第26話 雪花の力
小島を挟んだ向こう側に断崖絶壁が見える。
「わあ、すごい」
外を眺めていたお雪が思わず声を上げた。雑賀崎に到着したのである。
『紀伊国の 雑賀の浦に 出でみれば 海人の燈火 波の間ゆみゆ』
と万葉集にも詠われたその場所は、西日に照らされ黄金のように光り輝いていた。旅人たちはその迫力に圧倒され、食い入るように外を眺めている。
その崖の裏側に港があり、船はそこに停泊した。ようやく狭い室内から解放され、伊吹は大きく伸びをしながら遠くの景色に目を遣る。このあたりは絶景が数多くあり、その情景は多くのすばらしい和歌を生んだ。
夕日で赤く染まる海を眺めながら、他の旅人たちとともに海岸沿いを進む。左手には高い崖が迫り、その頂上は松の木に覆われて見えない。やがて道は海を離れ、街の中に入っていった。一行は、ついに雑賀の里へ到着したのである。この地に暮らす雑賀衆こそ、後に織田信長と幾度も闘い、その名を国中に広めたのであるが、当時は三好の傭兵として知られていた程度であった。
それまで一緒に行動していた者たちは、街に着くや蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。伊吹たちも例外ではなく、少し進んだ先にあった一軒の宿屋を選び、中へと入る。
「こんな状況じゃなければ、しばらくここに滞在したいものだがな」
「どこにいたって敵からは逃れられないんだから、若旦那がそうしたければどうぞ」
「冗談だよ」
お松に真顔で言われた伊吹は機嫌を損ね、素っ気なく返す。
「でも、明日は和歌の浦を見ることができると思いますわ」
お菊が伊吹に話し掛けても反応がない。代わりにお雪が
「そんなに有名なのですか?」
とお菊に尋ねた。
「昔からたくさんの歌が詠まれているのよ。『若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る』とか」
「お菊殿は学があるね」
源兵衛が顎髭を手で触りながら感心したようにつぶやいた。
「でも、紀三井寺くらいには参るかな。『ふるさとを はるばるここに 紀三井寺』か。我が故郷は遠くになりけり、だな」
「まあ、伊吹様、お上手ですわ」
上品に笑うお菊を見ながら
「じゃあ、明日は早く起きて寄り道することに致しましょう」
と、お松も笑みをこぼし、賛同した。
その頃、蒼龍とお蘭の二人は夫婦水入らずの時間を過ごしていた。彼らは、伊吹たちを追いかけて同じ宿に泊まっている。お雪の発案で、宿泊先が分かるよう目印を宿の軒先に吊るすようになったのだ。珍しく、伊吹は不平を言ったものの反対しなかった。
「やっぱり、何も分からなかったのね」
「書物も失われたと言っていたな。さて、どうやって呪いの主を探そうか」
二人とも、しばらくの間、考え込んでいた。
「伊勢に着けば、何か見つかるかな?」
「そうだな、ここで考えていても仕方ないか。ところで、お初ちゃんとの旅はどうなったんだ?」
蒼龍は、ふと気になったらしく、お蘭に夢のことを尋ねてみた。
「すごく広い草原をずっと歩いていたの。本当に広くて、果てがないんじゃないかって思うくらいの。それから、高い山を登ったわ。そこには草が全く生えてなくて、大きな岩が至る所に落ちていてね・・・」
お蘭とお初は、赤茶けた斜面を登り続けた。砂地の山肌は崩れやすく、油断すると足を滑らせて落ちてしまう。お蘭は、安易に山越えを決めたことを後悔した。山々が連なっていたので、いずれにしても登らなければならないわけだが、探せばもっと楽な道があったのかも知れない。
