第13話 狩る者と逃す者

「兄者の敵を討たねば気が済まねえ」

 銀虫が叫んだ。鬼坊は、ようやく気がついた伊吹の目の前にしゃがみ込み、いろいろと質問を投げている。

「蒼龍は伊勢に行くつもりのようだな。こいつらはそれに同行していただけらしい」

 尋問を終えて、鬼坊は銀虫の下へ移動した。伊吹は後ろ手に縛られ、足も縄でつないで走れないようにされていた。体にも縄が巻き付き、その反対側は太い木に縛り付けられている。伊吹の背後には猪三郎が仁王立ちしていて、どうあがいても逃げることはできない。雪花とお蘭は、焚き火の前で座っていた。その横では鹿右衛門が苦痛に耐えながら寝転がっている。

「朝になるまでは何をやっても自由だ。復讐でもなんでも好きにすればいいが、俺は行かないぞ」

 銀虫は、鬼坊の言葉を聞いて

「一人で十分だ」

 と声を荒らげた。そのまま銀虫が立ち去ろうとした時、雪花が話しかけてきた。

「それなら、蝙蝠様と月光様をお連れすればよろしいではないですか。あなた様の命令に従うようにしておきますから」

 雪花の申し出を断ろうとした銀虫だったが、ふと思いついたことがあった。

「兄者の鬼の目はまだ使えるのか?」

「もちろん。相手の居場所も簡単に分かるでしょう」

 雪花の返答を聞いて、銀虫はニヤリと笑った。

「では、借りることにしよう」


 銀虫が、蝙蝠と月光の死体を引き連れ出発して間もなく、お蝶がお菊とともにやって来た。二人とも、肩には風呂敷を担ぎ、手には漆器を持っている。

「お嬢様、どうなされたのですか?」

 眠っていた鬼坊が、二人の気配に気づいて立ち上がり、尋ねた。

「伊吹を捕らえたとお蝶が教えてくれたの。皆、ご苦労さまでした。大したものは用意できなかったけど、どうぞお召し上がりくださいな」

 そう言ってお菊が差し出したのは握り飯と酒だった。

「これはかたじけない。おい、鹿右衛門、起きられるか?」

 寝転がっていた鹿右衛門が起き上がり、お菊に顔を向けて

「ありがとうございます、お嬢様」

 と頭を下げた。

「まあ、鹿右衛門、どうしたの?」

「ちょっと油断してしまって・・・ 情けない」

 お菊に問われ、鹿右衛門は頭を掻きながら答えた。

「猪三郎もどうぞ。それだけ縛られていれば逃げられないでしょ。他の方々も・・・ あれっ? 雪花様たちは?」

 お菊の言葉に、鬼坊は焚き火のある場所へ目を移した。そこにはお蘭の姿はあるが、雪花が見当たらない。

「先程までいらっしゃったのですが・・・ 彼女はいつも、夜になると何処かへ行かれてしまう」

「そう・・・ あの方は初めてお目にかかりますが」

 お菊は、うつむいたまま力なく座り込んでいるお蘭の姿に目を留めて鬼坊に尋ねた。

「彼女は、伊吹と一緒に猪三郎がさらってきたのです」

「そうですか・・・ じゃあ、私達だけで始めましょう。お蝶も楽しんでちょうだい」

 そう言ってから、お菊は握り飯を二つ持って、お蘭に近づいていった。

「ごめんなさいね。ひどい目には遭わなかった?」

 お菊に突然、話し掛けられ、お蘭は少し驚いた顔でお菊を見上げたが、すぐに下を向いて首を横に振った。そんなお蘭の横に座り、お菊は握り飯の一つを彼女に差し出す。

「お腹空いてない? よかったら、これ食べて」

 お蘭は、少しためらいながらも握り飯を受け取り

「ありがとうございます」

 と頭を下げた。

「私はお菊と申します。お名前は?」

「お蘭です」

「もう少し我慢してね、お蘭さん。あなたは無事に帰れるようにするから」

 お菊は、そう言って笑顔を見せた。


 途中、何事もなく、お松たちは宿にたどり着いた。

「これからどうなさる?」

 兼光がお松に尋ねる。

