第52話 冬になったら

 東の空が紅に染まり、山々の輪郭を浮かび上がらせる。間もなく夜が明ける時間だ。雪花は一人、その様子を眺めていた。お松と三之丞は、座ったまま眠っている。片足で立ち尽くす銀虫の横に、いつの間にか伊吹の姿があった。

 虚ろな表情の雪花は、人形のように動かぬまま、焦点の定まらない目を夜明けの空に広がる灰赤色の雲へ向けている。麓のほうからの暖かい風が雪花の髪を舞い上げた。乱れた髪を直すこともなく、雪花は何かを小さな声で口ずさみ始めた。

「朝になったら 陽が昇る 陽が昇る そしたら地面に 種まこう 種まこう」

 それには旋律があり、素朴な節回しを持っていた。

「夜になったら 月が出る 月が出る そしたら急いで 巣に帰ろう 巣に帰ろう」

 子供の頃の童歌を思い出したのだろうか。少し笑みを浮かべている。

「春になったら 花が咲く 花が咲く そしたら・・・」

 途中で声が途絶えた。少し前のところから、もう一度歌い始める。また、同じところで止まってしまった。歌を思い出すことができないらしい。雪花の表情が曇り、目から大粒の涙が落ちた。

 手で涙を拭い、何気なく左を向いた時、ぼんやりと人影が目に映った。二人いるようで、坂を登りこちらに近づいてくる。

「お蘭さん?」

 お蘭の名を口にした瞬間、憎しみと懐かしさが一気に込み上げ、雪花は混乱した。どうしたらいいのか分からなくなり、無意識にその人影に近づいた。

 その二人が蒼龍とお菊であることが判明すると、雪花は冷静さを取り戻し、立ち止まった。

「お蘭さんを連れてくるように申したはずですわ」

 雪花の声が届いたのか、蒼龍とお菊は歩みを止めた。

「お菊殿が、お前と話をしたいとおっしゃるのでな。一人の夜道は危険ゆえ、こうして自分も付いてきた」

「お蘭さんはどうされているのですか?」

「下で待ってるよ」

「一人にしておくなんて、それこそ危険ではありませぬか?」

「殺そうとする相手の身を心配するのかい?」

 蒼龍は笑みを浮かべた。雪花の顔が少し強張り、青い目が琥珀色に変化した。

「お菊さん、一体、何のお話でしょうか?」

 雪花に尋ねられ、お菊は彼女の目を見据えながら口を開いた。

「お松さんと三之丞様・・・ 二人の人質を解放して頂きたいのです」

 雪花は眉を上げ

「それはできませぬ」

 と断るが、お菊は諦めなかった。

「お願いです、雪花様。私は雇い主の孫、その申し出を断るおつもりですか?」

「あなたは裏切り者。あなたのせいで多くの血が流されました」

 お菊の顔が悲しみに歪んだ。うつむいてしまったお菊に代わり、今度は蒼龍が話し始める。

「お菊殿は、二人を解放すればお前と一緒に因幡へ戻ってもいいと言っておられる。悪い話ではないと思うが」

 雪花は黙したまま二人の様子を観察していた。蒼龍とお菊も、それ以上は話すのを止めて、雪花の動向を見守っている。

「蒼龍様は、それをお許しになるのですか?」

「本人が望んでるんだから、俺は何も口出しできぬ」

 蒼龍の返答を聞いて、雪花はお菊に

「では、先にあなたが一人で私のところまで来て頂戴。二人を解放するのはそれからよ」

 と命じた。お菊は雪花から蒼龍へ顔を向ける。

「それでは不公平だ。まずは二人が無事かどうか見せてくれ」

「対等に渡り合おうというのですか? ご不満でしたら取引には応じられませんわ。お帰り下さい」

 雪花が立ち去ろうとしたので、蒼龍が慌てて声を掛ける。

「分かった、もう逆らわぬ」

 蒼龍がうなずくのを見届け、お菊は雪花のいる場所へ向かってゆっくりと歩き始めた。雪花は立ち止まり、彼女の様子を見つめている。お菊は明らかに怯えていた。

「止まりなさい、お菊さん」

 雪花の命令に従い、お菊は止まった。雪花の視線は彼女の顔に注がれたままである。

「何を企んでいらっしゃるのかしら?」

 雪花の微笑みは、お菊を震え上がらせた。

「よさないか、お菊殿が怖がるだろう」

