第28話 安珍と清姫

 体力が回復したお蘭とお初は、再び果てしなく続く階段に挑み始めた。

 登るに従って勾配は急になり、足を掛けるところは狭くなる反面、段差は広がっていく。二人とも、足だけでなく手も使って登っていた。お蘭にとっても辛いので、お初の苦痛はどれほどのものか計り知れない。

「お初ちゃん、大丈夫?」

 もし、落下してもお蘭が支えられるよう、今はお初が上側になっていた。微かにお初がうなずいたように見えたが、声を出す元気もないのか、返事はなかった。休憩したくても、そのような場所はどこにもない。ただ、上へ登り続けることしかできなかった。

 やがて、霧の中に入り、周囲の視界は一気に悪くなった。濡れた面は滑りやすく、ますます登るのが辛くなる。

 さらに予期しない出来事が二人を襲った。白く光る異形の怪物の集団が霧の中から現れたのだ。それらは上半身だけ人の形をしていて、下側はぼやけてよく分からない。顔には白い面を付け、そこには目も口もなかった。ふわふわと漂い、時折、二人に近づいてくるが、目を向けるとすっと逃げていく。

「お蘭お姉ちゃん、怖いよう」

 お初が怯えて声を上げた。お蘭は、下からお初に声を掛ける。

「お初ちゃん、気にしちゃだめ。こいつら、何もしてこないわ。前だけを向いて、登ることに集中するのよ」

 そう励ましてはみたものの、お蘭も相手が何をするつもりなのか分からず、不安を抱いていた。とりあえず、お初は自分の言葉を信じて登ることに専念しているので、周囲に漂う化け物に注意を払いつつ、お蘭はお初に付いていった。

 突然、お初が動きを止めた。

「どうしたの?」

「もう、登れないよう」

「足が動かないの?」

 お初は激しく首を横に振った。

「階段がなくなったの」

 それまで、なんとか登り続けたお初であったが、目の前に凹凸の全くない垂直な壁が現れ、とうとうお初は登ることをあきらめた。二人が動きを止めた途端、周囲に浮かんでいた亡霊が一斉に近づいてくる。お蘭は慌てて他に進む道がないか探した。

「お初ちゃん、右を見て。もしかしたら、道がない?」

 霧の中、段差らしきものにお蘭が気づき、お初に尋ねた。細い道が崖に沿って伸びているのを見つけたお初は、絶壁にしがみつくようにして横向きのまま右へ進み始める。そこへ、あの化け物が手を伸ばして近づいてきた。

 お蘭は、下側から霊体を左手で払った。異様な感触とその冷たさに、お蘭は顔をしかめ、すぐに手を引っ込める。その体は煙と化して消え去ったが、今度は別の一体がお初の背後から近づいてきた。助けようと右へ進み始めた時、左手を何者かに掴まれ、体の芯にまで流れてくる冷気にお蘭は悲鳴を上げた。いつの間にか、自分に近づいてきた別の亡霊に、お蘭は気づかなかったのだ。

 お初は、背中から体中に染み渡る冷たい感触に身を強張らせた。右へ進もうと思っても、足が言うことを聞いてくれない。後ろを振り向くこともできず、お初は完全に動きを止めてしまった。背後に迫った亡霊は、お初の体に覆いかぶさり、ゆっくりと中へ入り込もうとしている。お初の身体を乗っ取るつもりなのだろうか。その様子を見たお蘭が叫んだ。

「お初ちゃん、しっかりして!」

 しかし、お初の表情は虚ろで、お蘭の言葉も耳に届いていないようだ。いつの間にか、お初の背後にいた亡霊の顔から白い面が外れていた。その下には、目と口の部分に三つの大きな丸い穴が空いた、真っ白な顔が浮かんでいる。その顔をお初の後頭部に密着させ、その内部に侵入しようとしているようだ。

 お蘭は、左腕を思い切り振り回し、相手の束縛を解こうとした。幸い、化け物たちの身体は非常に脆くて、瞬時に崩れ去り消えていく。急いでお初に近づき、背後にいる亡霊の頭のあたりを思い切り叩いた。

