第4話

ある日の職員会議。

川本が、唐突に切り出した。

「國枝さんから退職届が出ました。事務局に送っておきました」

一同顔を見合せた。

私は言った。

「その退職届のコピーを見せて下さい」

「はい」

退職届の様式に、自筆で署名捺印するのが法人の規則だ。

「これは、國枝さんの字ではありませんね」

「そうなのよ、頼まれて私が代筆して捺印したの。事務局にはその旨伝えてあるから、受理されることになっています。前にも言ったように、國枝さんは駆け込み宿にとっては、百害あって一利なしです。今が切るチャンスなんです。説得するのに苦労したわ。結局印鑑を預かることに同意しました」

「國枝さんが、自署出来ないはずないでしょう」

「いいえ。薬の副作用もあって、手が震えて書けないから、書いてくれ、と言われたんです」

納得は出来ない。先日見舞った際に、そんな様子はなかった。

中田寮母が、発言した。

「わたしゃ、國枝さんとは長い付き合いだし、何度も見舞ってるけど、やめるなんて一言も聞いてないですよ。早く退院して働きたいって、いつも言ってました。本当に本人の意思なんですか」

「はい、最後には、時分ももう82歳だし、脚の回復具合も思わしくないし、皆に迷惑をかけ続けるわけにはいかないと言われました」

私が、また言った。

「ちょっと、本人の意思を確かめに、今病院に行って来ていいですか」

川本は首を横に振った。

「もう事務局に届いています。私が意思を確認して印鑑を預かって出した書類は有効なんです。その必要はありません」

きっぱりと言って、

「これは報告です。退職届が受理された後の体制を決めるのが、今日の議題です」

「ちょっと待って下さい所長。國枝さんは身寄りも家もない、住み込みの管理人ですよ。辞めさせて放り出すつもりですか。老人のための相談施設が、身内にそんな仕打ちしていいんでしょうか。私は反対です」

中田の口調が、喧嘩越しになってきた。

「辞めさせるのではなく、本人の意思で辞めるんです。老人ホーム入所など、その後の処遇については、私が責任を持ちます。入所までの待機期間は私の家で面倒見てもいいです。あなたにそんな覚悟があるんですか」

びしりと返す川本。

沈黙の後。

「書類の有効性に疑問があります。自署でなくて良い、という例外規定はありません」

私が話を戻した。

「それも、事務局に確認済みです。そのような事情なら、やむを得ない、という回答でした」

確かに、法人に、規則はあってないようなもの、という体質はあった。根まわし次第で、理事長の裁定で何でも通るのが実情である。理事長は、老人ボケで、正常な判断力を失っていた。川本が理事長に取り入った可能性が高い。

私は、半ばどうでも良くなった。それに、國枝に敷地内にある高い木に、命綱もなしに登って枝打ちしろと命ぜられ、断れなかったという経緯もあったし、自分が受け持った相談者に國枝が余計な口出しすることもしばしばだった。だから所長がそこまで言うなら退職してもらった方がいいのでは、という判断も動いた。

國枝と家族同然の付き合いをしていた中田寮母は、まだ何か言いたげだったが、いずれ近いうちに退職せねばならない國枝を、自分が引き取るなど考えたこともないのだろう、口を開けなかった。

亜紀子は、終始したを向いて黙っていた。

「時間がありません。議題に移ります」

川本のやり方に不満を持ちながらも、誰も食い下がれなかった。

「」

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