第53話 変わらぬ心

「ご気分はいかがですか、若旦那」

 お松は、床に座ったまま唖然とした表情をしている伊吹に問いかけた。朝になり、ようやく目覚めたが、自分の今の状況が飲み込めないといった雰囲気だ。

「俺は、どうなったのだ?」

「敵に捕まっていたのです。それも覚えてないのですか?」

 お松に指摘され、思い出したように

「あの女に術を掛けられたんだ。それからの記憶がないが・・・」

 と言いながら頭を思い切り振った。お松は、伊吹の前に立ち、明らかに軽蔑の目を向けていた。横では三之丞が、腕を組みながら伊吹の様子を眺めている。蒼龍とお蘭、そしてお菊は、少し離れた場所に座り、三人を見守っていた。

「そうか、助けてくれたんだな。源兵衛殿はどうしたんだ?」

「源兵衛さんは・・・ 殺されました」

 伊吹は、冷たい表情をしたお松に目を向けた。彼は明らかに動揺していた。

「嘘だろ?」

 お松も三之丞も、それ以上のことは言わなかった。伊吹もガックリと肩を落とし、それきり口を開かない。静まり返った部屋の中で、時間だけが淡々と過ぎていく。

「誰に殺されたんだ?」

 伊吹が、震える声で尋ねた。しばらく間をおいてから、お松が答える。

「雪花です。彼女は、お蘭殿が見事に討ち取りました」

 ゆっくりと、伊吹が顔を上げた。お松の話を信じていないように見えた。

「追手は壊滅しました。あとは伊勢まで進むだけ」

 お松は、大きく息を吸った。涙が目から溢れそうになるのをこらえているように見えた。

「若旦那、どうして外で敵に捕まったのか、説明していただけますか?」

 ここで自分の外道な行為を思い出したのか、慌ててお松から視線をそらした。

「なぜ、あのとき宿からいなくなったのですか? お蘭殿が何者かに襲われたとき」

 伊吹は何も答えようとしなかった。また、静寂の時間が訪れた。張り詰めた空気が、全員の動きを封じているようだった。

「あなたは、お蘭殿を殺そうとなさったのですか?」

「違う、そんな事はしていない!」

 お松の指摘を、伊吹は大声で否定したものの、それ以上の弁解はできなかった。伊吹が見上げるお松の目からは涙がポタポタと落ちていた。

「誤解だよ、お松。どうして俺がお蘭さんの命を奪う必要があるんだい?」

 お松はもはや泣くばかりで、言葉を話せる状況ではない。代わりに三之丞が口を開く。

「お蘭殿がいなくなれば、雪花もまた消え失せる」

「それで俺がお蘭さんを? 冗談も程々にしてくれ」

「若旦那、あなたはお松さんの問いに答えてはいない。どうして宿からいなくなったのですか?」

「敵に捕らえられたんだよ」

「それが宿の外だったことは知っています。あなたは自ら宿を飛び出したんだ」

「どうして、そんなことが分かるんだい?」

 三之丞は笑みを浮かべながら

「奴らに教えてもらったんですよ。若旦那を外で捕らえたとね」

 と答える。

「敵の言うことを信じるのか?」

「敵が嘘をついて何の得があるのですか?」

「それは・・・ そう、宿を襲ったことを知られないようにするためだ。そうに違いない・・・」

「もう止めて!」

 お松の悲痛な叫びが再び静寂を生んだ。誰もが無言のまま微動だにしない中で、蒼龍がポツンと言った。

「これ以上、続けても虚しいだけだよ。旅を再開しようじゃないか。伊勢までは、あと少しのはずだ」


 無言の旅が始まった。先頭は蒼龍とお蘭、その後ろにお松とお菊が続き、最後尾に伊吹と三之丞の姿があった。

 彼らが今いる場所は南伊勢。南伊勢は北畠家が具教の時代に勢力を誇っていたが、その嫡男であった具房の代に織田信長の侵攻を受け弱体化していた。具教は塚原卜伝に剣や兵法を学び、奥義の一の太刀を伝授したほどの剣術家だった。上泉伊勢守からも剣を学んだ上に、柳生石舟斎や宝蔵院胤栄を彼に紹介するなど、剣豪たちとの交流が広かったことでも知られている。対する具房は肥満体で、馬にも乗れなかったそうだ。

