第27話 追う者と追われる者
難所と言われる拝の峠を抜け、麓の神社近くに並ぶ茶店の一軒に入った伊吹たちは、ようやく安堵の表情を浮かべていた。
「やっと着いたわ」
「まだ半分だよ。わしの記憶が確かなら、ここは宮原というところのはずだが」
お松と源兵衛の会話をよそに、伊吹が店の給仕らしき中年の女性に尋ねる。
「ここは、何ていうところだい?」
「宮原ですよ、旦那」
宮原を抜けると、今度は糸我、方津戸の二つの峠を越えなければならない。この日、彼らが目指しているのは、その先にある湯浅だ。
「わしらは湯浅まで行きたいのだが」
今度は源兵衛が問いかけた。
「それなら、二つほど山を越えなきゃなりませんね」
伊吹が大きなため息をつく。ここまで来るのに、かなり苦労したからだ。
「こちらほど険しくはないですよ」
女性は笑顔を絶やすことなく付け加えた。伊吹は「分かった」という代わりに右手を上げて合図する。
「お蘭さん、大丈夫かしら?」
お蘭の体力で湯浅まで今日中にたどり着けるのか、お雪だけでなく他の者も心配ではあった。
「知ったことではない。俺たちは今日中に湯浅まで行くぞ」
そう言って、伊吹は給仕から渡された飲み物を一気に飲み干した。山の湧水で冷やされた麦茶が、一同の喉の乾きを潤してくれる。英気を養った一行は、再び南に向かって歩き出した。
「ここを旅人が通らなかったかな。男女三人ずつで行動しているはずなのだが」
「それなら、一刻ほど前に出発されましたよ」
奇しくも、蒼龍とお蘭は伊吹たちのいた同じ茶店に入った。にこやかに応対する女性に対して蒼龍がさらに質問を投げる。
「この先、湯浅というところまで行きたいのだが、道は険しいのかな?」
「そうですね・・・ ここほどではないけど、二つの峠を越さなきゃならないし、大変でしょうねえ」
女性は先程と同じ質問を投げかけられても誠実に応対してくれた。蒼龍は礼を述べた後、今度はお蘭のほうへ目を向ける。
「私なら大丈夫です。峠の二つや三つ、越えられますわ」
「そんなに顔を真っ赤にして大丈夫なことないだろう。とりあえず麓まで行って、今日はそこで宿を探そう」
気丈に振る舞うお蘭であるが、実際には限界に近いことを蒼龍はすでに見抜いていた。
「でも、皆に遅れてしまいます」
「無理して倒れたりすれば、それこそ追いつくことは不可能になる。彼らだって、どこかで休むことはあるだろう。焦りは禁物だよ」
お蘭は、悲しげな顔でうつむきながら
「ごめんなさい」
と一言謝った。
「謝る必要はない。お前だって、ここまで頑張ったんだ。咎める者なんて誰もいないさ」
気落ちするお蘭に慰めの言葉を掛けながら、蒼龍はお蘭が回復するまで、しばらくここで待つことに決めた。
「そろそろ出発しませんか?」
しばらくして、お蘭が蒼龍に声を掛けた。
「今が一番暑い頃だから、少し待とうじゃないか。今日はもう、そんなに急ぐ必要はなかろう」
「そうですけど・・・」
歯切れの悪い返事を聞いた蒼龍は
「何か心配事でもあるのかい?」
と尋ねる。
「いえ、その・・・ 追手が今どこにいるのか気になって・・・」
お蘭が途中で口をつぐんだ。その目には恐怖をたたえ、店に入って来た誰かに釘付けになっている。視線の先を追って蒼龍が見たのは、赤髪の男、銀虫だった。
全く気配を感じなかったことに蒼龍は驚きながらも、相手の様子が少しおかしいことにすぐ気づいた。いつもなら不敵な笑みを浮かべているはずの表情は虚ろで、目は焦点が定まっていない。まるで生きる屍だ。
その背中に隠れるように雪花が立っていた。そして最後に控える猪三郎の巨体が外の陽射しを完全に遮っている。
