第23話 明石から須磨へ

 三人は、宿に泊まっているはずの伊吹たちが滞在していると分かる目印を見つけようと、あたりに目を配りながら街道を進んでいた。あの喧嘩があってから、誰もが貝のように口を閉ざしている。お菊はお蘭の隣を歩きながらも、どう声を掛けていいか分からず明らかに困った表情だ。そんな彼女の苦悩を知らない蒼龍とお蘭は、お互いに平静を装ってはいるが、その間にある張り詰めた空気は、どんな鈍感な人間でも気づくであろう。

「おお、あったぞ」

 蒼龍が突然、素っ頓狂な声を上げた。宿の入口に掛けられた草履を見つけたのだ。蒼龍が中に入ってみると、上がり框で一人座っているお雪がいた。彼女は蒼龍の顔が目に入るや飛び上がり、駆け寄ってきたと思う間もなく蒼龍に抱きついた。

「よかった、ご無事だったのですね。私、心配で心配で・・・」

 お雪の思いがけない行動に驚いた蒼龍は、しかし、すぐに顔をほころばせて、お雪の背中を優しく叩いた。

「いや、心配を掛けてしまってすまない。大丈夫だ、無傷だよ」

 端から見れば感動の再開である。しかし、お菊はハラハラしながらその様子を窺っていた。お蘭の体が小刻みに震えていたのが、横にいるだけで分かったのである。チラリとお蘭の顔に視線を送った時、彼女の目にはお蘭が瞳に涙を浮かべている様子が映った。

「えっと、お雪さん、他の方々はどちらに?」

 お菊は、未だに蒼龍から離れないお雪の下へ近づき、問いかけた。お雪がようやく背中に回していた腕を外し、お菊に向かって笑顔で答える。

「お松さんと三之丞さんは外へ様子を窺いに出かけていますが、あとは皆、部屋にいますわ」

 それから、お蘭が背後にいたことに気づいたお雪は、再び驚いた顔をして

「お蘭さん、ご無事でしたのね」

 とそばへ寄ろうとした。慌てたお菊が行く手を遮ろうとする。

「お蘭さん、疲れておいでのようだから、私が付き添います。お雪さんは、蒼龍様を部屋へ案内していただけますか。私どもも後から付いていきますから」

 お菊の言葉を聞いたお雪は少し首を傾げながらも、無邪気な笑顔を見せてうなずいた。

 蒼龍に気を取られているお雪を後目に、お菊は急いでお蘭の下へ戻り、恐る恐る様子を窺う。うつむいたままの彼女は、消え入るような声でつぶやいた。

「私、こんなことで嫉妬してしまって、恥ずかしい」

 お蘭の悲しげな表情を眺めているうちに、お菊は蒼龍に対して憤りを覚えるようになった。

「お蘭さんが恥じることなんて何もありません。恥ずべきは蒼龍様のほうですわ」

 そう小声で話しかけ、お蘭の肩にそっと手を添える。

「さあ、参りましょう」

 二人は、蒼龍たちの後を追って宿の奥へ進んでいった。

 部屋の中には二人の男がいた。床に寝転がる伊吹と、あぐらをかいて座る源兵衛である。

「伊吹様、源兵衛さん、蒼龍様がたった今、戻られました」

 お雪の嬉々とした声に、両者ともさっと立ち上がった。その顔は驚きで満ちている。

「まさか、全員倒したのか?」

 伊吹が思わず問いかける。蒼龍は首を横に振って

「現れたのは鬼坊と、妖術使いの女だけだ。鬼坊は倒すことができたよ」

「驚いた。あの男を倒すとは・・・」

 源兵衛が半笑いで声を上げる。しかし、すぐに真顔になって

「お蘭殿はどうされたのだ?」

 と尋ねた。蒼龍が後ろを振り向いたちょうどその時、お菊がお蘭を連れて部屋に入ってきた。

「皆様、ご心配をお掛けしてすみませんでした」

 そう言って頭を下げるお蘭の姿を目にして、源兵衛は安心したようだ。

「いや、ご無事でよかった。さあ、歩き続けて疲れたでしょう、中に入って休まれよ」

 源兵衛は手招きしながら、蒼龍たちに声を掛けた。


 部屋の中で、銘々が雑談を交わしながらくつろいでいるうちに、ふと伊吹や源兵衛が違和感を覚えた。最初はそれが何か分からなかったが、やがて蒼龍とお蘭の距離が離れていることに気づいた。いつもなら、お蘭は蒼龍に寄り添うようにしているのに、その時は一人分くらいの隙間があったのだ。それが分かると、二人とも視線をそらし、他人行儀な雰囲気であったり、全く会話をしなかったり、普段とは違う様子が目につくようになる。伊吹も源兵衛も、痴話喧嘩でもしたのだろうと気がついて、特に何も言わなかった。

