第16話 幽鬼の慟哭

 三日月は、かなり大きな宿場町だった。空はまだ青く、正面からは暖かい風が頬を撫でながら通り過ぎていく。人通りが多く、旅人らしき者も何人か目についた。しかし、ここにも戦の爪痕は例外なく残されている。途中、焼け落ちて炭と化した大きな建物があった。どうやら神社らしい。

「ひどいものだな」

 独り言をつぶやいた源兵衛に、蒼龍が近づいて話しかけた。

「宿を探さなければならぬが、どうする?」

 源兵衛は腕を組んで考え込んだ。どうするとは、お蝶のことである。宿に入るところを見られれば、相手に居場所を知らせるようなものだ。

「宿にいるときに襲うことはないだろう。知られたら、それまでのことだ」

「しかし、今はお菊殿が一緒だ。連れ戻しに来る可能性はある」

 蒼龍の言ったことは源兵衛も気にしていた。お菊がいる限り、下手に襲撃することはできない。まずは、お菊の身を確保することを考えているだろうと二人は予想していた。

「見張りを置くしかあるまい」

「ああ、俺が見張るよ」

「まあ、それは宿に入ってから決めよう」

 二人はそんな会話をしながらお蘭とお菊の様子を窺っていた。彼女たちは神社にある小さな狛犬を前に、なにか話し込んでいた。お松と三之丞、そしてお雪は近くの茶店で団子が焼けるのを待っている。伊吹は一人、行き交う人々を道端で眺めていた。背が高く、しかも美しい女性のような顔立ちに気づかない者などいない。しかし、自分のほうへ振り向く女性など気にも留めず、憂いを帯びた表情で立ち尽くしている。

「お団子が焼けたわよ」

 お松たちが団子を持って蒼龍と源兵衛の下へやって来た。その声を聞くや、お蘭とお菊も笑顔で駆けつける。しかし、伊吹はそっぽを向いたままだ。

「若旦那、いらないんですか?」

 団子を頬張りながら、お雪が尋ねると、伊吹は目を向けて口を開いた。

「そんな気分じゃないよ」

 人の多い場所に辿り着いて少しは安心したものの、刺客に対する恐れで食事も喉を通らないらしい。結局、伊吹は団子に手を付けなかった。

 各々はしばらくの間、追われる身であることを忘れ、通りの店に入ったり、あたりを散策したりと、三日月の町を満喫していた。伊吹だけはその場を動こうとせず、お菊はずっとそばに付き添い、他の者も二人以上は監視を行うようにしていたが、さすがにこの往来で襲撃はないと考え、あまり警戒することもなかった、

 お雪は、替えの着物が欲しかったらしく、無地ながら品のいい黄色の小袖を買って上機嫌だ。お松やお蘭の前に差し出しながら、嬉しそうに話しかけていた。源兵衛も、薬売りから丸薬や軟膏を購入している。こうして半刻ほど経過した後、全員が伊吹の周りに集まったところで、お松が

「そろそろ、お宿を探しましょう」

 と提案した。反対する者はなく、一行は前進し始めた。

 太陽は西に傾き、空は錆びた鉄の色に覆われている。遠くの山々はきらめき、まるで小判が積み重なってできたピラミッドのようだ。道を歩く人はまばらになり、その代わり、長屋の前で立ち話をする女性たちや、ちゃんばらごっこを楽しむ子どもたちの姿が目に映るようになった。

 宿の一つに入り、部屋割りをする。お松とお雪は同じ部屋に、お蘭とお菊は一つずつ部屋を与えられた。男四人は大部屋に雑魚寝である。

「不思議なのよね」

 お雪の独り言を聞いて、お松が問いかける。

「何が?」

「蒼龍様も源兵衛さんも、忍びが潜んでいるのが分かるんでしょ? 私には、どうがんばっても見つけることができないの」

 お松は思わず笑いながら

「二人とも今までにいろいろ経験しているから、勘が冴えているのよ」

 と答えたが、お雪には納得がいかない。

「私だって、いろいろと危険な目に遭ってきたんだから、少しは勘付いてもよさそうなのにな」

「あら、それなら私にも分かるはずよね。私は戦にだって出たことがあるんだから」

 お雪は、お松の顔をまじまじと見つめた。

「じゃあ、お松さんには分かるの?」

 お松は首を横に振った。

「相手は忍びなのよ。よほど感覚が鋭くないと無理じゃないかしら」

「そっか・・・」

 お雪は少し考えた後、お松に問いかけた。

「お松さんも、誰かが隠れている時に勘付くようなことはあるの?」

「あるわよ。ある戦のとき、背後から忍び寄ってきた敵がいたの。妙な胸騒ぎを覚えて振り向いたら、相手が刀を振り上げていたところだったわ。すんでのところで避けたおかげで助かった」