大きな岩に行く手を阻まれ、何度も回り道をしなければならなかった。全ての岩は表面が滑らかで丸みを帯びている。それは単に落ちているだけのように思えるのに、不思議なことに転がり落ちる様子はなかった。それでも二人は近づくのをためらい、特に岩の下側を通るのはできるだけ避けた。まるであみだくじを辿るように、少しずつ頂上へ向かう。
ようやく、山頂に到着した。お初は立っていることができず、崩れるようにその場に座り込んでしまった。お蘭も限界寸前の状態だったようで、足を投げ出してお初の横に座った。
一息ついた後、目の前に広がる景色を眺める余裕ができた。異様な光景だった。今まで山脈に隠されて分からなかったが、垂直に切り立った崖が左右とも遥か彼方まで続いている。崖は山ほどの高さはないものの、とても登れるような代物ではない。崖の上は平らな地面になっていて、それは四方に広がっていた。その先は灰色の霧に覆われ確認することができない。
「この先、どうやって行けばいいんだろ?」
お蘭が悩ましげに首を傾げた時、お初がある方向を指さして叫んだ。
「見て、お蘭お姉ちゃん、あそこに道がある!」
それは、台地を巨大な鉈で真っ二つに切ったように、一直線に走った細い裂け目だった。
「通れるのかな?」
「でも、他に道はなさそうだよ」
お初の指摘通り、他に通れそうな場所はなさそうだ。お蘭は、両手で自分の頬を軽く叩いて気合を入れる。
「よし、身体を十分に休めて、もうひと頑張りしましょう」
笑顔のお蘭を前に、お初も自然と笑みをこぼした。
西国三十三所の第二番札所である紀三井寺は、当時四十九町という広大な寺領を有していたが、天正十三年における羽柴秀吉の紀州攻めによって没収され、寺に伝わる数々の文書もそのときに失われている。伊吹たちが訪れたのは、それより前のことであるから、それは華やかな場所であったのだろう。
「いや、これは素晴らしい眺めだ」
源兵衛が、眼下に広がる和歌浦を望み嘆息した。白い霧で煙る干潟の中に岩山が浮かんで見える。現在は陸地とつながってしまったが、この頃は小島であったことから、今でも玉津島と呼ばれている。
「ここまで苦労して来た甲斐がありましたね」
紀三井寺は名草山の中腹にあり、境内に行くためには長い石段を登らなければならない。お松の言葉を聞いた伊吹も
「早起きして正解だったな」
と満足げに眺望を楽しんでいた。
伊吹たちが和歌浦の絶景を楽しんでいた時、蒼龍とお蘭は、朱色に縁取られた紀三井寺の楼門を通り、石段を登り始めたところだ。
「いつもより早いなと思ったら、そういうことか」
「紀三井寺は有名ですから。ここまで来たら、やっぱり寄り道したくなりますよね」
相槌を打ちながら、お蘭は杖を頼りに蒼龍の後を付いていく。
階段の脇には高い石垣が並んでいた。石の一つが他から出っ張った形をしていて、そこから水が糸のように垂れている。紀三井寺の名の由来となった三つの湧き水『三井水』の中の『清浄水』だ。両手で水をすくい、二人は飲んでみた。
「すごく美味しい」
「これはいくらでも飲めそうだ」
蒼龍とお蘭は、互いに目を合わせ、笑い始めた。
鳥取を出発してから、緊張の連続だった。蒼龍は強敵と二度も闘い、お蘭も敵に捕まって怖い思いをしている。一時的とはいえ、こうして夫婦ふたりの平穏な旅に戻り、特にお蘭はたいそう安堵していた。自分の事だけではなく、蒼龍が危険な闘いに巻き込まれる心配もなくなったからだ。
しかし、相手は諦めたわけではない。今後、どんな手を使って襲いかかるつもりなのか想像もつかない。その不安からか、お蘭は石段を登る途中で、蒼龍の右腕に自分の左腕を絡めた。
「どうした?」
蒼龍が優しく微笑んだ。恐るべき技を持った剣客であるとはとても思えない、穏やかな表情であった。その顔をじっと見つめていたお蘭は、やがて視線を落として首を横に振ってから
「うん、なんとなく・・・」
