第21話 晴天の空の下で
お蘭が目を覚ました時、その横でお初が心配そうに顔を覗き込んでいた。地面に伏している自分に気がつき、慌てて立ち上がる。いつの間にか倒れていたようだが、その時の記憶は残っていない。
蒼龍が『影』と戦っていたことを思い出し、周囲を見回した。しかし、蒼龍たちの姿はどこにもなく、木に囲まれた空き地が広がるだけだ。いつの間にか闇は消え去り、淡い光を放つ太陽が上空にあった。
「お蘭お姉ちゃん、大丈夫?」
お初に声を掛けられたお蘭はしゃがみ込み、お初の顔に視線を向けながら
「ここで闘っていた人はどうなったの?」
と尋ねたが、お初は首を傾げて不思議そうに答える。
「私、誰も見ていないよ」
では、お蘭が目にしたのは幻だったのだろうか。しかし、音もはっきりと聞こえていたし、蒼龍が闘う姿も鮮明に記憶しているので、とても幻だとは思えない。
これ以上は考えても仕方ないと思い、お蘭は亡者の森から早く抜け出すほうを優先することにした。
「とにかく、急いでこの森を抜けましょう」
不安げな顔のお初に作り笑いで応じて、お蘭はゆっくり立ち上がった。
周囲の木々は、普通の姿に戻っていた。森の入口と同様、少し光を放ち、先の道筋を教えてくれる。それは突然向きを変えたり、または徐々に折れ曲がったりして、二人の方向感覚をすっかり狂わせてしまった。
どれだけ歩いただろうか。森の出口には一向にたどり着ける気配がない。道ははっきりとしているので、誤った方向に進んでいるわけではないとお蘭は思っているが、どこまでも続く森の中で不安はいよいよ増すばかりだ。それでも、止まるわけにはいかない。前に進まなければ、外に出ることはできないのである。
しかし、その前進も中断しなくてはならなくなった。道が二つに分岐していたのである。
「どっちだろう」
お初が両方の道の先を眺めてみても、それは途中で折れ曲がり遠くまで見通せなかった。お蘭も周囲を調べてみるものの、目印になるようなものは何もなく、道の幅にも違いはないし、左右対称に分かれているので、本道と脇道といった区別もできない。
どちらも困った顔で黙したまま目を合わせるだけで、進むべき方向を決めることはできなかった。しばらくして、お初が先に口を開く。
「お蘭お姉ちゃんが決めていいよ」
決定権を譲られたお蘭は、二つの道をもう一度よく調べてから、自信なさげな声を上げた。
「右に行ってみましょう」
大きくうなずくお初の手を引いて、右の道を進んでみる。曲がりくねった道を歩き続け、やがてたどり着いたのは、またしても二股に分かれた道であった。
「また分かれ道だ」
「今度はどっちだろう」
二つの道は、今度も左右対称かつ同じ幅で区別はつかない。お初の瞳は、お蘭の顔を捉えたまま動かない。今度も、自分が答えるのを待っていることにお蘭は気づいた。
「左の道へ進んでみようか」
正しいかどうかはお蘭にも全くわからないが、とにかく歩き続けるしかないと、お蘭は気を引き締めた。
再び蛇行した道が続く。二人だけでは心もとなく、こんな時に蒼龍が一緒であればとお蘭は考えていた。
「あれって、分かれ道じゃないかしら」
お蘭が思わず立ち止まった。遠くにあるのは明らかに、今までのものとよく似た分岐点だったのである。
「お蘭お姉ちゃん、どうしよう」
お初は今にも泣き出しそうな顔をしていた。お蘭は前を見据えたまま
「大丈夫、大丈夫だから」
とお初に言い聞かせるものの、自分も泣きたい気持ちである。
とりあえず、道の分かれた地点まで進み、周囲をよく観察してみた。それぞれの道は完全に三分割された配置で、どの方向からたどり着いても似た景色になる。よくよく考えてみれば、今まで通ってきた三叉路も見た目に違いは感じなかった。
「もしかして、同じ場所に戻ってきたの?」
