第46話 偽りの家族
ある朝、お初は目を覚ました。何事もなかったかのように起き上がり、そばで疲れて眠っているお鈴の体を揺り動かした。
「お姉ちゃん、私、戻ってきたよ」
すっかり元気になったお初が本物であると信じられず、しばらくの間、目を見開いたままだったお鈴は、やがて大粒の涙を流し、お初の体を強く抱きしめた。
「お姉ちゃん、痛いよ」
「ごめんなさい、お姉ちゃん、あまりに驚いたものだから・・・ もう、身体のほうは辛くない?」
お初は大きくうなずいた後
「でも、お腹空いちゃった」
と元気よく返事をした。その顔からは、あの酷い痣も消えていた。
これに驚いたのは両親も同じである。十日ほどの間、何も飲食できず、高熱に苦しんでいたお初が、まるで何事もなかったかのように復活したのだから、それは無理もないことであろう。一体、何があったのか、お初に聞いてもほとんど覚えていることはない。ただ一つ、口にしたのは誰かと夢の中で旅をしていたという事だけ。それが誰なのかも忘れてしまったそうだ。いずれにしても、お初は毎日のように外で活発に遊ぶくらい元気になり、時には姉のお鈴を困らせた。
「お初、少しはおしとやかにしないと駄目よ」
「今日は時三郎様に術の使い方を教えてもらったんだよ」
人の言うことを全く聞いていないお初に、お鈴はため息をつきながらも、許嫁の時三郎に術を習ったという話に興味を持ち、少し尋ねてみることにした。
「どんな術を習ったの?」
「氷を作る術だよ。でも、時三郎様の真似をして手を動かしても、全然駄目だった」
「最初から成功する人はいないわ。私が最初に覚えたのは、湧水の術よ」
「ゆうすいの術?」
「地下から湧き出る水のように透明になって、相手から体を見えにくくする技術よ」
お鈴が素早く印を結ぶと、体の色が薄くなり、向こうの景色が透けて見えるようになった。
「すごいや! お姉ちゃん、それ、試してみたい。父上は何も教えてくれないもん」
お鈴は五歳の頃から少しずつ鍛錬を始めていったが、お初は病弱だったこともあり、未だ何も教えられていなかった。こうして活力を持て余しているのだから、稽古を始めてもよさそうなものなのに、一向にその気配はない。
「分かったわ。私が教えてあげる。だから、外で遊び回るのは程ほどにね」
それから、父親に代わりお鈴が、お初に術の使い方を伝授する毎日が続いた。初めての本格的な稽古に、お初は一生懸命取り組んだ。
「お初に術を指導しているようだな」
お初の稽古が始まってから一ヶ月ほど過ぎたある日、安幸は、庭で花の手入れをしていたお鈴にそのことを尋ねた。
「はい。あの子、楽しそうに稽古を励んでいますわ」
嬉しそうに答えるお鈴に、安幸は不満そうな顔を見せた。
「自分の鍛錬を疎かにはしていないだろうな」
「もちろんです。今はお初と一緒に修行するのが日課になっています」
「旋風の術は使えるようになったのか?」
お鈴の顔から笑みが消えた。
「まだです」
安幸は深くため息をついてから、お鈴に対して厳しい言葉を投げかける。
「お前は小さい頃に稽古を怠けていたからな。今になって苦労することになるのだ。妹を指導する暇があったら、まずは自分の腕を磨くことに専念しなさい」
父親の説教を聞いて、うつむいていたお鈴であったが、そのまま立ち去ろうとする安幸に目を遣ると、溜まっていた不満を吐露した。
「父上は、お初をご教示なさるおつもりはないのですか? あの子も後継者の一人です。ともすれば、私より才能があるかも・・・」
「愚かなことを言うものではない!」
激怒した安幸の顔を見て、お鈴は口を閉じた。
「よいか、後継者はもうお前に決めているのだ。あの子の将来はすでに考えてある。お前は余計な心配などするでない」
