第41話 姉妹の運命

「俺の近くから離れるな。骨も残さぬ地獄の業火だ。あっという間に燃え尽きるぞ」

 時三郎の周囲に現れた見えない壁が、灼熱の炎から二人の身を守ってくれた。それでも、凄まじい熱によって、お蘭の体からは大量の汗が噴き出していた。目がくらみ、立っているのがやっとの状態である彼女を、時三郎は半ば抱え込むようにして、巨大な火柱からの脱出を試みる。渦を巻く炎によって視界は閉ざされ、どの方向を歩いているのか見当もつかない。至るところで、火に包まれた木々が音を立てながら倒れる。巻き込まれないよう、時三郎は最新の注意を払いながら進まなければならなかった。

 やがて、放たれていた熱量が低くなってきた。白く眩しい光は薄くなり、代わりに赤紫色の波が見えるようになると、お蘭もなんとか自力で歩けるようになった。術の力が弱まったのだろうか、それとも、その力の及ぶ範囲から脱出できたのだろうか。いずれにしても、二人はこの難局を乗り越えられたようだ。

「術を行使している間は見張りもいないはず。今なら逃げ出すこともできるでしょう。さあ、もう少しの辛抱です」

 とうとう、炎は完全に消失した。時三郎の言う通り、先程まであった松明の炎は見当たらない。人の気配はないようだが、時三郎はそれでも慎重に歩を進めていた。理由は定かではないが、彼は、自分の仲間であるはずの術者たちに遭遇することを恐れていたのだ。

「対の呪いと、あなたはおっしゃいましたね」

 周囲に目を配りながら、時三郎はお蘭に尋ねた。お蘭が「はい」と答えてから、しばらくの間、時三郎は口を閉ざしていた。彼が再び話を始めたのは、太陽の光が空を赤く染め始めた頃だ。

「魂をはんぶんこ、呪いもはんぶんこ、魂消えても呪いは残る、主を殺せば呪いは消える」

 お蘭が、時三郎のつぶやき声を聞いて顔を上げた。彼は、前方に目を凝らしたまま、険しい表情をしている。

「古くからある詩です、反魂の式についての。蘇生の代償に呪いを受けるというのは何となく分かっていましたが、はんぶんこ、というのがどんな意味を持つのか、俺には理解できませんでした。その半分の呪いを、あなたが背負っているのかも知れません」

「その詩、雪花さん・・・ お初ちゃんから聞いたことがあります。私は、呪いによって魂が半分になって、生と死を繰り返す体になりました。その魂が消えても、つまり私が死んでも呪いは残ると、お初ちゃんは言っていました。でも・・・」

 途中で口を閉ざしたお蘭は、なにか腑に落ちないといった顔をした。

「どうしましたか?」

「お初ちゃんは、私に自分を倒してほしいと言いました。それは、私が死ぬことで達成できると思っていたけど」

 時三郎がうなずいた。

「なるほど、それはおかしいという事ですね。おそらく、あなたが亡くなっても呪いが消えるわけではない」

「では、どうすればいいのでしょうか」

「彼女の願い通り、倒すしかないのでしょう。主とは術者のことだとしたら、彼女が死ねば、呪いは消える」

 お蘭は頭を横に振りながら

「そんなこと不可能ですわ。私の仲間は、彼女の妖術であっという間に眠らされてしまいました。その気になれば、全滅させることだってできたに違いありません」

 と反論した。時三郎はため息をついて、お初の過去について、お蘭の知らない雪花の人生について話し始めた。

「確かに、お初は秀でた力を持っていました。八つの頃に初めて術を覚え、そのわずか半年後には百の技を操るようになったほどです。しかし、七宝の地位は姉のお鈴に譲り、それからは鍛錬を止めてしまいました」

「七宝とは、どんな方々なのですか?」

「遠い昔、帝を窮地から救った七人の賢者がいました。帝はその褒美として不思議な力を授けたそうです。それから、賢者たちの家系は代々、帝の盾として仕えるようになりました。その中から、一門の代表となり後世へ技を伝える役目を負ったのが七宝で、それぞれの家系から一人ずつ選ばれます。お初は、お鈴の跡を継いで七宝になりました」