お蘭はあることに気づいたらしい。もう一度、この場所に入ってきたときの位置に立つ。道は左右に分かれ、目の前は大きな木が立ちはだかっていた。近くに落ちていた細長く先の尖った石を拾い、その木に丸の印を付ける。
「よし、一度戻ってみましょう」
お初には、お蘭が何を考えているのか理解できなかったが、素直に指示に従った。果たして、行き着いた場所は当然、三叉路だ。お蘭は、左側に立っていた木を確認した。それには丸い印が付けてあった。
どうやら、二つに分かれた道はつながっているらしい。最初の、右側の道を進んだ時は、ぐるりと巡って左側の道から出てきたのだ。そして、そこから左側の道を選んだということは、前と同じ道を辿ることを意味する。だから、目の前の木に印をつけてから道を戻れば、今度は右側の道から出ることになって、左側に目印が見つかるというわけだ。
ということは、左側の道を進めば、今まで通ってきた道に戻ることを意味する。それ以外に選択肢はない。しかし、ここまでは一本道で、分岐した場所などなかった。
「こちらは行き止まりのようね。でも、他に道はなかったように思うんだけど」
お蘭はしばらくの間、頭を悩ませていた。お初には状況が飲み込めず、お蘭の様子を見守ることしかできない。お初の怯えた目に気づき、お蘭はにっこりと笑って彼女に話しかけた。
「心配ないわ。きっとどこかに道があるのよ。さあ、行きましょう」
「お蘭お姉ちゃん、なんだか透明になってる」
お初に指摘され、お蘭は元の世界へ戻ろうとしていることに気がついた。その場にしゃがんでお初に笑顔を向ける。
「お初ちゃん、ここで待っていてね。また必ず戻ってくるから」
「分かった。約束だよ、絶対に戻ってきてね」
あどけない顔に満面の笑顔を浮かべるお初の姿がだんだん遠ざかっていった。
天井からポタポタと雨のしずくが落ちてくる。雪花は、それを避けるように座り、蒼龍の様子を窺っていた。お菊はその近くでまだ気を失ったままだ。そして、蒼龍は死体と化したお蘭をじっと眺めていた。
雨が止むまで、この場に留まろうという雪花に、急いで襲撃を止めさせなければと蒼龍は訴えたが、もうすでに手は打ったと彼女は答えた。
「一体、どうやって?」
「先程、指示を出しました。有能な下僕たちに」
そう言われても蒼龍には理解できず、何も返せない。雪花は口を押さえて含み笑いをしながら
「心配しないで下さい。約束は必ず守ります」
と言い足した。
時折り、閉めてあった扉が強い風でガタガタと音を立てる。その際に吹き込む雨で扉の周りは水たまりになっていた。壁に掛けた松明の炎も揺れて、その度に柱の影が床の上を滑るように動く。
蒼龍には、分からないことが二つあった。なぜ、先の襲撃で雪花は全員を生かしておいたのか。始末しておいたほうが伊吹を捕らえるのには好都合なはずである。そして、鬼坊との闘いにどうして加担しなかったのか。雪花の妖術による援護があれば、蒼龍側は圧倒的に不利になる。
雪花は、伊吹を捕らえるという目的には興味がなく、この争いを傍観者のように眺めているだけなのではないかと蒼龍は思った。あるいは鼠を弄ぶ猫のように、相手が少しずつ衰えていくのを楽しんでいるのか。いずれにしても、得体の知れない妖術を操る雪花が本気になって挑めば、味方は瞬く間に全滅するのではないかと蒼龍は危ぶんでいる。ならば、雪花との交換条件を最大限に活かすべきだろうと、彼はこれからのことを思案していた。
そのうち蒼龍は睡魔に襲われ、しばし時間の感覚を失った。源兵衛、お松、お雪、そして三之丞が誰かと闘う夢を見ていたような気がするが、何かの気配で目覚めるとすぐに忘れてしまった。
雪花のいた場所に目を遣る。そこには彼女の姿はなく、お菊が上半身を起こしてあたりに目を配っていた。
「蒼龍様!」
突然、知らない場所にいたので不安だったらしく、蒼龍の姿が目に入った瞬間、安堵の表情になった。その向こうに視線を向ければ、いつしか外は晴れた朝を迎え、開け放たれた扉からは陽の光が屋内に差し込んでいる。