驚いた表情のお鈴を残し、安幸は足早に屋敷へ戻っていった。
鈍色の空から、白い雪が舞い降りる。庭は一面、真綿のような雪で覆われ、明るく光り輝いていた。その庭で、お鈴とお初はともに新たな術を使う練習をしていた。
お初が稽古を始めてから半年ほど経つ。お鈴は、父親の叱責を受けてからも毎日のように指導を続けていたが、彼女自身も技を磨く努力を怠らなかったから、安幸は二人に対して、それ以上の口出しはしなかった。
「お姉ちゃん、手の形はこれでいいの?」
「ちょっと違うかな。こうするのよ」
お初は、わずか三日で湧水の術を習得していた。技を覚えるのが楽しいのか、貪欲に新しい術に挑戦し、今ではお鈴の持つ技の半分以上が使えるようになっていた。
「ほう、二人とも頑張っているようだな」
「時三郎様!」
お初が嬉しそうに駆け寄った相手は時三郎であった。
「あら、今日はどうされましたか?」
小さなお初に視線を落とし、その頭を撫でる時三郎に、お鈴が尋ねる。
「お義父上からお声が掛かってな。こうして参上した次第だ。青宝様はどちらに?」
兄の急逝後、安幸は七宝の座を引き継いでいたから、今の呼び名は青宝となっていた。
「おそらく、母屋のほうにいると思うのですが」
「では、そちらに伺ってみることにしよう」
「時三郎様、氷が作れるようになったよ」
お初の言葉を聞いて、時三郎は目を丸くした。
「本当かい?」
「本当だよ。ほら」
お初が器用に印を結ぶ。あっという間に、お初の背と同じくらいの高さの氷柱が現れた。
「これはすごい・・・」
時三郎が驚いたのも無理はない。わずか半年の期間で、これほど大きな氷を生み出すことは無理だからだ。しかも、お初はこの時まだ八歳であった。
「この子、間違いなく私より才能があるわ。本当は、お初が後継者になってくれると嬉しいんだけど」
お鈴はそう言った後、あどけない顔で自分のほうに目を向けるお初を見て苦笑した。
「青宝様は、お初ちゃんのこの能力をご存知で?」
「おそらく把握なされてはいないでしょう。お初の稽古はいつも私がしているから」
首を横に振るお鈴に対し、時三郎はうなずいてから
「このまま技術を磨けば、お養父上もお考えを改めなさるかも知れぬな。これは将来が楽しみだ」
と豪快に笑い出した。
「青宝様、時三郎、参上仕りました」
部屋の中央、火鉢の近くで暖を取っていた安幸に、時三郎は声を掛けた。
「おお、来たか、時三郎殿」
時三郎が見た安幸の姿は、心なしかいつもより覇気がなかった。人を圧倒する鋭い眼光は影を潜め、急激に年老いたように感じる。
「先程、お鈴殿と妹君が庭で稽古されている姿を拝見しましたが、妹君の力量には感服いたしました」
「お初が?」
安幸が少し驚いた表情で時三郎を見た。
「以前、妹君に氷雪の嵐をお見せしたことがありまして。その時に少し手ほどきをいたしたところ、いつの間にか習得されていたご様子。まだ幼いながら、恐るべき才能ですな」
「そうか・・・」
小さな声で答える安幸に、時三郎が尋ねる。
「ところで、本日はどういった御要件でしょうか?」
「されば、お鈴との婚礼の儀の話よ。お主もお鈴も、今年で十六になろう。年明け早々にも執り行いたいと考えておる」
そう言って自分の顔を見据える安幸に対して、時三郎は深々と一礼してから改まった口調で返答した。
「時三郎、謹んでお受けいたしまする」
彼は、すでにこのことを自分の両親からも聞いていたから、特に慌てることもなかったが、実は、お鈴には寝耳に水の話だった。
「来月ですか?」
悲鳴のような声を上げる娘に、安幸は顔をしかめた。
「なんて声を上げるんだ、はしたない」
お鈴は「すみません」と小さな声で謝ってから
