第42話 山に住む亡霊
山を下りた時三郎とお蘭は、平らな地面の感触を久々に味わいながら、田んぼの中に伸びる一本のあぜ道を黙々と歩いていた。道の脇に丸太で作った即席の腰掛けを見つけた時三郎は、老婆たちと別れてからずっと閉ざしていた口を開いた。
「少し休みましょう」
丸太に座ったお蘭が、懐から巻物を取り出した。その周りが黒い霧に薄っすらと包まれているようで、お蘭はひどく気味悪がっていた。
「この巻物をお返ししておきますわ」
時三郎は、巻物を受け取りながら
「あなたに託しておいたのは正解でした。連中は、山の中に隠してあるものと考えているようですな」
と笑顔で話し始めた。
「私の持ち物まで調べられたら、見つかってしまうところでした。でも、巻物が無事であることを、お伝えしなくてもよかったのですか?」
時三郎は、お蘭の質問にすぐには答えなかった。しばらく、お蘭の顔を眺めていた後、目をそらし、ため息をつく。
「この巻物は、どういうわけか、お初が見つけるまで誰もその存在に気がつかなかったのです。盗まれたことがわかり、棚の奥に眠っていた目録を確認して初めて禁書だったことが判明しました。もう失われたものと信じられていた書物が突然姿を現した。それがあれば、死者を蘇らせ、不老不死にすることもできるかも知れない」
お蘭は、時三郎の横顔をじっと見ていた。心、ここにあらず、といった雰囲気だ。だが、彼の目が、すっとお蘭のほうへ向いたとき、人形のように無表情だった顔に笑みが浮かんだ。
「かつて、帝をお救いになったという伝説の賢者たちは、たいそう徳の高いお方だったそうです。私利私欲を捨て、帝のため、民のために尽力した。帝もまた、命を懸けて守りたいと思わずにはいられないほど立派なお人だったのでしょう。子供の頃は、そんな方々の血を継いだことを誇りに思っていました。大人になって、周囲のことが理解できるのに従い、それはもう過去の話なのだと自分に言い聞かせるようになりました。今は、如何にして帝を意のままに操るか、他の為政者たちの力を削ぎ落とし、自らの権力を高めるか、そんなことに腐心する者ばかり。彼らは猜疑心を煽る言葉で帝を惑わし、おかげで政は滞り、苦しむ民が増えています。諫める立場である七宝が、その中心にいるようでは、この国は滅んでしまってもおかしくはない」
お蘭の生きる時代は群雄割拠、絶えない争いのせいで民衆は苦しんでいる。時三郎の時代は事情が異なるようだが、民衆に災難が降りかかるのは変わらないらしい。
「無論、俺もその一人だが、残念ながら、皆をまとめるだけの力が俺には足りないようだ。この巻物が表に現れれば、必ず奪い合いになる。それを止めることは俺にはできない」
「この巻物をめぐって争いが起こると?」
時三郎はうなずいた。少し、悲しげな顔をしていた。
「元々、反魂の式など関係なかったのかも知れません。我らは自らの行いで滅ぶだけなのかも」
巻物を懐に収め、大きく深呼吸してから、彼は再び話し始めた。
「お初は必ず救ってみせます。それでお鈴が蘇らなくなるとしても。この巻物は、読み解いたら処分することにしましょう。将来、争いの種にならぬように」
お蘭の顔を見つめる時三郎の目は琥珀色に輝いている。しかし、その周囲、顔の輪郭はだんだんとぼやけて見えるようになり、お蘭はもうすぐ、この時代を去らねばならないことを悟った。
「お蘭殿、なんとなく色がなくなっていくように見えるが・・・ これはどうしたことか?」
「私は、元の世界に戻らねばならないようです」
時三郎の姿が遠ざかっていく。周囲が暗くなり、やがて何も見えなくなった。
「必ずです、お蘭殿。必ずあなたにお伝えしますぞ。お初を救う手段を」
力強い時三郎の声だけが耳に残る。お蘭は、その声を聞いた後、気を失ってしまった。
深い山の道なき斜面を、一人の女性が歩いている。このように不安定な場所で、女性は平らな地面を普通に歩くように、何の苦もなく前へ進む。水色の着物に包まれた白い肌からは、柔らかな月の光のような輝きを放っていた。その女性は、無論、雪花である。彼女は、日課である夜の散歩を楽しんでいるらしく、猪三郎や銀虫の姿はどこにもない。
