第24話 荒れ狂う夏の嵐

「ここがよかろう」

 一軒の空き家に入り、様子を窺っていた源兵衛が、入り口に立っている伊吹と三之丞に声を掛けた。女性たち三人組は、別の手頃な空き家を見つけ、すでに眠りに就いている。

「蒼龍殿は、どうしているのだろうか?」

 床にあぐらをかいた源兵衛がポツリとつぶやいた。

「どこかで野宿でもしてるんだろう。放っておけばいいさ」

 伊吹が、着ていた女物の着物を脱ぎながら、吐き捨てるように答える。

「もうすぐ真っ暗になるな。早く寝よう」

 三之丞がそう言ってごろりと横になった。伊吹は褌一枚で寝転がる。その二人のほうへ暗がりの中で目を遣りながら、源兵衛はため息をついた。

 同じ頃、雪花たちはまだ須磨に到着していなかった。蝙蝠の鬼の目がある限り、彼らの動向は逐一確認ができる。見失う心配はないので、機会があるまでは無理に接近して相手を刺激するのを避けるというのが雪花の主張であった。銀虫はそれに当然のように反対する。

「なぜ、蒼龍をそんなに恐れる? お前の得意の妖術で、奴は何もできなかったんだろ?」

 しかし、雪花はそれには答えない。猪三郎もこの件に関しては銀虫と同意見だ。

「雪花殿の力を持ってすれば、相手を倒すのは簡単だと思うのですが、何故これほどまでに慎重になられるのですか?」

 と、雪花に尋ねてみる。それに対して雪花は同じ言葉を繰り返すだけだ。

「蒼龍様と争うことは許さないと申したはず。お二方とも、どうか私の言うことに従ってもらえぬか」

 猪三郎は、ため息をつきながらも雪花に逆らうことはなかった。だが、銀虫は納得がいかないようで

「お前に倒す気がなくても、俺が奴の息の根を止めてやる。他の連中も同じだ」

 と言い張った。

 山の麓の茂みの中、雪花、銀虫、猪三郎の三人は暗闇に包まれながら、互いに干渉することなく過ごしていた。猪三郎が荷物の中から干飯を取り出して食べ始めると、銀虫も懐から丸く黒光りした塊を取り出して、口の中に放り込んだ。忍者の携帯食として有名な兵糧丸だ。

 雪花の気配がないので、いつものように散歩でもしているのだろうと二人は思っていた。あの動く死体たちも、雪花に命じられるまで、どこかで直立不動のまま待機しているに違いない。

 兵糧丸を噛み締めながら、銀虫が思い出したように口を開いた。

「あの女、食事するところを見たことがないな」

 猪三郎がそれに応える。

「店に入っても何も注文しない。霞でも食べているのか?」

 銀虫が唸るような笑い声を上げた。どうやら、お菊同様に、雪花が何も食べないことについては両者とも不思議に思っているようである。

 やがて、枯れ枝を踏みしめる音が聞こえた。雪花が戻ってきたようだ。猪三郎が彼女に話しかけた。

「干飯がありますが、召し上がりますか、雪花殿?」

 しばらくして答えが返ってきた。

「いいえ、結構ですわ。お気遣い、ありがとうございます」

「あんた、何も食べなくて平気なのかい?」

 銀虫が尋ねてみるが、雪花は

「今は食べる気が起きませんの。ごめんなさいね」

 というだけだ。銀虫は訳が分からないと言わんばかりに首を横に振った。

 それきり全員が話すことを止め、聞こえる音は何もなくなった。やがて猪三郎の、地の底から響いてくるようないびきが聞こえ始める。

 全てを覆い隠す夜の帳の中で、銀虫は、ある方向を凝視していた。それは、雪花のいる場所だ。雪花は、銀虫に背を向けて座っていた。頭を下げ、眠っているような雰囲気だ。

 銀虫が音もなくゆっくりと動き出す。獣のように四つん這いになり、一歩ずつ、細心の注意を払いながら、彼は雪花へ近づいていった。

 銀虫は、闇に乗じて要人を暗殺する任務を得意としていた。それは、忍びの者として厳しい訓練を積んだからだけではない。彼は夜目が利くのである。

 雪花は、銀虫の接近に気がつく様子がない。ついに、銀虫は雪花の背後にまで迫ってきた。雪花の放つ、桃のような甘い芳香が銀虫の鼻をくすぐる。

(殺すには惜しい、いい女だ。しかし・・・)

