第40話 反魂の式

 伊勢路にある八鬼山は、その険しさに加え、山賊や狼が多く出没していたために『西国第一の難所』と呼ばれていた。どれだけの巡礼者がここで苦しめられ、命を落としたのであろうか。そんな場所を日が暮れてから越すような真似は避けなければならない。しかし、蒼龍たちはこの山のことを知らなかった。峠を過ぎたあたりで、周囲の様子が分からなくなるほど暗くなってしまい、一行はそれ以上進めなくなった。

「仕方ない、このあたりで野宿するか」

 薪を集め、火を起こし、その周りに銘々が疲れた体を休めた。誰も話そうとする者はいない。皆、燃え盛る焚き火の炎をじっと見つめているだけだった。

 お蘭は今朝、お雪が亡くなったことを知らされた。出発の時にお雪がいないのをお蘭が指摘して、蒼龍はようやく、その事実を彼女に告げていないことに気づいた。

「そうですか・・・」

 突然の知らせにお蘭は呆然となり、一言述べたきり口を閉ざしてしまった。心配する蒼龍の横に付き従い、旅の間は涙も見せず、黙々と歩き続けた。そのほうが無心になれるから、気持ちを落ち着かせることができたのだろう。こうして何もせずに座っているうちに、お雪のことを思い出してしまったのか、彼女は突然むせび泣き始めた。

「お蘭、すまない・・・」

 蒼龍に肩を抱かれ、お蘭は彼の胸に顔を埋めて泣き続けた。お松も、お菊も、その姿に耐えかねて涙を流す。暗く寂しい山の中で、こうして辛く悲しい時間が過ぎ去っていった。

 遠くから狼の遠吠えが聞こえる。しかし、誰も気には留めなかった。時折、冷たい風が通り過ぎ、焚き火の炎を大きく揺らす。お蘭は少し落ち着きを取り戻し、蒼龍の肩に身を預けながら、ぼんやりと火を眺めていた。揺らめく赤い光は、気分が安らぐと同時に眠気を誘う効果もある。伊吹は早々に寝転がり、他の者たちも辛うじて起きてはいるものの、まぶたが徐々に重くなっていった。

「誰が火の番をするかな?」

 源兵衛がポツリと言った。しかし、それに答える声はない。剥げた頭を掻きながら、源兵衛は小さな低い声で唸った。

 また、狼の鳴き声が山中に響き渡る。かなり近いところからだ。最初に蒼龍が顔を上げた。

「近いな・・・」

 源兵衛が立ち上がり、声のした方角へ視線を移す。他の者たちも腰を上げ、武器を手にした。

「火元から離れるな。なるべく固まっているんだ。一人になると狙われるぞ」

 やがて、暗闇の中に、黄金色に光る鋭い目が現れた。しかも複数いるらしい。その目に気を取られているうち、背後からも音がした。

「囲まれたな」

 蒼龍とお松は後ろに振り向き、闇の中に目を配った。姿は見えないが、唸り声がそう遠くないところから響いてくる。

 狼が人を殺めることは、実はほとんどない。あるとすれば、狂犬病に冒された狼に噛まれ、それが原因で死に至る場合が考えられる。狂犬病は、今でも死の病として恐れられており、発症したときの死亡率はほぼ百パーセントだ。しかし、日本で狂犬病が流行し始めたのは江戸時代に入ってからである。だから、彼らの縄張りに足を踏み入れてしまったのか、それとも餌がなくて相当飢えていたのか、いずれにしても蒼龍たちは運が悪かったのかも知れない。

 一方は源兵衛と三之丞、そして反対側は蒼龍とお松が狼の動向を見張る。その間に伊吹、お菊、お蘭の三人が挟まれた形で立っていた。女性たちはともに短剣を手にして身構えているのに対し、伊吹はただ、二人を盾にして様子を窺っている。

 その伊吹の背後から突然、一匹の狼が飛びかかった。伊吹は叫び声を上げながら地面に伏してしまい、狼が背中に乗っかる形になった。叫び声を聞いたお菊が、狼を目にするや素早く斬り付ける。しかし、狼はさっと後ずさり、今度はお菊に狙いを定めて襲いかかろうと、姿勢を低くした。