「あっちに行け!」

 しかし、何度同じことをしても、亡霊は煙を手で払った時のように渦を巻くだけで、お初の身体から離れない。そのうち、自分の背後にも別の化け物が近づいてきた。お蘭の身体の中に凍りつくような冷気が流れる。必死に上半身を揺り動かし、相手を近づけまいとするが、実体のない相手はゆらゆらとクラゲのように漂い、離れては接近することを繰り返した。

 とうとう、お初と亡霊が完全に重なってしまった。お初の目は輝きを失い、まるで暗い穴だけがぽっかりと開いたようだ。その目を足元に落とし、何かを拾おうとするのをお蘭は見逃さなかった。そこには、化け物たちが顔につけている白い面が落ちていたのだ。とっさに、お蘭はその面を足で思い切り踏みつけた。

 お初の口から、甲高い叫び声が放たれた。それは、女性の声でも、子供の声でもない、何かの動物の鳴き声とも異なる、おぞましいものであった。お初の身体から、何かがすっと湯気のように沸き立ち、同時に力が抜けて、お初は崖のほうへ倒れ込んだ。

「危ない!」

 お蘭が地面に倒れながら、懸命に右手を伸ばしてお初の左腕を掴んだ。お初の体は、お蘭の片手のみでぶら下がった状態になり、お蘭の上半身も崖から乗り出している。お初は気を失っているのか、動く気配がなかった。

「お初ちゃん、お願い、目を覚まして」

 お蘭の力では、片腕でお初を持ち上げることはできない。お初の腕を掴んでいるのが精一杯で、化け物がお蘭の身体を乗っ取ろうとしても、それを追い払うことは不可能だった。

 この絶体絶命の状況下で、お蘭は意識が朦朧となりながらも、助かる方法を懸命に考えた。そして、一つのとんでもない結論に達したのだ。お蘭は、なんと自分の身を崖のほうへ滑らせ、そのまま真っ逆さまに落ちてしまった。

 気を失っているお初のそばへ近づくことのできたお蘭は、その頭を自分の胸に押し当て、身を守るように腕で抱え込んだ。背後の化け物はまだ、お蘭にピッタリと身を寄せている。しかし、霧の海から抜け出た瞬間、亡霊の身体は蒸発したように消え失せてしまった。白い面だけがひらひらと舞い落ちるのを目にして、お蘭はなんとか逃げられたことを知り、フッとため息をついた。

 だが、これで全て解決したわけではない。二人はいずれ、地面に叩きつけられることになる。お蘭が落下しながら見る景色は、階段を登っていたときと随分違っていた。あったはずの谷も、階段も、何もかもが失くなっていたのだ。地平線を遥か彼方に望み、空は青々と晴れていた。地面に目を向けても、底は恐ろしく深く、周囲に何もないのに、なぜか闇に覆われている。

 ふと、お初の頭に目を遣る。お初はまだ目を覚ましていない。片手でそっと彼女の頭を撫でながら、お蘭は自分の決断が正しかったのかどうか考えていた。

 ここは死の世界だ。すでに死んだ者が、再び死ぬことがあるだろうか、とお蘭は思ったのだ。しかし、お蘭自身は死んでいるわけではない。もしかしたら、この世界でも命を失い、二度と元の世界に戻られなくなるかも知れない。そう悩み始めたのは、すでに飛び降りた後であった。

 周囲がだんだん暗くなる。眼前に広がっていた青空が灰色の雲に覆われる。闇だと思っていたのは厚い雲だったらしい。地面が迫ってきた。そこは一面、華やかに咲き誇る花畑だった。地面に激突する寸前、お蘭は目を閉じた。

「どうした? 大丈夫か?」

 男性の声が耳に届き、お蘭は目を開けた。天井の格子模様が目に映る。誰かが覗き込んでいる事に気づき、それが蒼龍であることが分かると、ようやく自分が元の世界へ戻れたことを理解した。

