第47話 狙われたお蘭
「私を殺すよう命じられたと夫から聞かされた時、すぐに天罰だと悟りました。死は怖くありませんでした。むしろ、心が安らいだと申したほうがいいかも知れません。私たちの代は、これで潰えます。お初が、正当な後継者が七宝になり、瑠璃の血を引き継いでくれるのです。全てが元に戻るのです」
お蘭は、黙ってお鈴の話に耳を傾けていた。暗闇の中、お鈴の硝子のような体は冷たい光を放ち、キラキラと輝いている。
「しかし、私は大きな過ちを犯していました。本当のことをお初に伝えていなかったのです。自分の心の内に真実を封じ込めたまま、私は命を絶ちました。もし、自分の残酷な運命をお初が把握していれば、私を生き返らせようなどとは考えなかったでしょう。たとえ、お初に憎まれようと、蔑まれようと、私は話すべきだったのです」
お蘭は、首を激しく横に振った。
「真実が何であろうと、お初ちゃんにとって、あなたが大事な家族であることに変わりはありません。それは、あなたにとっても同じではありませんか?」
お鈴は真っ直ぐ、自分に訴えかけるお蘭の顔を見据えた。
「どの道を選んでも、お初ちゃんはあなたを生き返らせるため、呪いを受け入れたでしょう。彼女にとって、あなたは生きる糧だったに違いない」
「生きる糧・・・」
「あなたは、死を選ぶべきではなかった。最期まで精一杯、耐えるべきだった。お初ちゃんのことを考えてあげるのなら、諦めるべきではなかったのではありませんか?」
二人とも互いに見つめ合ったまま、時間だけが過ぎていった。先に目を伏せたのはお鈴のほうだ。
「私は、お初の気持ちを考えていなかったのですね。一人ぼっちになってしまう妹のことを・・・」
「あの・・・ 勝手なことを言ってごめんなさい。あなたの辛いお気持ちを考えもせず・・・」
お鈴は、頭を下げるお蘭に
「あなたは、お強いのですね。さすがは白銀の血を受け継ぐ者、安心して眠りにつくことができます」
と言って微笑んだ。お蘭が驚いた顔をお鈴に向ける。
「妹を救うため、こうして漂泊の日々を送ってきました。目的を達成したら、黄泉の世界に帰らなければなりません」
「もう、会えないのですか?」
返答する代わりに彼女はこう言った。
「まだ、最も重要なことを伝えておりませぬ。あなたに、術を一つ伝授します。お初も私も最初に覚えた、湧水の術よ」
突然の宣言を受けて困惑するお蘭に対して、お鈴は再び口を開いた。
「お初は三日でこの術を覚えました。私は一ヶ月も必要でした。あなたは、どうでしょうか?」
朝霧の中で、猪三郎は一人、腕を組み、立ち尽くしていた。少し離れたところで、銀虫が一人、眠っている。
目を閉じ、微動だにしない姿は、まるで巨大な石像のようである。しかし、時折、目尻あたりがピクリと動いた。
徐々に霧が晴れ、あたりが明るく照らし出された頃、猪三郎は不意に目を開けた。
「いつもの散歩かい?」
背後から、雪花が静かに近づいてきた。目を向ける猪三郎に、雪花は軽くうなずいて
「今日も出発はしませんわ」
とだけ伝えた。猪三郎は鼻息を立て、雪花に尋ねる。
「俺たちに勘づいているのではあるまいな」
「どこかで待ち伏せしているとは思っているでしょうね」
「ふん、臆病者めが」
嘲笑する猪三郎に、雪花は尋ねる。
「このまま、お待ちになりますか?」
紺碧の瞳が、猪三郎の目を釘付けにした。もう見慣れているはずなのに、初めて雪花の美しさを実感したような気がする。ふつふつと下腹部のほうから湧き上がる得も言われぬ快感が、彼の脳を麻痺させた。
「・・・興が冷めた」
呆けた顔で、猪三郎はつぶやいた。獲物を狙う獣の目で雪花を食い入るように見つめ、口元には気味悪い笑みを浮かべている。
「山を下りるぞ。今宵は宿に泊まる」
そう宣言してからも、猪三郎の視線は雪花から離れなかった。雪花が背中を見せると、その体に手を伸ばそうとする。
「そうそう、お話していないことがありましたわ」