 しかし、お雪は違った。いつもと違う雰囲気を感じ取っていたのは同じである。彼女は、それをより深刻に考えていたのだ。

「蒼龍様もお蘭さんも、今日は妙によそよそしいですわね」

 お雪に指摘され、そのとき初めて二人は目を合わせた。

「そうかな?」

「そうかしら?」

 同時に答える二人に、お雪は心配そうに問いかける。

「あの・・・ もしかしたら先程、私が蒼龍様に飛びついたのがいけなかったでしょうか?」

 その言葉を聞いたお蘭が慌てて首を横に振った。

「そんなこと・・・ 私はそれくらいで妬いたりはいたしません」

 それは逆に、お雪の言葉を肯定している事にしかならない。顔を赤らめるお蘭を見て、蒼龍が助け舟を出した。

「いや、実はな、ここへ来る途中で少し口喧嘩をしてしまってな。我ながら大人げないことだが」

「そうだったんですね。じゃあ、ここで仲直りして下さい」

 お雪に満面の笑顔で返された蒼龍は、苦笑いしながら人差し指で頬を掻いた後、お蘭のほうへ顔を向けて

「その、さっきは済まなかった。もう、機嫌を直してくれないだろうか」

 と謝った。少し時間が過ぎてから、お蘭がゆっくりとうなずくのを確認して、お雪はポンと手を叩く。

「さあ、これで丸く収まりましたわね。仲睦まじい御両人に喧嘩なんて似合いませんわ」

 こうして半ば強引に和解した蒼龍とお蘭ではあるが、どちらもそのきっかけが見つからずに悶々としていたから、お雪のお節介は両者にとって渡りに船だったに違いない。

 お雪がお蘭の横に座り、もっと蒼龍の近くへ寄るようにと促している最中、お松と三之丞が戻ってきた。二人とも慌てふためいた表情で、部屋に入ってくるなり

「大変よ!」

 とお松が叫ぶ。そして、その中に蒼龍たちがいることに気づいて、これ以上できないというくらい目を大きく開いて驚いた。

「どうして?」

 三之丞が、狐につままれたような顔で部屋の中を眺めながら口を開く。石仏のごとく動かない二人に源兵衛が尋ねた。

「何が大変なんだ?」

 お松が思い出したように早口で答える。

「近くで敵の姿を見つけたの。あの赤髪の男がいたから間違いない。鬼坊も一緒だったわ」

「馬鹿な。鬼坊は蒼龍殿が倒したと・・・」

 源兵衛が険しい顔を蒼龍に向けた。蒼龍は真面目な顔になり、声を落として答える。

「信じられないかもしれないが、生き返ったらしい」

 源兵衛は、右の眉を少し上げた後、深くため息をついた。

「またか」

「とにかく、蒼龍殿がご無事でよかった。それに、お蘭殿とお菊殿も」

 三之丞が安堵の声を上げながら部屋の隅に座った。

「私たちは、てっきり蒼龍殿が敗れたのだと思ったのです。お蘭殿やお菊殿の姿がないものだから、どこかに捕らえられているのかと尾行したのですが、途中で見失ってしまって」