 ゆっくりと起き上がり、自分のほうに顔を向けたお蘭の目から、大粒の涙が流れ落ちるのを目にした蒼龍は、さっと彼女の下へ駆け寄って、その体を抱き寄せた。

「怖い夢でも見たのかい? でも、もう心配はいらないよ」

 お蘭の頭を撫でながら、そう声を掛けた後、今度は背後に向かって

「もう大丈夫だ。迷惑をかけたな、すまない」

 と頭を下げた。部屋の入口付近に、坊主が数名ほど駆けつけていたのだ。二人が宿泊しているのは、山の麓に建つ小さな古寺である。

「私、どうしたのかしら?」

「悲鳴が聞こえたんだよ。何か危険な目にでも遭ったのかい?」

 お蘭は、夢の中の出来事を蒼龍に伝えた。崖から落ちたと聞いた蒼龍は、かなり驚いた顔をして首を激しく横に振った。

「なんて無茶な・・・ 戻ってこれたから良かったものの、取り返しのつかない事になっていたかも知れない」

「でも、それしか思い浮かばなかったの。あの物の怪たちに取り憑かれたら、もっと酷い結果だった可能性もあるのよ」

 蒼龍は、真剣な顔で訴えかけるお蘭の顔に目を凝らしていたが、やがて感心したように

「普通なら、その子の手を離すことを選択するだろう。お蘭は強いな」

 と言って笑った。そう聞かされて、お蘭は初めて気がついた。そんな選択肢は、全く頭の中になかったのだ。その時は、自分よりもお初の身を案じていた。手を離すなど、考えられないことであった。

「しかしな・・・ お蘭の身に何かあったら、悲しむ者がいることを忘れないでくれ。時には、退くことも大事だ。危険が迫ったら、これからは逃げるようにしなさい」

 お蘭は少しうつむいてから、コクリと頭を縦に振った。それから、こう言い足した。

「その気持ち、私も同じよ。あなたに危険が迫った時、私はいつも心配でたまらなくなります。どうか、逃げることも考えて下さい」

 逆に諭された蒼龍は、頬を指で掻きながらうなずく。

「分かった。お蘭には心配を掛けないよう気をつけるよ。さあ、もう朝になる。そろそろ出発の準備をしよう」

 気がつけば、すでに外が少し明るくなっている。お蘭は、お初のことが気になって仕方がないものの、ここでもう一度眠るわけにもいかず、素直に蒼龍に従うことにした。


 湯浅を抜けると、その先は湯川氏の領土になる。そして、熊野古道の中でも難所の一つに数えられる鹿ヶ瀬峠を越えなければならない。

 むき出しの岩や木の根に覆われた険しい勾配を、伊吹たち一行は無言で行進している。先頭は伊吹と源兵衛、その後ろにお松と三之丞、そして最後はお雪とお菊だ。

 陽はまだ昇ったばかりで気温もそれほど高くはない。あたりは深い緑に覆われ、そこから涼しい風が時折通り過ぎる。たまに鳥のさえずりが聞こえてくる以外は、閑散とした深山幽谷であった。

「あっ!」

 地面に飛び出した木の根を踏んで、お菊が足を滑らせ転びそうになる。お雪が体を支えることで、転倒はなんとか食い止めることができたが、お菊は顔をしかめて、その場で座り込んでしまった。

「どうした?」

 叫び声を聞いた伊吹が後ろを振り向き尋ねる。伊吹に顔を向けたお菊は、なぜか険しい表情だ。

「足をくじいたみたいで・・・」

「歩けそうか?」

 伊吹が駆け寄って様子を見る。お菊は、立ち上がることもできない状態で、右の足首を押さえていた。源兵衛がやって来て湿布薬を患部にあてがい、包帯で固定する。

「三之丞、お菊さんを背負って行けるか?」

 うなずく三之丞に対して、お菊は首を横に振った。

「少し休憩すればよくなります」

「無理は禁物ですよ、お菊殿。さあ、背中に掴まって」

 背を向ける三之丞に、お菊はおずおずと手を伸ばした。

「すみません」

「なに、気にしないで。餓鬼の頃、あなたより重い木材を背負って何度も山を歩きましたよ。これくらい、平気です」

 申し訳なさそうなお菊の声を聞いて、三之丞は笑って答えた。

「とにかく、峠を越えたら宿に入って治療しよう。治るまで旅は中断だ」

 伊吹の指示の後、一行は行進を再開した。

 同じ頃、蒼龍とお蘭は湯浅を通り過ぎ、山間にある農村にいた。間もなく、目印となる神社を通り過ぎ、さらに南に下ればやがて険しい峠道に入ると、二人は地元民から聞かされていた。