「でも、あまりに急な話だったので」
と言い訳をする。その日の夜、お鈴は安幸から初めて式の話を聞かされた。
「急に決まった話でもないだろう」
「お嫁入りはもう少し先の事と考えておりました」
お鈴の言葉の後、しばらく沈黙が続いた。両者、身じろぎもしない状態でいると、母親のお里が部屋に入ってきた。お里は、お初が生まれてからずっと心を病むようになり、床に伏せていることが多かったのだが、この日は体調がよく、表情も晴れやかであった。
「二人とも、どうされましたか?」
「結婚の話、今、父上から伺いました」
お鈴の話を聞いて、お里はクスクスと笑い始めた。
「私は申しましたのよ。お鈴にお話してからのほうがいいって。どうして、こんなに慌ててお決めなさるのかしら?」
安幸は渋い顔をしながら声を荒げる。
「うるさい! 特に異論はなかろう。話はこれで終わりだ」
立ち上がろうとする安幸の体が少しふらついた。お鈴が慌ててその身を支える。
「いや、大丈夫だ。少し立ちくらみがした」
心配するお鈴とお里の二人を残し、安幸は部屋を立ち去った。
梅の花が咲く頃、安幸はこの世を去った。
部屋で倒れている安幸を使用人が発見し、医師を呼んだときにはすでに手遅れの状態だった。
お鈴の結婚を急いだのは、自分の死期を予感していたからなのだろうか。今となっては、それを知る方法はない。
葬儀が終わった翌日、次の後継者を決めるために親族が集まった。親族といっても、瑠璃の家系はもはや、お里、お鈴、お初の三名しかいない。他には、お鈴の夫となった時三郎と、その両親が静かに見守るだけであった。
「お義母様、ご提案がございます。どちらがこの大役を引き受けるか、お鈴と妹君のお二人でご相談いただくのはいかがでしょうか」
沈んだ表情のお里では話を進めることが難しいと判断したのか、時三郎が助け舟を出す。しかし、お鈴も同じように悲痛な顔をしてうつむいたまま動かない。最初に発言したのはお初だった。
「私は・・・ お姉ちゃん・・・ 姉上が継ぐのがいいと思います。父上もそうおっしゃっていたし」
「私のような未熟者で、七宝の重責が務まりますでしょうか」
蚊の鳴くような声で、お鈴は問いかけた。お里は黙したままだ。彼女は賢者たちの血を受け継いでいないから、七宝になることはできない。
「時三郎から伺っております。お初殿は半年で、すでに百あまりの術を習得されていると。確かに素晴らしい才能をお持ちでいらっしゃいますが、まだ十にも満たない御年齢、七宝を継ぐのは荷が重すぎましょう」
時三郎の父親が、腹に響くような低い声でお鈴に話しかける。息子に似て非常に勇ましい顔つきだが、どこか柔和な雰囲気を漂わせていた。
「お鈴、いろいろと困難を伴うだろうが、この時三郎、必ず力添えいたそう。七宝の座を引き継いでみてはどうだろうか」
説得を試みる時三郎に、お鈴が顔を向けた。その目が赤いのは、父を亡くした悲しみが癒えていないからである。前日、葬儀を終えたばかりの身では、仕方ないことであろう。対する時三郎の表情は凛々しく、同時に包み込まれるような優しさも有していた。それに安心したのか、お鈴はゆっくりとうなずいた。
こうして、お鈴は七宝となった。呼び名も瑠璃となり、周囲からは一目置かれる存在になった。とはいえ、七宝たちが一同に会する場においては、年端も行かないお鈴が力のある者たちと対等に渡り合えるはずがない。一人で会議に出席するのは厳しいということで、夫の時三郎が同行することが許可されていた。
ところが、七宝になってから一年ほど経過したある日、時三郎は別の用件があり、参加できなくなった。
「私ひとりで大丈夫かしら?」