「あら、お二人ともここに居られたのですね」
雪花がそう言って優しく微笑んだ。柔和な印象のこの女性が、多くの人間を無惨に殺したばかりだとは、蒼龍もお蘭も想像などできないだろう。お蘭は、軽く会釈をした。
「お二人は今日はどちらまで?」
「ここらで宿に入るつもりだ」
「伊吹様たちも?」
「多分そうだろうな。よくは知らないが」
実際には湯浅まで今日中にたどり着く予定であることを蒼龍は知っていたが、それは口に出さなかった。
「そうですか・・・」
雪花は笑みを絶やさず、銀虫と猪三郎をお供に、蒼龍たちから少し離れた場所を選んで座った。愛想のいい店の給仕は、三人の姿が目に入った途端に顔が強張った。美女の対面に熊のような巨漢と赤髪に入れ墨の派手な男がいれば、誰でもそうなるであろう。それでも彼女は作り笑顔でなんとか注文を聞き、一言も口を利かない銀虫を不気味に感じながら、そそくさと奥へ引っ込んだ。
「他の連中はどうしたんだ?」
蒼龍は、雪花に何気なく尋ねた。
「外に待たせてあります」
「死人を中に入れるのは気が引けるか」
雪花は答えなかった。店の給仕がお茶を運んできたからだ。
「お客さん、どちらまで?」
茶碗を手渡ししながら女性が雪花に尋ねた。
「伊勢まで行くことになるかも知れませんが、まだはっきりと決まってはいませんの」
曖昧な返事を聞いて、女性は少し訝しげな表情になったが、すぐに笑顔に戻って
「お伊勢さんですか。実は私、行ったことがないんですよ」
と返した。
「私は何度か足を運んだことがあります」
「それは初耳です、雪花殿」
二人の話を横で聞いていた猪三郎が、意外だという顔をして口を開いた。
「私は今まで各国を渡り歩いてきました」
「では、因幡の出身ではないのですか?」
猪三郎の顔を見ながら、雪花は静かにうなずいた。
「皆さんは因幡からお出でになったのですか?」
女性に問われて猪三郎が
「そうだ。だから、この辺りには疎くてな」
と答える。
「この辺りには、特に珍しいものはありませんよ。みかんが特産ですけどね」
この頃には、有田みかんは土産物として食されていたとの記録がある。
「残念ながら、今は手に入らないですから」
みかんを知らなかった猪三郎が興味を持ったものの、ないと聞いてガックリと肩を落とした。
給仕が立ち去った後、椀に入った褐色の液体をしばらく眺めていた猪三郎が、もう一度雪花に尋ねた。
「失礼ながら、雪花殿はどこのご出身で?」
雪花は、すぐには答えなかった。猪三郎が辛抱強く待っていると、ポツリと一言
「分かりません」
と告白した。
「分からない?」
「子供の頃の記憶が私にはないのです。どこで生まれたのか、親は誰なのか、私には思い出せないのです」
雪花の表情は悲しげで、猪三郎はそれ以上、質問することができなくなった。
「申し訳ない。余計なことを聞いてしまったようです」
雪花はうつむいたまま、小さく首を横に振った。
「人間を氷漬けに?」
「三十人ほどはいたでしょうか。黒い霧に包まれたと思ったら、あっという間に・・・」
笠をかぶり、薄汚れた灰色の法衣を身に着けた僧に、紺色の衣装を着た忍者らしき男性が身を乗り出して、自分の目撃した信じられない出来事を説明している。雪花の妖術の件だ。
二人は深い森の中にいた。西日が木々の間から地面に伸びて、まるで木の枝に羽衣が垂れ下がっているようだ。周囲に人影はなく、聞こえるのは蝉の鳴き声だけだった。
僧の顔は、上半分が笠に隠れて分からないが、口元には笑みを浮かべていた。男より背は低いものの、広い肩幅と厚い胸板が、鍛えられた肉体の持ち主であることを物語っている。