 鋼鉄製の両手を組み、静かに持ち上げる。そして、一気に雪花の脳天めがけて振り下ろした。それは岩をも簡単に砕く必殺の一撃であった。

 だが、銀虫の攻撃は不発に終わった。銀虫の拳は、確かに雪花の頭に命中したはずだった。暗闇をも見通す目で、彼はそれをはっきりと認識したのである。にも関わらず、手応えが全く感じられなかった。前に蒼龍が体験したのと同じ感覚である。

 雪花は、依然として目の前に静かに座っていた。まるで、自分の腕が雪花の身体をすり抜けたようだ。呆然とする銀虫は、雪花がゆっくりと振り向いたことにも気がつかなかった。

 雪花の黄金色の目が闇の中で輝きを放つ。視線が合った瞬間、銀虫の体は硬直してしまった。

「お前、いつの間に幻術を使った?」

 雪花は笑みを浮かべるだけで、銀虫の問いには答えなかった。身動きの取れない銀虫の額に手を添えた瞬間、銀虫の意識が消え去った。


 蒼龍とお蘭は須磨を通り過ぎていた。宿を探しながら歩いているうちに、源兵衛たちより更に東へ進んでしまったのである。

「困ったな、ここには寺もない」

 寺院は戦のために全て焼け落ちたらしい。建物の跡すら見当たらない。あたりはすっかり暗くなり、結局、二人は野宿することにした。

「大丈夫かい、お蘭?」

 お蘭は小さくうなずいたものの、少し疲れた顔をしていた。暗闇の中、蒼龍には自分の姿が見えないことに気がつき

「大丈夫よ」

 と答える。

 携帯していた保存食を手早く食べた後、二人は地面に並んで寝転がった。そこは小さな川のほとりで、水の流れる音が心地よく耳に入り、お蘭はすぐに夢の世界へと旅立った。

 お蘭は、枯草色の広大な草原の中に立っている。木々の姿はどこにもなく、亡者の森を抜けたことをお蘭は思い出した。

 お初の様子を確認しようと顔を下に向けるが、彼女の姿はどこにもない。繋いでいた手から離れ、どこかへ行ってしまったようだ。

「お初ちゃん、どこ?」

 大声で呼びかけても反応がない。お蘭は懸命に周囲を探してみるが、お初の姿は見つからなかった。知らないうちに物の怪にさらわれたのではないかと、お蘭は不安になった。

 風が吹き、あたりの草が一斉になびく。まるで、大海原に浮かんでいるような錯覚を覚えた。空にはくすんだ銀色の雲が広がり、ゆっくりと流れていく。

 お蘭が途方に暮れていると、どこからともなく軽やかな鈴の音が鳴った。かつて、雪花に襲われた時に聞いた鈴の音によく似ている。お蘭は、その音のした方向へ行ってみることにした。

