第35話 悲しき願い

 部屋の中が暗くなるに任せ、蒼龍は明かりを点けることもせず、目を閉じたまま座っていた。お蘭はとうとう、一日中起きてこなかったのだ。

 蒼龍は長い間、前日の出来事を思い返していた。今まで、次の目的地をお松やお雪が蒼龍たちに伝え、同じ宿に泊まることで、お互いに相手を見失わないよう心がけてきた。今回も、蒼龍はお松から発心門王子の近くに泊まる予定だと伝えられていたのである。なのに、どうして予定を変更したのか、それが気掛かりで仕方なかった。そして、昨日の雪花たちの奇妙な行動である。その時は全く気づかなかったが、蒼龍たちの目をわざと自分のほうへ向けさせていたのだとしたら・・・

(謀られたか・・・)

 蒼龍は決心した。このまま、お蘭が目覚めるまで宿で待つことはできない。空が白み始めた頃にお蘭の部屋にへ入り、明かりに火を灯してから、体に掛けていた着物をそっとめくった。干からびた顔に目を遣って、蒼龍は

「すまない、少し我慢してくれ」

 と声を掛ける。その着物を頭に掛け、帯で体に固定した。顔を隠すためである。すっかり軽くなったお蘭の体を背負い、自分の体に縛り付けてから、荷物を肩に掛けて部屋を出た。

 宿の入口では、早朝に出かける旅人のために、宿の女中が戸を開けていた。

「あら、回復なされたのですね?」

「いや、まだ調子が戻らなくてね。俺が背負って行くことにしたよ」

「まあ、それは大変。そんなに無理をなさらなくても」

「この先で人を待たせてしまっているから、あまり長居はできないんだ」

 女中はうなずきながらも蒼龍の背中に目を向ける。着物で完全に顔を覆っていることに気づき、首を傾げ

「それでは息苦しくありませんか?」

 と尋ねた。

「ああ・・・ 陽の光に弱くてね。いつも日中はこうしているんだよ」

 怪しまれるかも知れないと焦った蒼龍は、早口で話を続ける。

「いろいろと世話になった。ありがとう」

 そそくさと立ち去る蒼龍の後ろ姿を、女中は不思議そうに眺めていた。

 太陽の光が闇を消し去ろうとしている。紫色に染まる空に向かい、蒼龍は歩を進めた。道を辿れば、やがて本宮大社に到着するはずだ。まずは神仏にお祈りでもしてみようか、という考えが頭に浮かび、人知れず苦笑した。行動に出たのはいいが、どうすればよいのか、全く考えがまとまらないのである。

 あれこれ頭を悩ませながら、太陽がすっかり顔を覗かせた頃には、伏拝という地にたどり着いた。巡礼者は、ここで初めて熊野本宮大社を遠くに望み、伏して拝んだそうである。蒼龍は念のため、ここに伊吹たちが宿泊していないか調べてみることにした。


「どうか・・・ ひと目・・・」

 うわ言をつぶやくお雪の顔を、お松が心配そうに見つめている。源兵衛は、脇腹に巻いた薬草を取り替えていた。

「源兵衛さん、傷の具合は?」

 お松に尋ねられ、玉のような汗を額に浮かべた源兵衛は首を横に振った。

「膿がひどい。熱があるのも、これが原因だ。もはや、わしの力では手の施しようがない。他にいい医者がいないかと、ここの住職に聞いてみたが、近くにはおらぬそうだ。このような山奥では仕方あるまい」

