第54話 銀色の蛇

「まさか、こんなことになるなんて」

 二人で休むには少々狭い部屋の戸を締めてからすぐ、お蘭が蒼龍に話しかける。一行は、瀧原宮から北に少し進んだ先の古びた宿へ入った。ここから峠を一つ越えると、宮川を船で渡らなければならない。そして、しばらくは川伝いに歩を進める事になる。

「お菊殿に未練があったのは、はっきりしていた。伊吹殿に縒りを戻す気がないことも分かっていた。だから、お菊殿が心中する気ではないかと、薄々考えていたんだ。最初は警戒していたが、完全に油断していたな。もう少し気を付けていれば、止められたかも知れない」

 蒼龍は頭を振った。二人きりにしたことが、悔やまれて仕方ないのだ。

「でも、旅の間は止められても、いずれこうなる運命だったのかも」

「なんとか伊吹殿のことを、あきらめてほしかったのだが。新しい恋を見つけるまで、それは難しかったのだろうな。だが、痴情のもつれだけが理由でもあるまい」

「他に何があるの?」

「今回の旅で、多くの血が流された。まさか、こんな結果になるとは俺も予想していなかった。あの老婆の言ったとおりだ。修羅の旅路になってしまった」

 お蘭は、占いをしてもらった、あの不気味な老婆を思い出し、少し身を震わせた。

「あの娘なりに、けじめをつけたかったのだろう。今は、その苦しみのほうが大きいはずだ。傷が癒えるには時間がかかる」

 蒼龍は、お蘭へ目を向けた。

「本当に、幸せになってくれることを願うよ」

 お蘭は、悲しげにうなずくことしかできなかった。


「あと、どれくらいでお伊勢さんに着くのかしらね」

 お松は、隣にいるお菊へ声を掛けた。部屋が狭いのは変わらず、本来なら一人用の部屋であるのに、客が多くて相部屋しかできないということで、仕方なく二人で使うことにしたわけである。三之丞に至っては、見知らぬ者と相部屋になってしまった。

「一日で到着できるのでしょうか。楽しみですわ」

 お菊は微笑みを浮かべながら答えた。しかし、すぐに立ち直ることができる訳もない。お松は、彼女がかなり気を使っていることを感じた。

「慌てなくても、神様はお逃げにはなりませんよ。もう、危険もないのですから、ゆっくり参りましょう。それから、帰路のことも考えなければなりませんね。同じ道を使ったほうが安全だと思いますが」