 蒼龍の言葉に、雪花は意外だと言わんばかりに

「何を怖がる必要があるのですか?」

 と切り返す。

「お前は強大な力を持っている。およそ人間とは考えられぬ程の。恐れるなと言うほうが無理というものだ」

「天下の百鬼夜行様が、小娘一人に恐れおののくなんて、滑稽ですわね」

「百鬼夜行などと呼ばれても、所詮は人間だ。人間は得体の知れない化け物を恐れる。当然のことだろう」

 蒼龍はニヤリと笑った。あまりにも失礼な言葉である。化け物呼ばわりされて、雪花の笑みは消えた。

「貴方様がそんな事をおっしゃるなんて、思いもいたしませんでしたわ」

「俺は本当のことを述べたまでだ。お菊殿の顔をよく見ろ。かつて、お前に向けたものとはまるで違うだろう。お前の正体を知っているからこそ、恐怖で体が震えるのさ」

「私の正体・・・」

 雪花は、お菊の顔を凝視した。以前、自分に見せていた笑顔はなく、その表情には明らかな恐怖の色が浮かんでいた。

「どうして、そんなに怯えるの?」

 悲しげな顔をする雪花に、蒼龍が畳み掛ける。

「お前は孤独だ。仲間にも恐れられる存在だ。誰からも救いは得られない。ただ、虚ろな永遠を一人で生きていくことしかできない」

「止めなさい!」

 雪花が叫ぶと同時に蒼龍の近くにあった木へ雷が落ちた。轟音にお菊は飛び上がり、蒼龍も素早く身を伏せる。

「それ以上の侮辱は死を招きますよ」

 雪花の威嚇に、蒼龍は屈しなかった。ゆっくりと体を起こし、言葉を続ける。

「試してみろ。お菊殿に近づくことがお前にできるのか? 彼女に受け入れてもらえるのか?」

 お菊は、耳を両手で塞ぎながら、その場で座り込み、体全体が激しく震えていた。雪花はなだめるように話しかける。

「お菊さん、驚かせてごめんなさい。でも、何も怖がる必要はないのよ」

 立ち上がることができないお菊に、雪花は優しげな微笑みを浮かべた。

「私は化け物なんかじゃありません。安心して頂戴」

 雪花が、ゆっくりと前へ進み始めた。お菊は何とか気持ちを奮い立たせ、立ち上がる。しかし、逃げることはできなかった。足がすくんで動けないのだ。雪花は徐々に近づいてくる。その顔は笑っていたが、目からは絶え間なく涙が流れていた。瞳には生気が全く感じられない。まるで精巧なからくり人形が動いているような、美しく、それでいて不気味な姿であった。

「雪花様、正気に戻って下さい。お願いです」

「私はここにいますわ。なぜ、誰も気づいてくれないのかしら?」

 蒼龍に、お菊を助けようとする素振りはなかった。険しい表情で、雪花を眺めているだけだった。

「春になったら 花が咲く 花が咲く そしたらあの娘に 髪飾り 髪飾り」

 記憶が蘇ったのか、雪花は歌い始めた。もはや周囲の様子も理解していない風に見える。ついにお菊の目の前まで接近した雪花は、彼女の顔に視線を向けてはいなかった。その、遥か遠くに目を凝らす先にあるのは、自分の子供の頃の光景か。

「冬になったら 雪が降る 雪が降る そしたら・・・」

 雪花の声が止んだ。また、歌を忘れたのだろうか。彼女は目を見開き、自分の胸に向ける。氷のように透明な刃が、胸を貫いていた。その刃を辿って赤い血が流れ出す。顔を上げると、涙をこぼしながら、お菊が自分の顔を見つめている。

「雪花様、もうこれ以上、自分を苦しめないで下さい」

 お菊が、自分に刃を向けたのだと雪花は思った。不死の身体にどうやって致命の一撃を加えたのか、彼女には理解できなかった。膝から崩れるように、その場に倒れた。


「お初ちゃん、ごめんね」

 聞き覚えのある声が耳に届き、雪花は目を開けた。そこには、お蘭の悲しげな表情があった。全てを悟った。

「湧水の術・・・」

 お蘭の湧水の術はまだ不完全だった。だから、お菊の背後を利用して、影法師の太刀を組み合わせたのだ。それは蒼龍の案であったが、彼から話を聞いた時、二人がたいそう驚いたのは言うまでもない。

