第22話 痴話喧嘩
陽が空高く昇る頃、伊吹たちは大蔵院に到着した。ここは元々、室町時代の嘉吉元年に建てられた陣屋の跡だそうである。この年に、六代将軍の足利義教は赤松満祐の謀反により殺害された。陣屋を建てたのは満祐の弟の祐尚だが、幕府軍による赤松氏追討により満祐とともに討ち死にしている。このとき、播磨の豪族として栄華を極めていた赤松氏は滅亡し、しばらくの間、歴史の舞台から姿を消した。大蔵院には赤松祐尚夫妻の墓が現代でも残っており、この寺を静かに見守っている。
街道の左右には民家がずらりと並んでいた。南からの潮風に鼻をくすぐられながら、一行は東へ進む。
「このあたりで腹ごしらえするか」
伊吹のいつもの呼びかけに応じて、一行は近くにあった茶店の一つに入った。店の中は半分程度が客で埋まっている。入口付近の空き場所を確保し、注文を終えてから、お松が今後について話を始めた。
「蒼龍殿は、この辺りで待ってくれとおっしゃっていたわ。もう少し先へ行ったら宿を探しましょう。早ければ今夜、合流できると思うけど」
お松は、蒼龍が負けたときのことを話そうとはしない。それは他の者も同様だ。ただ一人を除いては。
「奴が勝てるとは限らないだろう。いや、あれだけの手練が相手では無理に決まってる。先へ進んで、できるだけ敵から離れたほうがいいのではないか?」
情の薄い伊吹の言葉を聞いて誰もが呆れ果てたものの、それに対する反論ができない。唯一、お雪が
「蒼龍様は、簡単に負けたりはいたしません。きっと、ご無事で戻ってきてくださるわ」
と言い返すだけであった。物事を論理的に考える源兵衛が口を開く。
「蒼龍殿が簡単に倒されるとはわしも思っていないが、もしもの場合も考えておかねばならない。お蘭殿とお菊殿が一緒なら、そう早くは到着できないだろう。明日、一日はここで待とうではないか」
源兵衛に対しては、伊吹も口答えせず素直に従うようだ。彼の案に誰も反対することはなく、食事を終えた一行は、東に進んだ先にあった一軒の宿に入った。
ちょうど同じ頃、蒼龍たちは加古川の前で船を待っていた。西へ向かう旅人は多く、岸に到着した船からたくさんの人々が降り立つのに対し、船を待つ人の姿はそれほど多くはなかった。
「西へ向かう人は多いのですね」
独り言のようにつぶやいたお菊が、お蘭に顔を向けて
「やはり戦のせいでしょうか」
と話しかけた。お蘭が首を横に振りながら答えようとした時、背後から何者かが声を掛ける。
「へへっ、匂い立つような美女が二人もいるぜ。おい女、俺たちの相手をしろ」
酒くさい息にお蘭とお菊は思わず顔をしかめた。きつね顔の痩せた男が、真っ赤な顔に満面の笑みを浮かべて二人の姿を交互に見比べている。その後ろには、太った体に布袋様のような顔立ちの男が細い目をお蘭に向けていた。もう一人、背が低く肌の浅黒い男は、布袋様の横でお菊を凝視している。三人は皆、腰に刀を帯びていた。
お蘭もお菊もすぐに蒼龍の背後へ身を隠す。蒼龍は、眉一つ動かすことなく三人のならず者たちに話しかけた。
「俺たちは、あの船に乗るつもりだ。お前たちの相手をしている時間はない」
その言葉に気を悪くしたのか、きつね顔の男が叫んだ。
「お前一人が行けばいいだろう。その二人は置いていけ」
後ろにいた布袋様も続けて脅しをかけようとする
「俺たちのことを知らないのか? 『明石の牛鬼』といえば、この界隈で知らぬ者はない」
ある程度は知られた名前であるのか、周囲がざわめき出した。それでも、蒼龍は動じることなく
「知らないな」
とだけ答える。その瞬間、きつね顔の男が蒼龍に斬りかかるため抜刀しようと構えた。しかし、刃が鞘から半分ほど顔を出したところで動きはピタリと止まった。蒼龍が電光石火の抜刀で先に相手の鼻先へ刃を突きつけたのだ。その早業に三人とも体が金縛りになったように固まってしまい、唖然として刃の先端から目が離せない。
「止めておけ。其奴は『尼子の百鬼夜行』だ」
この名は広く知られているようである。『明石の牛鬼』三人組は、それを聞くなり、女性のような甲高い悲鳴を上げながら逃げていった。