木が切り倒され、少し開けた場所にたどり着いた雪花は、立ち止まって空を仰ぎ見た。まるで銀の砂を振りまいたように、無数の星々が天を覆い、輝いている。星から放たれる光を吸い込むかのごとく、雪花は大きく深呼吸した。
その場所からは人が歩いた跡が道として残っていた。その僅かな足跡を頼りに雪花は先へ進む。誰もいなくなった空き地には、乾いた風だけが通り過ぎていき、地面に生えた雑草たちを揺らしていた。その夏草を踏みしめて歩く大きな黒い影が一つ。熊だろうか? 音を立てないよう慎重に、その影は雪花の通った痕跡をたどりながら前に進んでいた。山道に入り、しばらく動かなくなったその影は、雪花に気配を悟られることなく、しかし、その行き先を把握することのできるギリギリの距離を保ちながら、彼女の後を追っているようだ。
その影は再び歩き出した。雪花の姿はすでに見えず、足音も聞こえない。しかし、彼女のほのかな余香に導かれるのか、影は迷いもなく静かに前へ進み続ける。
雪花は、道端に転がっていた倒木に腰掛け、地面に視線を落として何やら考え事をしていた。長い間、彼女は身じろぎもせず、柔らかな青白い光を周囲に放ちながら長い間その場を離れなかった。影は、雪花の姿がかすかに見えるくらいの位置で、木の陰に隠れて様子を探っている。そこから彼女に近づくことも、そのまま立ち去ることもしない。まるで巨大な石像のように、影もまた動く気配はなかった。
ようやく雪花が立ち上がり、散歩を再開した。その姿が見えなくなってからしばらくして、影もまた追跡を始める。
苔むした大きな岩が、道を大きく湾曲させていた。岩には、辛うじて頭と胴体の区別ができる程度の稚拙な地蔵が何体も掘られている。雪花は、その地蔵たちの前に立ち、手を合わせて拝み始めた。そして、再び歩き出し、岩の裏側へと消えていった。
大きな影が、地蔵の横を通り過ぎようとしたとき、不意にそれは立ち止まった。何かの気配に気が付いたのか、あたりに目を配り始める。すると、地蔵のほうから声が聞こえた。
「何か、お探しかな?」
地蔵に目を遣り、腰を抜かしそうになった。地蔵が動き出したのだ。しかも一体だけではない。全部で十体くらいはあろうか。頭と胴体だけでできた顔もない石像が、まるで生きているかのように体をくねらせ、近づいてきたのである。これで驚かないほうがおかしいだろう。
「ふあ、おっふう」
奇妙な声を上げながら、大きな影は倒れた。まとわりつく地蔵たちを両手で払い、両足で蹴りながら逃げようともがいていると、今度は女性の声が聞こえた。
「何をされているのですか?」
影の動きが止まった。すぐそばに雪花が立っていたのだ。彼女は前屈みになり、倒れていた者の顔を覗き込んでいた。それは猪三郎であった。
「いや、その・・・」
猪三郎は、目を泳がせながらも言い訳をしようと口を開いたが、それ以上言葉が出ない。ふと、あの地蔵たちが消えてしまったことに気づき、雪花の幻術に惑わされていたと悟った。
「どうして私の跡をつけたのかしら?」
雪花の顔は笑っていた。それが余計に恐ろしく見え、猪三郎はその場で土下座した。
「違うんです、ただ何をしているのか気になっただけなんです」
「まあ、人の秘密を暴こうなんて、褒められたことではありませんわ」
猪三郎は、もはや弁解の余地がないとばかりに、ひたすら頭を地面に擦り付けていた。雪花も、黙ってその姿を見下ろしているだけだ。どれだけ時間が経っただろうか。端から見れば、滑稽な場面に違いない。熊のような大男が、華奢な女性に対して身を縮め、頭を下げている。そして、女性は無感情な目で、その姿を眺めている。浮気でもして女性を怒らせたのだろうと、誰もが思うかも知れない。
「私が何をしているのか、お知りになりたいとおっしゃいましたわね」
猪三郎は頭をゆっくりと持ち上げた。しかし、視線は地面に落としたままだ。一度、うなずいたのを見て雪花は再び口を開いた。
「見ての通り、ただの散策です。それ以外には何もしていませんわ」
「ならば、俺が跡を追うことを気になさる必要はないのでは?」