「お見事です」

 先程の雷で、お松と三之丞は目を覚ましていた。何が起こったのかと、二人は飛び起きて周囲を見渡した。お菊が雪花と対峙している姿が目に飛び込んできた時は、訳も分からず、ただ固唾を呑んで見守ることしかできなかった。そして今、雪花が倒れ、お蘭が姿を現したのを見届けて、お松が一言つぶやいたのだ。

「私は死ねない。まだやるべき事が・・・」

 お蘭が、雪花を貫いていた刀を引き抜いた。血が一気に溢れ出した。空色の小袖が、あっという間に赤く染まる。すると、傷を負ったあたりが黒い泡のようなもので覆われていった。

 突如、凄まじい突風が吹き荒れ、誰もがその場で身を低くした。銀虫と伊吹の二人も、吹き飛ばされないように体を丸めている。空からは雹が降り注ぎ、地面が白一色に覆われていく。凄まじい爆音とともに、雷がそこら中の木に落ちて燃え始め、立ち込める蒸気で視界が悪くなる。

「お蘭、お菊殿、大丈夫か?」

 蒼龍が叫びながら近づこうとするが、暴風によって前に進むことができない。渦を巻く霧のせいで、二人がどうなったのか、確認することも敵わない状態だ。加えて今度は地面が震えだした。強烈な地響きによって、身を低くすることも難しくなり、皆は地面に伏せながら耐えるしかなかった。

 あらゆる天災が一度に起こった。雪花の、いや、呪いの最後の抵抗であろうか。雪花はこの荒れ狂う天変地異の中で立ち尽くしている。胸のあたりの傷は黒い塊で塞がれ、出血も止まっていた。彼女はまだ生きているのだ。

「姉上を返せ。お前が姉上を殺した。私は姉上を生き返らせる。必ずや蘇らせよう。たとえ、この身がどうなろうと」

 あらゆる場所に雷光がきらめき、何も見えなくなる。もはや、一寸先さえどんな状態なのか知る由もない。地面の震えは止まらず、風は勢いを増していく。誰も成す術なく、凄まじい自然の猛威が去ってくれるのを祈ることしかできない。

「お初ちゃん、呪いの力に屈してはいけません!」

 轟音が鳴り響く中、お蘭の甲高い声がはっきりと聞こえた。その瞬間、まるで時間が止まったかのように全ての災いが消え、静けさが戻った。生木がパチパチと燃える音だけが周囲に響き渡る。白く濁った大気の中で、雪花の体が薄っすらと浮かび上がった。その顔は以前よりも少し幼く、表情は柔らかい。お蘭は、子供の頃のお初の面影を思い出した。

「お初・・・ 私の名前」

「そう、あなたの名前はお初。私のことは、覚えてる?」

 お蘭がゆっくり立ち上がった。その顔に目を向けた雪花は、何かを言おうと口を開く。なかなか言葉の出ない雪花を見据え、お蘭はじっと待っていた。

「お蘭・・・ お姉ちゃん」

「一緒に、果ての世界まで旅をしたよね。あなたとの約束を守るために、私はこうして来たのよ。あなたを救うという約束のために」

 雪花の口の端から血が流れ落ちた。

「こんな形でしか、あなたを救うことのできない私を許して」

 お蘭は両手で顔を覆って泣き始めた。雪花は、少し笑みを見せながら

「泣かないで、お蘭お姉ちゃん」

 と言って、再びその場に崩れ落ちた。


 雪花の倒れる音に気づいたお蘭は、慌てて地面に伏していた雪花の体を抱え、その顔を自分に向けた。胸にあった黒い塊は消え去り、再び血が流れ出している。

「私はようやく解放されるのね」

 目を閉じたまま、雪花は話し始めた。息が荒く、苦しそうだ。お蘭は何も言うことができず、ただ雪花の顔を見つめるだけであった。

「でも、姉上を生き返らせることはできなかった」

 記憶が戻り、反魂の式に失敗したと言いたいのだろうか。それとも、まだ自分は呪われていないと思っているのか、お蘭には判断できない。しかし、雪花の目から流れ落ちる涙が、その無念さを物語っていた。