「お菊さん、伏せるんだ!」

 蒼龍が後ろの様子に気づき叫んだと同時に、狼はお菊の喉元に向かって突進した。お菊は刀を投げ捨て、狼の首をなんとか両手で掴みながらも、仰向けに倒れてしまった。

 目の前に迫る狼の口から、なんとも形容し難い異臭が漂う。お菊は顔を背けながら、必死になって狼の体を引き離そうとするが、相手は非常に体が大きく、力も強かった。不気味に光る狼の目から視線を外したお菊が見たもの、それは自分を助けようともせず、地面に這いつくばりながら逃げようとする無様な姿の伊吹だ。自分を助けようとしないことへの悲しみなのか、それとも情けなく思ったからか、お菊の目から涙が溢れ出す。一瞬、力を緩めてしまい、鋭い牙がお菊の首筋に迫った。

 危機一髪のところを救ったのは三之丞だった。大胆にも狼の体を抱きかかえ、思い切り放り投げたのだ。狼は地面に体を叩きつけられ、か細い声を上げた。その様子を見たからだろうか。狼の群れが遠ざかっていく。

「諦めたみたいね」

 お松が安堵のため息をついた。三之丞がお菊の体をそっと起こし

「お怪我はないですか」

 と優しく尋ねる。

「ありがとうございます。大丈夫です」

 立ち上がったお菊は、深々と頭を下げた。お松は、伊吹の体を起こそうと手を伸ばした。

「大丈夫ですか、若旦那?」

 お松に助けられながら、渋い顔で身を起こし、伊吹は着物に付いた土を払った。

「奴ら、また現れないだろうか?」

 源兵衛はまだ暗がりに目を向けている。山の中は静まり返り、虫の声も聞こえない。それが一層、彼らを不安にさせた。

「今夜は交代で見張ったほうがよさそうだな。狼だけでなく、追手にも注意しなければなるまい」

 蒼龍の提案に異を唱えるものは誰もいなかった。


「少し眠ったほうがいい。俺が見張っているから気にすることはないよ」

 お蘭が隣で座ったまま、頭をゆらゆらと振り子のように揺らしているのを見て、蒼龍は彼女に話しかけた。今は蒼龍が一人で見張りをして、他の者は皆、地べたに寝転がり仮眠をとっていた。しかし、お蘭だけは眠ろうとせず、蒼龍の隣で焚き火を眺めている。

「なんだか、眠るのが怖くて」

 目をこすりながら、お蘭は答える。その理由について、蒼龍は理解していた。お蘭は、夢の世界から現実へ引き戻された気がすると蒼龍に説明している。長い間、目覚めなかったことも聞かされている。眠ってしまったら、自分が一体どうなるのか、不安で仕方がないのだ。

「ずっと起きていることなどできない。体調にもよくないから、せめて横になりなさい」

 そう戒められたお蘭は素直に従い、少し離れた場所で仰向けになり、いつものように、顔に着物を被せた。二、三回、瞬きをする。朱色にきらめく糸のような光が目に写った。気がつけば夜の木立の中、お蘭は一人で立っていた。

 光の正体は無数の松明の明かりだ。たくさんの人間が何かを探しているらしいと分かり、お蘭は反射的に身を低くした。ゆっくりと後ずさりながら振り向くと、背後にも赤い光の帯が見える。すっかり囲まれた状態であることを知り、お蘭はそれ以上、動けなくなってしまった。

 身を隠す場所がないか、あたりを見回す。誰かの背中が視線に入った。隠れることもせず、構えることもなく、すでに逃れられないものと諦めているような雰囲気である。白地の着物には紅色の三角柄があしらわれ、頭には鮮やかな瑠璃色に光る冠が載せられているのが、この闇の中で、お蘭の目にはっきりと見えた。艶やかな長い黒髪が束ねられ、背中まで垂れている。明らかに自分の生きる戦国時代とは異なる、それよりもずっと古い時代の姿であった。

 揺らめく炎が一つ、近づいてきた。男のようである。非常に背が高く、精悍な顔によく似合う、美しく輝く金剛石を配した白銀の額飾りが高貴な者であることを示していた。鉛色の衣装は金属のように光沢を放ち、手には小刀が握られている。