「あっ、お初ちゃん!」

 お初は地面に横たわっていた。お蘭が慌てて駆け寄り、抱きかかえる。ただ眠っているだけであることが分かり、お蘭は安堵のため息を漏らした。

 あどけない顔を愛おしそうに眺めながら、お蘭はお初が目を覚ますのを待つことにした。

「私にも、あなたのような子供がいたらな」

 お蘭は寂しげにつぶやく。その声が届いたのか、お初が急に目を開けた。つぶらな大きい瞳をお蘭に向け

「お蘭お姉ちゃん、戻ってきたんだね」

 と言って微笑んだ。

「ごめんね。待たせちゃったね」

「待ちくたびれて、眠っちゃったみたい」

 大きなあくびをするお初に、お蘭が尋ねる。

「お初ちゃん、鈴を持ってるの?」

 そう言われてお初は腰紐に括り付けていたお守りを手に取り、お蘭に差し出した。

「お姉ちゃんのお守りなの」

 お初はそう言って笑う。

「お姉さんからもらったの?」

 お蘭の問いに、お初は首を傾げた。

「どうして私が持っているのか、よく分からないの」

 お蘭は、もらったのを忘れたのだろうかと少し不思議に思ったが、それ以上の詮索はしなかった。


 この頃、大阪の地は顕如が率いる本願寺と織田信長の間で戦が始まっていた。いわゆる石山合戦である。その影響は、源兵衛たちがたどり着いた西宮でも感じることができた。かつて大きな城の多かったこの地は、度重なる合戦のために疲弊し、今では城も放棄され、荒れ果てた状態であった。そして今は、東の地での戦が飛び火することを恐れた民が西へ逃れようと流出し、代わりにならず者どもが居着くようになるという混沌とした有様である。

 しかし、残った者たちはたくましく生き抜いていた。街道沿いには店が建ち並び、宿も多く残っている。焼け落ちた家々の横には、まだ新しい住処が再建され、何名かの人が慌ただしく荷物を運んでいた。

 この戦火を免れたらしい、古く趣のある宿を探し当て、源兵衛たちはそこに泊まることにした。西からやって来たことを伝えると、美しい白髪をした宿の女将はたいそう驚いて

「まさか、大阪へ?」

 と尋ねる。

「いや、船で雑賀へ行こうと思っているのだが」

 源兵衛がそう答えたので、女将は少し安心した表情になったものの、今度は残念そうに言葉を続けた。

「しばらく船は出ないと思います。なんせ、この天気なので」

 源兵衛たちも、それは予想していた。灰色の雲が空一面を不気味に覆い、今にも大雨が降り出しそうな様子だったのだ。風も強く、海は時化で波が高いのを一行はすでに目撃していた。しばらくは、ここで足止めを食うことになるかも知れない。

「まあ、仕方がないですね。海が落ち着くまで待ちましょう」

 お松が源兵衛に話しかける。

 部屋に入った後、皆は集まってこれからの行程について話し合った。紀伊路を使い南下すると、やがて大辺路と中辺路に分岐する。大辺路は海岸沿いを通り、再び中辺路と合流して伊勢路につながる。一方、中辺路は途中でさらに三つに分岐していた。高野山に至る小辺路、大辺路と合流する中辺路、そして、そのまま東へ進み、神宮に至る伊勢路である。源兵衛たちは、大阪を起点とする伊勢本街道を利用するつもりだったので、他の経路に関してはあまりよく知らなかった。

「熊野詣の道を通ればいいはずだ。熊野から神宮へ続いている道があると聞いたことがある」

 伊吹が額に手を当てて記憶を探りながら口を開いた。もはや敵から逃げる以外に手がない今、因幡へ戻るという選択肢はもう考えにないらしい。

「では、まずは熊野を目指せばいいのですね」

 お菊が相槌を打つ。源兵衛はうなずきながら

「熊野は三つあるから、道も複雑に分岐しているだろう。土地の人に尋ねたほうがいいな」

 と付け足した。熊野三山と言って、本宮大社・速玉大社・那智大社の三箇所のことだ。

 その後も議論は続いたものの、結局は行ってみないと分からないため決まったことは殆どない。夜になり、女性たちが自分の部屋へ戻ろうとした時、縁側に蒼龍とお蘭が佇んでいるのを見つけた。