その言葉で我に返ったのか、猪三郎は思い切り首を振った。雪花は、微笑みを浮かべた横顔を見せ、話を続ける。
「伊吹様を捕らえました」
猪三郎は目を丸くしたまま、返す言葉が見つからず固まってしまった。
お蘭は、目を覚ました。見えるものは何もなく、あたりは暗闇に包まれていた。
自分が起きているのか、まだ夢の世界にいるのか、よく分からない。顔に着物が掛けられていることに気づき、ゆっくりと上半身を起こす。しかし、真っ暗な空間にいることに変わりはない。
だんだん、蒸し暑く感じ始めた。どうやら現実の世界に戻ってきたらしいと、明かりに火を灯すために立ち上がった時、少し離れた場所でゴトンと音がした。
「誰かいるのですか?」
驚いたお蘭が音の鳴ったほうへ顔を向ける。誰か潜んでいるような気配を感じ、お蘭は後ずさった。
何かが擦れる音が聞こえる。それが刀を抜く音だと気づいた瞬間、お蘭は我知れず懐の短刀を手に取っていた。
相手は動きを止めていた。暗闇の中、お蘭がどこにいるのか分からないからだ。しかし、それはお蘭も同じことであった。声を出すことも、音を立てることもできない。相手に居場所を知らせることになる。
パタパタと足音が聞こえてきた。自分のほうへ近づいてくる。何かが空を切った。刀を振り下ろしたらしいが、見当違いの所を狙っている。相手の位置をおぼろげに把握したお蘭が、逆手に持った刀を横に薙いだ。手応えがあった。
甲高い悲鳴を上げて、相手は逃げ出した。途中で何度も体をどこかにぶつけて、その度に大きな音が鳴り響く。
「どうした? 大丈夫か、お蘭?」
蒼龍の声だ。その後すぐに、誰かが明かりを持って部屋に入った。
「何があったのだ?」
源兵衛も駆けつけた。しかし、お蘭を狙った犯人はすでに逃げてしまったらしい。赤く照らされた部屋の中には、お蘭以外、誰もいない。
蒼龍と源兵衛の二人が見たお蘭は、息を切らしながら刀を構えていた。仲間が駆けつけたのを見て安心したのか、その場に崩れ落ちる姿に、蒼龍が慌てて駆け寄った。
「しっかりしろ、怪我はないか?」
震えながらも、お蘭はゆっくりとうなずく。
「まさか、奴らが宿の中に侵入したのか?」
そう叫んだ源兵衛は、部屋の中を見回した。戸が開け放たれた場所がある。その向こうは宵闇の世界が広がっていた。
「もう、逃げてしまったようだな。誰もいない」
外の様子を確認した源兵衛は、そう言って夫婦の下へ近づいた。
「何があったのですか?」
お松とお菊、そして、その後ろには三之丞も現れた。三人も異変に気づき、やって来たようだ。
「お蘭が何者かに襲われた」
と答えた蒼龍が、慌てた様子で叫んだ。
「伊吹殿は大丈夫か?」
三之丞が、確認のため走り去った。源兵衛は、床に目を落としている。何かを見つけたらしい。
「血が落ちている。敵は傷を負ったようだな」
蒼龍は、大きなため息をついてから、自分にしがみついているお蘭の姿を見た。そのそばには、小刀が落ちている。
「その刀が、お前を守ってくれたんだな」
そう言って、お蘭の背中を優しく叩いた。
「大変だ、若旦那の姿がない」
戻ってきた三之丞の言葉を聞いて、皆が一斉に彼のほうへ目を向けた。
空が白み始めた頃、六人は宿を後にし、伊吹の捜索を開始した。お蘭が襲われた後、すぐに周囲を探したのだが、夜の闇の中で見つけることは不可能であった。
「ここで途絶えている」
血痕は、一面に広がる田んぼの中のあぜ道が交差する場所まで伸びていた。宿から北東に進んだ場所である。
「このまま進めば山に入るが、逃げたとすればそちらかな?」
地面に落ちていた血を眺めていた源兵衛が、その先の山へ目を向けた。
「不思議だな」
蒼龍は、顎を撫でながらつぶやいた。
「こんなに遠くまで血痕を残しておくのは、素人のやることだと言いたいのか?」
「わざと残した可能性はあるかもな。俺たちを見当違いの場所へ向かわせるための」
源兵衛は、低い唸り声を出しながら考え込んでしまった。
「どうも、腑に落ちないことがあるのよね」
お松が口を開いた。
