第17話 妖術使い
青白く光る空気が森の中を包みこみ、間もなく夜が明けることを告げていた。お蝶の亡骸はすでに埋められ、その墓標の前で鬼坊が頭を垂れて座っていた。他の三人は少し離れたところに座り、丸くなった鬼坊の背中を窺っている。
「いつまでこうしているんだ?」
銀虫が誰にともなく問いかけるが、答える者はいない。すると銀虫はすっと立ち上がった。
「どうするつもりですか?」
ようやく、雪花が口を開いた。その顔を見下ろしながら、銀虫は
「俺は旅を続けるさ。兄者の敵を討たねばならない」
と声を荒げる。さらに猪三郎も立ち上がった。
「鹿右衛門も殺られたからな。そして今度はお蝶さんまで」
猪三郎は大股で鬼坊に近づく。だが、鬼坊は全く反応しない。気のせいか、随分と小さく縮んだかに見えた。と言うよりは、体が凝縮され、まるで硬い岩にでもなったような雰囲気だ。
「お頭、復讐しないのですか?」
そう言って鬼坊の顔を覗き込んだ猪三郎は息を呑んだ。鬼坊の顔は怒りに歪んでいたのだ。それは、まさに鬼の顔そのものだった。食いしばった歯の間からは血が滴り、目は真っ赤に充血して、中央の小さな黒い瞳が真正面を見据えている。額の血管は異様に膨れ上がり、今にも破れてしまいそうなほどだった。すでに鬼坊の感情は、悲しみから怒りへと変化していた。
鬼坊は素早く立ち上がった。その巨体からは熱風が噴出し、猪三郎が思わずよろめいてしまう程の激しい衝撃に周囲の木の葉が大きく揺れる。それは離れて立っていた銀虫も感じるほどで、いつも強気の彼でさえ肝をつぶした。
「奴ら全員、この世から消し去ってやる」
地の底から響くような低い唸り声を上げる鬼坊に誰も抵抗はできないように思えたが、一人それに異を唱える者がいた。
「お待ちください、鬼坊様。今度は私が一人で参りましょう」
鬼坊が雪花に視線を移した。猛烈な殺気を湛えた眼光に耐えられる人間などいないように思われた。しかし、雪花はそれを平然と受け流す。逆に鬼坊の怒りが少し鎮まったようで
「雪花殿が、ですか?」
と冷静に尋ねる。彼女は大きくうなずいて
「お菊さんを無事に連れて帰ります」
と答えた。そして、深々と一礼した後、今では陽の光が差し込んでいる木々の間を通り、去っていった。
宿を出発した蒼龍たちは、出雲街道をたどって南東方向の千本宿、觜崎宿へと進む予定だった。山間の道をゆっくりと歩き、二里半ほど先の千本宿に到着したときには、すでに日が高く昇っていた。これだけ時間がかかってしまったのは、お蘭の体調を気遣ったこともあるが、それより蒼龍とお菊の目が完全には回復していなかったことのほうが理由としては大きかった。
「まだ目が染みるな。お菊殿は平気か?」
蒼龍が目を瞬かせながら、お菊に問いかけた。
「なんとか・・・ でも、お天道様がすごく眩しく感じます」
お菊は手で光を遮りながら答える。
「この辺で飯を食うかな」
伊吹がキョロキョロとあたりに目を配り、一軒の茶屋を見つけるや勝手に中へ入っていった。他の者も仕方なく後に付いていく。お松は呆れ顔でため息をついた。
店の中は薄暗く、閑散としていた。すぐに店の給仕が店の奥から姿を現し、伊吹たちの前までやって来た。無愛想な、頭の薄い老人だ。銘々の注文を聞くと、少し頭を下げただけで、無言のまま奥へ引っ込んでしまった。
「このまま真っ直ぐ進めば觜崎に着く。姫路まではあと少しだ」
蒼龍が言うように、出雲街道伝いに歩けばやがて山陽道を経て姫路に至る。姫路を過ぎてからしばらくは一本道だが、伊勢までたどり着くためのルートはやがていくつかに分岐する。京まで上り、鎌倉街道(東海道)を経由して伊勢に入る経路は、かなり遠回りだ。熊野古道を通る南側の経路も時間がかかるだろう。最も最短なのは、大阪まで行き、大和を経由して伊勢に入るという方法である。
「ここまで来たら、都にも行ってみたいものだな」
伊吹がボソリとつぶやいた。