「それが本当なら面白い話だな」
「嘘は申しておりません。そんなことをして何の意味がありますか」
「いや、嘘だとは思っておらぬ。ただ、お主の目にしたものが幻じゃないのかと疑っておるのよ」
「もし、幻であったとしても、恐るべき術です。私は門主様にご報告するため戻るところでして」
笠が上下に揺れた。僧は何度もうなずいたようだ。
「頭はまだ見張っているのか?」
「あれだけの強力な技、是非とも手中に収めたいと申しております」
男の話を聞いた後、僧はしばらく考えこんでいた。再び話し始めるのを、男は黙ったまま待っている。
「その女、わしも会ってみたいものだが」
笠を持ち上げ、僧は男に目を向けた。鋭い眼光に射られ、男は身を固くしながらも僧に伝える。
「頭はあなたを探しておりましたぞ、行者殿。あなたのお力をお借りしたいと」
まるで童子のような笑顔を男に向け、僧は一度だけうなずいた。それを見届けた男は、音もなくその場から姿を消す。
「さて・・・」
一人残された僧は、右手に持っていた金色の錫杖を地面に打ち付ける。遊輪が鳴り響き、蝉の鳴き声が一斉に消えた。
静まり返った森の中を、僧はゆっくりと歩き始めた。
伊吹たちは湯浅に至り、宿に入った。
平安時代末期、湯浅宗重という武将がこの地に湯浅城を築いた。その一族は、湯浅党と呼ばれる武士団を組み、鎌倉時代まで大いに栄えたと伝えられる。しかし、南北朝時代に入り、党の結束が乱れてから急速に衰退した。室町時代に入ると畠山氏が紀伊の守護職となるが、畠山尚順の時代に謀反により落城、その後は家臣であった白樫氏が満願寺山に城を築き、領主となる。
「あのお山にあるのが、今の殿様のお城ですよ。前の殿様がいなくなってから、もう五十年くらい経つらしいですね」
一行を部屋に案内した年若い女中が、開け放たれた障子の向こうを指さしながら説明した。庭の外囲いの上から、こんもりとした樹冠に覆われた小さな山が顔を覗かせている。太陽に照らされて、木々は橙色に染まっていた。
「今は、このあたりも落ち着いているのですか?」
伊吹が外に目を向けながら女中に尋ねた。その美しい横顔をうっとりと眺めながら
「そうですね。でも、ここはいざこざが絶えませんからね。いつ、戦が始まるか見当がつきません」
彼女はそう答えた。
「わしらは紀伊路を通って伊勢まで行きたいのだが」
不意に源兵衛に話し掛けれられ、伊吹の顔を呆けた顔で眺めていた女中は我に返り、顔を赤らめながら源兵衛へ視線を向ける。
「ああ・・・ それなら田辺というところで海から離れて、山を越えるほうが早いですよ」
紀伊路をこのまま南に進むと、途中で二つの道に分岐する。東の山奥に進む道は中辺路、海岸沿いに進む道は大辺路と呼ばれていた。
「海沿いに進んでも辿り着けるのかい?」
「余裕のある人はそちらを使う場合もあるそうですね」
伊吹が女中のほうへ顔を向けて
「その山を越える道は通ったことがあるの?」
と尋ねた。
「私、その道を通って熊野に参ったことがあるのです。なかなかの難所でしたけど、皆様なら心配することはありませんわ」
伊吹はうなずいて源兵衛に視線を移した。
「決まりだな。えっと・・・ 田辺だったかな、そこから山のほうへ向かおう」
誰も伊吹に異議を唱えることはなかった。
月のない夜は、全てが闇に包まれていた。中庭の灯籠の明かりだけが、周囲をぼんやりと照らしている。その近くから話し声が聞こえてきた。一方は男の、そしてもう片側は女の声である。
「こんなところで・・・ 恥ずかしい」
「大丈夫、誰も来やしないよ」