「どうして、お蘭が襲われたのか、だな」
蒼龍が相槌を打つ。お松はうなずきながら
「誰なのかも分からずに斬りつけたのなら、あまりにも無計画過ぎます。その割には、的確に若旦那を連れ去っているのも不思議ですし」
と首を傾げた。
「伊吹殿は、三之丞殿と同じ部屋でしたな」
蒼龍に尋ねられ、三之丞はうなずいた。
「また妖術でも使ったか・・・」
途中で、蒼龍の体が動かなくなった。口を開いたまま、驚いた表情で一点を見つめる蒼龍に、三之丞が声を掛ける。
「いかがされた?」
蒼龍は我に返り、首を横に振った。
「いや、俺の考え過ぎだな」
小さな声でつぶやく蒼龍の様子を不思議そうに眺めながらも、お松が全員に提案した。
「相手は負傷しているから、すぐには動けないんじゃないかしら。まだ、この先の峠あたりに潜んでいるかも知れない。それほど遠くないし、念のため見に行ってみない?」
異論を述べる者はなく、一行は再び歩を進めた。
「ごめんください」
「いらっしゃいませ。仰せの通り、もう一部屋用意しました・・・」
にこやかに雪花を迎えた宿の主人の五兵衛は目を丸くした。彼女の背後に、熊のような大男と、長身で赤毛の男が控えていれば、それも仕方ないことであろう。
「それでは、ご厄介になります」
雪花に合わせて、猪三郎と銀虫も頭を下げる。神妙なその様子を見て、五兵衛も少し安心したのか、笑顔で三人を部屋へ案内した。
「まるで俺が来ることを確信していたみたいだな」
猪三郎が不満そうに口にしても、雪花はただ微笑んでいるだけで何も返さない。やがて部屋に通された猪三郎は、隅に置いてある大きな麻袋に目を奪われた。
「その中に伊吹が?」
「はい。運ぶのは大変だったのですよ。宿の主人に手伝っていただきました」
「よくも怪しまれなかったものだ。生きているんだろうな」
「薬で気を失っているだけです。忍者の薬草はよく効くのですね。一日は目を覚まさないそうですわ。左腕を怪我されていますが、手当ても済んでいます」
「おいおい、随分と強引なやり方だな」
「いいえ、傷を負った伊吹様を、外で捕らえたのです」
猪三郎は、話の意味が理解できないとでも言いたげな顔をした。雪花も首を横に振りながら
「何があったのか、私にも分かりませんわ」
と返すだけだ。
「あとは因幡へ戻るだけですわね。このままお伊勢まで進んで、酉の方角を目指したほうが早く着きますわ。彼らは来た道を戻ろうとするはず。絶対に追いつかれることはありませぬ」
雪花の提案は、猪三郎にとっても好都合なはずである。しかし、彼は首を縦に振らなかった。
「駄目だ。お嬢様を連れ戻さなければ、因幡へは帰れない」
「お菊さんなら、あの方々に任せておけば安心です。いずれ因幡に到着するでしょう。元締め様には私からお話いたしますわ」
雪花は上目遣いで猪三郎の顔を見ていた。猪三郎の胸の鼓動が速くなる。甘い果実の香りがほんのり漂い、彼の思考を止めてしまう。
しかし、猪三郎は危険な匂いを察知していた。このまま、彼女の魅力に屈してしまえば、銀虫と同じく、自分も意のままに操られるようになるのではないか。その野生の直感が、雪花の魅惑の力に打ち勝った。
「言ったはずだ。因幡へ戻る前に、お嬢様は連れ戻す」
譲歩しない猪三郎から雪花は視線を外し、しばらく経ってから、再び猪三郎の顔を見上げた。
「分かりました。では、私たちの居場所を彼らに伝えましょう。必ず助けに来るはずですから、その時に取り戻せばいいでしょ?」
猪三郎は納得し、雪花の脇を通り過ぎると、床にごろりと寝転がった。
蒼龍たちは、始神峠に到着した。彼らには知る由もないが、少し前まで猪三郎が立ち尽くしていた場所だ。雪花が声を掛けていなければ、両者はここで鉢合わせするところだった。それを雪花が阻止したのは、伊吹を捕らえた今、これ以上の争いは無益と判断したからだろうか。
「誰もいないか」
念のため、手分けをして周囲の様子を調べてみる。しかし、変わったところは何もない。