「あなた・・・」
聞き慣れた声を聞いて、蒼龍が正面に向き直る。お蘭が息を吹き返し、潤んだ目で蒼龍を見つめていた。
「お蘭、目が覚めたんだね」
蒼龍に手を添えられ、ゆっくりと起き上がったお蘭は、全く知らない場所にいることに戸惑いを覚えている。
「ここは神社の拝殿だよ。もう心配しなくて大丈夫」
優しく声を掛けられ、お蘭は蒼龍の首に腕を絡めて抱きついた。蒼龍も背中に手を回し
「大丈夫、大丈夫だから」
と言葉を重ねる。そんな二人の様子を眺めていたお菊は、なんとなくモヤモヤした気持ちになり、視線を扉のほうへ向けた。外には、鬼坊の死体がまだ地面に横たわっている。
「お菊殿」
蒼龍の呼びかけを聞いて、お菊は立ち上がり二人のいる場所へ移動した。
「お蘭さん、ご無事でよかった」
「ご心配をお掛けしてすみませんでした」
互いに手を取り合う二人に蒼龍が声を掛ける。
「あの妖術使いの女がここにいたのだが」
「雪花様のことでしょうか? 私が目覚めた時には誰もいませんでした」
お菊が目を見開きながら返答した。蒼龍は扉のほうへ目を遣るが、外に雪花の姿はない。
「とりあえず、外へ出よう。お蘭、立てるか?」
蒼龍は立ち上がり、お蘭に手を差し伸べた。
昨日までの曇り空が嘘であったかのように、爽やかな水色の空が広がっている。三人は目を細めながら周囲を見渡したが、雪花の姿はどこにもない。それよりも奇妙な事実に、お菊が小さな悲鳴を上げた。地面に横たわっていたはずの鬼坊の死体がどこにもないのである。
「先程まで、そこに鬼坊の亡骸があったのに・・・」
三人は無言のまま、しばらく動くことができなかった。
「今日は川を渡ることができるぞ」
三之丞が戻って皆に告げるや、一行はすぐに宿を出立した。東へ赴く旅人は思っていたより少なく、その日の朝一番の船に乗ることができた。
「蒼龍様はご無事でしょうか」
お雪がお松に問いかけるも、お松は答えることができない。源兵衛が代わりに
「あの男がそう簡単に倒されるとは思えぬ。きっとお蘭殿を連れて戻ってくるさ」
と言って笑ったとき、船が大きく揺れた。
「おっと。大丈夫かね、この船」
伊吹が思わず叫んだ。昨日よりは落ち着いているものの流れはまだ速く、船は左右に傾き、下流に流されながら向こう岸へ進んでいた。他の旅人も心配そうに船頭の様子を眺めているが、船頭はこの程度の流れには慣れているようで、顔色一つ変えずに船を操る。
船が無事に川を渡り終えた頃、猪三郎は銀虫の回復を待っていた。よほどダメージが大きかったのか、銀虫はまだ立つことができなかった。蒼龍や源兵衛の放った剣撃を物ともしなかった銀虫であったが、どうして猪三郎の攻撃は効果があったのだろうか。
銀虫は、生来手足を持たない代わりに天から授かった特異な体質があった。それは、傷を負ってもすぐにふさがってしまう驚異の回復能力である。どんなに大きく深い傷でも、あっという間に治癒してしまう。しかも痛みをほとんど感じないため、攻撃に対して怯むことがない。幼い頃から体を改造されても耐えることができ、その結果、体と直接つながった機械の手足を持つことができたのも、この体質のおかげなのであろう。しかし、この能力も打撃には効果がないようである。それに、再生能力まで有しているかどうかは本人にも分からない。
少なくとも回復するまでは大人しくしている様子の銀虫を横目に、猪三郎は蝙蝠と月光の二体の死人形を観察していた。なぜか入口の前に並んで立ち、猪三郎たちの行く手を阻もうとしているように思えるのだ。
猪三郎は立ち上がり、二人に近づいてみることにした。どちらも視線は定まらず、目の前に猪三郎がやって来ても、両手をだらりと下げたまま、その場に立ち尽くしている。外へ出るために、月光の体を脇へ寄せようと手を伸ばした時、刀の柄に手を伸ばしたので、猪三郎は思わず後ずさった。
