第34話 傷ついた仲間
雪花たちは、山奥の森の中で野宿をしていた。猪三郎と銀虫はすでに眠っている。その横で雪花は一人、焚き火の炎を眺めていた。
「雪花殿」
暗がりの中から男の声がした。雪花は驚く様子もなく
「事はうまく運びましたか?」
と尋ねる。しかし、相手はそれに答えようとしない。このとき初めて雪花の視線が闇のほうへ向けられた。
「どうされたのですか?」
「それが・・・ 途中で夜襲に遭い、その混乱の中で逃げたらしく、行方が分からなくなりました」
雪花がすっと立ち上がった。体からは相手を威圧するような妖気が漂い、深く刻まれた眉間の皺が怒りの大きさを表している。
「本当に逃げたのね? 遺体のないことは確認したのね?」
答えがない。雪花は辛抱強く待った。
「今、調べているところです」
眠っていた銀虫がむくりと起き上がる。その気配で猪三郎も目を覚ました。雪花の只ならぬ様子を見て、根来衆たちが失態を犯したのだとすぐに気づき、立ち上がる。
「その場所へ案内しなさい。今すぐに!」
「一体、何が?」
不安そうに問いかける猪三郎の目に映った雪花の顔は険しく、瞳は赤く炎のように揺らいでいた。
「六人の安否が分からないのです」
「まさか、お嬢様まで?」
猪三郎はそう叫んだ後、絶句してしまった。その顔は、瞬時に青ざめ、体は人形のように動かなくなってしまった。
男の先導で、三人は戦闘のあった場所までやって来た。辺りには生臭い血の匂いが漂い、至るところで鬼火のような松明の炎がゆらゆらと揺れている。その炎の一つが、雪花たちのほうへ近づいてきた。負傷したのか、頭に布切れを巻いた兵士の顔が、赤い火の光で浮かび上がる。
「高台から鉄砲と弓矢で攻撃した後、前後を挟み撃ちにしたようだ。三好の残党だと思うが、一体、何のために・・・」
「それより、捕らえていた者たちの行方はどうなったのですか?」
雪花は苛立ちを隠せず、兵士の話を遮る。彼は少し不満そうな顔を雪花に向けたものの、闇の中で怪しく光る紅の目に圧倒され、口を閉ざしてしまった。
「まだ手掛かりは見つからないのか?」
雪花を連れてきた男に問われ、兵士は答える代わりに首を横に振った。男はため息をつき、雪花に顔を向ける。
「先程のお話の通り、敵は前後から攻撃してきたから逃げることはできないはずなのですが」
「高台は左手にあるのね。右側は?」
「崖になっています。下は川ですね」
「そこから落ちたということはないの?」
男はうなずいて
「可能性はあります。今、別の者が調べております故、追って報告があるでしょう。それから、法心は現在、この場を離れております。この度のこと、後ほど我々の処分が決まりましょう。それまでの間、御猶予をいただきたい」
と言った後、深々と頭を下げた。恐らく、死をもって償うことになると覚悟しているのだろう。雪花は、その言葉に応じることはなかった。
しばらくして、鋭い目をした細身の男がやって来た。
「河原で縄を発見した。連中は崖から落ちた後、縄を切って逃げたらしい。死体はないから、全員生きているのだろう。運のいい奴らだ」
「運がいいのはあなた方のほうかも知れませんわね」
雪花が口を開くと同時に、銀虫は崖を駆け下りていった。伊吹たちの行方を探すためのようだが、もはや完全に雪花の手足と化している。
「あとは私たちが行方を探しますわ。それから、法心様にお伝え下さい。残念ながら、今回の話は白紙に戻すと」
その言葉に、男が慌てふためく。
「お待ち下さい、雪花殿。せめて、法心が戻るまでは・・・」
「それまで、こんな所で夜を明かせと仰るのですか? 弁解なさるのなら、自らお越し下され」
雪花が、右の掌を上に向ける。その手の上に丸く青白い光が現れた。それは松明よりも明るく辺りを照らす。開いた口の塞がらない男たちを尻目に、雪花は踵を返し歩き出した。その後を、猪三郎は黙って付き従った。
伊吹たちは、川を辿って熊野三山の一つ、熊野本宮大社を目指した。川の近くにあるということを事前に聞いていたからである。