「まずは、行方を探している他の仲間が戻ってくるのを待たねばなりません。おそらく、この先にいると思いますが」

「ならば、もし、会うことがあったら、あなた方のことを伝えておきましょう。名はなんと?」

「蒼龍と源兵衛にございます」

 お松の返答を聞いた途端、兼光の顔が険しくなった。

「蒼龍・・・」

 兼光がそうつぶやくのを聞いたお松が、不安そうに

「いかがなされました?」

 と尋ねる。

「いや、知り合いに同じ名の者がいましてな。では、お仲間が無事に戻られることを祈っていますぞ」

 兼光はまた温和な表情になり、そう言い残して去っていった。

「このまま一緒に、源兵衛殿たちを探しに行ってもよかったんじゃないですか?」

 三之丞はそう漏らした。

「でも、行き違いになっても困るし」

 お雪は三之丞の意見には反対のようだ。

「それなら、誰か一人だけここに残って、もう少しあたりを探してみましょうか・・・」

 お松は二人に話しかけた後、急に腑に落ちないというような顔になった。

「お松さん、どうしました?」

 何やら思い詰めているお松の様子が気になり、三之丞が尋ねた。

「彼らの目的は若旦那の命よね。どうしてその場で殺さずに連れ去ったのかしら」

 お松の疑問に、三之丞は腕を組んで考え込んだ。

「私たちをおびき寄せるため? 皆殺しにするつもりなんじゃないかしら」

 代わりにお雪が答えるのを聞いて、三之丞は

「ならば、若旦那はまだ生きている可能性があるかも」

 と叫んだ。

「そうね、まだ望みを捨てては駄目よね。お雪、ここに残ってくれるかしら。三之丞と私の二人でもう少し探してみる」

 お雪も三之丞も、お松の顔に視線を向けた。それから無言のまま、お松と三之丞は走り始めた。


 蒼龍と源兵衛は、すでに山道へ差し掛かるあたりまで来ていた。

「どうだ、見つかったか?」

「いや、全く気配がない」

 源兵衛に言葉を返す蒼龍の顔は険しかった。

「もう少し先へ行ってみるか」

 そう言った源兵衛が先へ進もうとしたときである。蒼龍が峠に目を遣り叫んだ。

「誰か来る。一人のようだが・・・」

 そう言いながら、蒼龍は歩き出した。

「一人でやって来たということは、奴らはまだ差しでの勝負を続ける気なのか?」

「我々が倒されていくのを伊吹殿に示すためか。ならば伊吹殿はまだ生きている可能性があるな」

 二人ともお蘭のことは敢えて口に出さなかった。黙々と歩を進めているうちに、源兵衛にも殺気を感じることができるようになった。

「妙だな・・・ 一人のようにも大勢のようにも感じる」

 源兵衛の言葉に、蒼龍も賛同する。

「殺気が全く感じられない。気配はあるが・・・ 人間の気配とは思えぬな」

「狼でも連れているのか?」

「狼にも殺気はあるさ。奴ら、殺す気満々だ。いずれにせよ、用心したほうがよさそうだ」

 二人が凝視する前方の闇から、三人の姿が現れたのはそれから間もなくだった。一人は銀虫で、源兵衛にもすぐに分かったが、他の二人は見覚えがない。

「あの二人、なんか妙だな」

 源兵衛が話し掛けても、蒼龍は何も答えなかった。ただ呆然と、二人の姿を注視している。その二人は、死んだ蝙蝠と月光であった。

「なぜ、あいつらは生きているんだ?」

「あれが誰か知っているのか?」

「小男のほうはこの間、お雪殿に矢で倒された。死体も確認している。もう一人は先程、俺が倒した八手天狗だ」

「生き返ったというのか・・・」

「奴ら、不死身か?」

 いくら突いても死なない銀虫に加え、倒したはずの二人が何事もなかったかのように現れたのだから、蒼龍がそう思うのも無理はなかろう。やがて三人は、蒼龍と源兵衛から少し離れた場所で立ち止まった。薄ら笑いを浮かべる銀虫に対し、蝙蝠と月光は無表情だ。