 時三郎は、懐から短刀を取り出し、お蘭に示した。

「七宝とは、帝からの賜り物も意味します。これが我が家系、白銀に伝わる懐刀『白菊』で、穢を絶つ力があるそうですが、その力を見たことはまだありません」

 黒い鞘の表面には、銀糸で刺繍が施されたような美しい花模様が浮かび上がっている。その模様を見たお蘭は目を丸くした。

「それ、私の持っている短刀にそっくりだわ」

 懐に手を入れてみて、肌身離さず大切にしていた刀がないことに気づき、お蘭は少し動揺したものの、今は夢の中であることを思い出し、ほっと息を吐いた。時三郎に視線を移すと、彼は自分の顔を真剣な顔で見つめていた。

「あなたは・・・」

 何か言いかけた後、時三郎はゆっくりと頭を振って、お蘭に笑顔を見せた。

「我々が話していたことはもうお聞きになったかも知れませんが、俺は自分の最愛の妻をこの手に掛けた男だ。もはや命など惜しくはないが、この業を背負ったまま生き続けることが、あなたのためになるのかも知れません」

「私のためですか?」

 時三郎は、相好を崩したまま大きくうなずいた。お蘭は悲しい目をしている。

「どうして・・・」

 お蘭はポツリと言った後、頭を激しく横に振り、

「ごめんなさい。何でもないです」

 と付け足した。でも、彼女が何を言いたいのか、時三郎は重々承知していた。

「御存知の通り、妻のお鈴はお初の姉です。七宝は、お互いの血を強くするため、結婚することが多かったのです。だから、我々もそんなしきたりに従って夫婦になりました。しかし、正直に申せば・・・ 妻やお初とは幼馴染で、小さな頃からお鈴は俺にとっての憧れの存在だったのです。その頃、お鈴が俺のことをどう思っていたのかは、恥ずかしながら存じないのですが」

 いつしか道は険しい下り坂になり、地面から顔を出す岩を伝って進まなければならなかった。時三郎は先に進みながら、お蘭の手を取って体を支えてあげた。

「そんなに愛していたのに、どうして命を奪うような真似ができるのかと思われるでしょう。お鈴を抹殺することが決まり、俺は真っ先に手を挙げました。他人に触れられたくないというのがその理由です」

 時三郎に差し出された手は、お蘭にとって非常に冷たく感じた。まるで心さえも冷え切っているようで、彼女にはこの男のことを信用してよいのか判断ができなくなっていた。そして、この言葉である。本来なら、いの一番にお鈴のことをかばうべきではなかったのだろうか。反対の意見を唱えるなり、一緒に逃げ隠れるなり、お鈴のことを思っているなら違う行動を起こすべきだ。どうして、自ら率先して妻の命を奪おうとするのか。この男の言う通り、お蘭は大いに疑問を持っていた。

「まるで奥様があなたの所有物のようですわ。他人に触れられたくないからなんて」

 同じ女性として、時三郎の発言には許せないという思いがあり、お蘭は非難の言葉を口にした。

「それについては言い訳できません。そのとき俺は、お鈴のみならず、自分も命を捨てなければならないと覚悟を決めたのです。妻を救うことなど微塵も考えませんでした。非道い男だと、あなたは思われるでしょう。そして、今日まで、こうして生き恥を晒してきたのです」

「そもそも、何故お鈴さんの命を奪う必要が?」

 前を向いて歩いたまま、時三郎はお蘭の質問が耳に入らなかったかのように、何も答えようとはしなかった。しばらく二人が無言で山を下りていると、不意に時三郎が小さな低い声で話し始めた。

「帝の勅命です。占いによれば、お鈴が国を滅ぼす元凶になると。今まで尽くしてきた七宝の一人に対する御言葉とは思えず、何者かの奸計とも考えたが、お鈴を亡き者にして得をする輩がいるわけでもない。帝のお考えを伺いたいと俺が嘆願したところ、一度だけお目通りを許されたときがあります。そこで、帝から拝聴した言葉が反魂の式です」

「つまり、お鈴さんが反魂の式を使って国を滅ぼすとお考えだったのですか?」

「そこまではおっしゃりませんでした。ただ、その端緒になるとだけ・・・」

 占いは、それほど的外れなものでもなかったのかもしれない。結果として、お鈴ではなく妹のお初が、反魂の式を用いたわけだから。しかし、それで国が滅ぶことになるのだろうか。