「探しましたぞ、妹君」

「兄上・・・」

 男の声に、女性が小さな声で応える。どうやら兄妹のようであった。

「私の命を奪いに来られたか」

 男は、女性の顔をじっと見つめているようだった。しばらくしてからニヤリと笑い

「そうお思いになるのなら、得意の呪術で俺を殺してしまえばよかろう」

 と揶揄する。

「どうやら結界を張ったようですわね。私の術は封じられています」

「この程度で、あなたの力を押さえつけられるなどと誰が思うだろうか。だから俺が来ることになったのだ」

「身内ならば、私が素直に従うと?」

「その逆です。あなたは俺を恨んでおいでのようだ。行けば殺されるだけと皆に止められました」

 長い時間、沈黙が続いた。先に口を開いたのは女のほうだった。

「姉上を殺されて、あなたはなんとも思わないのですか?」

 男の表情が曇った。何も答えない兄に対し、妹がさらに問いかける。

「どうして止めようとなされなかった?」

「帝の命は絶対です」

「姉上の存在が国を滅ぼすなどと、本気で信じられるのですか? 一体、姉上が何をしたというのですか?」

 兄は何かを言いかけたが、すぐに口を閉ざしてしまった。しかし、女の最後の問いかけが、うつむいたままの男の心を激しく揺さぶった。

「時三郎様は、姉上を愛していなかったのですか?」

「そんなことはない! だから・・・」

 男が激しく頭を振った。女は次の言葉をじっと待っているようである。

「だから、俺がお鈴に手を掛けた」

 抑揚のないその言葉に、女は驚きを隠せなかったのか、すぐに声を出すことができなかった。

「それは・・・ あなたが姉上を・・・ 自分の妻を殺したという意味ですか?」

「それを伝えるために、こうして来たのだ、お初よ。誰かの手に掛かるくらいなら、いっそのこと、自分の手で殺そうと決めた」

 女が崩れるように座り込んだ。肩を震わせ、泣いているように見えた。

「どうして・・・」

「七宝全員を相手にお鈴を守ることはできなかった。でも、お前を守ることはできる。頼むから一緒に戻ってくれ。盗み出した禁書を返すなら、命を奪われることは・・・」

「どうして最後まで守ろうと努力なされなかった!?」

 信じられないほどの大声で、女は、お初は叫んだ。すっと立ち上がり、懐から短剣を取り出す。男は無表情なまま、その様子を眺めていた。

「姉上を守ることのできたのは時三郎様だけ。あなたは姉上を裏切ったのです」

「言い訳はせぬ。俺は、お鈴よりも大義を選んだ。裏切者と罵られても仕方あるまい」

 時三郎は手に持っていた刀を地面に放り投げ、手を水平に伸ばした状態で

「さあ、殺せ」

 と言った。はじめから死ぬつもりで、お初に殺される覚悟でここに来たのだろう。

「俺が戻らなければ、七宝は禁書共々この場所を火の海にするつもりだ。その前にお前は逃げてくれ、お初。瑠璃の血を引くものは、もはやお前しかいないのだ。その後継者として、必ず生き残らなければならない」

 お初は両手で刀を持ち、切先を時三郎に向けた。

「最後にひとつだけ教えてくれ。禁書を盗んで、お前は何をしようと考えていたのか」

 時三郎の質問に、お初は答えようとしなかった。そして、どういうわけか、刀を構えたまま動かない。時三郎の視線は、お初の顔に向けられていた。お初も同じく、相手の顔を睨んでいるのだろうか。お蘭のいる場所から、それを確認することはできなかった。

「我々に死人の軍団を仕向けるためではなかろう。操られた死体を見て思ったんだ。お前、お鈴を甦らせるつもりか?」

「・・・術は完成しました」

 時三郎の腕がだらりと下がった。目には驚きと恐怖の色が浮かんでいる。

「嘘だろう?」

「蘇生の術には代償が必要です。それはこの私自身。あなたにとっては朗報ですわ。姉上は生き返ることができます」

「馬鹿な、自分を犠牲にしたというのか?」

 その問いに答える代わりに、お初は持っていた短剣の切先をくるりと自分に向けた。

「やめろ!」

 時三郎が駆け寄ろうとする前に、お初は自らの胸を短剣で突いた。


 時三郎は、地に伏したお初の体を抱え、絞り出すような声を上げた。

「どうして、こんな真似を・・・」

 その傍らに一人の女性が現れ、時三郎は驚いて顔を上げた。それは、お蘭であった。

「お初ちゃん、しっかりして!」

 お初が、転生を繰り返す前の雪花が、ゆっくりと目を開けた。お蘭の顔に視線を向け、少し微笑んだ。口をパクパクさせて何か言おうとしている。しかし、それは声にならず、聞き取ることはできない。静かに目を閉じ、彼女は眠るように息を引き取った。こうして二人は再会を果たしたが、その時間は僅かであった。

 泣きじゃくるお蘭に時三郎は戸惑いを覚えながらも、お初の顔に目を向け、その体を地面にそっと寝かせた。そして、投げ捨てた短剣を拾い上げ、ゆっくりと自分の喉元へ近づける。

「お待ち下さい!」

 時三郎は動きを止めたが、刀は自分に向けられたままだ。

「どなたかは存ぜぬが、止めないでください。お初まで死なせてしまった今、どうしてお鈴に顔を合わせることができようか」

「お初ちゃんは死んではいないのです。これから永遠に転生を繰り返すことになります」

 唖然とした表情で、時三郎はお蘭の顔を眺めた。

「そんなことが、なぜ分かるのですか? あなたは一体・・・」

 涙で潤んだ瞳を向ける見知らぬ女性の信じられない言葉を、どういう訳か、時三郎は嘘だと思うことができなかった。

「それをお話しても信じてはもらえないでしょうが、私は後の世から参りました。お初ちゃんは、その時代にあってもなお、死ぬことができずに苦しんでおります。自分自身に掛けた呪いのせいで」

 『呪い』という言葉を聞いた時三郎は視線を落とし、額に手を当てた。

「お初は、禁呪に手を染めてしまったのだ。全ては俺の責任だ・・・」

 膝をつき、うなだれる時三郎の姿を注視しながら、お蘭は話を続けた。

「私は、どうやら同じ呪いを受けているようなのです」

「同じ呪い?」

 時三郎が顔を上げ、お蘭の悲痛な表情に目を凝らした。なぜか、お蘭のことを以前から知っていたような、そんな気がした。一度、会ったことがあるのではないかと考えたが、記憶を辿ってみても、思い当たる節はない。

「対の呪いと言ったほうがいいのかしら。どうして、違う時代の人間が同じ呪いに掛かっているのかは分からないけど・・・」

 心許なさそうにうつむいて、お蘭は途中、口を閉ざした。時三郎はなおも彼女のほうを見ていたが、ふとお初の死体に目を遣って、驚愕の叫びを上げた。

「お初の死体がない!」

 そこには、一枚の血に染まった着物と瑠璃色の冠だけが落ちていた。死体は忽然と姿を消していたのだ。二人とも声を上げることができず、しばらくの間ただ呆然と、お初の残した着物を眺めていた。

 風の通り過ぎる音以外、夜の森は静まり返っている。真っ赤な光の帯は明滅を繰り返しながら、紺色の闇に浮かび上がっていた。それはまるで鬼火のように見えた。時三郎が空に目を向ければ、下弦の月が青い光を放っている。もうすぐ夜が明けるようだ。

「反魂の式という術があります」

 不意に、時三郎が上空を見上げたまま小声で話し始めた。

「反魂の式・・・」

 未だに悪夢から目覚められないといった表情のお蘭は、只々その声を繰り返すことだけで精一杯だった。

「人を甦らせる術です。しかし、詳しくは俺にも分かりません。非常に危険で、しかも非道な術ゆえ、遠い昔に使用が禁じられ、それを伝える書物も絶えたと思っていました」

「その術を、お初ちゃんが?」

「信じられぬことだが、そのようです。代々伝えられてきた秘術に関する膨大な資料。その中に、反魂の式に関する巻物があったらしい。お初は、それを盗み出しました」

 時三郎は、お初の死体があった場所へ向かい、今は持ち主を失った着物を拾い上げた。その時、地面に何かが落ちて、彼の足元まで転がった。

「これは・・・」

 鴉の羽のように艶のある黒色の表紙で覆われた巻物に、時三郎は目を奪われた。お初が盗み出した禁書に違いない。彼がそれを拾い上げると同時に、あたりが赤く照らし出された。

「逃げなければ・・・ 七宝が火竜を放ったようだ」

 瞬く間に炎に包まれる森の中、二人は追い立てられるようにその場を後にした。

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