蒼龍が振り返ると、そこには銀虫と猪三郎が並んで立っていた。そして、背後には雪花が、柔らかな笑顔で蒼龍を眺めている。
「奇遇ですな、皆さん」
先程の声の主は銀虫だったらしい。わざとらしく挨拶する銀虫の目はお蘭に向けられ、お蘭は顔を背けて、蒼龍の身体を盾に身を潜める。
「お嬢様、こちらにお戻り下さい」
猪三郎が差し出す手を無視して、お菊も蒼龍の背後に隠れた。
「一時的にとは言え、今は休戦状態なんだ。お互い、もう少し親密になろうじゃないか」
取って付けたような笑みをこしらえ、銀虫はお蘭に近づこうとする。その間に蒼龍が割って入る形になった。蒼龍は涼しい顔で、自分より背の高い銀虫の顔を見上げている。その視線に気づいた銀虫は
「気に入らんな、その顔」
と眉間にしわを寄せてつぶやいた。
「銀虫様、先ほど申し合わせたこと、もうお忘れか?」
雪花の冷ややかな声が響き渡り、銀虫は蒼龍を睨んだまま雪花たちの下へ戻っていった。雪花へ視線を移した蒼龍は、彼女の背後にいる者の姿を目にして心臓が止まるかと思うほど驚いた。それは死んだはずの鬼坊だったのである。
船に揺られている間、蒼龍とお菊は共に向こう岸へ顔を向けていたが、その目の焦点は定まっていなかった。お蘭は、蒼龍の様子を不安げに窺っている。少し離れた場所に、雪花たちが座っていた。その数は六人。雪花、銀虫、猪三郎の他に、死んだ蝙蝠、月光、そして鬼坊の姿もある。その周りには、他の客との間に自然と隙間ができていた。皆、彼らの姿を不気味に感じていたらしい。それは銀虫や猪三郎も同じで、雪花を取り囲むように座っている三人の死体たちとは少し距離を置いている。
不思議なことに、蝙蝠も月光も死んでから日が経っているのに腐乱する様子がない。これも妖術のなせる技なのか、言わば新鮮な死体のままである。亡者を意のままに操るだけでも信じられないことではあるが、それを持続できるというのも恐ろしい。ましてや、蒼龍やお菊は妖術で蘇生していることを知らないのだから、ますます訳が分からず、混乱しているのである。
対岸にたどり着き、船を降りた蒼龍たちは、東に続いていた本道を使わずに岸沿いを進んでいった。雪花たちと離れるためである。彼女たちが追ってこないのを確認した蒼龍は、大きなため息をついた。
「どういうことだ。あの男も不死身なのか?」
「傷が浅かったのではないでしょうか? だから、助かったのだわ、きっと」
お菊の言葉に対して、蒼龍は頭を振って否定した。
「あれは致命傷だった。絶対に助かるはずがない。生き返ったとしか思えない」
蒼龍は、蝙蝠や月光の時の状況も思い出そうとしていた。どちらも亡骸に近づいて、事切れているのを確認している。蝙蝠は頭を矢で射抜かれ、月光は胸を『かまいたち』で裂かれた。それは致命傷であったはずである。
「すると、雪花様の妖術で・・・」
「まさか、そんなことが・・・ いや、しかし・・・」
最初はお菊の言葉が信じられなかった蒼龍も、雪花が鬼坊の死体とともに忽然と姿を消したことを思い出し、それが真実かもしれないと疑い始めた。しかし、底しれぬ雪花の力を知れば知るほど、蒼龍は彼女の持つ力に興味を持ち始めた。もしかしたら、お蘭の病気を治すための鍵が得られるのではないかと考えたのである。お蘭がすでに雪花から呪いのことを聞いていた事実を、蒼龍はまだ知らなかった。
周囲には植えられたばかりの苗が揺れる水田が広がり、その間には池や沼地が点在している。三人は曲がりくねったあぜ道をゆっくりと進んでいた。蒼龍はずっと考え事をしながら歩いていたので、その後ろでお蘭とお菊が話をしていることに気づいていない。
「あら見て、蝶々」
お蘭が指差す方向に、黒い大きな羽をパタパタとはためかせ、アゲハ蝶が舞っていた。
「まあ、大きな蝶々ね。お山の方から飛んできたのかしら」
ヒラヒラと自由に飛び回る蝶を目で追いながら、お菊が楽しげに口を開く。吹く風は爽やかで、見上げれば淡い青空の中、鳶が空高く浮かんでいた。目に映る和やかな風景を楽しみながら、二人はとりとめのない会話に花を咲かせている