「なら、思い切って熊野三山を巡るのも悪くないかも」

 二人は、互いに顔を向けたままクスクスと笑い出した。

「お蘭さん、きっと今は幸せですわよね」

 しばらくしてから、お菊がポツリとつぶやいた。

「今まで御苦労をされてきたから、これからは楽しい人生を送ることができると信じてるわ」

 お菊はうなずいて

「私ね・・・ お蘭さんに妬いていたのかも知れません」

 と素直に告白した。お松は、少し寂しげな顔をするお菊を心配しながら

「私も、少し嫉妬することはあるかな」

 と答えた。

「お二人とも、喧嘩することはあるけど、すごく仲がいいでしょ。だから、それが羨ましくて」

「分かるわよ、そのお気持ち」

 お松は微笑みを浮かべた。すると突然、お菊から予期しない質問を投げられた。

「お松さんには、いい人はいらっしゃるのですか?」

 しばらく、お松は沈黙した。その驚いた顔を見て、お菊が申し訳なさそうに

「ごめんなさい、変なことを伺ってしまって」

 と謝った。

「謝らなくてもいいのよ。突然だったから、ちょっと驚いただけ。でも、私にはそんな人はいないわよ」

「お松さん、美人だから、言い寄る人は多いと思うんだけど」

「男勝りの剣士と付き合いたいなんて男性はいません」

「でも、お付き合いされた殿方はいらっしゃるんでしょ?」

「随分、昔のことだけど、一回だけね。だけど、すぐに別れちゃった」

「振ってしまったのですか? お松さん、殿方を見る目が厳しそうだから」

「あら、そんなことないわよ。でもね、その男、他にも女がいたの。だから、足腰立たないようにしてやったわ」

 お松がそう言って笑ったのを見て、お菊は目を丸くした。

「やはり、殿方は多かれ少なかれ、浮気するものなのでしょうか?」

「どうかな。でも、蒼龍殿はそんな雰囲気には見えないけど」

「以前、蒼龍様からも、そう伺いました」

「世の男性は、という意味よ。自分のことを言ったわけではないわ」

 お菊は納得したようで、何度も首を縦に振った。

「あの御夫婦は、不思議な縁で結ばれているのね、きっと」

 天井のほうを見上げながら、お松はため息交じりにつぶやいた。

「そういえば、お二人は幼馴染と伺ったことがありますわ」

「そうそう、生まれた日も同じなんですって」

 お菊は口に手を当てて驚きの仕草をした。

「なんだか、運命的なものを感じます」

「私たちも、そんな出会いを見つけたいものね」

 お松は、笑みを浮かべながらお菊の顔を見た。お菊も笑顔を返した。それは嘘偽りのない、本当の、心からの笑顔であった。


 翌日になって、空一面にあった厚い雲はどこかへ行ってしまい、今はすじ雲だけが青い空に薄く描かれていた。太陽が地面を熱し、徐々に気温が上昇していく。

 宮川を渡り、熊野街道を伊勢へと進む一行は、途中で大きな寺に立ち寄った。背が高く、痩せた小坊主が、蒼龍たちを見つけ、慇懃に尋ねる。

「旅のお方ですか?」

 蒼龍はうなずきながらも

「いや、宿をお願いしたいのではなくて、供養してほしいものがあってな。お頼み申せるだろうか」

 と言葉を返した。そして、懐から取り出したのは、雪花が持っていた七宝の小刀だった。

「これで全てを果たした気がするわ」

 墓前に手を合わせてから、お蘭はしみじみと口にした。

「お前にとっても長かったが、お初は想像を遥かに超えた時の流れの中で苦しんでいたのだろう。ようやく平穏に眠ることができるというものだ」

 蒼龍が、お蘭の肩に手を遣る。お蘭はそっとうなずいた。お初の墓は、大きな銀杏の木の下に建てられていた。まるで、その木が墓を守っているようにお蘭は感じた。

「ここはいいところですね」

 三之丞が、あたりを見渡しながらつぶやいた。豊かな木々に覆われ、涼しい風が吹く度、木の葉が囁くように音を立てる。離れた場所で、野鳥が地面をついばみ、格子模様の光と影が、ゆらゆらとその近くで揺れていた。

「きっと、お初さんも安心していることでしょう。こんなに静かな場所なのですから」

 お菊はそう言って手を合わせた。

 その後、しばらくの間は誰も口を開かなかった。お蘭が、お初と心の中で語り合うのを静かに見届けているようだった。お蘭が顔を上げたのを見て、お松が鈴のなるような声を出した。

「さあ、参りましょうか。お伊勢さんはもうすぐです」

 一同は住職に礼を述べ、寺を立ち去った。蒼龍から知り合いの形見だと告げられ、怪しく光る青い石を配したいかにも高価そうな刀を目にした住職は驚いた顔を見せたものの、詳細は何も聞かず、依頼を快く引き受けてくれた。