幸い、お雪の受けた銃弾は急所を外れていたので、即死は免れたらしい。一箇所は右の乳房の下側を少しかすめただけで済んだ。しかし、もう一方は左の脇腹の端あたりを貫通している。着物は血に濡れて、最初から朱色で染められたようになっていた。三之丞やお菊も血まみれになるほど出血が激しい。源兵衛が、傷を縫合してから布を巻いて止血を行った。お雪は苦痛に顔を歪めることがあっても、意識が戻る気配がない。三之丞がお雪の体を抱きかかえ、一行は彼女の身に負担がないよう、ゆっくりと進んだ。
「出血が止まらない。傷口が開いたのかも知れないな」
途中、源兵衛が再び治療を行っている間、松明を持ったお松も、その横にいたお菊も、心配そうにお雪の様子を窺っていた。衣服がはだけていたので、他の男二人は視線を逸らし、ぼそぼそと会話をしていた。
「奴らの仕掛けた罠であることは明らかだな」
「そうですね。その結果、お雪が傷を負うことになった。このことを蒼龍殿に伝えねば」
「俺たちが捕らえられた時、あいつは何をしていたんだ?」
「あれだけの人数を相手にするのは、いくら蒼龍殿が強くても無理でしょう。結局、同じ結末になるだけです」
伊吹はふっと息を吐き
「敵も考えたものだな。どうやって、あれだけの兵士を従わせることができたのか」
と驚きの声を上げた。
「あの女の力でしょう。何か取引でもしたのか、術を見せて脅したか、彼女にとっては造作もないことです」
「そうだな・・・ 困ったものだ」
お雪の処置が終わり、再び三之丞がお雪を抱き上げる。
「傷が癒えるまで、しばらくは旅を中断せねばな」
源兵衛はそう言って、お松とともに進み始めた。他の者もそれに従おうとした時、誰かが恐るべき速さで近づいてくる気配を感じ、全員が一斉に振り向いた。松明の明かりに照らされたその人物が銀虫であると分かるや、源兵衛がすぐに前へ進みだす。
「お前か・・・」
源兵衛は低い声で唸り、刀を抜いた。お松も松明を捨てて素早く抜刀し、源兵衛の横に並ぶ。闇の中、銀虫は立ち尽くしたまま微動だにしない。
「お待ち下さい」
銀虫が口を開いた。いつもは粗暴な振る舞いの多い彼が、今回は様子のおかしいことに気づき、源兵衛はゆっくりと中段に構えながらも
「なんだ?」
と問いかける。
「今回の一件、私たちは何の関係もしておりませぬ」
「嘘おっしゃい! あの兵士たちはあなた達が雇ったのでしょ?」
お松が相手の言葉を遮るように叫んだ。
「私たちは、頭らしき男からある要求を受けて、その交換条件に伊吹様とお菊さんを連れてきてほしいと頼んだだけ。全員を捕らえろなんて申していませんし、ましてや途中で襲撃に遭うなんて、想像もしていませんでした」
半分は正しいが、半分は嘘だ。そして、お松たちは当然、話を信じる訳がなかった。
「仮にあなたの言うことが真実だとしても、私たちの仲間が傷ついたことに変わりはないわ。それは、あなた方が怪我を負わせたのと同じこと」
お松は切先を銀虫に向けた。
「もし、お雪にもしものことがあれば、私はあなた達を許さない」
銀虫は、無表情なままお松を凝視している。その顔を、源兵衛とお松は険しい顔で睨んでいた。両者、不動のまま時間だけが経過していった。
周囲の景色がぼんやりと見えてきた。夜が明けようとしているのだ。周囲は山に囲まれ、その間に一本の川が流れている。両側に広い河原があり、その中に彼らは立っていた。
「源兵衛殿、お雪さんの容態が心配だ。急いだほうがいい」
三之丞が叫んだ後、銀虫は後ろを振り向き逃げていった。しかし、誰も追うことはなかった。皆、再び目的地を目指し歩き始める。
蒼龍が目覚めたときには、格子窓から太陽の光が床を照らしていた。
「おっと、寝過ごしてしまったか」
飛び起きて着物を身に纏うと、隣の部屋へ向かう。そこには、お蘭が眠っているはずだった。
「お蘭、起きているかい?」
返事がないので、そっと障子を開けて中を確認した。いつものように着物を頭から被り、お蘭はまだ目覚めていない。
「珍しいな・・・」
普段なら先に目が覚めて、蒼龍を起こすことが多いのだが、疲れていたのだろうかと、そのまま戸を閉める。死体を起こすことなど無理なので、蒼龍にとっては何もすることができない。