「この神社かな」

 小さな、しかしまだ新しい御社殿が、大樹に囲まれてひっそりと建っているのが蒼龍の目に留まった。戦国時代、破壊される寺院や神社が多い中で、新しく建て直されたのであろうか。その近くで僧が一人、地面に座って握り飯を頬張っていた。元は白色だったものが、積年の汚れによって変色したのか、僧の着ている法衣はねずみ色だ。笠を頭に付けたままで、顔までは窺うことができない。

 二人が縁台に座ってしばらく休憩していると、食事を終えた僧が近づいてきた。

「失礼をお許しくだされ。あなた方は峠を越えられてきたのですかな?」

 軽く会釈した後、僧は二人に尋ねた。

「いや、これから越えるのだが」

 蒼龍とお蘭は僧の顔に目を向けた途端、心の臓を冷たい手で掴まれたような気分になった。黒真珠のように輝く僧の瞳に、この世の者ならざる気配を感じたのである。少し笑みを浮かべた表情は非常に穏やかで、それがかえって眼力の強さを引き立てていた。

「そうですか・・・ 山の様子をお聞きしたかったのですが、進む方向は同じでしたか」

「残念ながら、そのようだな」

 僧は、蒼龍の言葉を聞いてうつむき、笠で顔が隠れて見えなくなった。

「あなた方は、ご姉弟ですかな?」

「よく間違えられるが、実は夫婦でな」

「やっ、これは失礼した。熊野詣ですか?」

「伊勢まで行く予定だ」

「ほお、何かお願いごとですかな?」

 顔を上げた僧は、蒼龍ではなくお蘭の顔を凝視していた。お蘭はそれに耐えられず、目をそらしてしまった。

「まあ、そんなところだ」

 僧は納得したように何度もうなずいた。

「拙僧もこのような身であれば、御婦人の病でお悩みのこと、理解しております。願いが叶うことを祈っていますぞ。それでは、失礼」

 そう言い残して立ち去る僧の後ろ姿を眺めながら、蒼龍はつぶやいた

「天狗にでも会った気分だな」


「なんとお礼を申し上げてよいか、言葉にはできませぬ」

 三之丞に助けられながら馬を下りたお菊は、手綱を引いていた農夫らしき男に頭を下げた。

「なに、大したことではねえよ」

 口の周りに無精髭を生やした馬の主は、照れくさそうに笑いながら応える。山間の小さな祠近くで休憩していたところを伊吹たちが通りかかり、背負われているお菊の姿を目にした男のほうが声を掛けたのだ。

「このまま真っ直ぐ行けば山城が見えるから、それを目指せば迷うこともない。折角ここまで来たんだから、『鐘巻寺』に参ってみてはどうかな」

 『鐘巻寺』とは『道成寺』のことである。あの『安珍清姫伝説』で有名な寺院だ。飛鳥時代、文武天皇の命により創建された古寺であるが、その経緯についてはある伝説が残っている。文武天皇の后である藤原宮子は、元は紀伊国の出身だったそうだ。宮子は生後、髪の毛が全く生えなかったため、両親は悲嘆に暮れていた。ある年、海の底から不思議な光が差すようになり、それから里は不漁続きとなる。海女であった宮子の母親が海に潜ってみたところ、そこには黄金色に光り輝く観音像があった。彼女が観音像を毎日拝んでいると、娘の髪が生え始め、その甲斐もあって美しい女性に成長した。村人は宮子のことを『髪長姫』と呼んだそうである。その後、藤原不比等の養女として都に召し出され、やがて文武天皇の夫人となった宮子は、故郷に残した観音像と両親のことが気にかかり、その悩みに気づいた文武天皇が、寺の建立を命じたという。

「確か、その寺で大蛇に化けた女に僧が焼き殺されたという話だったかな?」

 源兵衛が首を傾げる。

「ああ、鐘の中へ逃げ隠れた僧を、その鐘ごと焼いたという伝説が残っている。しかし、今は新しい鐘があるけどね」

 残念ながら、農夫のいう新しい鐘も、羽柴秀吉の紀州征伐時に奪われてしまった。

「なんだか怖い話ね」

「女の執念というものは恐ろしい、ということかな」

 お雪の言葉の後、伊吹はポツリとつぶやいた。

 伊吹たちが農夫と別れた場所に、蒼龍とお蘭が到着したのは、陽が西に傾き始めた頃であった。

「なんとか山を越えられたな。もうすぐ湯川の城だ」

 お蘭にとっては厳しい山越えであったに違いない。蒼龍はお蘭が耐えられるか心配であったが、無事に越えられて心底安堵していた。

「伊吹様たちは、もっと先に進まれているのでしょうね」

「いや、案外この辺りで待ってくれているかも知れない。宿に目印がないか、一応探してみようよ」

 田畑の続く広い平野が一望できる。遠くには、木々に囲まれた小高い山があった。すじ雲が筆で描かれたように伸びた空はどこまでも水色に澄んで、お蘭は、自分が遥か彼方まで空を飛んで移動できるように思え、それがおかしくてクスクス笑い出した。