 お雪が感心したような顔で

「すごいわ。私にはとても無理ね。さすがは指南役」

 と称賛するが、お松はため息をついて

「褒められるようなものでもないわ。人と殺し合うための能力なんて」

 と自嘲気味に語る。

「今の時代には必要でしょ?」

「できれば早く平和になってほしいんだけど。私だって、こんな男勝りなことは続けたくないもの」

 お松のため息交じりの言葉を聞いて、お雪がニヤニヤしながら

「その男勝りなところが素敵だって人、多いのよね」

 と冷やかした。

「女性からはよく言われるわね。男性からはないけど」

 お松が口を尖らせる。

「知らないんですか? お松さんって男性にも結構人気あるんですよ」

「聞いたことないわ」

「私、よくお松さんのことを聞かれたりしますよ。直接聞けばって言うんだけど、なんだか近寄りがたい雰囲気があって声を掛けられないみたい」

 お松の顔が途端にしかめ面になった。

「そんな軟弱な男、興味ない」

「厳しいんですね。じゃあ、どんな男性が好みなんですか?」

 険しい表情のまま、お松はお雪の顔を凝視している。そして、お雪は満面の笑みを浮かべている。そのうち、二人とも吹き出した。

「変なこと聞かないで」

「だって、気になるじゃないですか。お松さんの好みの男性って聞いたことなかったし」

「少なくとも、今まで出会った男性の中で素敵だと思った人はいないわね」

「やっぱり厳しいなあ。一人もいないなんて」

「まずは私より強くなければ駄目よ」

 お松の示した条件を聞いて、お雪は笑い出した。

「そんな男、いないじゃない」

「いるわよ」

「少なくとも、お屋敷の中にはいないわね」

「それはどうかな? 源兵衛さんとは試合をしたことがないけど、私より強いと思うわよ」

 お雪が身を乗り出した。

「じゃあ、お松さんの理想の男性は源兵衛さん?」

「もっと若かったら、そうだったかもね」

 二人は顔を見合わせてクスクスと笑った。

「そういうあなたはどうなの、お雪?」

 突然の反撃に、お雪は驚き、言葉に詰まってしまった。

「あなた、優しい男性が好みだったわよね。だから蒼龍殿に気があるのか」

 お雪は激しく首を横に振った。

「そんな、蒼龍様にはお蘭さんが・・・」

 それ以上は何も言えず、顔を赤く染めるお雪を、今度はお松がニヤニヤしながら眺めていた。


 丑三つ時、といえば古来から不吉な時間帯と言われてきた。下弦の月は血のような朱に染まり、澱んだ沼の底のように静まり返った闇夜の中で動くものは何もない。すべてが眠りにつくこの時間に、宿の裏庭に面した縁側を歩く女性が一人。部屋の一つを通り過ぎようとしたとき、すっと戸が開いた。

「お菊殿か」

 部屋の中から現れたのは蒼龍だった。お菊は驚いた顔で

「蒼龍様・・・」

 と声を上げた。

「眠れないのですか?」

 蒼龍に尋ねられ、お菊はコクリと首を縦に振った。

「なんだか目が冴えてしまって」

 そう答えてから、今度はお菊が問いかけた。

「蒼龍様もですか?」

「いや、俺は夜の見張り役です」

「そうですか、ご苦労さまです」

 お菊は深々とお辞儀した後、おずおずと

「あの・・・ 少しの時間、お話相手になっていただけませんか?」

 と蒼龍にお願いした。夜番の間、暇で仕方のない蒼龍にとってはありがたい話だ。

「俺でよければ、いくらでも」

 そう答えた蒼龍に、お菊はもう一度頭を下げる。

 最初は互いに何も知らないわけだから、相手のことを尋ねては答えるというやり取りが続いた。それから蒼龍とお蘭の馴れ初めをお菊が質問し、少し照れながらも蒼龍が答えているうちに、段々と恋愛相談に変わっていった。