と曖昧に答える。しかし、蒼龍にはお蘭の心痛が伝わったらしい。
「そうか・・・ 心配するな。俺はどこへも行ったりしない。必ずお前を守る」
お蘭は、その言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。
伊吹たちは、参拝を済ませて旅路に戻る途中で、蒼龍とお蘭が石段に座り、のんびりと景色を楽しんでいる様子を目にした。
「仲睦まじくて結構ですな」
源兵衛の声を聞いて、二人は身体を一瞬だけ硬直させた後、気まずそうな顔で振り向いた。彼らが近づいていたことに全く気づかなかったらしい。
「邪魔しちゃ駄目よ。さあ、行きましょう」
お松の号令を合図に皆は進み始める。後ろ姿を眺めながら
「俺たちも行くか」
と蒼龍が立ち上がった。お蘭も、差し出された手を取って腰を上げる。その手を繋いだまま、二人は石段を下り始めた。
左に少しずつ曲がった上り坂を進み、その頂上に白い鳥居を見つけて
「ここのようだな」
伊吹がポツリと口にした。途中、田んぼにいた農夫を捕まえて話を聞いたときに教えてもらった神社のことだ。
ここは藤白神社。大阪を起点とし、熊野三山に至る熊野古道には、数多の神社がある。九十九王子と呼ばれるそれらの中でも、藤白神社は五体王子という別格の存在として崇敬されていた。しかし、往時の面影は消え去り、放置された境内は雑草に埋め尽くされ、容易に入ることもできない。
木々に覆われ、黒々とした影のように浮かぶ神殿を横目に、一行は狭い道を進んでいった。やがて道は山へと入り、これから厳しい峠越えが始まることを予感させる。太陽はまだ山に隠れて陽射しは弱く、森の方から時折ひんやりした風が吹き付けてきた。
山の斜面を縫うように通る紀伊路は、激しく蛇行しながら果てしなく続く。緑の衣をまとった山々が連なり、雨でも降ったのだろうか、遠くは夏霞に白く包まれている。道端に目を遣れば、無惨に打ち壊された地蔵が横たわっていた。一体だけ、倒れていない地蔵があったものの、その首は斬り落とされている。
「酷いことをするものね」
破壊された地蔵を目にしたお松は、頭を振りながらつぶやいた。
やがて一行は集落に到着した。しかし、人の姿はどこにもない。山に囲まれて幅は狭いものの、長く続く谷沿いに家がずっと並んでいて、その先に何があるのか、それは確認できなかった。
源兵衛は、何か嫌な気配を感じたのか
「ここを通るのは、あまり気が進まぬな」
と口を開いた。源兵衛だけではなく、他の者も何か妙な殺気のようなものを感じ、先に進もうとしない。しかし
「そんなこと言ってたら先に進めないだろ。さあ、行こうぜ」
伊吹だけは珍しく剛毅なところを見せる。その言葉に背中を押されるように、皆は歩みを再開した。
打ち壊され、焼け落ちた家々が多い中、残った住居は一様に戸を締め切って、人が出てくる様子はない。歩く者もおらず、あたりは静まり返っていた。しかし、至るところから監視されているような気がしてならない。途中に川があり、丸太を並べただけの粗末な橋を渡る。そこから、岩の多く転がる細い川が分岐して流れ、それに沿って道が続いていた。神社の鳥居が目に入ったが、破壊されてしまったのか、その奥にあるはずの神殿は見当たらない。
「なんとも不気味なところだな」
今頃になって怖気づいたのか、伊吹が口を開いた。少し声が震えていた。
突然、家並みが途絶え、何もない空き地が現れた。その奥に目を移したお雪が、か細い悲鳴を上げる。皆、一斉に彼女の顔を見た後、その目の向ける方向へ視線を移した。