「蒼龍様、同じ宿だったんですね」

 お雪の嬉しそうな声を聞いて、蒼龍はその方向へ顔を向けた。

「おお、これは運がいい。ちょうど尋ねたいことがあってな」

 満面の笑みを浮かべて蒼龍が応える。蒼龍の聞きたかったのは、これからの行き先であった。どうやって伊吹たちを探せばよいか、お蘭と相談していたのである。

「私たちは船を使い、雑賀へ向かう予定です」

 お松が蒼龍の質問に答えた。

「すると、熊野経由で行くということか?」

「はい、そうなりますね」

 蒼龍はうなずき、お蘭に顔を向けて

「俺たちも船を使おう」

 と声を掛けた後、今度は別の問いをお松に投げかけた。

「今のところ、襲撃はないようだな」

 お松は首をコクリと振ってから答える。

「監視の目もありません」

 蒼龍は、視線だけを床に落とし、しばらく考え込んでいた。

「約束は守られているようだが・・・」

 お松も蒼龍と同じことを気にしていたのか

「全く気配がないのもかえって不気味ですわ」

 と言葉を返す。蒼龍は、心配そうにするお松に視線を戻し、快活に笑ってみせた。

「方針を変えたのかもしれない。話し合いで解決しようとな。とにかく、俺もできるだけ目を離さないようにするよ」


 蒼龍は一人、部屋の中で正座しながら黙念としていた。お蘭は隣の部屋で、すでに眠っているのだろう。

 約束に従う限り、雪花たちが襲いかかることはない。それなら、面と向かって雪花に尋ねてみることはできないか、と蒼龍は考えていたのである。何について尋ねるのか。それは、お蘭の呪いの件だ。

 得体の知れない術を使う相手であるから、同じく正体不明のお蘭の呪いについてなにか知っているかもしれない。蒼龍は前にもそう思っていた。そして、理由は定かでないが、雪花はお蘭が傷つくことのないよう神経を尖らせているのも確かだ。それは、お蘭が死ぬことで、なにか不利益を被るからではないか。そんな想像をするに従い、彼はますます雪花に自分の疑問をぶつけてみたかった。

 行灯の炎がかすかに揺れる。人の気配を感じて蒼龍は静かに目を開けた。開いた障子の間から、お雪が床に座っているのが目に映る。

「どうした、お雪殿?」

「あの・・・ 少しお話がしたくて」

 眠れないのかと蒼龍は思い

「とりあえず、お入りなさい」

 と声を掛けた。お雪は部屋の中、蒼龍の横側に進み、静かに座る。彼女は少しうつむき加減で、視線も床に落としていた。

「お雪殿にしては、なんとなく元気がないようだね。なにか困りごとでもあるのですか?」

 お雪は、なかなか口を開こうとしなかったが、蒼龍は辛抱強く待つことにした。油に浸した芯がチリチリと音を立てた時、ようやくお雪は話を始めた。

「蒼龍様、もう一度、私たちと共に旅を続けては下さいませんか」

 それから、お雪は蒼龍の目をじっと見つめ、早口で

「私たちだけで追手を防ぐことはとてもできません。蒼龍様のお力がどうしても必要なのです」

 と訴えかける。少しの間の後、お雪と目を合わせたまま蒼龍が答えた。

「それは却って危険だ。約束を破れば、斬り込む口実を相手に与えるようなものだ。相手が裏切らない限り、こちらも従うようにしたほうがいい」

「あんな野蛮な輩たちが約束を守るなんて信じられませんわ。そのうち、きっと襲撃されます」

「その時は、必ず助けに参る」

 お雪は目を逸らし、口を閉ざした。少々強い口調になってしまったかと蒼龍は思い

「安心してほしい。お松殿との約束も絶対に守るから」

 と、できるだけ優しく話しかける。外は激しい雨が降っているらしい。屋根を叩きつける雨音が重く響いてくることに蒼龍は今になって気づいた。

「蒼龍様と一緒に旅している間、ずっと楽しく過ごすことができました。追手は怖かったけど、それも苦にならなかったんです」

 お雪は、もう一度蒼龍の顔に目を凝らした。瞳が潤み、暗い部屋の中でも頬がうっすらと赤くなっているのが分かる。

「できることなら戻ってきてほしいの。私は・・・」

 お雪の声は小さく、弱々しかった。口を半開きにしたまま人形のように動かなくなり、やがて視線を床に落とすと、震える声で

「ごめんなさい」

 と言って立ち上がった。背を向けて、その場を去ろうとするお雪に、蒼龍は声をかけることができなかった。


 次の日は、夜まで台風のような暴風雨に見舞われた。川が氾濫して植えたばかりの苗を洗い流し、架けられていた橋も壊れたようである。海は荒れて船が流され、漁村では死者もたくさん出たらしい。

 その翌日は、風が収まったものの大雨は続いた。洪水で浸水した家々が増え、寺や神社に駆け込む者も大勢いた。

「今日は船は出せるのかい?」

 激しく打ち付ける雨の中、源兵衛が船頭に尋ねた。人足にテキパキと指示を出していた船頭は

「まあ、昼にはなんとかなるでしょう」

 と返した後、濡れた顔を手で拭った。昼と言われても、空は一面が黒煙のような雲で覆われ、太陽がどこにあるのか全く分からない。源兵衛は、大きな雨粒が落ちてくる空を仰ぎながら力なくつぶやいた。