「お前たちを倒すため、地獄から舞い戻ってきたぜ」

 銀虫がそう叫ぶのと同時に、月光が抜刀して二人に近づいてきた。着物は血で暗褐色に染まったままだが、胸の傷はすでに塞がって血は止まっている。鋭い眼光は影を潜め、どこか目の焦点が合っていないように蒼龍は感じた。

 突然、月光は一気に間合いを詰めて蒼龍たちに斬りかかった。蒼龍は辛うじて後ろに飛び退いてそれをかわし、刀を抜く。源兵衛は避けるのが精一杯で、そのまま後ろに倒れ込んでしまった。間髪入れず、月光はさらに蒼龍の胸を突こうとする。その切先を刀で弾き返し、今度は蒼龍が月光へ突きを入れた。しかし、刃が喉を貫通するのも構わず、月光は前に進み、刀を振り上げた。

 間一髪のところで、起き上がった源兵衛が横から月光に体当りして攻撃を阻止した。月光は地面に伏したまま動かなくなる。

「駄目だ、こいつら殺られてもお構いなしで来るぞ」

 叫ぶ源兵衛に、今度は銀虫が襲いかかる。

「お前は、この俺が相手してやろう」

 そう言った後、弾丸のように飛び出した銀虫は、背中を見せていた源兵衛に向かって体当りした。源兵衛は勢いよく吹き飛ばされ、また地面に倒れ込んだ。その源兵衛の頭を、銀虫は足で踏みつけようとする。

 それを阻止したのは、蒼龍による体当たりだった。銀虫はうつ伏せに倒れたものの、勢い余って蒼龍も地面に伏してしまった。三連続の体当たりで全員が地面に横たわり、急いで起きようと必死にもがいている中で、蝙蝠だけはその様子をただ眺めている。

 最初に起き上がったのは源兵衛だった。立ち上がろうと四つん這いになっていた銀虫の腹に強烈な蹴りを入れる。銀虫はひっくり返ったものの、痛がる素振りも見せず起き上がろうとした。

「兄者、何をしている! 援護を」

 銀虫が蝙蝠に向かって叫ぶと、聞こえるはずのない耳にその声が届いたのだろうか、蝙蝠がからくり人形のように動き始め、懐から投げ矢を取り出して構えた。しかし、目標は源兵衛ではなく、立ち上がったばかりの蒼龍に向けられていた。

 蝙蝠の動きに気づいた蒼龍が、紙一重で投げ矢を避ける。次の矢を投げさせまいと、蒼龍は蝙蝠に突進したが、その間に割り込んだ者がいた。月光である。

 援護を受けられなかった銀虫は、上半身だけを起こした状態で源兵衛の攻撃を難なく受け流していた。その様子を眺めていた蝙蝠が、ようやく源兵衛の顔に向けて投げ矢を放つ。源兵衛は慌てて首を傾け、矢は頬をかすめただけだ。

 その一瞬の間を銀虫は逃さなかった。素早く立ち上がった銀虫は空高く飛び上がり、両手を互いに握りしめて、その拳を源兵衛の脳天に振り下ろした。しかし、源兵衛は銀虫が落ちてくるのを待ち構え、その腕に目掛けて斬り上げる。

 普通なら、銀虫の両腕が斬り落とされてしまうだろう。だが、銀虫の腕は鋼鉄製である。金属同士の甲高い衝突音が聞こえた後、地面に落ちたのは銀虫の手ではなく、折れた源兵衛の刀の刃であった。

 蒼龍は、月光の素早い攻撃を避けることで精一杯だった。蝙蝠の投げ矢を封じるため、月光の体が常に自分と蝙蝠の間になるよう調整しなければならないからである。もっとも、攻撃したところで不死身の相手を倒せる見込みはない。

 幸い、蝙蝠は積極的に攻撃する素振りは見せなかった。木偶のように立ったままで、自ら蒼龍を狙って移動しようとはしない。月光も、蝙蝠の存在などまるで無視して、協調する気は全くないようだ。

 とは言え、このままいつまでも避け続けるわけにはいかなかった。相手は疲れを知らないようで、攻撃の手が休まることはない。さすがの蒼龍も疲労が隠せなくなり、一か八か、もう一度だけ攻撃しようと考えていた時、背後から足音が聞こえてきた。