その空き地には赤黒い土が広がり、奥には一本の銀杏の大木が鎮座していた。手前側に、横一列に並べられていたのは、人の生首だ。それが、この集落に住む者、あるいは旅人の成れの果てなのかは分からない。盗賊にでも襲われたのか、村人がやったことなのか、それも検討がつかないが、はっきりしているのは、この場所が危険であるということである。
「急ぐぞ。早くここを離れたほうがいい」
源兵衛が、呆然とする他の者たちに向かって命じたので、我に返った皆が一斉に早足で歩き出した。
蒼龍たち二人は、伊吹たちからかなり引き離されていた。必死に付いて行こうとするお蘭ではあったが、逆に体力を使い果たし、途中で休憩を挟まなければならなくなる。
「無理はするな。宿には目印を置いてくれるから、見失う心配は無いよ」
もどかしさを感じながらも、お蘭は蒼龍の指示に従うしかなかった。
彼らも谷の集落にたどり着き、妙な胸騒ぎを覚えながらも先へと進んだ。
「静かね」
お蘭の発した小さな声が、周囲に大きく反響するかのように感じて、お蘭は慌てて口をつぐんだ。蒼龍は、どんな動きも見逃すまいと神経を研ぎ澄ましている。
不意に蒼龍が動いた。お蘭の顔の前に手を伸ばし、飛んできた何かを掴む。それは握りこぶし程の大きさの石だった。二人は、しばらくその場に留まった。蒼龍は、石が投げられた方向あたりを睨みつけている。
「逃げたようだな」
蒼龍は、手に持った石を捨ててお蘭の顔に目を遣った。
「大丈夫か?」
お蘭はゆっくりとうなずいた。
「よし、こんな所、早く通り過ぎよう」
二人は再び歩き出した。
太陽が真上に昇り、火の近くにでも立っているかのような暑さに閉口しながら、猪三郎は雪花に従い、歩き続けた。他の死人形たちは平気な顔をしているが、銀虫だけは身体中から汗が噴き出し、ふらふらと足がおぼつかない。
「少し休みませんか?」
猪三郎が雪花に話し掛けた。
「しかし、このあたりは日陰がないから、涼むことはできませんよ」
雪花の言うことも、もっともだと思った猪三郎は、それ以上何も言わず前に進んだ。すでに竹筒の水は空の状態で、耐え難い喉の乾きを抱えながら歩いていると、やがてあの集落に到着した。
それまで涼しい顔をして歩いていた雪花が手前で立ち止まった。じっと前を注視して動こうとしないので、猪三郎が訝しげに
「どうしましたか?」
と尋ねた。しかし、雪花はすぐには答えない。
「見張られている気がします」
「誰に?」
雪花は、視線だけを猪三郎の顔に移して
「それは分かりません」
と微笑んだ。
雪花はゆっくりと進み始めた。最初は何も感じなかった猪三郎も、周囲の異様さに気づき、警戒するようになる。しかし、途中で川を発見した時は大喜びで叫んだ。
「水だ!」
猪三郎は大きな岩に駆け登り、間を縫うように勢いよく流れる水を手ですくって夢中で飲んだ。よほど喉が渇いていたのか、銀虫も近くで同じことをしている。その様子を、雪花は死体に囲まれながらしばらく眺めていたが、やがて自分も川のほうへと向かった。
川岸にしゃがみ込み、涼やかな音を立てて流れる水の中に手を入れて、雪花はその感触を楽しんでいた。キラキラと輝く水面の光が、彼女の白い肌に波模様を描き出す。何か考え事でもしているのか、その表情は虚ろで、どこか悲しげだった。
誰もが警戒を解いた状態の中、雪花の背後に忍び寄る怪しい影がひとつ。突然、その影は手を伸ばし、雪花の口を塞いだ。さすがに驚きを隠せなかった雪花ではあったが、相手が懐に手を入れようとしたので、体をひねり、鳩尾あたりに強烈な肘打ちを食らわせる。思いがけない攻撃に、背後にいた者はうめき声を上げながら膝を突き、腹を押さえてうずくまった。
「猪三郎様、後ろ!」
雪花の声に驚いて後ろを振り返った猪三郎は、忍び寄る二人の男に気づいてすぐに抜刀した。銀虫にも、刀を持った二人が迫っていたが、彼は慌てることなく向きを変え、相手を睨みつける。