「どうした?」

「いえ、ちょっと、昔のことを思い出して・・・ あら、あそこに人だかりが」

 田んぼの間に大きな一本の樹が生えていた。その近くに多くの人が集まっている。

「こんな所で商いかな? ちょっと見てみようか」

 二人は、その集団に向かって歩き出した。

 人々は、大木を囲うようにして立っていた。背のあまり高くない蒼龍とお蘭には、彼らが何に集まっているのか確認ができない。

「何を売っているんだい?」

 蒼龍が、前方にいた男性に尋ねた。その男は呆れた顔で

「そんなんじゃねえよ。さらし首だ」

 と返した。

「最近、間者が多く出没しているらしくてね。疑われた者は捕らえられ、拷問された挙句に殺されちまう。時々、見せしめのためにこうやってさらし首にされるのさ」

 隣にいた別の男性が何度もうなずきながら調子を合わせる。

「あんた方、旅の人かい? 気をつけたほうがええ。疑われると面倒なことになるからね」

 お蘭は驚いた顔で蒼龍に目を向けた。蒼龍はただ、うなずくだけだった。


 伊吹たちのいる宿は、巨大な山城の近くにあった。夜になると、何層にも築かれた塀に沿って並ぶ篝火が闇の中で城を縁取り、幻想的な光景を見せる。

 蒼龍とお蘭は無事に目印を探し出し、伊吹たちと同じ宿に入った。

「大したことがなくてよかったな」

「ええ、源兵衛さんの湿布薬が効いたようですね」

 お菊の怪我について、二人はお雪から話を聞いた。思ったより症状は軽く、明日は予定通り出発することになったそうだ。

「田辺というところまで進んで、そこから山のほうへ向かう予定です」

 お雪が今後の旅程について二人に伝える。

「道は険しいのかい?」

「それほどでもないそうですが」

「それほどでも、か・・・」

 お雪の心許ない言葉に、蒼龍が同じ言葉を繰り返す。お蘭は姿勢を正して

「心配ございません。私なら大丈夫ですわ」

 と蒼龍に向かって訴えかけた。しばらく、お蘭の顔を真顔で見つめていた蒼龍であったが、やがて笑顔になってお蘭に優しく相槌を打つ。

「悩んでいても仕方ないか。無理をしなければなんとかなるだろう」

「何かあれば、私達もお助けいたしますわ。ですから困ったときは声を掛けてくださいね」

 お雪の温かい言葉を聞いて、二人は頭を下げた。

「俺たちのほうは何もできないから、できるだけお世話にはならないようにするよ。でも、本当に困ったときは助けてほしい」

 蒼龍がそう言ってもう一度頭を下げるので、お雪は笑顔で

「任せて下さい」

 と言って胸を叩いた。

 ようやく、眠る時間になった。お蘭は、夢の世界での自分やお初の状態が今どうなっているのか、不安に感じていた。早く確認したい一心から、そそくさと自分の部屋へ入ろうとするお蘭に、蒼龍が声をかける。

「いいかい、危なくなったら逃げるんだよ。俺は助けに入ることができないんだから」

「承知しています。決して無理はしませんから」

 蒼龍は視線を落とし、しばらく黙したまま動かなかった。何か言いたげな様子に、お蘭は蒼龍が口を開くのをじっと待っている。

「兵法に曰く、戦わずして勝つ。戦って相手を倒しても、己が傷つけば意味がない。いかに闘いを避けるか、よく考えながら行動しなさい」

 その言葉をそのまま返してやりたいとお蘭は思った。蒼龍が月光と決闘した時のことを、自分がどれだけ心配したかを訴えてやりたかった。しかし、お蘭は何も言わず、一度うなずいてから部屋へ入っていった。

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