「反魂の式の復活によって災いが起こる。だから、そうなる前に目を摘んでおくのだと」

 その結果、反魂の式が復活してしまったとは、なんという皮肉か。帝は自ら虎穴に入ったようなものである。

「誰も帝に異を唱える者はいなかったのですね」

「我らにとって、帝の命は絶対に逆らうことができないもの。たとえ、それが誤ったお考えであったとしても」

 まるで自分に言い聞かせるように、時三郎は答えた。この世の全ての苦しみを一身に背負い、大きな体が縮んでしまったように見える。勇猛な顔には悲痛な表情が現れ、彼が短時間で急激に年を取ったようにお蘭は感じた。

「夫婦なら・・・ ましてや最愛の人ならば、彼女に味方をするのが人間として当然の行いです。しかし、俺は七宝として、災いを未然に防ぎ、帝を、国を、民を守るほうを選びました。それが、大事な人を失う結果になるとしても」

 坂が終わり、平坦な道になった。朝の光が木々をキラキラと照らし、その影が地面に縞模様を描き出していた。その光と影を交互に踏みしめながら、時三郎は震える声で話を続ける。

「俺は私情を捨てたのです。天下の有事を前にすれば、それはちっぽけな物だと自分に言い聞かせたのです。俺や妻の命を天秤にかけたのです。」

 お蘭は、返す言葉がなかった。時三郎がどれだけ苦悩していたのか、よく分かったのだ。しかし、彼の苦しみはこれだけではなかった。これから告白する内容は、お蘭に深い悲しみを与えることになった。

「俺は、お鈴に事実を何もかも話しました。能面のように、驚きも悲しみも見せず、ただ、黙って話を聞くお鈴の姿は、今でも脳裏に焼きついています。全てを白状した後で、彼女は言いました『大丈夫? あなたに私を殺すことができるの?』って。それから笑って俺の顔を見るのです。あどけない子供のような、慈愛に満ちた母親のような、まるで俺のことを許すとでも言いたげな目をして・・・ お鈴の前で泣いたのは、このときが初めてでした」

 自分の命よりも大義を選んだ夫を、お鈴は許したのだ。お蘭にはその事実を容易には受け入れられなかった。同じことを蒼龍から告白されたら、自分は一体どのように対処するのだろうか。そう考えた時、お蘭は初めてお鈴に会ってみたくなった。時三郎は、大きなため息をついてから、再び話を続けた。

「涙を流す俺を目にして、お鈴は言いました。あなたが苦しむことは何もない。私はあなたに従う、ただ、私に一日だけ時間を下さい、と。翌日、彼女は自決していました」

 お蘭は立ち止まってしまった。あまりにも残酷な結末に、ただ打ちのめされてしまったのだ。その様子に気づいた時三郎は、お蘭に顔を向けた。その目は赤く腫れていた。

「俺は・・・ お鈴を手に掛けた後、自ら命を断つつもりでした。しかし、その機会を逸してしまった。まるで、俺には生きてほしいとお鈴に言われたような気がして、こうして辛い日々を過ごすしかなくなりました」

 その後の話によれば、お鈴は残した遺書の中でお初を次の七宝に選出し、後見人として時三郎を指定した。お初に姉の死を伝えるのは時三郎の役目だ。

「まさか、真実を告げることなどできない。お鈴が自ら死を選んだ理由も分からないまま、お初はひどく落ち込んでいました。彼女が十三歳のときのことです。七宝を引き継ぐための儀式の中で、彼女はまるで操られた人形のように、従順に一連の所作をこなしていました」

 お蘭は、夢の中のお初の姿を思い出した。その成長した姿は一瞬しか見られなかったので、幼いお初が、辛い思いをその胸に隠し、懸命に立ち振る舞う様子が自然と頭に浮かび上がるのだ。