勝負は一瞬だった。猪三郎は、相手に攻撃する暇を与えず、一刀のもとに胴斬りした。しかも二人同時である。周囲に血の雨を撒き散らし、積み上げた石が崩れるように男たちは倒れた。銀虫のほうは、両手に各々の首を掴み、頭上高く持ち上げている。どちらも首の骨を折られてすでに息絶えていた。
雪花に対峙したのは無精髭を生やした恰幅のいい男性だ。なんとか立ち上がり、雪花を睨みつける。明らかに怒り狂った表情をしていた。
「おのれ・・・ 楽には死なせんぞ」
身体の中の憎悪を吐き出すかのように罵る男性の後ろには、ぼろぼろの着物を羽織った三十名ほどの男たちが、手に武器を持って立っている。その中の一人が、近づいてきた銀虫に対して矢を放った。
矢が銀虫の左胸に命中したのを見て男たちは大声で笑い始めた。だが、表情一つ変えずに前進する赤毛の大男に、その笑い声は急激に小さくなる。代わりに大きな叫び声が聞こえてきた。しかも複数だ。
声の方向に目を遣ると、二人の剣客に何人かの仲間が斬られていた。鬼坊と月光が、まるで大根でも斬るように刀を振り回す度、悲鳴とともに鮮血が飛び散る。刺客はそれだけではない。銀虫が近くにいた細身の男を組み伏せ、両手で頭を掴んだ。
「助けて・・・」
泣き叫ぶ男の背中を踏みつけ、まるで地中の芋でも引き抜くかのように、頭を思い切り持ち上げた。首の皮膚や肉が裂け、頭と一緒に背骨がずるずると身体から抜け出る。あたりを血の海にして男は絶命した。
遠くから投げ矢で攻撃する蝙蝠の姿もあった。鬼の目を使い、首、心臓、股間など、的確に相手の急所を撃ち抜く。犠牲者はたいてい苦しみながら地面を這いつくばい、そのうち動かなくなる。
ほんの短い間に、男たちは全滅した。五体満足のままの姿はほとんどない。精巧な人形の部品がうずたかく積まれたような死体の山を前にして、無精髭の男は呆然とその場に立ち尽くしていた。
「お前たち、何者だ」
大勢いた仲間を全て失い、完全に戦意を喪失した男は、雪花に目を向けて震える声で尋ねる。しかし、彼女がそれに答えることはなかった。
突然、世界が歪んでしまった。左右の目が、それぞれ見当違いの場所に向いている。その視界がだんだんと暗くなっていった。立っていられなくなり、その場に倒れた時、ようやく自分が脳天から真っ二つに斬られていたことに気がついた。男の背後には鬼坊が、手で刀の血を拭っている。
猪三郎は、目の前で行われた大量殺戮に圧倒され、言葉もなく立ち尽くしていた。
「大丈夫でしたか?」
雪花に声を掛けられ、悪夢から目覚めたばかりのような顔の汗を拭い、猪三郎はゆっくりと雪花のほうへ向かった。
「まだ、誰かに見張られているようです。早く行きましょう」
「本当ですか?」
雪花は微笑みを浮かべながらうなずいた。死体の山を残したまま、二人は道へと戻る。大量の血が川に流れ込み、その水は真っ赤に変色していた。
雪花たちは、銀杏の大木がある空き地までたどり着いた。雪花も猪三郎も、空き地にあった生首を一瞥しただけで、そのまま通り過ぎようとした。先程の無数の屍を目の当たりにした後なら、大したことはないのかも知れない。
その時、茂みの中から武装した集団が姿を現した。彼らは道を塞ぎ、その中の十人ほどが弓を構える。しかし、雪花と猪三郎はすでに気配を感じていたようだ。特に驚く様子もなく立ち止まった。
「お前たち、ここを生きて出られると思うな」
一人の男が叫んだ。左目から頬にかけて、大きな刀傷の跡があり、その目は潰れているらしい。
「先程の闘いを覗いていたのでしょう? あなた方に勝ち目はありませんよ」
「やかましい! こっちには奥の手があるんだよ」
雪花の言葉に激昂し、男がそう言い放った。
「雪花殿、火縄の匂いが」