「広いだけで何もない貧乏寺だが、お越しいただければ、いつでも歓迎いたしますぞ。ぜひ、ご供養に参られよ」

 年老いた住職のにこやかな顔は、辛く悲しい思いをしてきた彼らを元気づけてくれた。門の前で、他の数名の僧たちとともに、旅立つ蒼龍たちの背中を見つめながら

「わしらには思いもつかないほど、あの方たちは御苦労をなさってきたようだな。せめてこの先は、神仏の御加護があることを」

 と住職は手を合わせた。

「お初の故郷はどこにあったのだろうか」

 のんびり旅を続ける一行は、小さな宿場町の通りを歩いていた。一体、今までどこにいたのか、たくさんの旅人で埋め尽くされている中、蒼龍が不意に声を上げた。

「どうして?」

「だって、気になるじゃないか。いつの時代に、どんな場所で過ごしていたのか」

 お蘭に笑顔を見せながら、蒼龍は言葉を返す。

「都に住んでいたんじゃないかしら。だって、人の上に立つような方だったんでしょ」

 すぐ後ろで話を聞いていたお松が口を開いた。

「俺は、もっと古い時代じゃないかと思うんだ。都が栄えるよりずっと昔の」

「なぜ、そう思うの?」

 蒼龍の言葉を聞いて、お蘭はすかさず尋ねた。

「何故って・・・ まあ、なんとなくだ」

「でも、今では失われた不思議な術を使うことができたわけだから、案外そうかも知れないわね」

 何度もうなずきながら、お松が合いの手を入れる。それを聞いたお蘭も納得したのか、一緒になって首を縦に振った。

「お初の生まれ故郷を探す旅か・・・ 面白そうだ」

 蒼龍のその一言に、お蘭は目を輝かせた。

「その時はまた、皆で一緒に旅ができればいいな」

 それまで静かにしていたお菊の顔も、朝顔の花が咲くように明るくなった。

「私たち、また会えるんですね」

「そうね。潮鳥屋を追い出されたら、しばらくは気ままな旅も楽しいかも知れないわ」

 お松がそう言って笑みを浮かべたが、その表情は少し寂しげだった。

「では、身辺の整理ができた頃に、再び集まるというのはどうでしょうか」

 三之丞の提案を皮切りに、各々は旅の計画を話し合い始めた。こうして、混雑していた場所からいつの間にか離れていた一行は、宿場町の外れにある一軒の小さな宿屋に入った。


「この峠を越えれば、田丸というところに出ると宿の女将から聞いたが」

 周囲に目を配りつつ、先頭の蒼龍が話を始めた。隣のお蘭は不安そうな顔をしている。

「なんだか薄暗くて、気味が悪いですね」

 ここは今の時代『女鬼峠』と呼ばれているが、江戸時代には『ねぎ峠』という名であったそうだ。鬼が住むとでも思われたのだろうか。それくらい、峠道は生い茂る木々によって日がほとんど当たらない、不気味な雰囲気の場所であった。

「こんな場所、早く通り抜けたいわ。幽霊でも現れそう」

「やだ、怖いこと言わないでください」

 お松の話を聞いて、お菊は困ったような表情をする。最後尾の三之丞が

「前のことがあるから、否定はできないですね」

 と真面目な顔で応えたので、お菊だけでなく、お蘭も動揺したらしい。その様子を見て、蒼龍が声をかけた。

「そう何度も物の怪に遭うなんてことはないさ。この間のは訳ありだったしね」

 なんとなく、緊張した面持ちで一行は坂を登り続けた。道はさほど険しくなく、今までの峠を踏破した彼らにとっては大したものではない。お蘭も元気を取り戻し、先に進むのに何の問題もなかった。しかも、この先にはいよいよ伊勢への入り口が待っているのだ。それでも、蒼龍までもがなんとなく違和感を覚えていたのは、なにか予感があったのだろうか。

 坂道が大きく右に折れ曲がり、その左側には昔、道があったのか、広い空地になっていた。陽の光が届かない暗い場所に人影が見える。それを不審に思いながらも、旅人が休憩でもしているのだろうと蒼龍たちが不用意に近づくと、突然、それは前に飛び出した。

 全員がその姿を見て息を呑んだ。頭の毛は完全に焼けてなくなり、顔もひどい火傷を負っていた。服は黒く焦げて、ほとんど半裸の状態だ。鋼鉄製の足は右側がなく、片足で立っていた。同じく金属でできた両腕をだらりと下げて、赤くただれた顔をほころばせたのは銀虫であった。傷を瞬時に治すことができるのに、火傷に対しては再生ができないらしい。とはいえ、どう見ても通常なら生きているのが不思議なほどである。

「ここで待っていれば、いずれ現れると思っていたぞ、蒼龍」

「まさか、生きていたのか・・・」

 生きていただけでも驚きであった。それに加えて、銀虫は片足だけで彼らより速く峠まで移動し、待ち伏せしていたのだ。何という執念であろうか。

 銀虫は深く腰を落とし、唖然とする蒼龍に向かって飛びかかった。掴みかかろうとする銀虫を辛うじて避け、素早く抜刀した蒼龍は銀虫の体を斬り上げる。彼の体は深い傷を負い、血しぶきがあたりに舞ったが、それも一瞬のことで、気づいたときにはもう傷が塞がっている。平然とする銀虫の顔を、一同は驚愕の目で見ていた。その刹那を逃さず、銀虫はなおも蒼龍に体当たりをしてくる。