呆然とする猪三郎に対し、意思を持たないはずの月光が口を開いた。
「鬼坊様は死にました」
その言葉の意味が分かるまでにしばらく時間がかかった。鬼坊が倒されたことが信じられなかったし、何故それを月光が知っているのか理解できないからだ。
「どうして・・・」
果たして猪三郎がどちらのことを尋ねているのか分からないが、月光はそんな彼に対してさらに話を続けた。
「残った仲間は銀虫様、猪三郎様、そして私、雪花の三人のみ」
今、話しているのは雪花であると分かり、猪三郎は目を見張る。
「私が到着するまで、お二人はその場を動かないようお願い致します。大事なお話があります故」
月光が話し終えた後、沈黙がその場を支配した。次に口を開いたのは銀虫だ。
「お前のお頭は殺られたらしいな」
猪三郎が銀虫の顔を睨んだ。銀虫は嬉しくて堪らないとばかりに、からかうような笑みを浮かべている。
拳を握りしめ、わなわなと震える猪三郎であったが、なんとか我慢して元の位置に戻り、勢いよく腰を下ろした。
外が行き交う人々で賑わい始めた頃、銀虫の体もようやく回復した。彼はゆっくりと立ち上がった後、首をぐるぐる回しながら
「覚悟はいいか」
と言って猪三郎のほうへ歩み寄る。猪三郎も立ち上がり、銀虫を睨みつけた。
「今度は二度と立てないようにしてやる」
猪三郎が言い終わるかどうかというところで銀虫が一気に距離を詰めてきた。相手の頬に向けて強烈な回し打ちを放つ。猪三郎はそれを上半身だけで素早く避けた。しかし、すかさず打たれた左の正拳がみぞおちに入り、猪三郎は顔をしかめる。
銀虫が回し蹴りでもう一度頭部を狙った。それを猪三郎は辛うじて左腕で受け止め、そのまま前に踏み出す。猪三郎の巨体が目の前に迫ってきても、片足のままの銀虫は後ろに下がることができない。
猪三郎は、銀虫を両腕ごと抱きかかえ、思い切り力を込めた。強烈な締め付けによって銀虫は動きを完全に封じ込められ、このままでは押し潰されてしまうだろう。
だが、力比べでは銀虫も負けていなかった。鋼鉄製の両腕に力を込め、猪三郎の圧迫から逃れようとする。すると、猪三郎はその大きな体を活かし、銀虫の上からのしかかるように押さえ込んだ。それでも銀虫の腰は砕けず、猪三郎の全体重を持ち上げるような形で踏ん張った。
突然、銀虫が腰を反らした。猪三郎の体は宙に浮き、頭から地面に落ちてゆく。慌てて手を放し、地面に両手を突いて器用に一回転した。すぐに踵を返し、銀虫のいた場所に目を遣るが、その姿が消えている。上から何かが落ちてくることに気づいた猪三郎が後ろへ飛び去るのと、頭上から足で踏みつけようと銀虫が落ちてくるのがほぼ同時であったが、紙一重の差で猪三郎のほうが早かった。床が抜け、銀虫の下半身がその中に埋もれる。
銀虫は、相手の強さを過小評価していた。ただ体が大きいだけの木偶の坊だと考えていたのだ。今、それは誤りだったと気がついた。しかも、銀虫に斬撃が効かないことを知ってか知らずか、猪三郎は腰の刀を使おうとしない。
「今までは準備体操だ。これから本気で戦ってやる」
そう言って薄笑いを浮かべる銀虫に、猪三郎は真顔で返す。
「そうしたほうがいいな。さもなければ死ぬぞ」
銀虫の黄褐色の瞳が怪しく輝き、猪三郎の顔を捉えた。その顔に向けて、機械仕掛けの右腕をすっと伸ばした。
「何をしているのですか!」
その時、お輪を叩いたような澄んだ声が響き渡り、二人は揃って声のするほうに目を遣った。
声の主は雪花だ。両脇には蝙蝠と月光が、そして背後には、虚ろな目をしながら立ち尽くしている鬼坊の姿があった。
「お頭?」
猪三郎が鬼坊に声を掛けるが、鬼坊は全く反応しない。首と胸には白い布が巻き付けられ、傷を隠していることに猪三郎は気づいた。