「蒼龍様とはどのようにお知り合いに?」
突然、お菊に尋ねられ、お蘭は「えっと」と言い淀んだ。この質問は、旅に出てから二度目であった。
「私達、幼馴染なんです。小さい頃から一緒だったから・・・」
「そうなんだ。小さい時からずっと一緒にいられるなんて、うらやましいわ。でも、お蘭さんほどの御方ならば恋敵も多かったのではないかしら?」
お蘭は首を横に振った。
「私を貰って下さる方なんて他にはいませんでした。だから、伴侶になって欲しいとあの人から文が届いた時は嬉しくて」
これは謙遜ではなく本当の話で、呪いのため体が弱く、時には行方が分からなくなるお蘭に対し、親しくなる者はほとんどいなかったのだ。そんな事情など知らないお菊は無邪気に
「周りの殿方たちは見る目がなかったのね。もしかしたら、自分には高嶺の花だと思っていたのかも」
と言葉を返し、うつむいているお蘭の顔を覗き込みながら次の質問を浴びせた。
「もちろん、蒼龍様には承諾の返事を送ったのですね」
「いいえ、その時は考えさせてほしいと・・・ その後、親に相談したら反対されて・・・」
言葉を濁せばいいようなものだが、お蘭は正直に答えてしまった。ここで、お菊が複雑な事情を察したのか、申し訳なさそうな表情で
「そうですか、いろいろと御苦労をなさっているのですね。ごめんなさい、余計なことばかり聞いてしまって」
と頭を下げたので、お蘭が慌ててお菊の両肩に手を添えた。
「そんな・・・ 私は気にしてませんから・・・」
「どうした?」
気がつけば、蒼龍が振り返って二人の様子を窺っている。
「私がお蘭さんを困らせるようなことを聞いてしまって」
お菊がそう言って、決まりが悪そうに笑った。
途中、小さな川に架かる橋を渡り、道端にあった愛らしい地蔵に手を合わせ、田んぼにいた百姓に道を尋ねながら、蒼龍たちは先へ進んだ。粗末な木の道標で街道へ戻ったことが分かった頃には、太陽が沈みかかり、空が紫色に染まっていた。
「もう暗くなるな。今日中に追いつくのは無理そうだから、この辺りで宿を探すか」
蒼龍は二人にそう告げたものの、あるのは民家ばかりで宿はおろか店もないので、仕方なく寺を回ることにした。
「一夜の宿をお借りしたいのだが」
「一部屋だけなら空いておりますが」
夜の帳が下りた頃ようやく見つけた宿であったが、蒼龍とお蘭は困ってしまった。お菊には、お蘭の秘密についてはまだ隠している。死体になったお蘭の姿を目撃すれば、どんな反応をするか想像できない。
「私、一晩起きていることにします」
「いや、そんな事をすれば体に障るよ。俺に一ついい考えがある」
しばらくして蒼龍は、立派な書が揮毫された大きな屏風を二隻抱えてやって来た。
「お互い気を使うだろうから、目隠しに借りてきたんだ」
寺の小坊主に、二人とも良家の御令嬢で失礼があってはならないから間仕切りを貸してほしいと頼んだところ、納屋の奥にあった屏風を引っ張り出してくれた。なんでも、前の住職が書いたものらしい。
ござを並べ、その間に屏風を置く。これで、お蘭の姿がお菊の目に触れることも防げるというわけだ。
こうして、お蘭は安心して眠りにつくことができた。
お蘭は、亡者の森の三叉路に戻ってきた。
お初がすぐに飛びついて
「お蘭お姉ちゃん、戻ってきてくれたんだね」
と嬉しそうにお蘭の顔を見上げる。
「ごめんね、怖くなかった?」
お蘭の問いかけに、お初は激しく首を横に振って
「大丈夫だよ。こんな所、早く出ようよ」
と訴えかけた。お蘭はうなずき、前につけた目印を確認する。
「よし、確か左へ行けばよかったのよね」
早速、二人の行進が始まった。お蘭は周囲を観察しながら、これ以上は無理だというくらい慎重に進む。お初はそんな彼女から離れないようしっかりと手をつなぎ、心配そうに見守っている。
お蘭は、どこかに分岐点があるに違いないと確信していた。曲がり角のあたりや、緩やかなカーブの付近、さらには真っ直ぐ続く道でさえも、お蘭は目を凝らして脇道がないか確認しながら、できるだけゆっくりと進んでいく。しかし、新しい道が見つかることはなかった。そして、やがて視界に入ってきた光景は、彼女を混乱させるのに十分なほど信じられないものだった。