「私、男の人が何を考えているのかよく分からなくなって・・・ 伊吹様の心の中を覗くことができれば、どんなにいいか」

 心の苦悩を吐き出すように打ち明けるお菊を前にして、蒼龍は初めてお菊に会った時の感情を思い出した。お菊は伊吹のことを諦めることができない。しかし、伊吹はすでにお菊への興味を失くしているのだろう。お菊を説得し、伊吹のことは忘れて新しい恋を探すよう促すのが最善だと蒼龍は考えるが、お菊がそれを受け入れることはおそらくない、と予想ができた。

 しばらく黙ったままの蒼龍に対し、お菊は恐縮して

「ごめんなさい、変なことを言ってしまったわ」

 と頭を横に振る。

「そんなことはない。あなたの気持ちはよく分かります。今のあなたには時間が必要だ。頭の中を整理するためのね」

「それは・・・ あの方を忘れなさい、という意味でしょうか」

 蒼龍は慌てて言い直そうとした。

「いや、そういう意味では・・・」

 お菊の目が、ほのかな月明かりの下でゆらゆら輝いている。やがて一粒の涙が頬を伝った。蒼龍は、本心を話すことにした。

「お菊殿、正直に言えば、伊吹殿があなたのことをどう想っているのか、はっきりとは分からない。だが、彼が一人の女性だけを愛することはなさそうだ」

「殿方というのは皆、そういったものなのでしょうか?」

「多かれ少なかれ、あるのかな」

 人差し指で目尻のあたりを掻きながら、蒼龍は曖昧に答える。お菊は手を口に添えて

「蒼龍様もそうですの?」

 と尋ねた。すっかり困り果てた表情になった蒼龍を眺めているうちに、お菊が声を押し殺して笑い始めた。釣られて蒼龍も笑顔になる。

「意地悪な質問でしたわね。蒼龍様がお蘭さんを裏切るはずがございませんわ」

 そう言ってお菊は頭を下げた。

「ありがとうございました。話したら少し気分が晴れたようです。そろそろ寝ることにいたしましょう」

 自分の部屋へ戻っていくお菊の後ろ姿を目で追いながら、蒼龍は小さな声でつぶやいた。

「女心というものも、理解するのは難しいな」


 部屋に入ったお菊は、小さくため息をついた。薄暗い室内の中央に夏掛けが一つ、外からの光によって辛うじて目にすることができる。その周囲は暗く、まるで夜の静かな海に浮かんでいる小さな船のようだ。

 正座して、夏掛けに手を伸ばしたとき、不意に背後から口を押さえられた。それは強い力というわけでもなかったが、吸い付くように口を覆い、お菊は全く声が出せない。

「静かに、お嬢様。お蝶でございます」

 いつの間に部屋へ忍び込んだのだろうか。あの蒼龍も全く気づいていなかった。完全に気配を消し、相手に悟られずに行動するとは、さすが忍びといったところか。

 押さえていた手をゆっくりと離し、音もなくお菊の前で跪いたお蝶は

「お嬢様、我々の下へお戻りくださいまし」

 と言って頭を下げた。しかし、お菊がそれに答える気配がない。もっとも、お蝶はそれを予想していた。

「お悩みになっているのは分かります。お嬢様がなさったことに対しては誰も咎めたりいたしません。一時の気の迷いであると、私達は信じております」

 お蝶は優しく語りかける。だが、お菊は首を横に振った。

「私はまだ、伊吹様を好いております。これは気の迷いなんかじゃありません。もう一度振り向いてくれるまで、私はあの方と一緒にいます」

「恋は人を盲目にさせるものです。時が経てばきっと、それに気づかれる日が来るでしょう。そして、お嬢様を愛して下さる素敵な男性が必ず現れますわ」

 お菊は、お蝶の言葉を聞いて微笑んだ。

「お蝶、あなたも同じことを言うのね」

 お蝶には何のことか全く分からない。言葉に詰まったお蝶に対して、お菊はさらに言葉を重ねた。

「私には覚悟ができています。もし、あの方が私を愛して下さらないなら・・・」

 いったん間をおいてから、お蝶の目を見据えたお菊は迷うことなく断言する。

「私がこの手であの方の命を奪うまで」

 お蝶は目を丸くした。彼女は理解したのだ。この恋が成就しなければ、お菊は無理心中を図るつもりなのだと。

「なりませぬ、お嬢様」

 そう叫んだお蝶が、ぱっと立ち上がり後ろへ飛んだ。それと同時に障子がさっと開き、蒼龍が中に入ってくる。

「お菊さん、大丈夫か」

 呆気にとられるお菊のそばに走り寄り、お蝶のいる暗闇に目を凝らす。相手は動く気配がない。しばらくはその状態が続いたが、やがて外から物音が聞こえてきた。騒ぎに気づいた者たちが様子を見に来たのだ。それを察したお蝶が動いた。蒼龍が身構えると、床に何かが転がってきた。