「どうして、姉上は私を置いて逝ってしまったの? 一人ぼっちにしてしまったの?」

 雪花は、いや、お初は、姉以外に頼れる存在はなかった。その姉がいなくなり、どれだけ心細かったか、どれだけ寂しい思いをしたのか、それを考えるだけで、お蘭は辛く悲しかった。

「あなたは一人ぼっちなんかじゃない」

 そう言って、雪花の手を握りしめる。彼女の顔にかすかな笑みが浮かんだ。そして、最期の息をゆっくりと吐き出し、眠るように死を迎えた。

 突然、お蘭の身に変化が起こった。今まで欠けていた精気が体に宿ったような感触を受けたのだ。自分の魂を取り戻したことを、お蘭は実感した。それと同時に、雪花の体は灰のように崩れ去り、残ったのはあの懐刀と着物だけになってしまった。手に残る雪花の成れの果てを呆然と眺めているうちに、お蘭の目から再び涙が溢れ出した。

 軽やかに響く心地よい音が聞こえてくる。腰紐に付けられたお守りの鈴が鳴ったのだ。お鈴の形見の品である。お蘭は、そのお守りを手に取った。桜色に染められた絹の組紐に銀色の鈴が二つ。もう片側には筒状の赤い袋が、よほど大事に扱っていたのか、全く色褪せていない。

「お蘭、大丈夫か?」

 背後から声が聞こえた。振り向けば、そこに蒼龍とお菊がいた。

「ここは危ない。早く逃げないと、火に囲まれるぞ」

 気がつけば、周囲を覆う霧の中で、炎の赤い光が至るところに見える。他の木々にも火が燃え移れば、逃げ道も閉ざされてしまう。

「皆さん、ご無事でしたか」

 お松と三之丞が近づいてきた。三之丞は伊吹を抱えている。どうやら全員が無事であったようだ。

「雪花の亡骸は消えてしまったか・・・」

 蒼龍は、地面に残された小袖を見てつぶやいた。

「彼女は幻だったのでしょうか? すでに、この世には存在してなかったのでしょうか?」

 お松が言うように、自ら命を絶ったとき、お初の肉体は滅んでいたのだろう。今まで彼らが見ていたのは、その幻影だったのかもしれない。闘いに勝利したものの、誰もが虚しさを感じていた。

「せめて、その刀をどこかに埋めてあげよう」

 雪花の短刀を拾い上げた蒼龍は

「よし、急いでここを離れなければ」

 と皆に声を掛け、立ち上がっても空っぽの小袖から目を離そうとしないお蘭の肩を優しく引き寄せた。少しの間の後、二人はその場を立ち去り、その姿は霧の中に隠れてしまった。


「あんた方、よく無事に下山できたね」

 年老いた宿の主人が目を丸くしながら五人の顔を順番に見回した。外は滝のような雨が降り、昼間だというのに数歩先さえ見通せない状態だった。

「運がよかったのかな」

 蒼龍は笑顔で答える。他の者たちが暗い表情であるだけに、老人には妙に陽気な男であるかのように見えたらしい。

「それだけ元気があれば、これくらい乗り越えられるようですな。とにかく、お部屋へ案内いたしますから、早く体を休めてくだされ」

 と、笑みを浮かべながら全員を奥へと案内した。

「その方は大丈夫なのですか?」

 三之丞に抱えられた伊吹の姿を見ながら、宿の主人は蒼龍に尋ねた。

「ふむ、気を失っているだけだ。直に目を覚ますよ」

 蒼龍が軽い口調で受け答えするので、老人は心配するほどのものでもないのかと思い、うなずくだけであった。

 部屋に入り、各々が黙したまま床に座る。思えば長い、そして辛い二日間であった。源兵衛が死に、雪花を葬り、精神的にも肉体的にも限界に近い状態の中で、さらに悪天候が追い打ちを掛けた。皆、昨夜はほとんど寝ていない。蒼龍とお蘭に至っては一睡もしていなかった。今は誰もが、眠りを求めていた。