「今までも、質問には問題なく答えられてきたんだから、心配することはないよ。もう、俺の助けなんて、ほとんど要らないくらい、しっかりしているじゃないか」
「あなたがいるから、安心していられるのよ。いつまで経っても、あの会合は苦手のままだわ」
初めて一人で参加した集会では、いつものように、帝の命に応じた大小様々な議題について論戦が繰り広げられていた。当然、本来は民衆のための会議であるが、実際は皆が保身に終始していた。今も、互いに仕事の押し付け合いをしている最中である。
「では、夫役の件は瑠璃が行うことでよいか」
そう尋ねたのは、お蘭が時三郎に出会った時に遭遇した老婆であった。鮮やかな山吹色の衣に身を包み、黄金の額飾りには真紅の宝石が中央で光り輝いている。彼女は鋭い眼差しをお鈴に向けていた。
「お待ち下さい、瑠璃殿に一任するのは無理があるのでは?」
通る声で発言した男は、銀色の額飾りを頭に付けていた。白銀の七宝、時三郎の叔父にあたる人物だ。親族が困難に直面しているので黙っていられなかったのだろう。
「彼女は民衆にも評判がいい。彼女の説得ならば、反対するものも少ないだろう」
声の主は藍色の着物を着た小太りの男だ。めのうを司る七宝の一人である。
「左様、時三郎殿とともに、民衆の支持を集めておるからな。多少の無理は、受け入れてくれるであろう」
「水精殿、これ以上の課役は民に死ねと命じているようなものですぞ。誰が説得にあたっても、我ら七宝への反感が強まるだけのこと」
白銀が水精と呼んだ人物は、かつてお蘭が会った額に傷のある男ではなかった。彼はまだ、七宝を引き継いではいなかったのだろう。今、ここにいる水精は、黄金を司る老婆と同じくらい年老いた男性だった。
「瑠璃殿の意見をまだ拝聴しておりませぬな。ご意見を伺いたいところですが」
派手な朱色の花が散りばめられた着物を身にまとった妖艶な女性が、微笑みを浮かべながらお鈴に尋ねた。彼女は珊瑚を司る七宝である。
目の前に並んだ豪華な食事の数々に視線を落としていたお鈴が、ゆっくりと顔を上げた。集会時には、いつも食事が振る舞われる。しかし、お鈴は緊張で、いつも口にすることはほとんどなかった。
「この度の役務、急ぐ必要はないと私は思います。それより、現在の治水工事を完遂することが最優先。あと半年ほどすれば作業も終わるでしょう。今回の夫役は、その後で行うとすれば、民も納得してくれるのではないでしょうか」
「しかし、帝は仏殿の建造を急ぐよう仰せである。半年も待つことなどできぬ」
波の模様をあしらった、灰白色の着物姿の男が反論した。彼は、しゃこを司る七宝だ。
「拙者が帝にご進言いたそう。民の反感を買うことは、帝もお望みではあるまい」
ここでも白銀が助け舟を出した。それまで黙って話を聞いていたあの老婆がすぐにうなずく。
「では、白銀の長にお任せするということで、よろしいかな皆の者」
誰も口を開く者はおらず、次の議題についての討論が始まった。
「申し訳ありません。私が余計な発言をしたばかりに」
「いや、謝る必要はありませんぞ、お鈴殿。あなたは、あの面々を前に、ごもっともな意見を述べられた。拙者、感服いたしました」
頭を下げるお鈴に、叔父はねぎらいの言葉を掛けた。会議が終わり、半数は酒を飲み始め、残りは帰途につく。これも、いつもの光景であった。
二人は今、広い屋敷の庭に生えた大きな桜の木の下にいる。桜はまだ、つぼみの状態で、枝をほんのり赤く染めている程度だ。庭にある桜はこの一本だけで、毎年見事な花を咲かせ、外からも眺めることができることから、近所では非常によく知られていた。
「それでは戻りますか」
「あの、今日は実家に立ち寄る予定でして」
「そうですか・・・ 失礼ながら、お母様のご容体はいかがですか?」
母のお里は、安幸が亡くなった後、急激に衰えてしまった。現在、ほとんど床に伏せた状態であることは、叔父も把握していた。
「前回、訪ねた時は、起き上がって話をすることもできました。新しいお薬が効いたのかしら」
「それは朗報ですな。早くご快復なさることをお祈りいたしますぞ」
こうして会話する二人に、華やかな姿の女性が近づいてきた。当時では珍しい赤珊瑚の耳飾りが、艶やかさを引き立てている。
「珊瑚殿、今、お帰りですかな?」
「ええ、まだ今日中に済まさねばならぬ仕事を残しておりまして」
叔父の声掛けに返事をしてから、珊瑚の長はお鈴へ視線を移した。
「瑠璃殿、最近、妹君を見かけませぬが、達者で暮らしておいでですか?」
お鈴は、軽く会釈をして
「おかげさまで、元気にしておりますわ」
と答えた。
「もう、何歳になられたのかな?」
「もうすぐ九つになります」
「そうか・・・ 年の経つのは早いものだ」
何度も首を縦に振る白銀の長に対し、珊瑚の長が不意に話しかけた。
「私、七宝を引き継いでから、まだ五年足らずの身。九年前の出来事については、ほとんど存じておりませんの」
それから、今度はお鈴に顔を向けて尋ねる。
「瑠璃殿は、何かお聞きになっていますか?」
「あの・・・ 事件のことは、私もあまり把握していないのです」
珊瑚の長の話す出来事とは、安元夫妻の死にまつわる件だとお鈴はすぐに気づいたが、彼女もその頃の話はほとんど知らない状態であった。
「あなたのお父様から伺ったことがありましたのよ。お兄様は卓越した力をお持ちであったと。そのようなお方が、そう容易く倒されるとは思えないのですが」
叔父は大きくうなずいて
「盗賊に襲われたそうだ。しかし、犯人は見つかっていない。なんとも痛ましい事件だった」
と口にした。
「生まれたばかりの赤ん坊も犠牲になったというのは本当なのですか?」
「初子だったのですが・・・ 気の毒な話です」
二人の会話に、お鈴の顔が青ざめた。
「お子がいらっしゃったのですか?」
「そうか・・・ 先代からお聞きになってはいなかったのですな。もし、生きていれば、あなたの妹君と同じ年になっていました」
驚きのあまり絶句しているお鈴に、珊瑚の長が話しかける。
「このような悲劇がなければ、その子が七宝の座を受け継いでいたかも知れませんわね」
微笑みを投げかける珊瑚の長に対して、お鈴は何も言い返すことができなかった。
「姉上、ようこそお越しくださいました」
実家の大きな門をくぐり抜け、庭を歩いていた時、お初に声を掛けられ、お鈴は後ろを振り向いた。お初は、前より少し痩せてしまったようにお鈴は感じた。
「そんなに堅苦しい言葉を使わなくてもいいわよ、お初。元気にしてた?」
顔に笑みが浮かび、大きくうなずくお初を見て少し安心したお鈴は
「お母様の具合はどうかしら?」
と尋ねてみた。
「あまり部屋から出てこないから、よく分からない」
普段の世話は使用人がしているから、お初が面倒を見る必要はないのだが、幼少期に冷遇されていたことも関係しているのか、母親に対して心配する様子は全くない。思い返せば、安幸が亡くなった時も、お初は涙を見せなかった。
「そう・・・ じゃあ、お姉ちゃん、ちょっと様子を見てくるね」
お初の表情が少し曇った。
「それが終わったら、おいしい唐菓子を食べに行こうか」
「ほんと?」
目を輝かせて素直に喜ぶ姿は、昔の活発だった頃の妹を思い起こさせる。成長して落ち着いたこともあるものの、最近は少し元気がないのをお鈴は気にしていた。
お初を庭に残し、お鈴は屋敷に入った。以前よりも暗く沈んだ様子の廊下を通り、母親の部屋の前に立つ。
「母上、お鈴です」
