第10話

斎藤が永井を訪ねてから、一週間経った。しかし、何の変わりもなく、川本は平然と仕事を続け、私は提出書類の作成に追われていた。監査が近い。

内山が、

「小橋さん、来ないですね」

そっと、言った。

私は焦っていた。

当直の、ある日、総合調理場からの夕食を配膳し、食後の洗い物を終え、また事務所で監査の書類をチェックしているところへ、老夫婦が訪ねて来た。

以前、相談に来た事がある。

八十歳前後、夫は大柄で白髪の紳士、妻は着物をきちんと着こなした、プライドのたかげな女性、前回は綺麗にお化粧していたが、今度は素顔だ。

前回の来所時、この婦人に私はクレームをつけられた苦い思いがある。電話相談に集中していて、出迎えがぞんざいになったため、所長に、背中を向けて出迎えるとは何事か、とひどく立腹されていたと、後で聞かされた。

こんな時に、苦手な人が来所したな、と動揺した。

私は、いらっしゃいませ、どうぞと丁寧に出迎えて、相談室へと招き入れた。

夫は無表情、妻は憔悴した顔だった。

お茶を出し、

「ご事情は、明日伺います。洋間の二人部屋が空いていますので、ご案内します。明日の朝食は7時ですので、ごゆっくりお休み下さい。何かございましたら、私が当直ですので内線電話でお呼び下さい」

それだけ言って、部屋へ案内し、調理場へ朝食追加の留守電を入れた。

夫婦は、お茶を飲んで少し落ち着いたのか、丁寧にあいさつして、居室に入った。

それからまた、事務所で前年度利用者数の集計をした。

今ならExcelで一発集計出来ることも、一つ一つ手書き算盤の時代である。何度も数合わせすると大変な時間がかかる。調理場からの夕食が冷めてしまうが、一段落するまで、食べる気にならない。

夕食は10時だった。

それから、先ほどの夫婦の部屋をそっと、見に行き、よく眠っているのを確認して、管理人室に戻った。

そこへ、電話がかかって来た、女性から、住んでいるマンションのトラブルについて、話は一時間以上続いた。

私は、「もう1時間になりますので、失礼ですがいったん話を整理させて下さい。今私にどうしてもらいたいのですか。まだまだ話を聞いてもらいたいのですか」

「ごめんなさい。ご親切に甘えて、時間を忘れてしまいました。すみません」

「では、話の続きは、また後日、ということでよろしいですか」

「はい、今聞いてもらったので、だいぶ気持ちが楽になりました。自分で解決方を考えてみます」

「では、またいつでもお電話なり施設に来るなどされて、ゆっくりお話下さい。昼間でしたら、たいてい私がおりますので、どうぞご遠慮なく来所して頂ければ、2時間でも3時間でもお話しましょう」

「ありがとうございます。また伺わせて頂ければと思います。夜中に失礼しました」

12時を回っていた。

たばこを二本吸って。夜の見廻りをして、布団を敷いた。

朝は6時起きだ。

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