 三之丞の隣に正座して一呼吸ついた後、お松が皆に向かって説明した内容に、伊吹は慌てて

「逆に尾行されたんじゃないのか? 奴ら、すでにこの場所を知っているのかも」

 と叫んだ。

「十分に注意して帰ってきたつもりだから大丈夫だとは思うけど」

 お松はそう答えたものの、自信なさげだ。

「その前に、俺たちの行動は読まれていたよ。向こうも二手に分かれたんだ。俺には鬼坊とあの女が、そして、残りの者が皆の後を追っていたらしい」

 誰もが、蒼龍の話を聞いて愕然とした。しばらくの間、声を出す者は一人もいなかった。

「下手したら、殺られていたかもしれない」

 小さな声を出した伊吹が全身を震わせる。それをきっかけに皆が呪縛から解かれたように動き出した。

「どうして、それをあなたがご存知なのですか?」

 お松に問いかけられた蒼龍は、彼女に顔を向けて

「あの女から聞いたんだ」

 と答える。

「あの女?」

「妖術使いの女さ。目が合った途端、体が動かなくなった。だが、向こうは俺を倒す気がなかったらしい」

「それで話をされたと?」

 蒼龍は大きくうなずきながら

「取引を持ちかけられた。俺が今後一切、奴らの邪魔をしないという条件で、お蘭を返し、襲撃も中止するという取引だ」

 部屋の中がまた静まり返った。源兵衛が静かに尋ねる。

「応じたということか?」

「その通りだ」

 蒼龍が答えた瞬間、床に手を叩きつけて怒り出したのは伊吹だ。

「そんなことを勝手に決めるな。どう考えても、俺たちのほうが不利になるじゃねえか」

「もう一つ、これからは誰も傷つけないと約束してくれた」

「信じられるものか。口だけなら、どうとでも言える」

 三之丞も怒りを露わにして、蒼龍の話を真っ向から否定した。

「その約束を守るおつもりか、蒼龍殿? 相手が従うかどうか分からないような約束を?」

 源兵衛の口調からは、その奥に秘めた怒りをなんとか抑えているように感じる。

「相手が約束を守る限りは、俺もそれを反故にはできない」

 頭を横に振る源兵衛を横目に、今度はお松が問いかけた。

「蒼龍殿は、もう旅をお続けにはならないおつもりですか?」

「否、相手が本当に約束を果たすかどうか見定めるため、旅は続ける。しかし、皆と一緒には参らない。後から付いていくことにしよう」

 明らかに激高している伊吹と三之丞、快くは思っていない源兵衛に対し、お松やお雪、そして、この事実を今になって知らされたお菊とお蘭も冷静に受け止めているようだ。

「仕方ありません。相手がどう出るか、様子を窺うことにいたしましょう」

 お松が、ため息交じりにその場をまとめようとするのを伊吹は阻止する。

「冗談じゃない。俺はどうなるんだ?」

「私達だけでお守りするしか手はありません」

「どうやって? この間は、あの女に手も足も出なかったんだろ?」

「でも、こうやって無事に切り抜けられたのです。皆で知恵を出し合いましょう」

 伊吹はお松を睨んでいるものの、それ以上は何も言わなくなった。お松に文句を言っても意味はないと悟ったのだろう。そこで今度は蒼龍に向かって怒鳴りつけた。

「ここで抜けるのなら、親父が払った金を全部返してもらおう」

 蒼龍は伊吹の顔を凝視し、その横顔をお蘭が心配そうに見ている。蒼龍が懐に手を伸ばした時、お松が叫んだ。

「お待ち下さい若旦那。蒼龍殿は今まで危険を顧みず私達を守って下さいました。そして、最後まで見届けるともおっしゃっているのです」

 お松は、伊吹がなにか言う暇を与えず、蒼龍に対しても訴えかけた。それは、初めて会ったとき目にした、凛然としたお松の姿であった。

「蒼龍殿、私達との約束も必ず守っていただけますね」

 真剣な眼差しを向けるお松に、蒼龍は一言だけ力強く発した。

「必ず守ってみせよう」


 その後、一行はその日の内に出発することに決めた。敵が潜んでいるこの宿場町から少しでも離れたいからである。

 まずは源兵衛が宿の玄関口であたりを確認し、続いてお松が姿を現した。お松はまた、お菊の着物を身に着けている。二人はそのまま出発し、しばらくしてから今度は女装した伊吹と侍姿のお菊が後を追いかけた。最後に、伊吹の小袖を着た三之丞とお雪が出発する。今度も同じ方法で、相手の目をくらまそうという狙いらしい。

「さて、俺たちも出発するか」

 蒼龍がお蘭に声を掛けた。お蘭は少し不安そうな顔で、小さくうなずく。その様子に気づいた蒼龍は、お蘭を安心させようとして

「心配はいらない。もう誰も死なせたりはしないよ」

 と笑顔を向けた。お蘭に、いつもの優しい笑顔が戻った。

 街道には、旅姿の夫婦や荷車を引く人夫、鍬や鋤を担いだ農民など、様々な人々が往来していた。後方を歩く者たちは、前にいる仲間を見失わないよう気をつけなければならない。