ようやく、猪三郎がぼそぼそと話を始めた。開き直ったような猪三郎の問いに対して、雪花は口に手を当てて少し考えた後、静かに答えた。
「あなたは、私が密かに怪しげな妖術の研究でもしていると思われているようですね。その様子を覗き見たくなられたのですか?」
図星だったらしく、猪三郎は身を固くしたまま動かない。夜の森は音もなく、紺色のヴェールで透かしたように、あらゆる物を闇で隠している。猪三郎は、その影に紛れて逃げ出したい気分だった。
「あれほどの術を使うのなら、何らかの準備は必要だろうと思ったのです。一体、どうすればあんな凄い技が使えるのかと」
雪花が眉を上げた。
「つまり、それさえ分かれば御自身でも術が使えるのではないかとお考えになったわけですね」
うなずく代わりに、猪三郎はため息をついた。雪花の忍び笑いが聞こえてくる。
「そんなに、可笑しいですかい?」
「ごめんなさい。でも、残念ながら、あなたにこの術を使うことはできません」
「俺は、剣術や体術では他の者に引けを取らない自信がある。そんなに甘く見ないでいただきたい」
「あなた様の実力を見下しているわけではありませぬ。私の妖術は、血によって受け継がれるもの。どんなに力のある方であっても、使うことは不可能なのです」
「では、あなたは人ではないと? なにか人智を超えた存在なのですか?」
雪花は、しばらく口を開かなかった。答えたくないのか、それとも答えるべきか迷っているのか、あるいは本人すら知らないのか、表情からそれを読み取ることはできない。
「我々は、力を授かっただけ。人であることに変わりはありませぬ」
「不老不死も、授かったものと?」
再び、雪花は黙ったまま猪三郎の顔を眺める。一向に話そうとしない雪花に、猪三郎は
「無理に話す必要はありませんよ。あなたの不死身の身体にも何か仕掛けがあるのでしょう。この世に不老不死など存在はしない」
と言った。それは半分は正しい意見であったが、雪花は何も反応しない。猪三郎は、それを気にすることもなく、ゆっくりと立ち上がり、頭を下げた。
「俺が使える代物でないことは分かりましたよ。俺は、あの連中がいる場所へ戻ります。散歩の邪魔をして申し訳なかった」
踵を返して静かに立ち去る猪三郎の背が、闇に紛れて見えなくなってから、雪花は誰に聞かせるわけでもなくつぶやいた。
「私は本当に人間なのでしょうか?」
お蘭が次に意識を取り戻した時、目の前が何かに覆われて周りが見えない状態だった。今は固い床の上で仰向けに寝ているらしい。しばらくの間、自分がどのような状況にあるのか理解できず、動けなくなってしまった。
やがて、顔の上のものが布であることに気づいた。寝る前に自分で掛けた着物だ。ようやく元の世界に戻ったことが分かり、ゆっくりと起き上がった。木々は赤紫色に染められている。朝が近いのだ。視線を横へずらすと、蒼龍が目を閉じて座っている。気配に気づいたのか、その目が開いて、お蘭の顔に向けられた。
「眠れたようだね」
優しげな微笑みをお蘭に見せながら、蒼龍が言葉をかけた。自然と、お蘭も笑顔になる。
「不思議な・・・ 夢を見ました。昔の時代に戻ったようなのですが」
「今度は過去に戻ったのかい」
「お初ちゃんに会って・・・ お初ちゃんは・・・」
お蘭の顔が曇り、目から涙がこぼれるのを見て、蒼龍は首を横に振った。
「今は思い出さないほうがいい。気持ちが落ち着いてから話を聞くよ。それより先に、早く麓へ下りよう」
他の者は、まだ眠ったままであった。蒼龍一人で朝まで見張りをしていたらしい。皆を起こして周ってから、もう一度お蘭の様子を見た蒼龍は、彼女が涙を拭いながら立ち上がり、深く息を吸い込んだところで
「早朝の森で深呼吸すると気持ちいいものだな。昔を思い出すよ。お前があまりに泣くものだから、こうすると落ち着くからって」
と話しかけながら、自分もまた森の空気を胸いっぱいに溜め込んだ。
「昔って、森に迷い込んだときのこと?」
小さい頃、二人は普段立ち寄ることのない場所へ入って迷子になり、森の中を彷徨ったことがあった。少し探検してみようと、蒼龍が言い出したのがきっかけだ。歩き疲れて地面に座り込み、知らない間に蒼龍は眠ってしまった。目覚めたときにはあたりが暗くなり、横にいたお蘭はずっと泣いていたらしい。蒼龍は、なんとか彼女を落ち着かせようと懸命に考えた。