「京の都は治安が悪いと聞くぞ。因幡にも噂が流れてくるのだから相当なもんだろう。近づかないほうがいい」
源兵衛の指摘通り、京都は下剋上の名のもとに実権の座をめぐる争いが絶えず、さらには寺社勢力どうしの宗教戦争まであった。当然「乱取り」すなわち略奪行為が起こり、民衆は家を焼かれ、田畑を荒らされるだけではなく、奴隷として扱われることもしばしばである。そうなると、民衆も自衛のために武器を握らざるを得ず、まさに力のある者が勝利する社会がそこにはあった。
「冗談だよ。これ以上、危険に身を晒すつもりはないよ」
伊吹の笑い声を聞きながら、蒼龍は
「大阪まで行って、そのまま卯の方向へ進むのがいいだろうな」
と提案した。それに反対する者は誰もいない。今では伊勢本街道として知られるその道は、神代の昔、倭姫命が八咫鏡を祀る地を求めて通ったと伝えられる。
「道は険しいと聞くけど、大丈夫かな?」
お蘭に目を向けながら源兵衛が首を傾げた。伊勢本街道は、櫃坂峠をはじめとして、険しい山道が多いことでも知られている。お蘭がそれに耐えられるものか、源兵衛には心配だったのだ。しかし、源兵衛の視線に気づいたお蘭は首を縦に振った。
「大丈夫、耐えてみせますわ」
お蘭は、この旅に一縷の望みを託していた。その意志を、力強いお蘭の言葉の中に感じ取り、源兵衛は胸をポンと叩いて
「よし、わしもできるだけ力になろう」
と応えた。
「あんたたち、大阪へ行く気かい?」
先程の無愛想な老人が、膳を床に並べながら話しかけた。
「そのつもりですが・・・」
お松が答えると、老人は首を横に振った。
「止めたほうがええ。大阪は今、戦の真っ最中という噂だ。巻き込まれて命を落とすことになるよ」
「本当ですか?」
「昨日も、大阪から逃げてきた連中に会ったよ。何の戦かは分からんけど」
膳を運び終えた老人は、そう言って奥へ下がっていく。一同はしばらく声を出すことができなかった。
「どうするかな」
蒼龍は、心配そうな顔をするお蘭を見ながらつぶやいた。
その日は何事もなく、無事に觜崎宿へ到着することができた。東側へ進むためには揖保川を船で渡る必要がある。その場所は『寝釈迦の渡し』と呼ばれ、西に見える山並みがお釈迦様の寝ている姿に似ていることから名付けられたらしい。そして、その東岸には崖に掘られた地蔵菩薩があり、『いぼ神さん』として親しまれている。文和三年の作というから、二百年以上も前からあったことになる。
「これが最後の船だよ」
船頭がそう呼びかける。蒼龍たちは、なんとか今日中に川を渡ることができた。鬼坊たちはおそらく、まだ川を渡っていないだろうから、少なくとも明日は、先回りして待ち伏せされる心配はなさそうだ。
対岸にたどり着くと、街道はそこから真っ直ぐ東へ伸びていた。すでに暗くなったその方角へ歩を進め、今晩の宿を探す。ところが、その日はどこも満杯で、宿泊できるところがなかなか見つからなかった。
「今まで、運がよかったのかしら」
四軒目の宿にも断られ、お松が不思議そうにつぶやく。
「このところ、西へ向かうお客さんが多くて」
宿の女将の話では、川を渡る前に觜崎で一泊する客が最近になって増えたのだそうだ。これも、大阪での戦の影響なのかもしれない。
結局、町外れにあった古寺で空き部屋を確保し、なんとか野宿だけは避けることができた。また、幸運にも大広間の隣にある次の間を一人分確保できたため、お蘭はその場所に寝ることとなった。
その夜、安心して眠りについたお蘭は、いつものように夢を見ていた。
どれだけ彷徨い続けたのか、お蘭は記憶が曖昧になっている。歩いても歩いても、あるのは広い草原ばかり。このまま進んで大丈夫なのか心配であったものの、そんな気持ちを表情に出さないようお蘭は気丈に振る舞った。お初を怖がらせたくなかったからだ。
「お初ちゃん、疲れてない?」
「大丈夫、まだ歩けるよ」