 山間の道は蛇行を繰り返し、川に沿って進む。空には相変わらず雲が厚く垂れ込めていたが、雨はすでに止んでいた。

 伊吹は、自分を見る目が明らかに変化したことを感じていた。今まで、わがまま放題で皆を困らせていたが、今回の件は一線を越えていると本人も自覚している。恐ろしい刺客の猛追から逃れることはできたのに、味方の信頼を失ってしまうことになり、伊吹は黙って皆に付いていく以外、どうすることもできなかった。

 ふと気がつけば、往来する人が周囲に増えてきた。明らかに旅をしている者が多い。

「何かあるのだろうか。やけに人が多いな」

 周囲に目を配りながら、蒼龍は小さくつぶやいた。

 進む先に、立派な木ばかりが並んだ森が見えてきた。人々は、そこへ向かっているようだ。森の中へ入ると、すぐ右手に鳥居が見えた。皆、ここにある神社に参拝するため来たらしい。左手に店があり、入り口で行列ができていた。何かを買い求めているのだろう。

「ここには何があるのですか?」

「あんたら、お伊勢参りに来たのじゃないのかね? ここは遙宮だよ」

「とおのみや?」

 古くから『遙宮』として親しまれている瀧原宮は、現在十四箇所ある神宮の別宮の一つだ。天照大御神の御魂をお祀りし、内宮とそっくりな景観を持った別宮として人気がある。かつて倭姫命は、この地に新宮を建てたが、お告げによって今の場所に移したため、この場所は別宮になったと伝承されている。

「では、ここはもう神宮の中になるのか」

「せっかくだから、参拝していきましょうよ」

 お蘭が蒼龍のほうへ顔を向け、話しかけた。その目の輝きを見た蒼龍が

「そうだな、お蘭の病気が治ったお礼もしなきゃならぬしな。皆はどうする?」

 と他の仲間に尋ねた。誰も異を唱えない中で、一人だけ口を開いた者がいた。伊吹だ。

「俺は遠慮しておくよ。ここで待っているから、皆は行ってくればいい」

「では、私も残ります」

 結局、お菊もその場で待つことになり、他の四人は鳥居をくぐって中へと進んだ。豊かな木々に囲まれた砂利道が延々と続き、多くの参拝客が行き交っている。その流れに乗って、蒼龍たちは周囲の厳かな雰囲気を堪能していた。

「ここも大層立派なお社がありそうだな」

「だいぶ奥のほうみたい。結構長いわね」

 参道は六町ほど。現在の単位で言えば六百メートルくらいになる。途中には御手洗場として、大内山川の支流である頓登川があり、ここで手や口を清める。

「ほう、これは美しい」

 神明造りの社殿は二つ建てられていた。周囲を森に囲まれて、瀧原宮と瀧原竝宮が、まるで双子のように並んでいるのである。社殿の前には多くの人たちが参拝するために列をなしていた。その最後尾にいつの間にか、にこやかに微笑むお蘭の姿があった。

「皆、急いで!」

 少し唖然としていた蒼龍たちであったが、すぐ我に返り、慌ててお蘭の下へ駆けつけた。

「お蘭、そんなに急がなくても、神様は逃げはしないよ」

「だって、早くお礼を言いたいのよ。願いを叶えてくれてありがとう、って」

 呪いが消えたことで、お蘭は自分の本当の活力を取り戻したのだから、自然に体が動いてしまうのかも知れない。お松や三之丞だけでなく、蒼龍にとっても、希望に満ちあふれたお蘭の笑顔は、まぶしいくらいに光り輝いていた。それは、暗い心を明るく照らしてくれたに違いない。


 伊吹とお菊の組み合わせは、嫌でも周囲の視線を集めることになった。中性的な美しさを持った伊吹を見ながら、何人かの女性たちがこそこそと話をしている。隣に立っているお菊の可憐な姿は、男性たちの注目の的だ。二人は、自分たちが見世物のようになっていることに気づいていた。

「別の場所に移動しましょう」

 そう話しかけるお菊の顔を見て伊吹はうなずいた。

 店の裏手には林があり、ちょっとした散策を楽しむことができた。二人は並んで歩きながらも、視線は合わせようとしなかった。人は他にもいて、やはり二人に好奇の視線を向けてくる。とはいえ、伊吹は慣れているからか、特に気にする様子もない。それに対して、お菊はかなり周囲の目を気にしていた。

「伊吹様、ひとつお聞きしてもよろしいですか?」

 周りに人がいなくなり、お菊は立ち止まって伊吹に話しかけた。伊吹は振り返り、お菊の顔を見る。その顔には少し悲しげな表情が浮かんでいた。

「私は、すべての仲間を失いました。これから先、皆様に付いて旅を続ける以外、どうすることもできません」

 お菊は、伊吹から目を離すことなく真っ直ぐに見据えていた。その視線に耐えられず、伊吹は目をそらしてしまう。

「伊吹様の大切なお仲間も大勢亡くなってしまいました。これも全て、私たちの件が原因」

 急にあたりが静かになったように伊吹は感じた。風が木の葉を揺らす音だけが聞こえてくる。お菊は再び口を開いた。

「私たちは、これ以上生きていてはいけない気がします」

 伊吹は、お菊の顔に目を向けた。しかし、彼女が何を考えているのか、全く理解ができなかった。表情の消えた彼女の顔は、伊吹に雪花を思い起こさせた。

「馬鹿を言っちゃいけない。俺たちは被害に遭ったほうだぞ」

 半笑いで叫びながら、伊吹はお菊から離れる方法を考えていた。心中したいと言い出しそうな予感が頭をよぎったのだ。その思いに反して、お菊は違うことを言葉にした。

「私は、一人で死にます。亡くなった方たちへの、せめてもの罪滅ぼしに」

 お菊がいなくなれば、どういうことになるか、伊吹は瞬時に判断した。おそらく西極屋の主は黙っていない。自分の身を危うくするだけだ。それよりも、お菊に説得をするよう依頼したほうが得策であろう。

「早まっちゃ駄目だよ。お菊さんが命を絶ったところで、死んだ仲間は蘇りはしない」

 もし、蘇ったら恐ろしいことになると、伊吹は少し身を震わせた。

「もう、こんなことは止めよう。お菊さんが頼めば、言うことを聞いてくれるはずだ」

 伊吹の言葉に対して、お菊は首を横に振った。

「もう遅いのです。何もかも手遅れなの」

「そんなことはないさ。今からでもやり直せる・・・」

 お菊は、優しく声をかける伊吹の顔を睨みつけた。それは、伊吹の口を閉ざすのに十分な効果があった。

「本当に、やり直せますか? 私ともう一度、やり直すことはできるのですか?」

 お菊の眼力のせいで、伊吹はしばらく声が出せなかった。ようやく発した伊吹の答えは、嘘偽りのない正直なものであった。これまで数々の無様な面を見せてきた自分を、お菊は変わらず慕い続けている。その純粋で真っ直ぐな気持ちに、伊吹の狡猾な心が負けたのだ。

「それはできない」

 お菊の目は涙で潤み、やがて頬を伝って地面に落ちた。それを見届けた伊吹は、くるりと向きを変え立ち去ろうとした。これ以上、一緒にいることは耐えられなくない。その思いが、無意識のうちに彼を突き動かしたのである。

 数歩だけ進んだときである。何かが背中に当たったのを伊吹は感じた。それは、すぐに激痛へと変わり、伊吹は息をすることができなくなった。ゆっくりと振り向いた視線の先に、お菊の顔が見える。やがて目が霞み始め、彼女の顔も、そして光さえも消え去ってしまった。

 膝から崩れ落ちる伊吹の姿を、血に染まったお菊は呆然と見つめている。その手には懐刀が握られていた。


「いったい、二人はどこへ行ったんだ?」

 蒼龍たちは、伊吹とお菊がいたはずの場所へ戻っていた。しばらく待っていたものの、二人とも姿を現さないので三之丞が痺れを切らした。

「散歩にでも行っているのでしょう。退屈していたのよ、きっと」

 お松がなだめるように声をかける。

「ねえ、あのお店、お団子を売っているみたいよ」

 お蘭が目を大きく見開いて、蒼龍に話しかけた。視線は店のほうに釘付けの状態だ。

「俺たちも並ぼうか。こうして待っていてもつまらないし」

 笑みを浮かべながら提案した蒼龍だったが、遠くから聞こえた女性の悲鳴に顔が険しくなった。

「離して下さい!」

 それは明らかにお菊の声だった。蒼龍と三之丞が最初に反応し、声のしたほうへ走り出すのを、お松とお蘭が慌てて追いかけた。

「お願いです、死なせて下さい!」

「馬鹿なことを言うんじゃない。とにかく落ち着きなさい!」

 旅の者らしい三人の男たちが、お菊の周りを取り囲んでいる。激しく身をよじらせるお菊の利き腕を一人が脇ではさみ、その手に持った刀を取り上げようとしていた。他の二人は泣き叫ぶお菊に対して説得をしようと試みているらしい。

「どうしたのだ?」

 四人が入り乱れているところに蒼龍がやって来て尋ねる。

「この娘、死のうとしているらしい。もう少しのところで、自分の喉を突いていたところだった」

「とにかく、なんとか止めないと」

 話を聞いているうちに、男が刀を奪うことに成功したらしく、観念したお菊はその場に座り込んで大声で泣き出した。

「その娘は我々の連れなんだ。二人いたはずなのだが」

「そこに倒れているのがもう一人の連れじゃないか。どうやら心中しようとしたらしい」

 爽やかな薄緑の小袖を着た男性が、すぐ近くで倒れているのに蒼龍たちは全く気が付いていなかった。背中の部分が真っ赤に染まっている。伊吹の変わり果てた姿を見てお松が叫んだ。

「若旦那!」

 三之丞がすぐに駆け寄って、その体に触れた。

「もう事切れている」

「まさか、お菊殿が?」

 蒼龍は、一言だけ口にした後、絶句してしまった。お蘭は、お菊のそばに近づき、震える肩にそっと手を置く。

 騒ぎを聞きつけた連中が集まりだした。平穏だった林の中は人で埋め尽くされるまでになり、囲まれた蒼龍たちは為すすべもなく、伊吹の死体を呆然と見つめていた。


 困ったことになった。別宮の近くで人が殺されたわけだから、それはすぐに周囲へ知れ渡った。しばらくして、数名の侍らしき男たちがやって来た。神社を守る役割を持った者たちだろう。

「神聖なこの場所を穢した不届き者は誰か?」

 その質問に答えたのは、お菊ではなく蒼龍だった。

「そこに倒れている男でござる」

 お菊がすっと顔を上げた。すぐには声が出せず、口をパクパクさせている。お菊の話す暇もなく、蒼龍は話を続けた。

「その男、こちらの女性を手籠めにしようと襲いかかり、逆に倒されたのでござる」

「いいえ、違います。私は・・・」

「相手が刀を抜いたので、慌てて逃げようとしたのだろう。背中を向けたところを刺されたというわけで」

 蒼龍は、お菊の言葉を遮り、話し続けた。二人の侍が、伊吹の死体を調べている。

「確かに、背中を一突きにされているな」

「それにしても派手な格好だ。傾奇者か?」

 調査の間、誰も蒼龍の言葉を否定しようとはしなかった。ただ黙って、事の成り行きを見守っている。お菊が何かを言いたげに口を開いたが、お蘭が耳元で囁いた。

「お菊さん、ここは私たちに任せてください」

 蒼龍は、さらに訴えかける。

「その男は、俺たちをずっと付け回していた。おそらく、彼女が目当てだったのだろう。自業自得というやつだな」

 侍たちは互いに顔を見合わせた。今は戦の準備で忙しい。このような些細な事件など相手にしたくはないようだ。一人が蒼龍に顔を向ける。蒼龍は先手を打った。

「そのご遺体は、俺たちのほうで弔っておこう」

「そうか・・・ では、頼んだぞ」

 そう言い残して、侍たちは去っていった。それと同時に、周囲にいた見物者たちも少なくなっていく。最後に、蒼龍は三人の旅人へ声を掛けた。

「面倒をかけて済まない。あとは俺たちが対処しておくよ」

 それを聞いた三人は、不思議そうな顔をしながらもその場を立ち去り、こうして五人だけが残った。

「さあ、若旦那を弔ってあげましょう」

 しばらくして、お松が口を開いた。あえて、お菊の行為については触れようとしなかった。

「お菊さんの着替えも必要ですわ」

 お蘭は、まだ放心状態のお菊を両手で支えていた。二人がゆっくり立ち上がったとき、三之丞はお菊の懐刀を拾い上げ、手ぬぐいで血をふき取っていた。

「三之丞殿、刀をお菊殿に返してはいけないよ」

「分かっています・・・」

 蒼龍に指摘され、三之丞はうなずいた。

 伊吹の遺体を担いで遠くまで運ぶわけにも行かないので、蒼龍たちは林の中にあった一際大きな杉の木の近くに埋葬した。お松と三之丞が手を合わせている姿を、お菊はお蘭に支えられながら、ぼんやり眺めている。背後では蒼龍が、お菊の動向を注視していた。

「旦那様には、私から報告しておきます」

 お松は、隣にいた三之丞だけに聞こえるよう小さく声を掛けた。

「分かりました。お願いします。でも・・・」

「大丈夫、本当のことは伏せておきます。いずれにしても、任務は失敗。私たちはもう、御役御免になりそうね」

 三之丞は頭を振りながら

「仕方ありません」

 と小さな声でつぶやいた。


 杉の木に隠れ、お菊が着替えている間、蒼龍と三之丞の二人は離れた場所で見張りをさせられていた。

「こんな所、誰も来やしないよ」

「いいから黙って見張っていて」

 蒼龍が文句を言うと、お蘭の声が返ってきた。お松とともに、お菊の様子を見ていたのだ。人を寄り付かせないためというより、お菊が変なことを仕出かすのを防止する目的である。

 女三人が並んで蒼龍たちの下へ近づいてきた。玉子色の小袖を身に着けたお菊は二人に挟まれ、うつむいたまま操り人形のように歩いている。

「率直に聞こう。はじめから心中するつもりだったのかい?」

「あなた、そんな言い方ないでしょ」

 蒼龍があまりにも厳しい言葉を投げかけるのを、お蘭は非難した。お菊は地面に目を向けたまま黙っている。

「お菊さん、あんた、まだ死ぬ気でいるようだね」

 お蘭のことは無視して、蒼龍はなおも尋ねた。ゆっくりと顔を上げて、お菊は口を開いた。

「私たちのせいで、多くの人が犠牲になりました。もう、生きていくのが辛い」

 蒼龍の顔を見据えるお菊の目から、涙がこぼれ落ちた。蒼龍は、穏やかな顔を彼女に向けたまま

「辛いから死ぬっていうのは、あまりにも身勝手な話だ。あんたは、それを乗り越えて生きなければならない」

 と言った。

「どうして、生きなければならないのですか? 私に生きる価値なんかあるのですか?」

 半ば睨みつけるような目を向けてお菊は叫んだ。彼女がこれほど怒りの感情を見せたことは今までなかったので、蒼龍以外の三人はかなり驚いた。蒼龍だけが、動じることなくお菊を見つめている。

「少なくとも、ここにいる者は皆、あんたが死ねば悲しむだろう。故郷には、あんたの帰りを待っている連中もいるはずだ。その思いを、あんたは裏切るのかい?」

 お菊は何かを思い出したように、目を大きく見開いた。

「そんなに軽々しく死を選ぶべきではない。それは逃げるのと同じことだ。その命、自分だけで価値を決められるのではないと肝に銘じておきなさい」

 相変わらず落ち着いた雰囲気の蒼龍であったが、その厳しい言葉と鋭い視線からお菊は逃れることができなかった。

「私、とんでもないことを・・・」

 お菊はそうつぶやいた。伊吹を殺してしまったことを後悔しているのだ。

「そうだな・・・ もう、取り返しはつかない。伊吹殿はもう生き返らないよ」

 蒼龍が目を伏せたので、お菊はようやく束縛から解放された気がした。少しの間の後、蒼龍は話を続ける。

「命を奪うというのは、そういうものだ」

 その言葉には重みがあった。自分に言い聞かせているようでもあった。再び、蒼龍の目がお菊を捉える。優しい眼差しであった。ほんの少し、しかし、確実に、お菊の中で生きようという思いが芽生えた。

「私は、亡くなった方々を弔うためにも、生きていなければならないのですね」

「そして、幸せになることだ。皆、それを願っている」

 お菊はゆっくりうなずいた。

「さて、どうするかな? 伊勢まではあと少しだ。このまま進むか、それとも故郷へ戻るか」

「蒼龍殿も、お蘭殿も、目的はお伊勢さんを参ること。このまま進もうではありませんか」

 お松は、そう答えた後

「因幡へ戻るのは、少しでも先送りにしたいし。いろいろと心の整理をしておきたいから」

 と付け足した。

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