「伊吹様、目立つから分かりやすくていいですね」

 お雪が三之丞に話しかける。呑気なことを言うものだと三之丞は思ったらしい。

「目立つのは問題だと思うが。この作戦、本当に大丈夫だろうか」

 そう言って嘆息した。伊吹の顔を目にした者は、男であるなどとは夢にも思わないはずである。しかし、女にしては異様に背が高い。いや、背の低い男性がいるように、背が高い女性だって少なくはない。だが、肩幅が広く、がっしりとした男性的な体つきが、一種の異様さを感じさせるのだろう。通行人は必ず伊吹の姿に目を遣った。

 人通りが少なくなり、海岸沿いの道までやって来た。右手に広がる浜辺で男が網の手入れをしているのが目に映る。

「今のところ、追手はいないな」

 源兵衛が後ろを振り返りながらお松に話しかけた。遠く離れたところに伊吹とお菊の姿がある。

「油断は禁物です。先回りして待ち伏せしている可能性もあるのですから」

 前方を見据えながらお松は愛想なく答える。道は緩やかに左へ曲がり、海の向こう側には山々が連なり顔を覗かせていた。伊勢はその山を越えた場所にある。

「全く、見世物小屋にでも入った気分だよ。あんなに注目されるとはね」

 伊吹の不平を聞いたお菊は

「それは、伊吹様があまりにも美しいからでしょう。女の私が拝見しても嫉妬してしまうくらいですわ」

 と言葉を掛けたが、伊吹は激しく首を横に振る。

「俺はそんな風には思わなかったな。皆、何か得体の知れないものを目の当たりにしたような顔だった」

 お菊もそう感じてはいたのだろうか。すぐに返そうとはしなかった。

「それは考えすぎです。多分、恥ずかしいという気持ちが、そう錯覚させるのでしょう」

 伊吹は「うーん」と低く唸った後、お菊に問いかけた。

「お菊さんは恥ずかしくはないのかい?」

「私ですか? 特に気にはなりませんでしたが」

 伊吹のほうが体の大きい分どうしても目立ってしまうが、侍にしては線が細く、顔立ちに男らしさが微塵もないお菊に違和感を覚えた者も少なからずいただろう。しかし、彼女の場合は奇態なところがなかった。伊吹は性差を超えた不気味な面と妖艶な面を兼ね備えていた。それを自分で無意識に感じ取っていたから伊吹は羞恥し、対するお菊は平気だったのかも知れない。

「まあ、確かにお菊さんの変装は見た目が綺麗だからな」

「そうですか、ありがとうございます」

 綺麗な侍というのも変な形容だが、女性であるお菊は素直に喜んだ。

 やがて、真っ直ぐ伸びた街道の左に小さな山が迫ってきた。六甲山系の始まりである。

「なんだか寂れた山ね」

 お雪が思わず口にするのも無理はない。長きにわたる戦乱の中、焼き討ちや樹木の伐採などにより六甲山は荒廃が進み、それは明治時代まで続いた。三之丞も、むき出しの山肌に、痩せた松の木が申し訳程度に生えている様を見て

「戦のせいだろうが・・・ これはひどいな」

 と顔をしかめる。

「そういえば、三之丞さんは丹波の生まれとお聞きしたことがありますが、本当ですか?」

 突然、お雪に尋ねられた三之丞は驚いた。

「そうだけど、どうしてそれを?」

「以前、宗二さんから伺ったことがあって」

「そういうことか・・・」

 三之丞は何度も大きくうなずいた。宗二は口の軽い人物だったようである。

「杣工を営んでいらしたんですよね」

「そんなことまで聞いてたのか」

 杣工とは、いわゆる林業に従事している者のことである。はるか昔から日本では木造建築が主流であり、木材は欠かすことのできない資源であった。しかし、豊富だった日本の森も乱獲すれば枯渇するのは当然のことで、戦国時代には各地の大名が、軍事物資としても重要な森林資源を保護するようになった。そのため、木を伐採することも厳しく制限されるようになったのである。六甲山のみならず、はげ山と化した場所は日本の至る所に存在していた。