「さて、どちらに進むべきか・・・」
蒼龍は首を傾げながら自問した。
「すぐに戻るべきですわ。急いで追いかけないと」
お松の慌てふためく様子を見て、源兵衛が落ち着くようにと手で押す仕草を見せながら話しかける。
「待ちなさい、お松殿。このまま伊勢に向かえば、より早く戻ることのできる道がある。もしかしたら、奴らはそちらを使うかも知れぬ」
雪花の考えを、源兵衛は読んでいた。
「それに、お菊殿をそのまま置いて先に進むとも思えぬが」
蒼龍の意見もあり、お松は少し落ち着きを取り戻す。
「では、なにか取引を持ちかけるかも」
「それまで待つしかないのでしょうか?」
「いや、その必要はなさそうだ」
蒼龍は、頭上に目を遣った。何かが落ちてくる。それは、一行から少し離れた場所に着地した。今は雪花の死人形と化した根来衆の一人だ。灰色の頭巾で頭を覆い、顔は影に隠れてよく見えない。
源兵衛、お松、三之丞の三人が一斉に刀を抜く。蒼龍はすぐにそれを制した。
「待て、こいつはただの伝令役だ」
片膝をつき、うつむいたままの間者は動きを止めていた。皆が注目している中、身じろぎもせず突然、低くかすれた声で話し始めたので、お蘭とお菊は驚いて体をビクリとさせた。
「伊吹様はお預かりしております。取り返したければ、この先のツヅラト峠までお越し下さい」
「ツヅラト?」
紀伊長島の北、伊勢国と紀伊国の境に位置するツヅラト峠は、ここからさらに四里くらい進まなければならない。
「ひとつ教えてくれ。伊吹殿をどうやって捕らえたのだ?」
蒼龍の問いかけに、間者はしばらく沈黙を守っていた。しかし、立ち去る様子もなく、皆は相手が話を始めるのを辛抱強く待った。
「何があったのか、私は存じ上げませぬが、伊吹様は傷を負い、宿の外を一人歩いておりました」
誰もが驚きのあまり息を止める。ただ一人、蒼龍だけは悲しげな顔を地面に向けた。間者は役目を終え、立ち上がるや、疾風のように走り去った。
「向かう先が反対ではないのか?」
伊吹の入った袋を担いだ猪三郎が、不満そうに訴える。彼らは、ほんの少し滞在しただけで宿を後にし、主人の五兵衛を唖然とさせた。
「焦りは禁物です。目的は果たしたのですから、あとはお菊さんがお戻りになれば・・・」
「何度も言わせるな! 俺の目的は蒼龍を倒すことだ。お頭を殺られたままでは元締めに顔合わせなどできない」
「今はお互いに相手の大事なものを有しているのです。お菊さんを危険な目に遭わせる可能性もあるのですよ」
真っ赤になっていた猪三郎の顔が途端に青ざめた。自分が取り戻すと宣言したお菊が蒼龍たちの手にあることを、完全に忘れていたようである。
「お菊さんを安全に取り戻すため、罠を仕掛けるのです」
「得意の妖術で眠らせてしまえばよかろう」
「同じ手に掛かるような方々とは思えませんが」
猪三郎は黙してしまった。その前を歩いていた雪花は微笑みながら
「任せて下さいな。最高の舞台を演出いたしますわ」
と後ろを振り返る。
山をひとつ越え、漁村に到着した。白く輝く砂浜からは、穏やかな海に浮かぶ様々な形の小島が見える。その美しい景色に、猪三郎が声を上げた。
「これは素晴らしい」
「ここで、ゆっくり旅の疲れを癒やすことができればいいのですが」
右手に広がる大パノラマを眺めながら、雪花が相槌を打つ。
「こんな荷物を抱えていては無理だな」
「夜になれば目が覚めるでしょう。そのほうが厄介ですわ」
猪三郎は眉を上げた。
「あんた、あの赤毛の男みたいに、こいつも操れるだろ? それなら苦労することもない」
潮風が、雪花の黒髪を激しく揺らした。髪をかき分けながら、彼女は答える。
「一度に多くの人間を操るのは大変なのですよ。まあ、一人くらい増えても問題はありませんが」
操られている忍者たちはどこにいるのだろうか。今も雪花のために、健気に働いているはずだ。
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