「大丈夫だよ、絶対に戻れるから。こうやって息を大きく吸うと、落ち着くよ。剣術の稽古のときに、父上に教えてもらったんだ」
そう言って、幼い蒼龍はお蘭の前で、腰を落とし、手はだらりと下げたまま、口を尖らせて息を吸ったり吐いたりした。その姿が、お蘭にとっては滑稽に見えたらしい。それまで涙を流していた彼女が突然笑い出した。
「何が可笑しいんだよ」
「だって、格好が変だもん」
「せっかく教えてやってるのに、ひどいなあ」
とにかく、お蘭が泣き止んだので、蒼龍が彼女の手を引いて戻る道を見つけようと歩き出した時、二人を探していた村の者に見つかって、無事に家へ戻ることができたのだが、どちらも両親に長い間説教されたのは言うまでもない。
「あの時も、こんな景色じゃなかったかな? 今は明るくなるほうだけどな」
蒼龍に尋ねられ、お蘭は周囲を見回した後、首を横に振って
「覚えてないわ。あなたが私のことを励まそうと一生懸命だったことはよく覚えてるけど」
と答えた。
「そうだったかな」
蒼龍は頬を爪で掻きながら、少し照れくさそうにつぶやいた。
「よし、気持ちが落ち着いたのなら早速、出発の準備をしよう。夢の話は、頭の中が整理できたら教えてくれ」
お蘭はうなずいてから、荷物を整理し始めた。他の者も素早く支度を終え、一行は日が完全に昇りきらないうちに旅を再開した。
無事に下山した蒼龍たちは、さらに北へ進む道をたどり歩き続けた。
「どうも雲行きが怪しいな」
いつの間にか、空が鉛色の雲に覆われていた。冷たい風が吹き、湿った土の匂いがする。すでに、どこかで雨が降っているのだろう。
「しばらく進めば、また山に入るみたいね。この先、どんな具合か聞いておいたほうがよさそう」
お松の助言に従い、集落に入った一行は村人に声を掛けた。相手は年老いた夫婦らしき男女だ。
「すみません、私どもは旅をしているのですが、このあたりの土地には不慣れでして、この先の様子を少し教えていただけるでしょうか」
「ああ、それなら一山越えれば村に出るから、そこから谷沿いに進んでいけばいい」
「山は険しいのですか?」
「あんたら、八鬼山越えてきたんじゃろ? それなら余裕じゃ」
快活に話す男性を見ていた婦人のほうが
「お前さん、あの山、幽霊が出るって噂じゃないか」
と小さな声で話しかけた。
「幽霊?」
「私も聞いただけで本当のところは分からないんだけど、山の中を歩いていると白い小袖を着た女の幽霊を見かけるらしいんです」
一行は互いに顔を見合わせた。お蘭とお菊だけが、両手で口を押さえ驚きの表情をする。
「ここの山は昼間でも薄暗くて不気味なところでねえ。おまけに最近になって幽霊を見たって噂が立つようになったものだから、今では通る人も少なくなって、寂れていく一方じゃ」
「馬鹿言うでねえ。あんなのはただの噂だ。わしは今でもあの山を利用しておるが、一度もそんなもん見たことねえ。旅人さんたち、こいつの言葉を真に受ける必要はねえよ」
女性は、それっきり口を開かなくなったので、幽霊の話についてはそれ以上、聞くことができなかったが、蒼龍たちは特に気にすることなく山に向かうことにした。しかし、お蘭とお菊は別だった。
「ねえ、あなた、なんだか怖そうなところみたいだけど大丈夫かしら?」
「さっきの話か? ただの噂だから気にすることはないよ。それに、これだけ大勢いるんだから、もし会ったとしても怖くはないだろ?」
「もしものこともありますし・・・ お互いにできるだけ離れないよう気をつけなくちゃ」
お菊も蒼龍に話しかけてきた。彼女は伊吹の後ろを歩いていたはずだが、いつの間にかお蘭と並んで蒼龍の背後に移動していた。
「もしかしたら、あの妖術の女が潜んでいるんじゃないのか?」
伊吹が険しい顔をして、誰にともなく尋ねる。
「最近と言っても、噂になるまでには時間が必要ですからね。そんなに前からこの辺りに潜んでいたとは考えにくいですわ」
お松がそう答えても、伊吹は