声の主は伊吹と、あの若い女中だった。伊吹は源兵衛や三之丞たちと、そして女中は他の働き手と一つの部屋で寝るため、外でしか事をする方法がないらしいが、追手からの襲撃が緩くなり、余裕が出てきたのか、悪い癖はなかなか直らないようである。女性の息遣いが荒くなり、伊吹がそのまま相手を押し倒そうとした時、他の誰かの足音が聞こえてきた。
女中は、小さな悲鳴を上げながら、慌ててその場を離れる。伊吹も驚いて逃げようとした時、か細い、しかし相手を蔑むような声が伊吹の耳に届いた。
「何をなさっていたのですか?」
声の主はお菊だった。暗くて顔を確認することはできないが、おそらく怒っているのだろう。
「何って・・・ その・・・ 立ち話さ」
「女性の声でしたね。逃げて行かれたようですが、何かやましい事でも?」
「闇夜に見知らぬ誰かが近づけば、逃げるのは当たり前だろう」
「ずいぶん艶のある声をしていました」
伊吹は黙ってしまった。おそらく、お菊のほうを睨んでいるのだろうが、こう暗くては、お菊の顔はどこにあるのか分からないし、睨んだところで効果はない。
「お前は誤解をしている。誘ってきたのは彼女のほうさ」
どちらも黙した状態で長い時間が経過し、今度は伊吹が言い訳を始めた。
「誘われれば、すぐに応じるのですね」
「暇つぶしに相手してただけだよ」
「私に対してもそうだったんですか?」
お菊の声は震えていた。泣いているのだろうか。伊吹は首を横に振り、叫んだ。
「そんなことはない」
「うそ、私を抱いたのは一度きり、それから貴方様は冷たくなられた。私は貴方様にとって、ただの暇つぶしだったのですか?」
「違う、そんなことはない」
同じ言葉を繰り返し、伊吹は反論した。しかし、お菊の言ったことは図星であった。性癖というべきかどうかは分からないが、伊吹は一度抱いた女に対して興味を示さなくなる。そのせいで、何人の女が今まで涙を流してきたか、そして、自分自身どれだけ痛い目に遭ってきたか、本人も覚えていない。そんな性格だから、いつもなら冷淡な態度をとるところだろう。けれども今回は事情が違う。伊吹も今では、お菊を味方にしておくことで刺客からうまく逃れられるのを期待していたし、捕らえられたときに助けてくれるのも彼女しかいないと考えていた。
「今でもあなたを愛する気持ちに嘘偽りはない」
どこかでこおろぎの鳴く声が聞こえてくる。伊吹が言い終えた後、その場を立ち去っていく足音でこおろぎが鳴き止んだ。お菊がいなくなり、一人残された伊吹は大きなため息をついてから、部屋へと戻っていった。
お蘭とお初は、深い峡谷の中を歩いていた。河は干上がり、赤茶けた土ばかりの地面。両側は急峻な崖で、その上には灰色の雲が漂っている。もちろん、人や動物はおろか木の一本も生えてない。まさに死の世界にふさわしいというべき場所であった。
「なんだか怖いね」
お蘭がお初に話しかける。その声があたりに反響した。
「果ての世界もこんな感じなのかな?」
お初の声は少し震えていた。彼女も恐怖を感じているのだろう。二人はしっかりと互いの手を握り合っていた。
「もっと穏やかな場所であることを望むわ。早くここから脱出したいんだけど・・・」
お蘭は目を細めて遠くに何があるのか見極めようとした。
「本当にここから出られるんだろうか?」
崖が、はるか先まで真っ直ぐに続いているのは間違いなかった。しかし、空が暗くて、その向こうに何があるのか全く分からない。
時折、正面から強い風が吹きつけ、周囲の砂が舞い上がった。黄色い壁が視界を遮り、その度に二人は立ち止まって、風の止むのを待たなければならない。