「お菊さん、こちらに」

 座ったままのお菊の手を取り、後退しようとしたが遅かった。それはボンと爆発し、あたりが一瞬のうちに煙で覆われる。その隙に障子を突き破り、お蝶が勢いよく外へ飛び出した。そのまま縁側から外囲いに向かって逃げようとする。

 塀に近づき、その屋根へ飛び上がろうとした時、背後から叫ぶ声がお蝶の耳に届いた。

「止まりなさい!」

 そう言われて素直に従うはずもなく、お蝶は振り向くことはなかった。この時、後ろを振り返っていれば、彼女の運命は変わっていたかも知れない。また、お蝶に対して叫んだお雪も、この結末は予想していなかった。お雪がお蝶に対して放った一本の矢が、飛び上がり空中に浮かんでいたお蝶の背中を深々と貫いたのだ。しかし、お蝶はそのまま屋根を乗り越え、逃げていった。

 縁側にはお雪の他に、お松と源兵衛がいた。源兵衛が後を追いかけるために庭へ駆け出す。お松はお雪に声を掛けた。お雪は呆然としている。

「お雪、大丈夫?」

「私、当てるつもりはなかった・・・」

 お松は、お雪の両肩に手を置いた。

「運が悪かったの。仕方ないのよ」

 なんとか落ち着かせようとしているところへ、蒼龍とお菊が近づいてきた。お松が振り返り、声を掛けようとしたが、その言葉を飲み込んでしまった。蒼龍もお菊も、目を閉じたまま涙を流していたのだ。

「どうされたのですか?」

 お松がようやく口を開いた。

「やられたよ。目潰しだ。あの煙には近づかないほうがいい」

 蒼龍はそう言いながら手で涙を拭った。


 四人が、行灯の明かりの下で膝を突き合わせて座っている。蒼龍とお菊は目を開けることができず、その様子をお松は心配そうに見ていた。お雪はうつむいたまま動かない。

 あれだけの騒ぎにも関わらず、伊吹と三之丞は結局、目を覚まさなかった。宿の女中が何人か駆けつけ、部屋の中が粉まみれになっているのに驚いたが、護身用の煙幕が破裂したとごまかし、朝になったら片付けるという約束でその場を収めた。

「まだ回復しませんか?」

「しばらくは無理だな。まさか身内もろとも食らわすとは思わなかったよ。油断した」

 お松の声を聞いて、蒼龍がわざと快活に答えたところに源兵衛が戻ってきた。

「駄目だ、逃げられた」

 お松は、額の汗を拭いながら部屋へ入ってきた源兵衛に目を向けた。

「しかし、あれだけの深手を負ったんだ。おそらく助からないだろう」

 続けて源兵衛が発した言葉が、お雪の心を激しく揺さぶったようだ。お雪は嗚咽をあげ始めた。お松が横に寄り添って、背中をそっと撫でながら心配そうに顔を覗き込む。その様子を目にした源兵衛は

「すまない」

 と一言詫びた。

 目が使えない蒼龍とお菊は元に戻るまで休むことになり、未だ立ち直ることのできないお雪も寝かせることにした。残った源兵衛とお松は二人並んで縁側に座り、虚ろな顔を庭に向けていた。

「お雪を連れてきたのは失敗だったかしら」

 そもそも、お雪は護衛を目的として旅に同行したのではない。蝙蝠を撃退したときも、弓が得意ということで抜擢されただけなのだが、思いがけず人を殺める結果になってしまった。それからは、護衛の一人として行動するようになっている。

「あの娘にとっては辛い経験だろう。しかし、今となっては弓矢があるほうが助かるのだが」

「これ以上、矢を射るのは無理かもしれないわよ。戦で人を斬った後、刀を握ることができなくなった人を私は何人も目にしている」

 源兵衛は長く息を吐いた後

「そうだな・・・ しばらくは休ませてあげたほうがいいか」

 と納得した。

 どれだけ時間が流れたのだろうか。二人とも黙したまま、夜空にまたたく星を眺めていた。やがて墨で塗りつぶされたような空が紺色に変わり始めた頃、静かに障子を開ける気配に気づき、二人が振り向くと、そこにはお雪が立っていた。