猪三郎が慌ててまわりを見回した。どうやら、火縄銃を持った者たちが潜んでいるらしい。彼らは落ち武者のようだが、鉄砲まで持参しているとは猪三郎も予想外だった。
片目の男が高らかに笑い出した。
「女、お前だけは助けてやらんでもないぞ。着ているもの全部脱いで、こちらに来て許しを請うんだ」
その指示に従うつもりなのか、雪花はゆっくりと前進を始めた。野卑な笑みを浮かべ、その姿を舐め回すように眺めていた男たちは、無防備なまま近づいてくる雪花に少し戸惑いを覚え始めた。相手の数は先程と同じくらいで、あたりには鉄砲隊も潜んでいる。普通なら絶体絶命の状況下で、しかし、雪花は動じる様子がない。その顔には恐れというものが微塵も感じられず、琥珀色の目は彼らを蔑んでいるようだった。
とうとう、雪花は片目の男のそばまでやって来た。久々に目の前に現れた女性、しかも格別に美しい姿に、周囲の男たちは今にも飛びかかりそうな勢いで雪花を凝視している。
「なんだ、俺たちに脱がせてほしいのか?」
「道をあけて下されば、皆様方に危害は加えませぬ」
男の顔から余裕の笑みが消えた。周囲の者たちも、相手の落ち着き払った態度を前に動揺が隠せない。
片目の男は、目にも留まらぬ速さで刀を抜いた。この男、剣の腕は確からしい。後ろにいた猪三郎が、雪花の無謀な行動に不安な表情を浮かべている。
「この場で斬り捨ててくれる」
雪花は口元を緩めた。
「どうぞ」
相手を見下したような目に男の怒りが頂点に達した。雪花の頭上めがけて刀を振り下ろす。その剣閃は雪花の身体を両断するはずだった。しかし、目の前には何事もなかったかのように立ったままの雪花がいる。一同が自分の目を疑った。猪三郎も例外ではない。
男には、相手を斬ったときの感触が全くなかった。刀を持った自分の手に一つの目を向けたままの男に対して
「まだ勝負しますか?」
と雪花は尋ねた。夢でも見ているのか、それとも亡霊でも相手にしているのかと、男は混乱した。
「撃て! 撃ち殺せ!」
男が大声で叫ぶと同時に、至るところから破裂音が聞こえ、流れ弾が何人かの味方まで道連れにした。だが、肝心の標的は全くの無傷である。
「此奴、物の怪か?」
そう思うのも当たり前のことであろう。攻撃が全く効かない相手に、誰も為す術がない。逃げ出す者まで現れ、烏合の衆と化した男たちに、雪花は追い打ちをかける。
急に凍りつくような寒さを感じた。あたりが暗くなり、今まで経験したことのない極寒の世界に閉じ込められた気がした。逃げようにも、思うように動くことができない。体に白い霜をまとい、やがて厚い氷に覆われ、男たちはその中に閉じ込められた。
再び、初夏の暑い陽射しが戻った。しかし、雪花の目の前に築かれた巨大な氷からは、強烈な冷気が周囲に放たれている。それは猪三郎のところにまで流れ、彼の身を震わせるほどであった。
今度は草陰から悲鳴が聞こえた。樹上から落ちてくる者もあった。火縄銃が近くに転がったのを見るに、鉄砲隊の一人であろう。その顔は苦痛に歪んで、目と耳から大量に血を噴き出している。いったい雪花がどんな術を使ったのか、猪三郎には理解できないが、これほど悲惨な死に様を目にするのは彼にも経験がない。
「さあ、参りましょうか」
雪花が猪三郎に話しかける。勝負はあっけなく、一瞬のうちに終わってしまった。この美しい女性が扱う妖術に、想像を遥かに超えた破壊的な力があることを認識させられ、猪三郎はこの場から逃げたい衝動に駆られたが、なんとか踏みとどまった。
死の軍団は、太陽の光でさえ容易に溶かすことのできない巨大な氷山をその場に残し、先へと進んだ。
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