「若旦那をどうするかな?」

 伊吹は、三之丞の横に寝転がっている。気づく様子は今のところない。

「私が見ていますから、皆さんは休んで下さい」

 お菊が申し出たが、お松と三之丞は了承しなかった。

「あなたも疲れているのに、そんなことできません」

「俺が見張ってますから、お菊殿こそ体を休めてくだされ」

 その様子を見た蒼龍が提案する。

「伊吹殿の足に紐を括りつけておけばいい。もう片方を誰かの手か足にでも縛っておくんだ。伊吹殿が動けば、すぐに気づく」

 今度は誰がその役目を負うかでしばらく話し合いが続いたが、結局は三之丞と伊吹の足首をつないでおくことになった。

「蒼龍殿とお蘭殿は・・・」

 お松が途中で尋ねるのを止めた。お蘭の呪いのことを思い出したようだ。しかし、すでにお蘭の呪いは消え去っているはずだ。蒼龍はそれには触れずに

「少し二人で話をしたくてな。しばらくしてから眠ることにするよ」

 と答えた。


 部屋の壁にもたれかかり、蒼龍とお蘭は並んで座っていた。暗い表情のお蘭を、蒼龍は気づかぬふりをしながらも気にかけているようだ。特に話しかけることもなく、ただ、そばに付き添うだけに留めた。

「呪いは、解けたみたい」

 しばらくして、お蘭のほうから口を開いた。

「そうか・・・」

 満面の笑顔を見せる蒼龍に、お蘭は少し微笑んだ。

「それだけ?」

 不満げな声で尋ねるお蘭を目にしながら、蒼龍は

「長年の望みが達成できたんだ。嬉しいに決まってる」

 と答え、少し間をおいてから話を続けた。

「でも、お前は本当にこれでよかったのか、思い詰めているんじゃないかと考えると、素直に喜べないんだ」

 お蘭の笑みが少し曇った。蒼龍の言う通り、お蘭は他に手段がなかったのか、ずっと考えていた。当然、それに解など出てこない。

「あの子にとっては、これが最善だったと考えることにしたわ。でも、それがあまりにも残酷な仕打ちに思えて、不憫で仕方がないの」

「両親が健在であったなら、こんな悲劇は起きなかっただろうな。でも、我々には時を戻す力などない」

 お蘭は静かにうなずいた。

「一番悪いのは、お父様だけど、お鈴さんやお初ちゃんにも、もっといい選択肢はあったはず。どうして、こんな結末になってしまったのでしょうか」

「常に最善の選択をするなんてこと、誰にもできないさ。俺たちだって、今までのやり方が正しかったのか、正直言って分からない。多くの者が犠牲になってしまった。結果として呪いを解くことはできたが、お前や俺も、どこかで命を落としていた可能性はあるんだ。結局、結果を受け入れることしかできないよ」

 蒼龍は、そこまで話をすると、深いため息をついた。

「お菊さん、ただ一人になってしまったわね」

 お蘭の言葉を聞いて、蒼龍は思い出したように顔を上へ向けた。

「しまった、赤毛の男を始末しておくことを忘れていた」

「あの山火事の中で生きているとは思えないけど」

「この雨で、火も消えているかな」

 蒼龍の問いに、お蘭は答えず、代わりに頭を蒼龍の肩に乗せた。

「眠くなってきたのかい?」

「もう、死体にはならないかな?」

「見ててあげるから、このまま寝なさい」

「眠っているところを見られるのも恥ずかしいな」

 死体にならなくとも、普通ならそうであろう。

「着物を頭にかぶればいいだろう。それなら、眠っている顔を見られなくて済むよ」

 そう言ってから、蒼龍は

「お蘭の寝顔を見てみたいという気持ちもあるけどな」

 と付け加えた。


 お蘭は、いつもの夢の世界に一人で立っていた。

 呪いはまだ続いているのだろうか。不安に思いながら周囲に目を配る。代わり映えのない世界。一面に若草色の絨毯のような草原が広がり、空は灰色の雲に覆われていた。柔らかな日差しが雲を通して地面を照らし、殺風景な世界を露わにしている。道は真っ直ぐな登り坂になっていて、その向こう側は何があるのか見えない。お蘭は、いつものように前へ歩き出した。足音だけが耳に届き、時折、聞こえるのは風の音だけ。