自室に戻り、座ってしばらく待つことにした。窓から差し込む光はやがてなくなり、陽の一番高くなる時間が訪れる。それでも起きてこないお蘭に、蒼龍は一抹の不安を覚えた。普段なら、発作の前には予兆があるのだが、それがなかったのか、それとも気づかなかったのだろうか。いずれにしても、もし死体のまま起きないのなら、待っていても無駄である。
どうすべきか思案していたところに、戸の向こう側から声がした。
「お客さん、そろそろ昼になりますよ」
しびれを切らした宿の者が様子を見に来たのだ。
「すまない、連れが少し調子を崩してね。今日は出発できるかどうか分からない。宿賃は払うから、もうしばらく部屋を使わせてくれないか」
「まあ、それはお気の毒に。お薬をお持ちいたしましょうか?」
「いや、薬は先ほど飲んだから心配は要らない」
「分かりました。何かございましたら、お声を掛けてくださいませ」
女中の去っていく足音を聞いて、蒼龍は胸をなで下ろした。
お蘭は門をくぐり抜けた後、お初がどの方向へ進んだのか皆目見当がつかないまま、赤く色づく荒野を一人で歩いていた。自分が正しい方向を進んでいるのか自信がなく、何度も立ち止まっては周囲を見渡してみるが、手掛かりは何もない。いくら進んでも景色が変わることはなかった。赤茶けた大地に気味悪い形をした枯れ木、そして遠くにそびえる黒い山々。乾いた風が、自分に向かって吹き付けてくる。まるで同じ場所を歩いているようで、お蘭の不安はどんどん増していった。
しかし、そうやって進み続けるうちに、お蘭の耳にあの鈴の音が届いた。初めは気のせいかと思い、立ち止まって耳を澄ます。しばらくして、あたりを浄化してくれるような心地よい音色が聞こえた。間違いなく、お初の持っていた鈴の音であった。
「お初ちゃん?」
お初の姿は見当たらない。かなり離れた場所にいるようだ。それでも、鈴の音は規則的に聞こえてくる。お蘭は、その方角を捉えようと耳に手を当てながら移動を再開した。
遥かに遠い場所だと思っていた黒い山が、だんだん目の前に迫ってきた。山頂は鋭い牙のように並び、目を凝らしてみると山腹にも尖った岩がたくさん生えている。これが針の山なのだろうかとお蘭は思った。不気味な山の形状に気を取られ、足元に漂う黒い霧に気づいたのは、鈴の音の代わりに聞こえてきた甲高い叫び声に、思わず耳を塞いだときであった。
「これは何?」
その霧は足を伝い、腰のあたりまで上ってくる。まるで沼の底から怪物が手を伸ばしてくるようで気味が悪い。お蘭は、その霧を手で払いながら周囲を確認した。叫び声の主は何者なのか分からない。進むのをためらっていた時、前方からまた鈴の音が聞こえる。お蘭は、両手の拳を握りしめ、再び歩き始めた。
霧は少しずつ深くなり、やがて足が完全に隠れてしまった。その中に何かが潜んでいるかも知れないと想像し、お蘭は怖くてたまらなくなる。もし、お初がここを通っていたら、首のあたりまで霧に覆われるだろう。霧がもっと深くなると、完全に見えなくなってしまう。お蘭は焦りを感じながらも、恐怖のせいで、なかなか前に進むことができなかった。
再び、絹を裂くような甲高い叫び声が聞こえてくる。今度は、地面に何かが落ちたらしい。水の入った袋が潰れたような気味の悪い音が響いた。それが何か、お蘭はあまり想像したくはなかった。
山々は頂きが霞むほどに高く、そして墨で塗ったように黒かった。どうやら、この黒い霧が山を覆っているらしい。霧はすでにお蘭の胸のあたりまで達していた。お初の姿を目で探すことはもはやできない。頼りになるのは、時折聞こえてくる鈴の音だ。
「きゃっ!」
お蘭は小さな悲鳴を上げた。何かがお蘭の左の足首を掴んだのだ。だが、その力は弱く、すぐに振りほどくことができた。お蘭は、底に潜む何かから逃れようと、急いで駆け出した。
それから程なくして突然、お蘭は黒い霧の中に声もなく沈んでしまった。遠くから、軽やかな鈴の音が鳴り響いた。
熊野川、音無川、そして岩田川の三つの川が合流する地点には『大斎原』と呼ばれる中洲があり、その昔『家津美御子大神』がこの地に降り立ったと伝えられる。崇神天皇の時代、熊野本宮大社はその中洲に創建された。周囲を厳しい自然に囲まれ、修行の格好の場として多くの修験者を集めた熊野は、やがて霊験あらたかな聖地としてその名が知られるようになる。そんな遠くの見知らぬ土地に都の皇族や貴族は憧れを抱き、過酷で危険な旅をしてまで参拝する者が増えていった。室町時代には武士や庶民にも広まって、大勢の人が熊野古道を行き交う様子は『蟻の熊野詣』と呼ばれるほどであった。かつての賑わいも、しかし、戦国時代になると失われてしまうものの、木立に囲まれた立派な社殿は健在で、往時の面影を残している。