お初はお蘭に会えたことがよほど嬉しかったのか、一緒に歩きだしてから笑顔を絶やさなかった。お蘭も、そんなお初の様子を眺めていると自然と笑みが溢れてくる。お互い、この世界では初めて出会った人間である。決して離れることのないように、二人は手を固く握り合っていた。
淡い緑の草に覆われた小山を登りきり、目の前に広がる景色に二人は感嘆の声を上げた。
「見て、お初ちゃん。森がある」
山を下りてすぐの場所から突然、密集した森が始まっていた。その葉は、周囲の光を吸収して深い緑色をしている。まるで深海が目の前に迫っているような錯覚を覚えて、お蘭は少し寒気を覚えた。
「あれが亡者の森みたい。ちょっと怖そう」
お初はそう言ってお蘭の顔に目を遣った。不安げな表情をしているお蘭に気づき
「行っても大丈夫かな?」
と尋ねる。しかし、お蘭はすぐに答えることができなかった。
心配そうに視線を向けるお初に気がついたお蘭が、作り笑顔で
「多分、大丈夫」
と頼りない返答をしたので、お初は少しためらいがちに口を開いた。
「行かなきゃ、お姉ちゃんには会えないんだよね・・・」
にわかに、お初の顔つきが変わったことにお蘭は気づいた。真剣な、しかし何故か悲しげな表情であった。お蘭は勇気を奮い、お初の目線の高さに合うようしゃがんで話しかける。
「私が付いているから大丈夫よ。さあ、行きましょう」
ポンとお初の両肩を叩く。お初は少し笑みを浮かべ、頭を大きく縦に振った。
暗くてあたりが見えなかったらどうしようかとお蘭は心配していたが、森の中は意外にも、光で満たされていた。木そのものが淡く輝いているらしく、そのおかげで周囲の状況もしっかりと確認することができた。音はなく、静寂が支配した森の中で、二人の歩く足音だけが大きく聞こえる。
何事もなく旅は続いた。景色が段々と変化していることに二人は気づく。はじめは真っ直ぐに生えていた木々が異様にねじ曲がり、コブだらけの枝には葉が一枚もない。代わりに枝から垂れ下がる不気味な褐色のツタが現れ、今にも動き出しそうな雰囲気に二人は少し恐怖を覚えた。暖かく生臭い風が吹き始め、その音が遠くから人のうめき声のように聞こえてくる。湿った空気に汗まみれになりながら、お蘭とお初は歩き続けた。
「死後の世界って、なんだか両極端ね。穏やかな場所があると思ったら、こんなに怖い場所もある・・・」
お蘭が口を開いた。その声は風の音でかき消されてしまう。
「私、こんなところ初めて」
お初はあたりをキョロキョロと見回した。揺れる木々の枝やツタは、風のせいなのか自ら動いているのか判断できない。ガサガサと音を立てる木々に二人は動揺する。
「もうこれ以上進めない」
お初が怖気づいたようだ。お蘭も怖くて仕方なかったが
「大丈夫、何もいやしないわ。ただ風に揺れてるだけよ。お姉さんに会うためにも、勇気を出して進まなきゃ」
と励ましながら、手を引いて進もうとした。
「待って、向こうから誰か来る」
そう言われてお蘭は前を向いた。お初の言葉どおり、こちらへ向かってフラフラと歩く人の姿が見えた。衣服を誰かに奪われたのか、全裸の状態で、遠目にも女性だとはっきりと分かる。
近づくにつれて、お蘭はその女性をどこかで見たことがある気がした。それもそのはずである。女性は死んだお蝶だったのだ。
お蝶は、二人にはまるで気づく様子もなく通り過ぎていった。
翌朝、蒼龍とお蘭が宿の玄関で待機していると、奥から男女二人が姿を現した。男のほうは体が大きく、水色の着物を身にまとっていた。女は鼠色の小袖姿である。その格好から二人とも、お松と三之丞がやって来たものと一瞬思ったが、目を凝らすとそれは全くの別人だった。お互い軽く会釈をし、二人はそのまま外へ出て、蒼龍たちとは反対の方向、因幡のほうへ向けて進んだ。
それからしばらくして、今度は本物のお松と三之丞が、源兵衛とともに現れた。お松は、色とりどりの花模様を散りばめた美しい着物姿で、三之丞は灰緑色に赤いもみじの葉が鮮やかな小袖を着ている。それは、お菊と伊吹の衣装であった。