「お雪・・・ 大丈夫?」

 お松の問いかけに、お雪は薄っすらと笑顔を浮かべた。

「御心配をお掛けしてすみませんでした。私、覚悟はしていたはずなんです」

 お松の横に腰掛けて、お雪は話を続ける。

「蒼龍様に伺ったのです、人を殺めた者が陥る闇のことを。その深みに落ちていくような気がして、怖くなったのね」

 微笑んだまま夜の庭を見つめるお雪に、お松は少し驚いた様子で目を向けた。

「私、二度めなんです。人の命を奪ったのは」

 お雪が蝙蝠を倒したことを、本人だけでなく蒼龍も皆に黙っていた。だから、お松も源兵衛も、今の言葉に戸惑い、声が出ない。

「その時に言われました。今の気持ちを忘れないでって。それを思い出したら、不安も消えてしまいました」

 お松の表情は和らいたものの、少し悲しげだった。

「ごめんね、お雪。あなたには、こんな思いをさせたくなかった」

 お松の目から涙が落ちる。今度はお雪のほうが驚いた。

「お松さん?」

 突然、お松はお雪に抱きついた。小さな声で「ごめんね」と繰り返すお松に、お雪はどうしていいか分からず、戸惑うばかりだった。


 森の中、焚き火の炎で周囲の空気がふわふわと揺らいでいる。猪三郎と銀虫が二人、地面に石を置いて互いにサイコロを振っていた。賭け事でもしているらしい。少し離れたところに、珍しく雪花が座っていた。その瞳は今は琥珀色に光り、その先にいる鬼坊の姿を捉えている。鬼坊は一人、腕を組み、闇に包まれた森の奥へ顔を向けていたが、その目は閉じていた。

 どこかで烏が一声鳴いた。それに反応して鬼坊がゆっくり目を開ける。その視線の先に、灰色の影が一つ、まるで亡霊のように浮かんでいた。

 組んでいた腕を解き、目を凝らしていると、その影はすっと消えてしまった。何やら胸騒ぎがして鬼坊は無意識に走り始めた。

 影の消えたあたりの地面に目を凝らした鬼坊は、紺色の小袖に身を包んだ人間がうつ伏せに倒れているのを発見した。薄暗い中、後ろで束ねた長い黒髪と着物の色で、すぐにお蝶だと分かり、鬼坊は慌てて座り込み、その体を抱きかかえた。その時、背中に刺さった一本の矢に気づいたのである。

「しっかりしろ」

 鬼坊の叫びでお蝶は目を開けた。

「お前さん、しくじったよ・・・」

「すぐに医者へ連れて行く。もう少し頑張れ」

 お蝶は再び目を閉じて首を小さく横に振った。

「ごめん、もう無理だ・・・」

 徐々に声の弱くなるお蝶を前にして、もはや何をすればいいのか分からぬまま、鬼坊は助けを求めて周囲を見渡し、もう一度お蝶の顔を覗き込んだ。その目からは涙が溢れてくる。

「駄目だ・・・ 行かないでくれ」

 普段では考えられないような女々しい声で、鬼坊はつぶやいた。それと同時に、お蝶の体から力がすっと抜けた。

 鬼坊の叫び声が猪三郎たちの耳に届いた。

「お頭?」

 猪三郎が声のしたほうへ駆け出す。銀虫は立ち上がり、その行方を目で追うだけだった。そして、雪花は座ったままだ。その瞳の色は、淡い青色に変わっていた。

 鬼坊の下へ辿り着いた猪三郎は、暗がりの中で目にしたその光景を一生忘れることができなかった。いつもは仁王のごとく、いかつい顔の鬼坊が、まるで子供を隠された鬼子母神のように泣き喚いている。その手には、すでに事切れたお蝶が抱きかかえられ、その美しくも悲しげな顔には鬼坊の涙が絶え間なく降り注いだ。為す術もなく立ち尽くす猪三郎の存在に、鬼坊は全く気づいていない。何度も何度も、お蝶の名を叫ぶ鬼坊の声が森の中に木霊する。それに呼応するように再び、烏の鳴く声が聞こえた。

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