それでも二人は懸命に前へ進んだ。空腹と喉の乾きを常に感じるが、口にできるものはどこにもない。もっとも、死後の世界では何も食べなくていいし、水を飲む必要もない。死ぬことはないのだから当然であろう。それでも、辛い旅であることに変わりはない。
「お蘭お姉ちゃんの旦那さんって、どんな人なの?」
ふと、お初がお蘭に尋ねた。少し驚いた顔をしたお蘭であったが、すぐ笑顔になって
「そうね、背は私と同じくらいかな。優しくて、だけどすごく強いの。いつも私を守ってくれるのよ」
と話し始めた。
「私は体が弱いから、あの人がいないと生活できないの。幸せ者ね、私は」
「きっと、お蘭お姉ちゃんのことが大好きなのね」
お蘭は照れくさくなって、クスクスと笑い出す。その理由がお初には理解できず、不思議そうな顔をした。
「私、何か変なこと言ったかな?」
「ごめんなさい、そんなことないわよ」
弁解しながら、なおも思い出したように笑みがこぼれる。
「お初ちゃんと同じくらいの年の頃だったかな。私、病気のせいで誰にも相手されなくてね。でも、旦那さんは、いろいろと私の面倒を見てくれたの」
「『おさなみじ』だったのね」
お初の言葉を理解するのにお蘭は少し時間がかかった。
「ああ・・・ 『幼馴染』ね。私たちね、同い年なのよ。それでね、どうして私に優しくしてくれるのか、すごく不思議に思って、ある日、聞いてみたの」
「旦那さん、なんて言ったの?」
「分からない、って。分からないけど、お蘭と一緒にいると楽しいからって言われてね。すごく優しい顔して笑ってた。その時かな、旦那さんのことが好きになったのは」
お蘭は、その頃を懐かしんでいるようだった。その彼女の横顔に、お初はずっと目を凝らしていた。
「私も会ってみたいな」
お初がそうつぶやくと、お蘭はお初に視線を移した。
「うーん、それは難しいかもね。でも、会えばきっとお初ちゃんに優しくしてくれるでしょうね。私が嫉妬しちゃうくらい」
二人は、お互いの顔に目を向け、一緒に笑い出した。
かなりの距離を歩き続けたが、代わり映えのしない景色が続いている。ただ、なんとなく両側の崖が自分たちのほうへ迫ってきたように感じた。
「道が狭くなってる。まさか行き止まりなんてことはないわよね」
お蘭とお初は不安そうに前方へ目を凝らしていた。とうとう、二人並んで歩くこともできないほど道は細くなり、両側は背の高い岩盤で仕切られた。見上げれば、頭上高く暗い空が糸のように細く続いている。
お蘭が先頭に立ち、その後ろをお初が付いていく。道は右へ左へと曲がりくねって行き先を把握することはできない。時々、頭上から冷たい空気が下りてきて、汗で濡れた二人の身体から体温を奪う。
「あれ? 道がなくなってる」
突然、赤い土の道が灰色の壁で途切れてしまった。それ以上、進むことはできないように思えた。しばらく呆然と立ち止まっていた二人だったが、とりあえず行き止まりの地点まで進んでみることにした。
「穴が空いているわ。通れるのかしら?」
その穴は、道と同じくらいの幅で、高さはお初なら楽に通れるくらいあった。しかし、お蘭は身をかがめなければ通れそうにない。自然にできたのか、それとも作られたものか、足元は階段のような形に加工されている。
二人はしばらく立ち止まり、顔を見合わせていたが、お蘭は決心したようにうなずいて、穴の中に入っていった。お初も、その後に続く。
中は柔らかい光に包まれ、進むのに苦労はしなかった。階段は真っ直ぐ上へ向かい、見たところ、穴の幅も高さも均一だ。とても自然に形作られたものとは思えない。そして、その壁面を照らす光は、通路の先にある出口らしき場所から差していた。