 二人が話しているところに、お菊、三之丞、そして伊吹も、戸を開けて部屋に入ってきた。

「そろそろ交代しよう。二人ともほとんど寝ていないじゃないか。少し横になったほうがいい」

 伊吹がお松たちに声を掛ける。

「傷の手当ては、わしにしかできぬからな。眠ってもおられぬよ。しかし、さすがに疲れたな。ここで横になっているから、何かあったら起こしてくれ」

「もっと効果のある薬草があるのなら、私が採ってまいります。源兵衛殿、教えてくださらぬか?」

 源兵衛に詰め寄るお松に向かって、伊吹は諭すように

「休まなきゃ駄目だよ、お松。お前まで倒れてしまっては大変だ」

 と言葉を投げた。

「では、私が薬草を探してまいります」

 今度はお菊が伊吹に訴えかける。

「一人では危ない。ならば、三之丞も付き添うことにしよう。お雪は俺が一人で看ておくよ。頼むから二人は休んでくれ」

 全員、伊吹の提案に異議はなかった。源兵衛から薬草について説明を受けたお菊は、お雪の顔に目を遣ってから、三之丞とともに部屋を出ていった。


「ここにはおらぬか・・・」

 村で宿泊可能な唯一の施設である寺までやって来た蒼龍は、目印の草履がどこにもないことを確認し、ポツリとつぶやいた。

 山の斜面に貼り付くように建てられた寺の本堂までは、長い階段が伸びている。門から上に目を遣ると、寺には似つかわしくない若い男女が下りてくるのが見えた。

「あれは?」

 驚いたことに、その二人は三之丞とお菊だったのである。蒼龍が訪ねた寺は、偶然にも伊吹たちが宿泊していた場所であった。しかし、二人と出会わなければ、蒼龍はそのまま立ち去ってしまうところだった。これこそ、神仏の気まぐれであろうか。

「蒼龍様!」

 お菊が蒼龍に気づき、驚きの声を上げた。

「こんな所に泊まっていたのか。気づかずに素通りするところであった」

「蒼龍殿、お雪が傷を負った」

 笑みを浮かべながら二人を見ていた蒼龍は、三之丞の言葉を聞いて唖然とした。


 部屋の戸を開けたとき、中央あたりで伊吹が背を向けて座っていた。振り向いた伊吹はかなり驚いた顔で

「蒼龍・・・ どの?」

 と口にする。その声に源兵衛もお松も飛び起きた。

 蒼龍は静かに部屋の中へ入った。

「今頃、何しに来たんだ?」

 伊吹が立ち上がり、厳しい口調で叫んでも、蒼龍は険しい表情を崩さない。その目は、横たわっているお雪の顔に向けられていた。腰の帯を解き、お蘭の体をそっと床に置いてから、お雪の横に座って語りかける。

「約束を守れなかった。すまない」

 お雪の目がゆっくり開いた。大きく開いた瞳を蒼龍のほうに向け、微かに顔がほころぶ。

「最期にお顔を拝見することができて、お雪は幸せです」

「弱音を吐いてはいけない、お雪さん。今はよくなることだけを考えて、安静にしているんだ」

 お雪は再び目を閉じた。

「私の定命は、もうすぐ尽きるのです。でも、恐くはありません。いつかまた、生まれ変わる日が・・・」

 目から涙がひとすじ流れ落ちた。横にいたお松は泣き崩れ、源兵衛や伊吹も目を伏せてしまった。

「その時は、蒼龍様、あなたともう一度会いたい。あなたと結ばれることが、私の望み」

 蒼龍は、何も言えなかった。ただ、お雪の顔から目を離さずにいることしかできなかった。

「お願いがあります、蒼龍様。一度だけ、私を抱きしめてほしい」

 お雪は、両腕を持ち上げようとするが、もう力が入らない。蒼龍は、彼女の体を持ち上げ、そっと抱きしめた。苦しげな熱い吐息が、蒼龍の耳元にかかる。それに混じり、他の者には聞こえなかったであろう、お雪の最期の言葉が蒼龍の心を激しく揺さぶった。

「もっと・・・ 早く・・・ 会いたかった・・・」

 お雪の全身から力が抜ける。しかし、蒼龍はしばらくの間、彼女の屍から離れようとしなかった。悲しみによるものなのか、それとも怒りから生じているのか、彼の体は小刻みに震えていた。


 お蘭は、地面の窪みに落ちてしまった。激しく地面に叩きつけられた尻をさすりながら、お蘭はよろよろと立ち上がる。頭上は一面、真っ黒な霧に覆われていた。そして、足元は銀色の地面が広がり、その放つ光のおかげで周囲を見ることができた。至るところに芋のような形状の何かが転がっている。それらは少しずつ前に進んでいた。

 目を凝らすと、芋のように見えていたのは、短い手足を持ち、痩せこけて腹だけが異常に膨れ上がった気味の悪い生き物であった。その進む先に、銀に輝く山がそびえ立っている。

 地面にいるのと同じ連中が、山にもひょうたんのようにぶら下がっている。その中に、朱色の着物を着た子供の姿があった。お初に違いないと、お蘭は早足で歩き出す。

 銀色に輝く地面は、柔らかい土であった。周囲には尖った岩が何本も生えていて、それも銀色に輝いている。その輝きが目の錯覚を引き起こした。山までの距離感がつかめないのである。どんなに歩いても山裾に到着できない。まるで、山が意思を持ち、自分から遠ざかっているように感じた。

 しかし、平坦だった地面が少しずつ傾き始め、山へ登り始めたことに気がついた。すると今度は所々に銀色の石が埋没していて、それが地面と同じ色をしているので、気づかず足を引っ掛けて転びそうになることが度々あった。それでも、お蘭はお初に少しでも近づこうと必死になって登り続ける。

 周囲にいる異形の生き物は、彼女には目もくれず山頂を目指しているようだった。何が目的なのか、お蘭には知る由もない。とにかく、自分の邪魔をすることはないようなので、安心して進むことができた。

 ところが、傾斜がだんだん急になり、登るのが困難になってくるに従い、互いに相手を蹴落とそうとする輩が現れた。転がり落ちていく者たちを横目に、お蘭はできるだけそれらと距離をおくようにしていたが、いつの間に近づいたのか、右足にしがみつかれ、驚いて落下しそうになった。

「放して!」

 手で振り払うと、相手は鞠のように弾みながら転がり落ちていく。それからは、足元にも注意しながら登るようにした。

 山から生えた棘のような岩の隙間から、お初の姿が見えた。小さな体で、岩に手を掛けて一生懸命に登ろうとしている。その背後に、あの化け物が迫っていた。

「お初ちゃん、後ろ!」

 お蘭が大声で叫んでも、お初には届かなかったらしい。背中へ覆いかぶさる相手にどうすることもできず、お初は頭から落ちていった。途中で岩の隙間に体が挟まれ、お蘭のいる位置より高い場所で静止できたものの、気を失ったのか動く気配がない。お蘭は何度もお初の名を叫びながら彼女の下へ向かった。

「お初ちゃん、お願い、目を開けて!」

 お初の顔は薄汚れ、美しかった黒髪も艶をなくし、乱れるがままになっていた。右頬に残る赤黒い痣があまりにも痛々しい。お蘭は目に涙を浮かべながら、お初の顔を優しく撫でた。

 その時、不思議なことが起こった。右の頬にあった痣が消えてなくなったのだ。同時に、お初が目を開き、泳いでいた視線がお蘭の顔に向けられた。

「お蘭お姉ちゃん、来てくれたんだね」

 お初の意識が戻ったことを知り、お蘭は無意識にお初の体を強く抱きしめた。

「お初ちゃん、一つだけ教えて欲しいの」

 お初の体をその手に抱いたまま、お蘭は彼女の耳元で優しく囁いた。お初がうなずくのを確認して、お蘭は前から疑問に思っていたことを投げ掛けてみた。

「お初ちゃんのお姉さんを助けた後、もし、お初ちゃんが自分の身を犠牲にしたのだと知ったら、お姉さんは喜んでくれると思う?」

 お初から何も返事がないので、お蘭は話を続ける。

「私がお姉さんの立場だったら、きっと悲しむわ。お初ちゃんを失ってまで助かりたくないもの」

 腕を緩め、お初の顔を見つめていると、お初が小さな声で話し始めた。

「お初はこの世界から消えてしまうけど」

 満面の笑みを浮かべるお初の顔を、お蘭は現世でも目にしたことがあるような気がした。

「元の世界に戻るだけだから心配しないで、お蘭お姉ちゃん」

 お初の顔に気を取られていたので、お蘭はその言葉の意味を理解することができなかった。

「元の世界?」

「ここはね、お初の夢を叶えてくれる世界なんだって。でも、いつかは元の世界に戻らなくちゃいけないから」

 笑みを浮かべるお初の目から、なぜか涙が溢れた。

「お初のお姉ちゃんが果ての世界にいるなんて嘘をついてごめんなさい、お蘭お姉ちゃん。」

 お初が嘘をつくはずがないとすっかり信じていたお蘭は、その言葉にかなり驚いたようだ。

「じゃあ、果ての世界には誰もいないの?」

「知らない人が呼んでるの。誰って聞いたらお初のお姉ちゃんだって言うの。果ての世界で待っているって。お初は信じていたんだけど・・・ でも、やっぱり違うみたい」

 涙が頬を伝い、流れ落ちてゆく。お蘭は、その涙を指で拭い、乱れた髪をそっと撫でた。

「お初ちゃんはお姉さんに会いたかったのよね。だから、嘘かも知れないと思っていても、果ての世界に行ってみたかったのね。謝らなくていいのよ、お初ちゃん。私は全然平気だから。さあ、一緒に戻ろう。私がお姉さんの代わりに、お初ちゃんを守ってあげるから」

 涙で潤むお蘭の目をじっと見つめていたお初は、目を閉じてからゆっくり頭を横に振った。

「どうして? このまま進んでも、お姉さんに会うことはできないのよ」

「その人がお初のことを呼んでいる理由が分かったの。もう、この世界にいる必要はないから」

「でも、まだお初ちゃんの望みは叶えられていないわ」

 再び開いたお初の朽葉色の目には、全てを穏やかに包み込んでくれる豊かな光が宿っているようだ。この子には不思議な力がある事を、お蘭は無意識に感じ取った。そして、その力によって翻弄される彼女の人生を想い、悲しくなるのだった。

「もう、叶えてもらった。お蘭お姉ちゃんに」

「私に?」

「あとは果ての世界へ行くだけ。お初は、元の世界に戻ります」

 果ての世界へ行けば、お初とは二度と会えなくなる。それが辛くて耐えられないお蘭には、しかし、お初を思い留まらせるための言葉が思いつかない。

「お願い、そんな事言わないで・・・」

「お蘭お姉ちゃんとは、また、いつか会うことができるって言ってる」

「誰が?」

「誰だろう? 分からないけど、声が聞こえるの」

 お初は立ち上がり、針の山の頂きに目を向けた。それから、お蘭の顔に視線を移して

「お蘭お姉ちゃん、お初を果ての世界へ連れて行って下さい」

 と頭を下げた。


 木々に囲まれた斜面には、たくさんの卒塔婆や石碑が並んでいる。その一角に、お雪の亡骸が埋葬された。墓の前では、お松が手を合わせて一心に拝んでいる。その背後には伊吹と三之丞が、心配そうに様子を窺っていた。

「お松さん、あなたは何も悪くない」

「お雪を連れて行くと決めたのは私です」

 三之丞の言葉に、お松は耳を貸そうとはしなかった。自分がお雪を指名したことを、彼女は悔やんでいるのだ。

「らしくないぞ、お松。いつもの男勝りなお前はどうした?」

 普段であれば、伊吹にこんな事を言われたら必ず手厳しい言葉を返すであろう。しかし、お松は首を横に振りながら

「ごめんなさい、私はこれ以上進むことはできません」

 と答えるだけであった。

 少し離れた場所では、蒼龍、源兵衛、お菊の三人がお松たちのことを静かに見守っている。

「無理もない、二人は仲が良かったからな。自分にないものをお互いに認めていたのだろう」

「自分にないものですか?」

「誰にでも好かれるお雪殿が羨ましいと、お松殿が話していたことがあった。お雪殿も、女剣士としてのお松殿に憧れを抱いていたに違いない。確か同い年だったはずだが、お松殿はお雪殿を妹のように大切にしていたし、お雪殿は姉のように慕っていた」

 お松とお雪が気心の知れた間柄であったことは、お菊もある程度把握していた。今、源兵衛の話を聞いて、お松にとって失ったものの重さを改めて感じたお菊は、自然と涙が溢れてしまう。

 顔に手を当てて泣きじゃくるお菊に気を取られ、源兵衛は隣にいた蒼龍がいつの間にか姿を消していることに後で気づいた。

「お松殿・・・」

 背後から突然声がして、伊吹と三之丞は飛び上がった。振り返れば蒼龍が、お松の後ろ姿を見つめている。

「なんだ、お前か」

 舌打ちする伊吹を気にすることなく、蒼龍はお松に問いかけた。

「ここに残るおつもりですか?」

 前を向いたまま、お松はゆっくりとうなずいた。

「この子を置いて行くことなど私にはできません。ここで命尽きるまで、お雪の供養を行う覚悟です」

 それきり口を開く者はおらず、蝉の声だけがジリジリとあたりに響く。伊吹と三之丞は、お松に視線を落とす蒼龍の顔を眺めたまま、再び話を始めるのを待っていた。しかし、一向にその気配はなく、ただ時間だけが流れる。

「ならば俺もしばらくここにいるとしよう」

 お松が顔を上げた。

「もちろん、他の者も同様だ」

「何を勝手なことを・・・」

 目を丸くして反論する伊吹に目を向けて、蒼龍は口元を緩める。

「お松殿や俺を置いて旅に出るというのなら、それでも構わんが」

 伊吹は何も言えず、ただ蒼龍を睨むばかりだ。しかし、その効果はない。蒼龍の目は再び、お松に向けられていた。

「お松殿、あなたには少し考える時間が必要だ。結論を出すのは先延ばしにしてもいいのでは?」

 涙に濡れる瞳が蒼龍の顔を捉える。その人を優しく包み込むような面持ちは、お松にとって大きな癒やしとなった。

「どうすれば、お雪殿が一番喜んでくれるのか、それを考えなさい。あなたの不幸になる姿など、彼女は見たくないはずだ」

 話を終えて、その場を立ち去る蒼龍の後ろ姿を眺めながら、お蘭がいつも幸せそうな顔で彼を見つめる本当の理由を、お松はようやく理解したと感じた。


 部屋に戻った蒼龍には、源兵衛とお菊が無言のまま床を拭っている姿が目に映った。お雪が寝ていた場所である。何か作業をしているほうが気も休まるのだろう。お菊は一心不乱に床を磨いていた。

 近くにはお蘭の変わり果てた死体が横たわっている。幸い、その存在には二人とも注意が向いていない。蒼龍は、お蘭の体をそっと抱きかかえ、部屋から出ようとした。

「蒼龍様?」

 お菊の呼ぶ声が聞こえ、蒼龍は足を止めた。

「お蘭さん、お体の具合が悪いのですか?」

「うむ、今は眠っている」

「それは心配だわ。私にできることがあれば何なりとおっしゃって下さい」

「ご厚意のほど、誠にかたじけない。だが、ご心配には及びません。持病ゆえ、直によくなります」

「でも、お一人では大変でございましょう。こちらの用事が済みましたら、すぐに伺いますわ」

 お菊は、お蘭の病気については何も知らない。できればそれを隠しておきたい蒼龍は、どうやって断るべきか悩んだ。

「お菊殿、あなたにも休息が必要ですぞ」

 源兵衛が助け舟を出した。しかし、お菊は譲らない。

「大丈夫です、私はこう見えても体が丈夫ですから」

「辛いお気持ちを紛らわしたいのはよく分かります。わしも、こうして動いていたほうが気が楽になる。しかし、このまま動き続けることはできません」

 源兵衛が悲痛な表情をお菊に向けている。お菊は目を離すことができなかった。これほどまでに辛そうな彼の顔を見たことがなかったのだ。

「これが済んだら少し休もうと思います。あなたも、どうか養生して下され」

 誰もが自分と同じ気持ちであると気づき、源兵衛に諭されたお菊はうなずくことしかできなかった。


 別の部屋に移った蒼龍は、お蘭の体を静かに床へ下ろし、大きく長く息を吐きだした。

 蒼龍はまだ、お雪が傷を負った理由を聞かされていない。雪花たちが関与していたのかも分からない。はっきりしているのは、蒼龍がお雪を守れなかったことだ。固く誓った約束を果たせなかったという自責の念が、彼の心に影を落としていた。どう償えばいいのか、お雪が息を引き取ってからずっと、自問自答している。

「情けないことだ」

 お蘭は、未だ蘇る気配はない。着物で隠れた顔のあたりにそっと触れる。

「いずれお蘭にも話さねばならぬのか」

 お雪が死んだことを知ったら、お蘭は悲しむであろう。そして、雪花の取引に応じた蒼龍のことを責めるかもしれない。自分は間違っていたのだろうか、蒼龍がそんなことを考えていた時、背後に誰かの気配を感じた。

「お松殿?」

 振り向けば、部屋の入口あたりにお松が立っていた。目が少し腫れていたが、表情は穏やかで取り乱した様子もない。

「ここにいらっしゃると伺って・・・ お邪魔でしたでしょうか?」

「いや、そんなことはござらぬ。さあ、入られよ」

 そう声を掛けられたお松は静かに中へと進み、蒼龍の近くに座って深々と頭を下げた。

「先ほどはありがとうございました。少し気持ちが落ち着きました」

 微笑みを浮かべるお松の顔は、今までと少し違う印象を蒼龍に与えた。女性らしい柔和な雰囲気は、彼女が持つ本来の姿なのかも知れない。いつもは指南役としての重責が、それを覆い隠しているのではないだろうか。

「礼には及ばないよ。それより、あなた方には悪いことをしたと思っている」

「悪いこと、ですか?」

「思えば、あの女の要求に応じたのが失敗だったのかも知れない。俺は、必ず守るとお雪殿に約束した。だが、それを果たすことができなかった」

 お松は首を横に振った。

「あの状況では、いかに蒼龍殿が強くてもどうにもならなかったと思います。私達が生きているのも奇跡としか言いようがありません」

「一体、何があったのですか?」

 お松は、事の次第を蒼龍に説明した。蒼龍は、話が終わるまでじっと黙って耳を傾けていた。

「どうやって、そんな大勢の兵士を従わせたのだろうか」

「力で屈服させたのでは?」

「俺たちを直接捕らえるほうが簡単だと思うけどな。もしや、何らかの取引をしたのかもな」

 蒼龍は腕を組み、しばらく考え込んでいた。二人が黙したまま動きを止めている間に、一匹の蝉が近くでやかましく鳴き始め、再び会話が始まった頃には、その蝉はどこかへ逃げていった。

「どんな取引をしたのか分からないが、まだ協力関係が続いているなら、数に任せて再び襲いかかってくるのは間違いない。どうするかな・・・」

「裏道がないか、伺ってみましょうか」

「こちらの考えは読まれている可能性もあるが・・・ 相手はこのあたりの地理には詳しいしね。しかし、本道を通るよりは安全かも知れぬな」

 うなずくお松を眺めていた蒼龍は、彼女の目の腫れが涙のせいだけではないと勘づいた。

「お松殿、あなたはほとんど寝ていないのではないかな。少し休まれたほうがいい。今後の作戦については、皆が集まったときにもう一度話し合おう」

「はい、そうするように致します。あの・・・ 少し気になっていたのですが、お蘭殿はもしかして・・・」

 蒼龍は、後ろに目を遣って

「ふむ、ご覧の通り目を覚まさないのだ。気づかぬうちに発作に襲われたのかも知れぬが」

 と心配そうな顔をする。

「源兵衛さんに相談したほうがよろしいでしょうか?」

「源兵衛殿もお疲れの様子、少し休むとのことだった。お蘭のことは、また後で話をしよう。今はあなたも眠ったほうがいい。俺もここで体を休めるとするよ」

「わかりました。私もそういたしますわ」

 お松は、もう一度お辞儀をしてから静かに立ち去った。誰もいなくなった部屋の中で、蒼龍はお蘭の死体に目を向けたまま、石のように動かない。近くで蝉が再び大きな声で鳴き始めた。

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