椿が、珍しく息を吐き出すように呟く。

 どれだけ戻ろうとしても戻れなかった、あちらの世界へ行けるのではとその顔には期待の色を浮かべている――――んだと思う。

 いつもと表情は変わっていないので、長年の勘だが。


 ――――わたくしは、どうだろう。


 戻りたい、のだろうか。

 魔王わたくしのいなくなった世界。

 今頃はどんな世界になっているのかしら。


「君が助けてくれたんだってな」


 想いを馳せていると、体調の戻ったアルベルトが跋の悪そうな顔で近づいてきた。

 その後ろには勇紗もいる。

 どうやら二人とも無事だったようだ。


「礼ならあなたの妹に言いなさい。わたくしはついでにやっただけよ」


 そうか、と呟くと口角を上げた。


「だが、妹はやらんからな」

「お兄ちゃん!」


 笑った顔が、勇紗とよく似ていると思う。

 二人とも思わずつられて笑ってしまうような、柔らかい笑顔だ。


「あらぁ、イ・イ・オ・ト・コ」

「ひぃ!」


 引蛇に人差し指で突かれると悪寒を感じたのか、見事に飛び上がった。


「ちょっとー! 先にあたしが目を付けたんだからねぇ!」


 続いて印童も参戦してアルベルトの腕を取る。


「お、俺は妹みたいな大人しい子がタイプだ!」

「やだぁ、シスコンね」

「シスコンよ」

「う、うるさい!」


 二人から囲まれているのを遠い目で見やる。

 申し訳ないが助け船は出せない。

 標的がこちらに移っても困るので、ここはお兄さんには犠牲になってもらおう。

 心の中で頷きながら謝る。


「!」


 後ろに気配を感じて咄嗟に身構える。


「優ちゃん? どうかしたの」


 何もいない。

 視線を向けた先には、ただ静まり返った廊下が続いているだけだった。


「……いえ、何でもないわ」


 視線を感じたような気がしたが気のせい、か。


「さて。そろそろ生徒たちが起き出すでしょうから、帰り支度でも始めましょう」


 気が付けば下校時刻になっていた。

 後は適当に魅了を掛けて誤魔化せば大丈夫だろう。そして早く帰ろう。


「ダメですよ」

「ッ!」


 いつの間にか現れた氷椿が、逢魔の後ろから逃げられないように腕を掴んでくる。


「でも今日は頑張ったし、生徒も救っちゃったし!」

「関係ありません」

「そうだ! 鬼場はどうしたの」


 何でも首を突っ込んでくるおちゃらけた奴が今日は全く見ていない。

 唯一、今の状況から罪を被ってくれそうな存在なのだが。


「あいつはサボりよぉ」


 くるくると長い髪の毛を弄る印童が、どうでも良さそうに呟く。


「あ、枝毛」


 魔王様が困ってるのに助けようと思わないのかな、愛実ちゃん。


「鬼場の奴、本当にタイミングだけは良いんだから」

「奴には後で大量の仕事を押しつけます」


 ダメだ。

 話を逸らそうとしても全く聞く耳を持ってくれない。


「まぁまぁ。今日は逢魔ちゃん、頑張ってくれたじゃない!」


 そうだそうだ、今日くらい楽しても良いと思う。

 見かねた引蛇が援護射撃を送ってくれる。


 よくやった、保護者。


 玲は横目で引蛇を見たが、眼鏡を持ち上げると逢魔に言い放った。


「それとこれとは話が別です。子供みたいなこと言わないでください」

「うぅ」


 あっさりとやられる大人。


 うーん、この悪魔、誰が相手でも容赦ない。


「さ、諦めは付きましたか。生徒会長様」


 冷酷無慈悲悪魔!と心の中で思うも、少し仕返ししたくなる気持ちが沸き起こる。


「玲の意地悪。さっきはあんなに可愛かったのに」


 あまりにも勝てる見込みがなくて、つい口からぽろっと漏れてしまう。


「…………では具合が悪いので私の分の仕事もお願いしましょうか」

「あ、嘘です。ごめんなさい」


 ――――仕方がない。今日は言うことを聞こう。


 諦めて玲に従おうと振り向いた先に、俯く勇紗が視界に入り込んでくる。


「どうしたの?」

「優ちゃん。あ、あのね、さっきのことなんだけど」


 先程の変な植物のことだろうか。

 あの時の剣技すごかった。さすが勇者。


 正直、勇紗が間に入ってくれなかったら全員無事だったかわからない。


「ありがとう」

「え?」

「助けてくれたでしょ?」


 勇紗の手をぎゅっと握ると、一瞬、瞳が揺らめいて見えた気がした。


「違った?」

「っそうなの! びっくりさせちゃったかなって」


 えへへと気まずそうに笑う勇紗は、なぜか少しほっとした様子だった。

 どうかしたのかと、口を開きかけたが眼鏡の縁を上げた氷椿に遮られる。


「会長、行きますよ」

「え、もう?」

「待ってるから、終わったら一緒に帰ろう?」

「うっ、わたくしの心臓がッ!」


 笑顔で首を傾げる勇紗から、一撃を喰らってしまったようだ。


「何ふざけてるんですか。早く行きますよ」


 逃げられないように襟首を捕まれて連行されていく。

 魔王様の扱いに意義を申し立てたいよ、玲ちゃん。


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