「お松さん、綺麗なお召し物ね」
お蘭にそう指摘されたお松が少し顔を赤らめた。
「私、こういう着物はあまり着慣れてなくて・・・」
「すごくお似合いですわ」
普段は地味な衣装の多いお松であるが、華やかな衣装に身を包み、妖艶な雰囲気さえ感じられる。口には出さないものの、男連中も意外なお松の魅力を前にして、取り憑かれたように視線を注いでいたので、お松は余計に恥じらい後ろを向いてしまった。
「あなた、じろじろ見すぎよ」
お蘭に肘で小突かれ、穴が開くほどお松を眺めていた蒼龍は我に返った。源兵衛と三之丞もその様子に気が付き、三之丞は禿げた頭を掻きながら
「いや、すまない」
とお松に謝った。ちょうどその時、お雪がやって来て、やはりお松の変身ぶりに驚いて
「お松さん、綺麗ね」
と声を上げる。お蘭も加わって女性陣三人は長い間、お松の身につけている着物を話題に輪になって喋っていた。しかし、どうしてお松が急にお菊の着物に着替えたのか、それを指摘する者はいなかった。
「そういえば、この着物、お菊さんのですよね。交換されたのですか?」
お雪の言葉を受けて、源兵衛が話に割り込んだ。
「皆、聞いてくれ。わしにちょっとした考えがあってな」
源兵衛が話を続けようとした時、宿の奥側から近づいてきた二人に気づいた蒼龍は一瞬、我が目を疑った。そこには朱色に金の桐が描かれた派手な着物を身にまとった美しい、しかし異常に背の高い女性と、長い髪を総髪にした女性のような顔立ちの剣士がいたのである。そして、よく見るとそれは女装した伊吹と男装したお菊であった。
「一体、どうしてそんな姿に・・・」
それ以上、言葉の出ない蒼龍に、源兵衛は得意そうな顔を向けて
「まあ聞いてくれ」
ともう一度言った。
源兵衛の考えとは次のような内容である。まず、背格好のよく似ている伊吹と三之丞、同じく体型のそっくりなお松とお菊の着物を入れ替える。つまり、三之丞が伊吹に、お松がお菊に変装するということだ。さらに、伊吹には女装、お菊には男装させて、偽の夫婦として単独で旅をさせるというのである。昨夜、源兵衛が四人に話を持ちかけ、仮とはいえ夫婦になれるということで、お菊がそれを強く望んだため、他の三人も渋々同意したのである。わがままな伊吹がよく受け入れたものだが、源兵衛たちは目の届く範囲で後を追うようにするということで何とか了承が得られたようだ。
「どうやって伊吹殿の着物を用意したんだ?」
お菊の衣装ならまだしも、背の高い伊吹に合うような着物がそんなに容易く手に入れられるとは思えない。蒼龍は首を傾げた。
「以前、宿で足止めを食らったことがあっただろ。あの宿に旅芸人が泊まっていてな。派手な衣装の風変わりな大男から一着売ってもらったんだ」
伊吹も似たようなものであるが、いわゆる傾奇者の走りであろう。しかし、源兵衛はその時から今回の策を計画していたことになる。
「二人減ると怪しまれないか?」
「ちょうど智頭へ戻る予定の旅の商人夫婦がいてな。二人に三之丞とお松殿の衣装を着て出発できないか頼んだんだ。お金を渡したら、快く引き受けてくれたよ」
すでに準備万端整えられた状態に蒼龍は苦笑した。
「しかし、なんとも奇妙な夫婦であるな」
片や男性と呼ぶにはあまりにも華奢で頼りない侍、片やまるでどこかの姫君のような派手な出で立ちの美人。これで周囲から注目されないわけはない。逆に目立ってしまうのではないかと蒼龍は心配になった。
「看破された時はどうするつもりだ?」
そう尋ねられた源兵衛が片眉を上げる。
「若旦那にも同じことを聞かれたよ。いいか、奴らはわしらより先には進んでいない。来るなら後ろからだ。前に進んでいたほうが、わしらと一緒にいるよりも安全なんだ」
源兵衛の力説に、蒼龍は口を尖らせながらも納得したらしく首を縦に振った。その蒼龍にお蘭が話しかける。