「あの女、どんな手を使うか分からないからな。用心に越したことはないだろう」
と言いながら、目の前に近づいてきた山を見上げた。
あの老婆が話していた通り、山の中はたくさんの木が陽の光を遮り、陰鬱で、物の怪でも住んでいそうな雰囲気だった。運悪く曇り空だったので、木漏れ日も薄く、ぼかしたような風景が広がっている。これでは、幽霊が出現すると言われても全く不思議ではない。
しかし、山道は険しいところもなく、さほど苦労せずに峠を越えることができた。あとは山を下りるだけになり、お蘭とお菊も不安は払拭されたようで、二人で談笑しながら歩いていた。
「神宮に参った後は、どのような御予定で?」
「特に決めてはおりませんの。でも、しばらく滞在することになると思います」
呪いの主の正体が判明した以上、雪花を相手にしなければならない。伊勢に着くまでの間で勝負がつかなければ、すぐに帰ることはできないだろうとお蘭は考えていた。伊吹がいる限り、彼女もまた伊勢から離れないはずだからだ。
「では、一緒に伊勢の街を散策いたしましょう。神様のいらっしゃる場所ですから、きっと華やかに違いないわ」
お蘭にそう話しかけた後、今度は蒼龍にも尋ねてみるため顔を向けようとしたお菊は、あるものが目に入った瞬間、体が硬直して歩みを止めてしまった。
「お菊さん、どうされましたか?」
お蘭が見たお菊の顔は、恐怖と驚愕の入り混じった表情を浮かべていた。その視線の先に目を移したお蘭もまた、同じ状態になって大声で叫んだ。
「あなた!」
全員が足を止め、お蘭とお菊に注目した。二人の見ているのが何かを理解した瞬間、立ちすくむ一行の中で、その何かに向けて突進した者が二名いた。
「何奴!」
走り出したのは蒼龍と源兵衛だ。我に返った三之丞も慌てて後を追いかける。しかし、三人がたどり着いた頃には、その何かは消え去っていた。
「あれは雪花様じゃなかったかしら?」
時間の経過とともに恐怖が薄れたお菊の言葉が耳に届かないのか、お蘭は返事をしなかった。今は蒼龍たちがいる場所を凝視したまま動かないお蘭に、お菊はもう一度声を掛ける。
「お蘭さん、大丈夫ですか?」
お菊が心配そうに見つめていることに気がついたお蘭が、無理に笑顔を作って
「ごめんなさい。ちょっとびっくりしていたものだから」
と答えた。
「そうですか・・・ でも、なんだか顔色が悪いような気がします。少し休まれたほうがいいかも」
お菊の指摘する通り、お蘭の顔は青ざめていた。本人も自覚しているようで、素直にうなずいたので、お菊は彼女の体を支えながら、座ることのできる場所がないか周囲を見回した。
「あの女ではなかったか?」
源兵衛が蒼龍に話しかけた。今は道から外れた場所、二本の木の間にある大きな岩の近くに立っている。そのあたりに、雪花によく似た女性がいたらしい。蒼龍は首を振りながら
「分からない・・・ が、確かにそっくりだったように思う」
と答える。
「幻術で俺たちを惑わすつもりか?」
三之丞はそう言いながら、不安そうに遠くへ目を遣った。
「まだ潜んでいるかも知れない。早くここを離れたほうがよかろう」
蒼龍の言葉に従い、三人が道のほうへ戻った時、お菊が蒼龍に声を掛けた。
「お蘭さん、かなり驚かれたご様子なので、少し休憩されたほうがよろしいかと」
お蘭の顔を見た蒼龍は、憔悴した様子に驚き、すぐに彼女の手を取って話しかけた。
「歩けそうにないかい?」
「大丈夫、だいぶ落ち着いたから」
そう答えた彼女の顔から、蒼龍はしばらく視線を外さなかった。
「無理はいけないな。しばらく俺が背負っていこう」
「そんな、心配ありませんわ」
「お蘭は正直者だから、嘘をつくのが上手ではないな」
蒼龍は笑った。その表情を前にして、お蘭はそれ以上、何も言えなくなった。視線を落とすお蘭の肩にそっと手を置いてから、蒼龍はお菊のほうへ目を向けた。
「お蘭は俺が背負っていく。相手があの幻術使いなら、早く山を降りたほうがよさそうだ。皆にもそう伝えてくれないか」
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