二人はまた、分かれ道に来てしまったのだ。それだけではない。右側に、お蘭がつけた丸い傷跡の残る木があった。いつの間にか、同じ道を往復していたことになる。異常な状況であることを、お初もさすがに理解したのか、涙目でお蘭に向かって
「お蘭お姉ちゃん、怖いよう」
と震える声を上げた。
お蘭は諦めず、もう一度右の道へ入り、脇道がないか丹念に調べた。道の両脇には、背の高い木だけではなく、太陽の光などほとんど届かないというのに、自分の背丈ほどもある緑褐色の草が大量に生えている。それはお蘭たちの視界を遮り、その向こうにあるものを覆い隠していた。
「この先に道があるのかしら?」
試しに藪の中へ入ってみる。どの方向を進んでいるのか、すぐに分からなくなり、迷った末に出てきた先は三叉路だった。二人とも疲れ切って、その場に座り込んだ。
「私、すぐ道に迷うの。こういう時、旦那様がいてくれたらな」
お蘭がため息をついた。
「お蘭お姉ちゃんには旦那様がいるの?」
「ええ、私なんかよりずっと頼りになるわよ」
お蘭は笑いながら答える。お初の顔にも少し笑顔が戻った。
「旦那様に、どうすればいいか聞ければいいのにね」
「そうねえ。でも、元の世界に戻らなきゃならないし・・・」
お蘭は、道に迷った時どうすればよいのか、蒼龍に教えてもらったことがあったのを思い出した。
「えっと、こういう時は目印になるものを決めればいいのよね。お天道様とか、お星さまとか」
空を仰げば、月のように白い光を放つ太陽が、木の間から顔を覗かせていた。お蘭はすっと立ち上がり、太陽のある方向に三歩ほど歩いてから、お初のほうを振り向いて
「少し休憩したら、もう一度だけ一周してみましょう」
と言った。
顔を上に向けて歩くお蘭の姿を不思議そうに見つめつつ、お初は手を引かれ前へ進む。太陽の位置を基準に、お蘭は自分が今、どのような道を辿っているのか頭の中で懸命に描いていた。こうして得られた地図を参考に、抜け道がないか探ろうと考えているのだ。
そんな状態でしばらく歩いていた時、突然お初が声を上げた。
「お蘭お姉ちゃん、そっちは道じゃないよ」
そう指摘されて初めてお蘭は前を向いた。二人は、例の草に覆われた道の脇に向いて進もうとしている。しかし、もう一度視線を上に戻すと、木の間から空が真っ直ぐ続き、あたかも道があるような雰囲気だ。お蘭は、これが抜け道ではないかと思った。
「お初ちゃん、お空を見てごらん」
言われた通り、顔を空に向けたお初は「あっ」と叫んだ。驚きのあまり開いた口が塞がらないお初に、少し得意顔のお蘭が話しかける。
「ここを通れば外に出られそうよ」
二人はもう一度、草の生い茂る中に入っていった。
空にできた道を頼りにお蘭はゆっくり前へ進んだ。その道幅がだんだんと広くなり、木の数が少なくなっていく。とうとう視界は空だけになり、お蘭は亡者の森を抜けられたことを悟った。
「お初ちゃん、森を抜けたわ」
「本当? 私には何も見えないや」
お初の声が何となく遠ざかっていくように感じた。お蘭は、目を覚ましてしまったのだ。
早朝、温かい粥をいただき、すっかり元気を取り戻した三人は、寺の住職に礼を述べて旅を再開した。彼らが歩いているのは開けた平野で、あたり一面に広がる水田には規則正しく苗が並んでいる。その様子を眺めていた蒼龍がつぶやいた。
「もう田植えは終わってるようだな」
後ろでお菊と一緒に歩いていたお蘭が、それを聞いて話しかけた。
「ますます暑くなるのですね」
「お蘭は夏が苦手だったな」
「だって、汗でベタベタになりますもん」
「私はどちらかといえば冬のほうが苦手です」
お菊が話に加わった。
「特に雪の降る日は気が滅入ってしまいます」
「俺はどちらも好きになれないな」
蒼龍が頬を緩める。
「あなたが好きな季節は春でしたわね」
「桜の咲く季節が一番だな」