 ようやく、お松や三之丞が刀を抜いた。蒼龍が横に飛び退いたところに銀虫の体が移動する。そこをお松が狙いを定め、背後から袈裟斬りにした。再び銀虫の体から血が吹き出したが、相手は倒れない。

「この男も不死身だなんて」

 銀虫は、片足を軸にくるりと回転して、お松に殴りかかった。危機一髪のところを救ったのは三之丞だ。彼は銀虫に体をぶつけて横倒しにした。片足の状態では、すぐに起き上がることはできない。そう考えた三之丞が銀虫の体に刀を突き立てようとすると、銀虫はすぐに逆立ちの状態から反転し、起き上がってしまった。今度は三之丞に狙いを定めた銀虫であったが、背後から蒼龍に心の臓を深々と貫かれ、さすがに動きが止まった。

 いくら死なない体質だとはいえ、三人を相手に片足で挑むのは無謀であろう。背中を蹴られて再び倒れた銀虫は、地面に顔を埋めたまま起き上がろうとはしない。

「ようやく倒せたか・・・」

 と蒼龍がつぶやくと同時に、銀虫が再び器用に立ち上がった。口からは血が流れ、少なからずダメージがあったことを示していた。

「この俺を、そう簡単に倒せると思うな。一人でも多く道連れにしてやる」

 そう言ってニヤリと笑った銀虫は、握りしめた拳を蒼龍に向けた。刀を構え、迎え撃とうとする蒼龍であったが、一向に攻撃してこない相手を見て、何か危険な匂いを察知した。

 突然、銀虫の拳の周りに火花が飛び散り、煙が舞い上がった。なんと、拳が蒼龍に向かって飛んできたではないか。蒼龍も、これは全く予想していなかった。間一髪のところで刀を盾に拳の直撃を防いだ。ところが、銀虫はそうすることを読んでいたのか、鉄の拳で刃をガッチリと掴んでしまった。銀虫の手は鎖で繋がれていて、離れた状態でも自在に動かせるようだ。

 銀虫の右手に引っ張られ、刀を振るうことのできなくなった蒼龍に向けて、今度は左手の拳を向けた。

「えいっ!」

 勢いよく放たれた左の拳を、気合いの声とともに、お松が刀で叩き落した。同時に三之丞が、銀虫の頭上に刀を振り下ろす。しかし、驚いたことに、三之丞の刀が折れてしまった。

「ばかな!」

 銀虫の頭蓋骨もまた、厚い鋼鉄で覆われていた。今思えば、鉄で覆われた銀虫の頭を殴って動けなくした猪三郎の怪力がどんなものだったのか、想像することができよう。

 左腕を思い切り振り回すことで、銀虫の拳が円を描きながら三之丞のほうへ飛んでいった。避けることができない三之丞は、思い切った行動に出た。

「危ない!」

 お松が叫んだときには、銀虫の拳は三之丞の脇腹に命中していた。苦痛に顔を歪めながらも、三之丞は身を挺して受け止めた拳を両手でしっかり掴み、回転しながら鎖を体に巻きつけた。

「此奴・・・」

 右腕で蒼龍の刀を掴み、左腕は三之丞の体に絡まって、銀虫は自由が利かなくなった。しかも片足では相手を蹴ることもできない。このままでは、木偶のように斬られるだけだ。銀虫は止むを得ず、右手の刃を手放した。

 その拳が戻る前に、お松が銀虫に斬りつける。自由になった蒼龍も、相手の胸をもう一度、刃で貫いた。

 それでも銀虫は倒れない。元に戻った右手を蒼龍の首に伸ばした。その手を素早く掴み、ひねり倒そうとしても、機械の腕はあらぬ方向へ曲がるだけで、全く効き目がない。刀で串刺しにされた状態のまま、銀虫は蒼龍に突進した。仰向けに倒れた蒼龍の上へ馬乗りになって、右腕を高々と持ち上げる。

「死ね!」

 拳が、蒼龍の顔面に振り下ろされた。

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