「意外に人が多いわね」
雪花と猪三郎が、二人並んで歩く姿は、周囲の目を引いた。片や類稀なる絶世の美女、片や熊のような大男である。目立たないほうがおかしい。
「こんな所でのんびり道草を食っていていいんですかい?」
「監視は銀虫様に任せてあります。しばらくは相手も動くことができませんから、私たちもここに留まらざるを得ません」
「蒼龍たちはどうするおつもりで?」
「先に進んでくれたら、私たちも仕事がしやすくなりますでしょ?」
猪三郎はうなずいたものの、少し不満があるらしい。伊吹たちは一人を除いて無事であること、怪我をしたのはお菊でないことを、彼はすでに雪花から聞いていた。しかし、結局、約束を守ることはできなかったわけだから、蒼龍がこの件を耳にすれば、再び仲間に加わることになるだろう。だから、このまま放置しておいたほうが雪花たちにとっては都合がいいのである。それでも、猪三郎は復讐を果たしたいという思いがあった。可能なら、鬼坊の敵である蒼龍を倒したかったのだ。
「あの忍者たち、まだ諦めていないようですが」
二人は、自分たちを監視する数名の忍者の存在に気づいていた。もしかしたら、その数はもっと多いのかも知れない。
「放っておきましょう。逐一、相手をしても無意味ですから」
雪花は手をひらひらと振りながら笑って答えた。
一方の銀虫は、雪花たちより北側の村落に滞在していた。伊吹たちがたどり着いた村の外れ、山腹に建てられた寺に、伊吹たちがいるためである。
「どうだ、容体は?」
「出血は止まったけど、熱は高いままね」
お雪の様子を見に部屋へ入ってきた源兵衛を、お松とお菊が迎え入れる。二人はお雪から片時も離れず看病していた。源兵衛が、脇腹の状態を診た後、お雪の額に手を置いて体温を確認する。
「二人とも、少し休んだらどうだ? 今日一日、何も口にしていないだろう。わしがしばらく、ここにいるとしよう」
「源兵衛さんも、治療で大変だったでしょ?」
「後で、若旦那と三之丞が来てくれることになっている。それから、交代して休むようにするよ」
お松とお菊は顔を見合わせ、軽くうなずいてから
「それでは、少しの間お願いします」
と言って部屋を出た。戸が閉まった後、源兵衛は片手を自分の額に置いてから、そのまま顔を撫で下ろした。お雪は玉のような汗をかき、目を閉じたまま苦しそうな表情をしている。その様子をじっと眺めながら、源兵衛は悲しげにつぶやいた。
「わしに、もう少し医学の知識があればな」
お雪が意識を取り戻したのは、日が沈んでからのことであった。その時は、お松と三之丞が付き添っていたが、二人とも疲れのためか、座ったまま居眠りをしていた。
体を起こそうとして脇腹の痛みに顔をしかめ、思わず声を上げるお雪にお松が気づいた。
「お雪、動いちゃ駄目!」
慌てて肩に手を置くお松にお雪は
「お松さん、皆は?」
と尋ねた。
「皆、無事よ」
お雪の顔に笑みがこぼれる。
「私、怪我をしたのね」
「大丈夫、源兵衛さんが治療してくれたわ」
お雪は、ゆっくりと首を横に振った。
「ごめんなさい。私はもう、無理みたい」
「何を弱気なこと言っているの! 大した怪我じゃないって、源兵衛さんが仰ってたわ」
お松が眉間に皺を寄せて叱りつけるのを、お雪はじっと見つめていた。束の間の静寂の後、ゆっくりと目を閉じたお雪は
「お松さんって嘘が苦手ですよね。いつも顔に書いてありますよ」
とつぶやいた。
「気がついたのか?」
三之丞が目を覚まし、お松に話しかける。お松が黙ったままうなずくのを認め、三之丞はすぐに立ち上がった。
「源兵衛殿を呼んでくる」
慌てて部屋を出る三之丞に、お松は言葉を掛けることができなかった。お松は泣いていたのだ。
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