蒼龍の言葉を聞いたお菊の顔が少し曇った。
「私も春は好きでしたが、今では一番思い出したくない季節ですわ」
お菊の暗い表情を目にすると、蒼龍もお蘭もその訳を聞くことはできなかった。
明石の名物といえば、現代では明石焼が有名だ。その誕生は江戸時代の末期だから、蒼龍たちが生きていた頃はまだ存在しなかった。しかし、具として使われる蛸はずっと昔から捕られていたようである。『太閤記』によれば、秀吉が信長への歳暮として明石の蛸を三千匹贈ったとの記録があるから、この時代でも有名だったのであろう。蒼龍たちは、蛸壺がずらりと並んだ港まで来て海を眺めていた。その向こうには淡路島が浮かぶ。神話の時代、伊耶那岐と伊耶那美によって誕生した第八州の中で最初に生み出された島と伝えられる。
「穏やかな海・・・ 因幡とは正反対ですわね」
物憂げな表情でお菊がつぶやいた。故郷を懐かしんでいるのだろうか、空を映す鏡のように物静かな海を眺めるお菊の様子に、蒼龍とお蘭は彼女のことが少し心配になった。
「お菊さん、なんとなくお疲れのご様子ですが、大丈夫ですか?」
お菊に近づき、お蘭がそっと声を掛ける。お菊は小さくうなずいて
「私、これからどうすればいいのか分からないのです」
と告げた。海から目を離さないお菊をじっと見ていたお蘭であったが、やがて視線を蒼龍に向ける。お蘭と視線が合った蒼龍は頭を掻きながらお菊に助言した。
「お菊さん、できることなら因幡へ戻ったほうがいい。仲間に事情を話せば、誰かが付き添ってくれるだろう」
しかし、お菊は激しく首を横に振る。
「もう戻れない。あの方から本心を拝聴するまでは」
蒼龍は嘆息した後、お菊の横で一緒に海を眺めながら
「なすべきことは分かってる。でも、できないんだね」
と理解を示した。お菊は蒼龍の横顔に目を向けた。その頬を涙が一滴、流れて落ちる。
「よし、それなら俺が代わりに伊吹殿の本心を聞いてやろう」
突然の蒼龍の発言に、お菊は「えっ」と聞き返す。その驚いた顔に目を向けながら、蒼龍は満面の笑顔で話を続けた。
「お菊殿に面と向かって言うことはできないかも知れないが、俺になら本当の気持ちを教えてくれるだろう。いや、もしかしたら本心を伝えるのを照れているだけかもしれないぞ」
お菊は蒼龍から視線を逸らしながらも、作り笑いでうなずいた。
「もし、すでに気がないと言うのなら、その理由を吐かせてやる。他に恋人がいるとか、もう冷めてしまったとか、それが分かれば、もう一度振り向かせる方法を考えることもできるだろう」
したり顔で話す蒼龍を見て、お蘭は眉をひそめながら
「あなた、それは余計なお世話というものですよ」
とたしなめる。それを聞いた蒼龍はお蘭に対して不機嫌そうな声で尋ねた。
「じゃあ、他にいい方法があるというのかい?」
「一緒にいれば、遅かれ早かれ伊吹様の本心に気付く時がきっとあります。それまで待つしかありませんわ」
「そんな消極的なことでどうする。こういうときは、もっと行動に移したほうがいい」
「私たちは殿方とは違いますのよ。女性というのは、いつでも待つしかないのです」
「今は女でも刀を握る時代だ。そんな古い考えは捨てるんだな」
二人の言い合いは少しずつ激しさを増してきた。二人が口喧嘩をするなどとは想像もしたことのないお菊は唖然としている。
「あなたは女心を理解していないのですわ」
「確かに、お前の考えていることは理解できない」
お蘭が突然、口を閉ざした。とうとう完全に怒らせてしまったようである。蒼龍もそれ以上は何も言わなかった。二人は目を合わせることもなく、お互いに避けているのがよく分かる。この思わぬ状況に、お菊はすっかり困り果てた。
「お見苦しいところをお見せしてすまない。さあ、皆が待ってる。そろそろ出発しよう」
お菊に笑顔を向けながら、蒼龍は彼女の背中を押して一緒に前へ進みだす。お蘭は、その様子をしばらく睨んだまま立ち尽くしていたものの、仕方なく二人の後を追った。
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