「あれが出口ね。きっと、頂上へ出られるのよ」
予想よりも近い位置に出口があり、お蘭は頬が緩んだ。疲労で思うように動かない足を、一歩ずつ前に出しながら、二人は階段を登り続ける。
「やったあ、出口だ!」
お初が大喜びで叫んだ。ついに二人は外へ出られたのだ。しかし、そこでお蘭の顔は一瞬に驚愕の表情へ変化した。階段は、まだ続いていたのだ。それは垂直な崖に貼り付くように伸びていた。遠目には階段というより、崖に彫られた縞模様である。お蘭は、その場に座り込み、ため息をついた。
「少し休憩しましょう。まだ先は長そうよ」
お初も隣にちょこんと座り、不安げな顔をお蘭に向けている。そのお蘭は、頂上を覆い隠す真っ白な霧に目を凝らしていた。
「戻るのは無理だから、進むしかないわよね」
ため息をついてから、お蘭はお初に話し掛けた。
「他に道はなかったもんね。どれくらい登らなくちゃならないんだろ?」
お蘭は、軽く頭を振った。
「あまり考えると登る気がなくなっちゃうよ。少しずつでもいいから前へ進みましょう。お姉さんに会うためにも、ね?」
お初は少し元気を取り戻し、お蘭に大きくうなずいてみせた。
「お頭、お呼びですか?」
闇夜の中、わずかに蛍光を放つ黒い甲冑を着た男の下へ、一人の農夫がやって来た。『お頭』と呼んだ甲冑の男性の前で、農夫は片膝を突き、頭を垂れながら返答を待つ。
「行者殿の行方はまだ分からんか」
「はっ、未だ連絡は入っておりませぬ」
「あの女のほうはどうだ?」
「今は野営をしております。二人ほどが監視しておりますが」
農夫の言葉を聞いて、男は眉をひそめた。
「見つかる心配はないだろうな」
「見張りは常に入れ替えております」
「相手は得体の知れぬ術を扱う。油断は禁物だ。監視は昼間だけにしておけ」
「さればとて、我ら忍びの者がそう容易に見つけられるとは思えませぬ」
そう豪語した農夫に、男は言った。
「お主、背中に何を付けておる?」
農夫はポカンと口を開けて男の顔を眺めた後、急いで服を脱いで背中の部分を確認した。すると、そこには宝石のように輝く一匹の玉虫がしがみついていた。玉虫が羽を広げて飛び立とうとしたとき、男は瞬時に刀を抜いて、その玉虫を一刀両断してしまう。
「もう、玉虫の出てくる季節か・・・」
地面に落ちた死骸に目を向けながら、男はつぶやいた。
同じ頃、雪花と猪三郎は森の中で焚き火を囲んで座っていた。蜜柑色の炎が闇夜を照らし、二人の姿を赤々と浮かび上がらせている。銀虫は、猪三郎の後ろで眠っていた。三人の死体の行方は分からない。
「気づいていましたか?」
突然、雪花が猪三郎に問いかけた。
「何をですか?」
猪三郎は、不思議そうに聞き返す。
「見張られていますね」
雪花が、取るに足らない話でもするような口調で話すので、猪三郎は言葉を理解するのに時間がかかった。その意味を知り、慌てて周囲を見回す猪三郎を横目に、雪花の口元がほころんだ。
「まさか、奴らが?」
「伊吹様たちではありませんね。なかなか気配を悟らせないところを考えると、忍びの者ではないでしょうか」
「もしかして、あの落武者の仲間?」
「それは分かりませぬが、もしそうなら、すでに襲われているはずです」
「では、一体誰が・・・」
雪花は頭を振った。
「残念ながら、私の使いの者は死んだようですね。なかなか侮れない相手です」
使いの者が誰なのか分からず、猪三郎はただうなずくだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます