第18話 人質交換

 猪三郎が担いできた死体を見て鬼坊は目を疑った。

「雪花殿、これは一体?」

「見事に騙されたようね。伊吹様もお菊さんも、二人ともいなかったわ。おそらく別行動をとっているのでしょう」

 鬼坊は黙ったまま雪花に目を向けていた。その意味に気づき、雪花は話を続ける。

「あれはお蘭さんのもう一つの姿。時が経てば、また生き返りますわ」

「お蘭?」

 首を傾げる鬼坊に、猪三郎がお蘭を地面へ下ろしながら説明する。

「伊吹と一緒に捕らえたあの女です」

 そう言われて鬼坊が理解できるはずはない。しかめ面の鬼坊を前に、雪花は含み笑いをしながら

「お蘭さんは、眠ると死の世界へ旅立つのです。そして、目覚めた時この世界へ戻ってくる。生まれてからずっと、この状態で過ごしてきました」

 と付け加える。

「どうして、そんなことがあなたに分かるのですか?」

 鬼坊に尋ねられた雪花は眉をひそめた。

「さあ、どうしてでしょうか」

 からかわれているような気がして、鬼坊は雪花を凝視しつつ、鼻から息を吐いた。

「俺が聞きたいのは、その女を連れてきた理由だ。伊吹とお嬢様はおそらく、先へ進んでいるのだろう。なぜ、追いかけて捕まえようとしなかった?」

「おそらく変装しているのでしょうから、簡単には見つかりませんわ。それより、お蘭さんをさらったほうが簡単にお嬢様を連れ戻せます」

「どうやって?」

「そいつは蒼龍の女だ」

 鬼坊の背後に座っていた銀虫が代わりに答えた。鬼坊は眉を上げて

「それで蒼龍をおびき出すということか」

 と口にした後、顎をさすりながら猪三郎に顔を向けた。

「その女を捕らえるほうが遥かに難しかったんじゃないのか?」

「それが・・・ 雪花殿の妖術で全員、眠ってしまったので・・・」

 おずおずと答える猪三郎に対して、鬼坊は当然と思える質問をする。

「そいつらは始末したのだな」

「それが・・・」

 歯切れの悪い受け答えに苛立ちを覚えた鬼坊が大声で怒鳴る。

「はっきりしろ!」

「彼らを始末したいのはあなた方でしょ」

 大きな体を縮こませて何も答えられなくなった猪三郎に代わって雪花が口を開いた。鬼坊は雪花を睨みつけたが、雪花は琥珀色の瞳を輝かせ、平然とした顔で鬼坊の鋭い視線を受け流している。雪花の幻術を思い出し、鬼坊はすぐに目を逸らした。

「見す見す逃したということか」

 吐き捨てるように唸り声を上げて背を向ける鬼坊に対し、雪花は話を続ける。

「お互いに人質を手に入れたのだから、これで対等に勝負できるでしょ? あとはあなた様のお考え次第」

 まるで自分の思考を読まれているようで、鬼坊は背筋に冷たいものを感じた。


 蒼龍は、鬼坊と対峙していた。その鬼坊の腕にはお蘭が捕らえられ、首筋に刀が充てがわれていた。

「お前に苦痛を与えるにはこれが一番だな」

 鬼坊の顔は歓喜に満ちあふれていた。蒼龍を嘲るような口調は、いつもの鬼坊からは遠くかけ離れた印象を与える。

 刃がゆっくりとお蘭の顔に近づき、その頬を滑っていく。鮮血が流れ、顎から滴り落ちるのを目にした蒼龍は気も狂わんばかりに叫んだ。

「やめろおお!」

 鬼坊に突進したくても、体が動かない。鬼坊の隣に立っていた雪花に睨まれた瞬間、全身が硬直してしまったのだ。

 雪花は手に懐刀を握りしめていた。その切先を蒼龍に向けて近づいてくる。しかし、蒼龍には為す術がない。ただ二人がすることを眺めていることしかできない。

 蒼龍の胸元に刃の先端が突きつけられる。それは氷のように冷たく、触れただけで感覚が麻痺してしまった。

「頼む、お蘭だけは助けてくれ」

 その切望にも、雪花は微笑みを浮かべるだけで何も答えようとはしない。その代わりに、刀を持った手に少しずつ力を込めた。

 氷の刃が蒼龍の体に徐々に食い込んでいく。凄まじいほどの痛みに蒼龍は悲鳴を上げた。

「安心なさい、すぐ楽になるわ。お蘭さんもね」

 雪花の言う通り、その苦痛は長くは続かなかった。薄れゆく意識の中、鬼坊がお蘭の首を切り裂く様が蒼龍の目に映った。

「うわ! なんだい」

 突然、飛び起きた蒼龍に、男がびっくりして尻もちをついた。その男に顔を向けた蒼龍は、まだ夢を見ているような表情で、目の焦点が定まっていない。

「あんた、大丈夫かね?」

 男が蒼龍に問いかける。その背後には、心配そうに見守る女性の姿もあった。

「あなた方は?」

 蒼龍に問い返された男性は、女性に抱えられながら立ち上がって尻をパンパンと叩いてから

「御覧の通り、旅の者だ」

 と答えた。ここでようやく今の自分の状況を把握することができた蒼龍が、周囲に視線を移した。目を覚ましたのは蒼龍ただ一人で、他の仲間はまだ眠ったままだ。

「もう日が暮れる。早いとこ出発しないと、野盗に襲われるぞ」

 そう言われて、林の中がすでに暗くなっていることにようやく気がついた。どれくらい、この状態でいたのだろうか。運が悪ければ、身ぐるみ全部剥がされ、命すら失っていたかも知れない。蒼龍はそう思い

「かたじけない」

 と頭を下げた。それから慌てて皆を起こし始め、間もなくお蘭がいないことに気づいた。

「また、さらわれた」

 呆然とした顔で蒼龍はポツリと言った。


「一体どうしたんだい?」

 宿に到着した一同を前に、不安に駆られ入り口で待っていた伊吹が問いかける。すでに夜は更け、隣りに座っていたお菊はコックリコックリと船を漕いでいた。

 彼らは今までお蘭の行方を探していたのだ。しかし、手がかりは何も得られず、伊吹たちのいる宿に向かうことにした。ただ一人、蒼龍を除いて。

「おそらく、お蘭殿とお菊殿を交換するよう持ちかけるつもりね」

 お松の言葉に源兵衛は首を横に振った。

「解せぬ。なぜ、あの場で全員殺さなかったのだろうか。そんな回りくどいことをする理由などない」

 その問いに答えられる者はいなかった。しかも、お蘭が皆と同様に眠ってしまったのなら、死体になったはずである。敵は、その死体を運んだことになるのだ。蒼龍は、それに妙な胸騒ぎを覚え、徹夜でお蘭を探すつもりで今も駆け回っている。

「でも、全員助かったのだから、それは良しとしましょう」

「蒼龍殿にとっては割り切れない思いだろう」

 源兵衛は額に手を当てながら嘆息した。

 その後も、宿の入り口で議論は続いていた。声は段々と大きくなり、とうとう宿に勤めている一人の老人が目を覚ましてしまった。

「あんた方、こんな夜更けに何をしているのかね」

 不審げに尋ねる老人に、全員が厳しい顔つきで顔を向ける。尋ねた側が狼狽してしまい

「何だね、人を呼ぶよ」

 と大声を出したので、伊吹が大慌てで自分の仲間であることを伝え、全員を部屋へ案内しようとしたとき、宿の出入り口の木戸が突然開いた。

「蒼龍様!」

 お雪が真っ先に気が付き、蒼龍の下へ駆け寄ったが、彼の暗い表情を見て、それ以上言葉を掛けることができない。お雪がうつむいていると、蒼龍がその目の前に手を差し出した。その上には投げ矢が置かれている。

「宿の戸に突き刺さっていた」

「それは・・・」

 明らかに蝙蝠の所有していた投げ矢であった。死んだはずの蝙蝠が投げたのか、それとも他の者の仕業なのか定かではないが、少なくとも敵からの置き土産であることは間違いない。投げ矢には紙が括られている。蒼龍は慎重に紙を外し、広げてみた。

『お前の大事な女を預かっている。人質を交換したい。明日の子の刻に、姫山城より午の方角、名もなき古社の境内で人質とともに待つ。お嬢様を連れて必ず一人で来い。約束を破れば人質の命はない』

 蒼龍が読み終えてからも、皆は息を呑んで見守るだけだった。誰もが動こうとしない中、老人は困った顔で様子を窺っている。しばらくして蒼龍は手紙から目を離し、お菊の顔を一瞥した後、皆に告げた。

「明日の夜まで待つしかないだろう。俺がお菊さんを連れて行ってみるよ」

 源兵衛が激しく首を横に振る。

「駄目だ。罠に違いない。我々も隠れて見張ることにしよう」

「いや、皆は朝になったら出発するんだ。お蘭を連れ戻したら後を追いかける。明石あたりで待っていてくれないか」

「馬鹿正直に一人で行くことはないだろう。危険すぎる」

「源兵衛さんの言う通りよ。相手は集団で襲ってくるに違いないわ」

 お松も身を乗り出して説得しようとするが、蒼龍はそれを拒んだ。

「皆の目的は、伊吹殿を無事に伊勢へ送り届けることだ。それを忘れてはならぬ」

「でも・・・」

 お松の言葉を手で遮り、蒼龍は小声で話を続ける。

「今回の奴らの目的、俺にはよく分からぬ。だが、お蘭が何か関係しているのではないかと思えてならんのだ。もしかしたら、お蘭の呪いを解く鍵が見つかるかも知れない。それを探るのは俺の役目だ」

 心配そうな表情のお松やお雪、そして源兵衛へと視線を移し、蒼龍は不敵に笑った。源兵衛は、仕方ないと言わんばかりに禿げた頭へ手を遣る。その時、伊吹とともに少し離れた場所にいたお菊が割り込んできた。

「待ってください。私は戻りたくはございません」

 悲しげな顔で訴えるお菊に皆の視線が集まった。


 涙を流しながら嘆願するお菊に、戻らなくて済むようにするからと何とか言い聞かせ、翌朝に蒼龍とお菊以外の者は旅を再開した。目指すは明石、それを過ぎれば摂津国に入る。

 暗い顔をして皆を見送るお菊に蒼龍は

「心配するな」

 と笑顔で声を掛けたが、お菊は小さくうなずくだけだ。気晴らしにと、蒼龍はお菊を連れて姫路の町を散策することにした。

 姫路といえば姫路城が有名である。しかし、現在の巨大な城郭が築かれたのは関ヶ原の戦いの後、池田輝政が行った大改修によるものだ。この頃はまだ小規模なもので、名前も姫山城であった。当時の城主は黒田孝高。戦国時代に織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら三英傑に仕え、名将として知られた黒田官兵衛その人である。

 昨日の天気が嘘であったかのように、空は鉛色の雲で覆われていた。

「雨になりそうですわね」

 お菊がそう言って空を仰いだので、蒼龍も一緒になって上を向いた。

「多少は涼しくなるだろうか」

 生暖かく湿った風が背中から吹き付ける。逃れるように二人は早足で歩いた。

「昨日はごめんなさい。私、我儘ばかりで」

 お菊が頭を下げる姿に、蒼龍は手を振りながら

「いや、気にしなくていい」

 と答えた。どうやら、気分が晴れない理由には自責の念もあるらしい。

「お蘭さんが大変なことになっているのに、自分のことばかり考えてしまって」

 うつむいたまま今にも泣き出しそうな様子に、蒼龍は困ったという表情で頭を掻いた。

「あなたは、自分の立場など気にせず伊吹殿やお蘭を逃してくれた。もし、捕らえられたままでいれば、二人とも今頃どうなっていたか分からない」

「でも、それも自分自身のためですわ」

「自分のことばかり考えているなら、こうやって一緒に来てはくれなかったでしょう。あなたは思いやりのある優しいお方だ。そんなに自分を責めないでほしい」

 お菊は少しうなずいただけで、言葉を返すことはなかった。その後しばらくは黙々と町中を歩き続け、時間だけが過ぎてゆく。

 通りは人で賑わっていた。道の脇では地面にござを敷き、商品を並べた露店がたくさん並んでいる。その一つにお菊が足を止めた。

「いい匂い。お香ですわね」

 地べたに床几を置いて座っていた小太りで中年の女が顔を上げる。

「あら、これはまた美しい娘さんですこと。いかがですか、珍しい香木が手に入りますよ」

 お菊が屈んで匂い袋の一つを手に取り、そっと鼻に近づける。その顔に得も言われぬ上品な色気を感じ、見惚れている蒼龍に気づいた女が

「旦那さん、一つ買ってあげてはいかが?」

 と声を掛けるので、蒼龍は慌てて否定する。

「い、いや、拙者は夫ではない」

 お菊はクスクスと含み笑いをしながら女に話しかけた

「この方にはもっと素晴らしい奥方様がいらっしゃいますのよ」

 苦笑いをしながら頬を指で掻いている女に匂い袋を差し出し

「これ、頂くわ」

 と言って、お菊は蒼龍に向かって微笑んだ。今日、初めて見せる笑顔であった。


 お蘭とお初は、薄暗く気味の悪い森の中を彷徨い続けていた。木々はいよいよ奇怪な姿で立ち並び、道には根が波のようにうねっている。前方から獣の息のように吹き付ける生暖かく湿った風が鼻をつき、地の底から響いてくる悲鳴は振動となって二人の足から伝わってきた。

 やがて道は背の高い草に覆われるようになり、本当に正しい方向を進んでいるのか分からなくなってきた。森とはいっても動物はおろか虫の一匹すら現れず、ここも死の世界であった。

「この方向で本当に大丈夫なのかな?」

「うん、そのはずなんだけど・・・」

 顔は笑っていても、どこか心配そうな雰囲気のお蘭を見て、お初も自信なさげに答える。地面に突き出た木の根に何度もつまずき、転びそうになりながら、それでも二人は支え合って前に進んだ。

 すると、お初の首のあたりまで生えていた草が少なくなり、木の根がむき出しの地面がまた姿を現すようになった。しかし、同時に木から染み出していた光も弱くなっていく。その光が完全に失われた時、目の前には、色を失った虚無の世界が広がっていた。二度と抜け出せない気がして、お蘭もお初も恐怖で押し潰されそうになり、立ち止まる。

「どうしよう・・・」

 お蘭は途方に暮れてしまった。このまま進むのは危険な気がする。道を間違えたのかもしれない。そう心の中で一人つぶやいた。

「お初ちゃん、引き返そう。道を間違えたみたい」

 しかし、お初は反応しない。身じろぎもせず、目の前の暗黒を注視している。彼女の手がブルブルと震えているのがお蘭にも分かった。

「お初ちゃん?」

 お初は操られる人形のようにお蘭の顔を仰ぎ見た。怯えた目をしているお初は、今にも泣き出しそうな様子であった。

「さあ、早く戻りましょう」

 お蘭がそう言って手を引こうとするが、お初はその場を動かない。首を思い切り横に振って

「駄目、ここを通らないとお姉ちゃんに会えない」

 と震える声で拒んだ。

「本当に?」

 お蘭が聞き返す。お初は、自信がないのか下を向いてしまった。どうすべきが迷っているうちに、お初が再び口を開いた。

「お蘭お姉ちゃん、今までありがとう。ここからは一人で行きます」

 つないでいた手を放して前に進もうとするお初を、お蘭が急いで止めようとする。

「待って、お初ちゃん!」

 お初はお蘭の叫びを聞いて後ろを振り向いた。目は涙で潤み、手は震えたまま、その怯え方は尋常ではない。それでも彼女は決心が固いのだ。必ず、姉に会うと心に誓っているのだ。その勇気に、お蘭は心を打たれた。そして、こんな状況の中でもお蘭の身を案じて一人で進もうとする姿が愛おしくてたまらなくなった。