返事がない。お鈴は、ゆっくり戸を開けた。部屋の隅に横たわるお里の姿を見つけ、静かに近づく。枕元に座り、母親の顔を覗き込んだ。暗い部屋の中で、彼女の周囲だけ燐光を放っているかの如く、その顔は青白く、まるで死人のようだった。
まぶたが僅かに動き、徐々に目が開く。その瞳がお鈴の姿を捉え、顔に笑みが宿った。
「お鈴、来てくれたのかい?」
衰えてしまった母親の姿を見て、お鈴は涙が溢れそうになるのを堪えながら、小さくうなずいた。
「お体の具合はいかがですか」
震える声で尋ねるお鈴に、お里は
「私は、もう長くないよ」
と答える。
「そんな弱気なことをおっしゃらないで下さい」
「・・・夢を見てた」
「夢ですか?」
「お初が、初めてここに来たときのこと」
言葉の意味が理解できず、お鈴はどう答えたらいいのか分からなくなった。
「今まで、嘘をついてごめんなさい」
お里の目から涙がこぼれる。
「母上、どういう意味なのですか?」
「お前には、これだけは伝えなければならないと・・・ いつも思っていたの。私たちは恐ろしいことをしてしまいました」
嫌な予感がした。それが的中していないことを祈った。体が少し震える。娘のそんな様子に、母親は気づいていなかった。お里の瞳が揺れ動き、再びお鈴の顔に焦点が合った後、彼女は衝撃の事実を、淡々と口にした。
「お初は、お前の本当の妹ではないのです」
お鈴の体が硬直した。一瞬にして、その意味を理解したのだ。
「叔父上の・・・ お子なのですね」
お里の目が大きく見開かれた。
「殺したのですか?」
「私は知らなかったの。夫がそんなことを計画していたなんて・・・」
「ご自分のお子を殺したのですか?」
お鈴は我知らず叫んでいた。怒りに震える娘を見て、お里は口を開けたまま放心した状態であった。長い沈黙の後、お里は首を横に振った。
「生まれてすぐに亡くなったのです。すると、夫は私に、その事を誰にも明かさないよう命じました。そのまま十日ほど過ぎた頃、私に赤ん坊を渡されたのです。これから、この子が私たちの娘だと、そうおっしゃって」
どのような手段で兄の命を奪ったのか、そして、亡くなった赤子とお初をすり替えたのか、安幸のいない今となっては知る由もない。お鈴は、初めて妹の姿を見たときのことを懸命に思い出そうとした。
「兄上の訃報を知って、すぐに気づきました、お初が誰の子供なのか。でも、怖くて夫には聞くことができませんでした」
二人で一緒に稽古に励んでいた日々の記憶が蘇る。お初の能力は、お鈴のそれを上回っていた。安元は、安幸など比較にならないほどの力を有していたと聞いている。
「今でも、お初の顔を見るのが恐ろしいのです。兄上の姿と重なってしまうのです」
お初の顔は、幼い頃のお鈴によく似ていると言われたことがあった。姉妹だから当然だと思っていたが、実際にはそうではなかった。お初は、自分の親を殺した人間に育てられていたのだ。
「なぜ、今になって私に打ち明けられたのですか?」
お鈴は、お里に尋ねた。声を抑えてはいたが、感情を押し殺していることは明らかだった。その問いに、母は何も答えてくれない。
「私にどうして欲しいとおっしゃるのですか?」
再び問いかけても、答えは得られなかった。
「お初に・・・ 今更話すことなど、できる訳ないでしょ!」
一度に多くの恐るべき事実を聞かされ、お鈴の感情が一気に爆発した。その後のことは、お鈴もよく覚えていない。泣いている母親をそのままに部屋を出て、唖然とするお初には目もくれず屋敷を飛び出す。時三郎に声を掛けられるまで、自室で一人、ただ泣き続けた。
それから間もなくして、お里は息を引き取った。
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