「どうして、お初ちゃんに知られてしまったのですか?」

 お蘭の問いに対して、時三郎は首を横に振るだけだった。

「分からないのです。死ぬまで心の内に留めておこうと固く誓ったのに・・・ ちょうど一年前のことでした。突然、お初は俺に問いただしたのです。姉は殺されたのかと」

「誰かがうっかり秘密を漏らしてしまったのかしら?」

「事実を知るのは帝と七宝だけ。考えたくはありませんが、身内の仕業である可能性が高いのです。今は一部の者に権力が集中し、互いに牽制しあっている状態。こうやって相手の足を引っ張ることは日常茶飯事ですから」

 時代が変わっても、人間というものは変わらないのであろうか。争いに意図せず巻き込まれてしまったお初のことを不憫に思い、お蘭はため息をついた。

「今度は俺に質問させて下さい。あなたは、我らがまだ見ぬ時代より来られたとおっしゃった。お初とは、その時代にお会いなされたということですか?」

 突然そう尋ねられ、お蘭はどう説明していいか分からなくなった。夢の中でお初とともに旅をしていたなどと、誰が信じるだろうか。しかし、嘘でごまかすわけにもいかず、お蘭は正直に真実を話した。意外にも、時三郎は納得したようだ。

「不思議な話だが、信じますよ。なにより、お初の顔に痣があったというのが何よりの証拠。幼い頃のお初は病弱で、一年もの間、顔に痣ができて寝込んだことがありました。十日ほど高熱で動けなくなった時は、両親もほとんどあきらめていたようです。しかし、ある日突然、あれだけ続いていた高熱が嘘のように下がり、顔の痣も消えてしまったとか。何があったのか、お初は誰かと旅をしていたとだけ言っていたそうで、その誰かというのはあなたのことなのでしょう」

「夢の中で、お初ちゃんが気を失ってしまった時のことです。頬を撫でると、顔の痣がきれいに失くなってしまって」

「あなたにも、我々と同じ力があるのかも知れませんな」

 そう言って、時三郎はお蘭の顔をじっと見つめた。お蘭も、なぜかその視線から目を外すことができなくなった。彼の顔に、妙な懐かしさを感じたのだ。

「心から願うことで、術は発動する。それが必要になる時が、あなたにも来るかも知れない」

 時三郎は、懐の巻物を手に取り、お蘭に見せながら

「俺は、この巻物にある秘術を解読してみようと思う。未来のお初を救う方法が分かったら、必ずあなたに知らせることにしよう。俺の寿命が尽きようと、それから幾年もの月日が流れようとも、必ず」

 と力強く宣言した。


 なだらかな坂が続く道を、時三郎とお蘭は肩を並べてゆっくり歩いていた。所々に生えている桜の木には、艶やかな桃色の花が咲き乱れている。今、季節は春らしいとお蘭はこのとき初めて気づいた。

「綺麗ですわね」

 そうつぶやいたお蘭の顔は、しかし、あまり明るくはなかった。つい先ほど経験した辛い出来事を、華やかな景色が余計に際立たせてしまうのかも知れない。時三郎はうなずくだけで、何も答えることはなかった。

 爽やかな風が二人の頬を撫でる。同時に桜の花びらが吹雪のように舞った。時三郎の眉が少し上がった。

「やはり、簡単には逃してくれないようだ」

 その言葉の意味するところが分からず、お蘭は時三郎の顔を見上げた。少し笑っているようにも見えるが、明らかに緊張した面持ちであった。

「あまりにも色々なことがありすぎて、あなたのお名前を伺っておりませんでした。失礼ながら、教えてくださらぬか?」

「お蘭と申します」

 時三郎はうなずいてから顔を近づけ

「俺の名前は時三郎。これから、少し厄介な者たちを相手にしなければなりません。あなたは少し、後ろに下がっていたほうがよいでしょう」

 と小声で囁いた。

 少し歩いた先に、他の木々とは離れて一本の立派な桜の木が、淡い紅に染められ堂々と立っている。時三郎がそちらへ向かって歩いていると、その木の陰から二人の男女が顔を出した。男のほうは壮年の頃であろうか。活力にあふれた顔には、額に一文字の深い傷跡が残っていた。隣の女性は年老いた老婆で、右手に金色の錫杖を持ち、見た目に反し、背筋を伸ばして立ち尽くしている。