「私も一緒に行くわ。絶対にこの手を放さないでね」

 お蘭が優しく微笑むと、お初の強張った表情が少し和らいだ気がした。それから二人は目の前に広がる漆黒の闇に顔を向け、意を決して歩き始めた。

 あっという間に視界が消え去る。もう、お互いの顔すら確認できない。ただ、つないだ手の感触が頼りになるだけ。

「お初ちゃん、ゆっくり進みましょう。足元に気を付けてね」

 声が闇にかき消されているように感じたが、お初の「うん」という声が辛うじて聞こえた。

 幸い、地面は平らになり、つまずいて転ぶ心配はなくなった。もっとも、周囲に木が生えているのかは分からない。風もなく、先程まではあった木や草の香りもしない。ただ、妙に空気が冷たく、張り詰めている。まるで、その空間が自分たちに対して敵意を剥き出しにしているようにお蘭は感じた。お初の手は汗でしっとりと濡れ、思い切り強くお蘭の手を握りしめている。そして、自分も同様にお初の手を強く握っていたことに気がついたお蘭は

「ごめん、手、痛くなかった?」

 と言いながら、緊張を解くために深く息を吸った。冷たい空気が肺にたまり、それが自分の体温を奪っていくような気がした。

 一刻ほどは歩いたであろうか。しかし、二人とも実際にはどれくらい時間が経ったのか、またどれだけ進むことができたのか、よく分からなかった。とにかく、遠くに淡く光る何かを見つけた時は、それまでの不安と緊張が少しだけ取り除かれた気がした。

「見て、出口かもしれない」

 お初が叫ぶ。

「きっとそうね。やっと出られるのだわ」

 お蘭も喜びの声を上げた。

 近づくにつれて、それは闇のトンネルから覗く広い空き地のようだと分かった。視界がだんだんと大きくなり、外に出られることが確信できたので、二人とも早足になる。丸く空いたその出口から、紺色の世界が視界に現れ始めた。

 ついに、お蘭とお初は闇から抜け出すことができた。目の前には大きな石の鳥居があり、見上げてみれば背後の空が黒で塗りつぶされたように闇を纏っている。星の光は一つもなく、目を凝らしていると吸い込まれるような錯覚を覚え、お蘭は怖くなった。

「ここは神社?」

 お初に話しかけられ、お蘭は空にあった視線をお初に向けた。

「そうみたいね。こんな場所、初めてだわ」

 ふと、後ろを振り返ると、そこには暗い森が左右に広がっていた。今まで通ってきた道が、ぼんやりとした光に照らされている。不思議なことに、先程まであった暗黒の世界がなくなっている。もう一度、前方に目を移せば、鳥居の先にまた森が広がり、踏み固められた道が真っ直ぐそこまで続いていた。今、お蘭たちがいる場所は、森の中にできた細長い空き地のようだった。

 二人はまるで、目の前にある森に惹きつけられるように歩き始めた。鳥居をくぐり、再び暗い森に入る。湿気を含んだ空気は淀み、地面を踏みしめる足音以外は何も聞こえず、そして周囲の景色には色彩が全くない。道は曲がることなく、その先は暗黒に包まれていた。

 突然、甲高く鳴り響く音が耳に届いた。金属同士がぶつかる時の響きだ。それは道の先にある闇へ近づくに連れて徐々に大きくなる。その真っ暗な空間の中に、明るく照らし出された場所があり、一人の男性が複数の『影』と戦っていた。聞こえてきたのは刃を交える音だ。お蘭は、その男性が誰なのか、すぐに分かった。

「あなた!」

 お蘭の甲高い叫び声に、お初は体をビクッとさせた。お蘭の顔を仰ぐお初の存在を忘れたかのように、彼女は目の前の光景を、戦う蒼龍の姿を凝視していた。

 『影』は三人ほどいるだろうか。もしかしたら、もっと多いかもしれない。彼らは暗い場所から突然現れ、蒼龍に斬りかかる。相手の動きが読めない蒼龍は防戦一方で、着物には斬られた跡が無数にあった。

 お蘭は、すぐにでも助けに向かいたいのに、なぜか体が動かない。苦しむ蒼龍から目を逸らしたくてもそれができない。ただ、蒼龍の追い詰められる様を黙って見ているしかなかった。

 蒼龍が、上段からの攻撃を辛うじて刀で受け止めた時、後ろから別の『影』が背中に向けて横に薙ごうとするのがお蘭の目に映った。その一閃が蒼龍の胴を輪切りにしてしまうと思った瞬間、お蘭は現世に戻ってきた。

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