「先程のお二人、お松さんたちに間違えられたりしないかしら。心配だわ」
その二人が鬼坊たちに発見されることが源兵衛の希望であったが、それによって発生する危険については頭になかったらしい。源兵衛は顎髭をなでながら唸り声を上げた。
こうして、伊吹とお菊が先行し、その後を他の者が追うという作戦で旅は再開された。しかし、源兵衛の苦心にもかかわらず、鬼坊たちが現れる気配はまったくない。一行は山々をはるか遠くに残し、田畑の広がる平野に入った。
「あとどれくらいで姫路の城下になるのかな」
源兵衛がボソリと口にした。太陽は真上にあり、そろそろ昼になることを告げている。その太陽の光を遮るように枝を広げた木々の中へ進んだ時、どこからともなく澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
「何かしら?」
最後尾にいたお蘭が首を傾げると同時に、横にいた蒼龍が突然、後ろを振り返った。
「何者だ!?」
木漏れ日の中、きらきらと揺らめく光に遮られ姿がはっきりしない。だが、澄んだ青空のような瞳が自分たちを捉えていることだけは、はっきりと分かった。
「目を見るな!」
そう叫ぶやいなや、蒼龍は目にも留まらぬ速さで相手に突進した。刀の柄に手をかけ、間合いに入るや瞬時で抜刀し、相手の首に斬りつける。
まさに一瞬の出来事だった。皆が振り向いた時には、蒼龍はすでに後ろに飛び退いていた。そして、その向こう側で何事もなかったかのように立ち尽くす相手に誰もが言葉を失った。すでに幻術に捕らえられているのだろうか、と源兵衛は周囲に目を配る。
蒼龍は、自分の刀に呆然と視線を落としていた。手応えが全くなかったのだ。皮膚を裂き、肉を斬り、骨を断った時の、形容し難い不快な感触が伝わってこなかった。それはまるで、虚空に刃を向けたようであった。刀に血が全く付いていないのを確認してもなお、その身が体験した出来事を信じることができない。
「あれはまやかしか?」
蒼龍がつぶやくのと同時に、その幻影が両手を高く掲げた。黒い霧が舞い、たちまち蒼龍たちを覆ってしまう。それは光を消し去り、あたりを闇で支配した。その中で、バタバタと何かが倒れる音が聞こえる。霧が消えた頃には、全員がその場で地面に横たわっていた。
その傍らに現れたのは猪三郎だった。鬼坊に命じられ、雪花と一緒に行動していたのだ。
「まさか、全員、殺したんですか?」
折り重なって倒れている者たちを目にして猪三郎が叫んだ。その中にはお菊もいるはずだからである。
「いいえ、眠っているだけです。でも、簡単には起きないでしょう」
唖然とする猪三郎に、雪花は薄っすらと笑みを浮かべながら答える。初めて目の当たりにした妖術の威力に猪三郎はすっかり驚いたようで、それ以上、言葉が出ない。
「さあ、伊吹様とお菊さんを連れていきましょう」
その言葉に背中を押されるように、猪三郎は伊吹とお菊を探し始めた。
「これは・・・」
お菊の着物を着た女を発見し、その顔を確認した猪三郎は、それがお松であったことに面食らってしまった。雪花も近づいて、その顔を確認する。
「どうやら、相手の罠にまんまとはまったようね。二人とも、ここにはいないみたい」
猪三郎は慌てて他の女性の顔を確認する。そして、最後の一人の顔を覗き込んだ時、猪三郎は仰天して尻もちをついてしまった。
「なんだこいつは・・・死んでやがる」
それはお蘭だった。眠りについて、すぐ死体になってしまったのだ。
「それは、あなた方がこの間連れてきた、あの女性の成れの果て。あなたが乱暴しようとした方よ」
雪花がニッコリと笑う。その表情に得も言われぬ凄絶な気を感じ取り、猪三郎は座り込んだまま動けなくなった。
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