「生きておったか、時三郎よ」

「水精にお婆様か。心配をかけたな」

「瑠璃は・・・ お初はどうなった?」

 抑揚のない声で、水精という名の男が尋ねた。

「自害した。火竜が放たれる前に、もう死んでいたよ」

「巻物は見つかったのかい?」

 老婆の声は力強く、他を圧倒する気勢が感じられた。しかし、時三郎は動じることなく、冷静に答える。

「残念ながら、一緒に燃えてしまったものと思われます」

 あの黒い巻物のことを、時三郎は伏せておくつもりらしい。相手は、時三郎の言葉が真実であるか、見定めようとしているようである。しばらくは彼の顔を睨んだまま動かなかった。

「そちらの女性はどなたかな?」

 水精に鋭い声で問われ、お蘭は思わず時三郎の背に隠れた。

「山を下りる途中で偶然会ってな、一人では危険だと思い、一緒に行くことにしたのだ」

「山菜でも採りに山へ入ったのか? それにしては何も持っておらぬようだな」

 老婆が笑みを浮かべた。顔の皺がさらに深くなった。

「お初は、変化の術も使えたのかな?」

 水精がそう言葉にしながら二人に近づいてきた。

「この方はお蘭殿、お初が変化したわけではござらぬ。そもそも、変化の術など存在せぬ」

「死体を操るほどの者だ。何があっても不思議ではない」

 時三郎は、お蘭の盾となって水精の前に立ちはだかった。

「あまり無礼な振る舞いをするものではない」

「少し確認するだけだ。それとも、間近で見られたくない理由でもあるのか?」

 二人はしばらく睨み合っていたが、時三郎はやがて下を向き、首を振りながら脇へ移動した。

「お蘭殿、でしたな。どこから来られた?」

「あの、出雲から・・・」

 どう答えてよいのか分からず、咄嗟に自分の出身地を口に出してしまった。

「出雲? あなたは旅のお方か?」

 そう尋ねられても、次の言葉が出てこない。お蘭はすっかり動揺してしまった。

「お主の顔に怯えているだろう。もう少し優しく接することはできぬのか?」

 水精が時三郎の顔を睨みつける。時三郎はニヤリと笑っていた。

「旅の荷はどうしたのだ?」

「あの火の海の中で、荷物を持ったまま逃げろというのか? 俺たちのせいで彼女は無一文になったのだ」

 時三郎に諭され、水精は視線を落とした。自分たちの放った術が彼女の身を危険に晒したことに、罪悪感が芽生えたらしい。

「もうよい、水精よ。その方はお初ではない。それより、時三郎、お主、巻物は見つからなかったと言ったが、それは真実か?」

 老婆が、黒い瞳を時三郎に向けて問いかけた。不意をつかれ身を固くした時三郎は

「嘘は申しておりません」

 と早口で答える。老婆が口を開くまでの間、重苦しい沈黙がしばらく続いた。

「水精よ。其奴の懐を調べてみよ」

 老婆に命じられ、水精は時三郎の胸のあたりを手で軽く叩いた。

「懐に何を隠している?」

 そう問われた時三郎は、少し眉を上げて水精の顔を眺めていたが、やがて懐に入れてあったものをゆっくりと取り出した。

「それは・・・」

 水精は老婆に視線を移した。老婆は、時三郎の手に持っているものを凝視したまま顔を強張らせている。

「これは、我が一族に伝わる大事な宝ですぞ」

 時三郎が持っていたのは、あの小刀だった。水精は更に時三郎の体を隈なく調べたが、隠し持っているものは何も見つからない。

「時三郎よ。今から我らはあの場所を調べに行く。お前はこのわしから指示があるまで、戻ってきてはならぬ。よいか?」

 いつの間にか、老婆が三人のすぐ横に立っていた。その声を聞いて、時三郎とお蘭だけでなく、水精までもがかなり驚いたようだ。あの場所とは無論、お初が自決した場所のことである。なぜ、そんな指示をするのか理解できないが、時三郎は特に尋ねることもなく、黙ってうなずいた。それを確認した老婆は、視線をお蘭のほうへ向ける。黒い瞳が小さくなり、その眼光に捕らえられたお蘭は金縛りにあったように動けなくなった。

 老婆が歩き始めると、時三郎の顔を睨んでいた水精も慌ててその後を追った。残された二人は、その後姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

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