「我らが大将は倒されたようだな」
床から抜け出しながら嘲りの口調で問いかける銀虫を、雪花の氷のような瞳が捉える。
「残念ながら」
「お前は何をしていたんだ? 指を咥えて見物していただけか?」
「私は、蒼龍様と取引をしてまいりました」
その言葉に、銀虫だけでなく猪三郎も首を前に突き出して驚いた。
「どういうことだ?」
猪三郎が不審の目で雪花を睨みつける。雪花は気に留めることもなく
「彼は今後一切、私たちの前に立ちはだかることはありません」
と答えるのみで、二人とも納得できるわけがない。
「あの男は、お頭の命を奪ったんだぞ。敵を・・・」
「なりません!」
猪三郎の言葉を雪花が途中で遮った。その声は心に直接響き、相手を畏縮させる効果があるのか、大胆不敵な銀虫でさえ背筋の凍りつく思いがした。
「鬼坊様まで倒されて、残ったのは三人のみ。これも全て私たちの慢心が引き起こしたようなもの。今後、火中に身を投じるような真似は厳に慎んでもらいます」
二人ともしばらくは声を出すことができなかった。外の喧騒が激しくなり、壁を隔てたこの場所がまるで別世界であるかのように感じる。雪花の言霊から逃れるように銀虫が拳を握りしめながら叫んだ。
「そんな戯言が聞けるか! 奴ら、一人残らず始末せねば気が済まない」
「そう、もう一つ申しておきたいことがあります。これからは、誰一人傷つけてはなりません。これも蒼龍様と約束したこと。破ることは許しません」
自分の意見を無視された上、とても同意などできない要求を突きつけられ、銀虫は顔を真っ赤にして怒り出した。
「どうやって伊吹を捕らえるつもりだ? 相手は殺す気で向かってくるんだぞ」
「その機会は必ずあります。それまで待つのです。私がいいと指示するまで」
雪花の言葉を聞いた瞬間、銀虫はバネのように跳ね上がり、彼女の下へ突進した。その勢いのまま、雪花の顔面を真正面から殴りつけようとしているのに、彼女は避けようとはしない。
ところが、吹き飛ばされたのは雪花ではなく銀虫のほうだった。床を転がり、柱に叩きつけられた銀虫には、何が起こったのか理解できなかった。彼に凄まじい一撃を与えたのは、雪花の後ろにいた鬼坊だ。雪花の隣に疾風のごとく躍り出た鬼坊は、銀虫の拳が放たれる直前にみぞおちを膝で蹴り上げたのである。
「くそっ!」
床を両手で思い切り叩き、銀虫は叫んだ。鬼坊はゆっくりと雪花の背後へ戻り、前と同じ直立不動の姿勢のまま動かなくなる。唖然とした顔でその様子を眺めていた猪三郎が、最初に尋ねたかった質問をようやく雪花に投げた。
「お嬢様はどうされたのだ?」
雪花が、ゆっくりと猪三郎へと視線を移す。猪三郎は目が合った途端、彼女の瞳に吸い込まれるような感触を覚えた。
「お菊さんは、いらっしゃいませんでした」
なぜか雪花は本当のことを話さなかった。お菊を連れ戻さなかった理由を問われるのは避けたかったのだろうか。
「なのに、あの化物を返したのか?」
「言葉を謹んで頂きたいですわ」
「なぜ人質を返したんだ」
猪三郎は声を荒らげた。
「それが、蒼龍様が手を引くという条件ですから」
雪花は素っ気なく答える。猪三郎は呆れたとばかりに首を横に振り、その場に腰を下ろした。
「お二人とも、伊吹様を捕らえることはもう諦めますか?」
床に目を落としていた銀虫と猪三郎は、その言葉を聞いて彼女の顔に目を向けた。雪花の美しい顔には全く表情がなく、まるで地面に落ちている石ころに視線が入った時のように自分たちを見下ろしている。
「ふざけるな。俺は奴らの息の根を止めるまで絶対に諦めない」
銀虫がそう言って、片側の頬だけをつり上げ不自然な笑顔になる。雪花も微笑みを浮かべながら
「ならば急いで彼らを追わねばなりません」
と返した。
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