「杣工では食べていけなくなったんだ。餓鬼の頃は伐採の手伝いをしていたが、十五になって戦に駆り出された。小さな戦だったけど、何もできなかったよ」

 お雪はうつむいたまま、三之丞の話に耳を傾けている。

「四度めの戦で初めて人を殺めた」

 そう口にした三之丞の顔に、お雪は視線を向けた。その視線に気づいた三之丞が、目を大きく見開いているお雪の顔を見て不思議そうに尋ねる。

「どうかしたのか?」

 お雪は慌てて前を向き、首を横に振った。

「いや、辛かっただろうなと思って」

 その言葉を聞いて、三之丞は笑みを浮かべる。

「その時は生き抜くことで精一杯だったからな。相手のことを考える余裕なんてないよ。それに、敵の首を取れば金一封がもらえる。その喜びのほうが大きかったな」

 お雪は前方を見据えたまま小さくうなずくだけだった。


 地面に横たわる影がだいぶ長くなった。もうすぐ日も暮れるだろう。

「このあたりが宿場町のようだが」

 源兵衛があたりを見回した。彼らがたどり着いたのは須磨。『源氏物語』の中で、光源氏は、右大臣と弘徽殿女御の圧迫から逃れるため須磨に身を隠した。その場所は『昔は相当に家などもあったが、近ごろはさびれて人口も希薄になり、漁夫の住んでいる数もわずかである』と描写されている。平安時代以降もしばしば戦乱によって被害を受け、今の荒廃ぶりは、光源氏が経験した以上のものかも知れない。

 源兵衛とお松の二人は、後続の仲間たちを待つために立ち止まった。通りを歩く人は皆無だ。明石は結構な賑わいであっただけに、余計侘しさを感じさせる。道の両側には家が並んでいるものの、半分以上は空き家らしく、戸や窓が破壊されて中の様子を覗くことができる。粗末な家具が横倒しになり、利用できそうなものは全て持っていかれた様子だ。案外綺麗で修理すればすぐにでも住めそうな雰囲気だった。

「あんたたち、旅の人かい?」

 突然、声を掛けられ、二人とも悲鳴を上げそうになった。いつの間にか老婆が背後から近づいていたのだ。老婆の背中は曲がり、みすぼらしい身なりをしていた。着ている小袖は元から灰色なのか、それとも汚れて灰色になったのか見分けが付かない。

「そうですが」

 戸惑いながらもお松が答える。

「残念だが、このあたりには宿はないよ。この先は西宮だけど、そこも今は荒れ果てているようだね」

「戦があったんですか?」

 源兵衛が尋ねてみた。

「そんなもん、しょっちゅうじゃ。でも、今はもっと東のほうで大きな戦があるよ。あんたら、そこへ向かう気かい? それは止めといたほうがええ」

 二人はしばらく顔を見合わせていたが、源兵衛が思い切って聞いてみた。

「わしらは伊勢を目指しているんだ」

 深い皺の刻まれた顔を二人に向けて、老婆は答える。

「西宮から船が出ているよ。雑賀の里への便があるから、そいつで紀伊に入って紀伊路を辿ればいいじゃろう」

 源兵衛は、顎髭を触りながら「ふーむ」と唸ったきり、言葉が出ない。

「紀伊路だと遠回りね」

 お松が源兵衛に問いかける。

「昔から『急がば回れ』と言うじゃろ。死んでは本末転倒じゃ」

 何も言わない源兵衛の代わりに答えたこの老婆、意外に学があるようだ。お松も納得してうなずく。そうしている間に伊吹とお菊が追いついた。女装の伊吹を目にするなり、老婆は小さく悲鳴を上げた。その顔には、未知の怪物を目の当たりにしたような表情を浮かべている。

「なんだい、この婆さん」

 伊吹の野太い声を聞いて、老婆の顔はさらに驚愕の表情に変化した。

「わしは狐にでも馬鹿されているのかのう」

 老婆は頭を振りながら立ち去ろうとする。

「あっ、どうもありがとうございました」

 お松が礼を言うと、老婆は後ろを向いたまま、すっと左手を挙げた。伊吹もお菊も、何の話をしていたのか分からないので、お松と源兵衛を不思議そうに眺めている。その二人は、親切な老婆の姿を目で追っていた。その先には黒い雲が不気味な影を落としていた。

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