 突然、鈴の音があたりに響いた。驚いて周囲を見渡してみたが、自分が身に付けているお初のお守りが鳴ったことに気づき、苦笑した。

 坂を登り切れば、頂上からは遠くまで見通すことができた。はるか向こうに、様々な色の花が点描のように芝生を彩った場所がある。その中に誰かがいると気づいたお蘭は、ふと興味が湧いて近づいてみることにした。

 丘を下り、いったんは人影も見えなくなる。しばらく歩いているうちに、たくさんの花が咲き乱れる広大な芝生にたどり着いた。丘のてっぺんから見た時はそんなに広いところだと思っていなかっただけに、お蘭はかなり驚いた。その中で人を探すのは簡単ではない。

「どのあたりにいるんだろ?」

 目当ての人物はなかなか見つからない。見間違いであったのだろうかとお蘭は考えた。かなりの距離があったから、本来なら人がいると分かるとも思えない。少しがっかりした顔で、お蘭は目の前に広がる無数の花をぼんやり眺めていた。

 少し先に、白い百合の花が咲き誇るところがあった。その中から、誰かが顔を出した。女の子だ。今まで寝転がっていたらしい。その顔を見て、お蘭は思わず叫んだ。

「お初ちゃん!」

 少女は、お蘭の声に気づくことはなかった。すぐ隣にもう一人、お初より少し年上の女の子がいる。それは子供時代のお鈴であった。二人は、頭に花かんむりを乗せて、楽しそうに話をしていた。

「向こうへ行くと森があってね。真ん中あたりに大きな滝が流れているの」

「わあ、お初も見てみたい」

「時間はたくさんあるから、ここで遊び飽きたら一緒に行きましょう」

 お初は楽しそうにうなずいた。子供の頃の、あどけない表情のお初を見て、お蘭は人知れず涙をこぼした。

 お蘭がそばに寄っても、二人が気づくことはなかった。彼女たちには、お蘭の姿は見えないらしい。

「お初ちゃん、お蘭よ。分からないの?」

 そっとお初の肩に触れようとする。その手はお初の体を突き抜けてしまった。お初がお蘭の手のある場所に目を遣る。

「どうしたの?」

「何か、触ったような気がしたんだけど、気のせいみたい」

 やはり、お初にはお蘭を認識することができないのだ。お蘭には、彼女の様子を見ているしかなかった。

「ねえ、お姉ちゃん。お蘭お姉ちゃんには会うことできないの?」

 お初に尋ねられ、お鈴は悲しそうな顔をした。

「残念だけど、それはできないの」

「どうして?」

「お蘭さんはね、私たちのいる世界とは別の場所にいるのよ」

「だって、一緒に旅をしたんだよ」

「きっと、神様がお初の願いを叶えてくれたのね。病気がよくなりますようにって。お蘭さんの力で元気になったでしょ? そのために、お蘭さんをお初のところへ連れてきてくれたのよ」

 お初は残念そうに下を向いた。その姿を、お鈴は静かに見つめている。お蘭は、お初に自分の姿を見せてあげることができなくて、もどかしい気持ちでいっぱいだった。

「もう一度、お蘭お姉ちゃんに会いたい。ありがとう、って御礼を言いたい」

 お初がそう言って立ち上がった時、鈴の音が再び鳴り響いた。お蘭の腰紐から、あのお守りがひとりでに落ちてしまったのだ。その音がお初の耳に届いたのか、彼女は、緑に覆われた地面に目を遣った。

「お守りが落ちたみたい」

 お初は、お守りを手にとって、しばらく目を凝らしていた。それから、視線を前に、お蘭のいるあたりに向ける。お蘭は、思わずしゃがみこんでお初を抱きしめた。実際に触れることはできないが、両腕で包み込むようにする。お初はじっとしていた。その目から涙が一滴落ちた。

「ありがとう。お蘭お姉ちゃん、ありがとう」

 お初は確かにそうつぶやいた。しかし、それにお蘭が応えることはできなかった。あっという間に周囲が明るくなり、目覚めの時が訪れたことをお蘭は悟った。

「さようなら、お初ちゃん」

 目の前からお初が消え去る前に、お蘭は叫んだ。

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