「分かった、また来るよ」

 宿に戻った源兵衛は、女将を見つけるや早々に尋ねる。

「ここでは時の鐘は聞けるかい?」

「いつもなら聞こえてくるんだけど、今日は鳴らないねえ。今はそれどころじゃないんだろうねえ」

 そう答えながら女将は足早に立ち去っていった。禿げた頭を掻きながら、源兵衛はその後姿を目で追った。

「昼頃には出帆できるらしい」

 部屋に戻り、集まっていた仲間たちにそう伝えてから、源兵衛は床に腰を下ろして思い出したように言い足した。

「いつ昼になるのか分からないけどな」

 それから長い間、皆は部屋の中で適当に時間を潰した。伊吹、源兵衛、三之丞の男三人は、札を使って遊んでいる。ポルトガルより日本に伝えられた『カルタ』だ。商いをしている中で、海外からの珍しいものも手に入れることができるのだろう。彼らを横目に、お松とお菊ははとりとめのない話をしていた。そして、お雪はひとり静かに二人の話を聞くだけだった。

「お雪さん、なんとなく元気なさそうだけど、具合でも悪いの?」

 暗い顔をしているお雪に、お菊は心配して声を掛けた。

「えっ、そうかな」

 お雪はそう言って微笑む。笑顔を目にしたのは、今日初めてのことだ。

「調子が悪いなら、そう言わなきゃ。これから先、大変な旅になるわよ」

 お松の言葉を聞いたお雪は、慌てて手を振って

「身体のほうは大丈夫ですよ。ちょっと考え事をしていただけです」

 と否定した。

「心配なことでもあるの?」

 お松がさらに追求する。

「いや、その、雨で船が沈んだらどうしようかと思って」

 お雪の言葉が耳に入った伊吹が

「確かに、無理して出発する必要はないかも知れないけどな」

 と口を挟んだ。

「まあ、一応は確認をしておこうじゃないか。ここで追手を撒くことができれば急ぐ価値はあるというものだ」

 源兵衛の意見に従い、とりあえず荷物をまとめ、間に合わせの食料で空腹を紛らわしてから、一行は宿を出た。雨が相変わらず激しく降っていたので、変装は中止して、全員が一緒に行動する。同じ船に乗るなら、別々に行動してもあまり意味はないだろう。

「俺たちも出発するか」

 蒼龍とお蘭も後を追う。敵の気配は相変わらず感じられない。もっとも、この大雨の中で襲撃するとは誰も考えていなかった。

 港にはすでに多くの人が船の出発を待っている。至るところで悲鳴や怒号が聞こえ、あたりは混沌とした様子であった。

「ひどい状況だな。一日待つのが正解かな?」

 伊吹が一言つぶやいてから笠の海と化した周囲を眺めたとき、遠くから自分に向けられた褐色の瞳に気づいた。それが何者かを知り、伊吹は息を詰まらせるくらいに驚いた。雪花は静かに、しかし圧倒的な存在感を放ちながら立っている。周りには五人の取り巻きたちが笠の下で無表情な顔を並べ、その不気味さのためか、密集した中で彼女たちのそばには誰も近寄ろうとはしない。

「源兵衛殿、あれを!」

 伊吹が小声で源兵衛に話しかけた。伊吹が指差す方向に目を遣った源兵衛は慌てて身を伏せる。

「まさか監視されていたのか?」

 伊吹と源兵衛の様子を他の者たちが不安げに窺っていた。お松が源兵衛に近づいて問いかける。

「何かあったの?」

「すまない、追手がすぐ近くにいる。全く気が付かなかった」

 お松の目は少し揺れたものの、すぐに気を取り直して話を始めた。

「この状況で今日中に船が出るとは思えないわ。いったん宿に引き上げましょうか?」

 額に手を当てて源兵衛は考えていたが、他に手段がないと判断したらしく、お松の顔を見て大きくうなずいた。

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