 源兵衛は、折れた刀を手に銀虫と闘い続けていた。両手を鞭のように振り回す銀虫の攻撃を必死に避けながら、反撃の機会を窺う源兵衛に対して、前回の失敗を繰り返さないよう注意を払う銀虫には隙が全くない。

 やがて、源兵衛の体に異変が起こった。最初に目がかすみ、次に足元がふらつき始める。矢で負った頬の傷が焼けるように熱い。

 ついに、源兵衛は立っていることもできなくなり、崩れるように倒れてしまった。仰向けに寝転がる源兵衛に銀虫がゆっくりと近づく。

「毒が回ったか。心配するな、一時的に体が麻痺するだけだ。死んだら、後の楽しみが失くなっちまう」

 銀虫は、無邪気な笑顔を見せた。それは、例えば昆虫を捕まえた子供が、それを惨たらしい手段で殺してしまうときの表情に似ていた。

 源兵衛の胸のあたりを銀虫が足で踏みつける。それを跳ね返す力も源兵衛には残っていなかった。足に少しずつ力を加え、胸を圧迫していく。その痛みに、源兵衛は顔を歪めた。

 苦痛に耐える源兵衛の顔を楽しそうに眺めていた銀虫は、周囲に注意を向けようとしなかった。どこからともなく矢が飛んできて自分の肩を貫いた時、初めて銀虫は、少し離れた場所で弓兵が十人ほど自分に矢を向けているのに気づいたのだ。

 一斉に放たれた矢のほとんどが銀虫の体に命中した。まるで針山のようになった銀虫は、ついに、仰向けに倒れてしまった。

「蒼龍殿! 源兵衛殿!」

 源兵衛は、もはや反応しない。蒼龍は、声を聞くや思い切り背後へ飛び去り、月光たちから離れた。二人は追うこともなく、虚ろな目で蒼龍を眺めている。

「誰だ!」

 月光たちから視線を外さないまま、蒼龍は叫んだ。

「助太刀いたす」

 朗々と響く声の後にやって来た矢の第二波は、今度は月光と蝙蝠に向かって飛んでいく。しかし、月光の刀が壁となり、全ての矢は弾き返されてしまった。

 その一瞬の早業に驚いた兵士たちであったが、その後、目にした光景は、彼らをさらに唖然とさせた。銀虫が上半身を起こし、自ら矢を抜き始めたのだ。全ての矢が外れると、銀虫は立ち上がって月光たちのほうへ駆け出した。

「この数では分が悪い。逃げるぞ」

 走り去る銀虫に従い、月光と蝙蝠も後ろを向いて逃げていく。こうして、蒼龍と源兵衛は難局を乗り越えることができた。


「皆、今日は疲れたでしょ。少し眠るといいわ。見張りは私に任せてちょうだい」

 鬼坊にお酌をしながら、お菊はそう提案した。すでに鹿右衛門と猪三郎は眠りにつき、鬼坊とお蝶だけが酒を酌み交わしていた。

「しかし、お嬢様・・・」

「私、お蘭さんにお話を聞きたいの。あの方、出雲から来られたんですって。だから、その間は起きているわ。もし、眠くなったら、その時は声を掛けるようにするから」

 鬼坊とお蝶は互いに顔を見合わせた。お蝶が了解するのを確認した鬼坊は

「分かりました。それでは失礼して、少し眠ることにします」

 と頭を下げた。

 お蘭は、焚き火の前で膝を抱えて座ったまま、じっと炎を眺めていた。時々、木の弾ける音とともに火の粉が舞い上がる。赤く照らされたお蘭の顔は少し悲しげで、心もとない気持ちがにじみ出ていた。

 考え事をしていたお蘭は、お菊が近づいても全く気づく様子がなかった。お菊が、心配そうに話しかける。

「お蘭さん、大丈夫ですか?」

 突然の声に、お蘭の体がピクリと震えた。お菊は、自分のほうへ向けられた彼女の目が大きく開かれている様を見て

「ごめんなさい。驚かせちゃって」

 と謝った。

「いえ、私がぼーっとしていたのが悪かったのです」

 お蘭の顔に少し笑みが浮かんだので、お菊も釣られて笑顔になり

「お疲れのようですね。少し横になられてはいかが?」

 と勧めたが、お蘭は首を横に振った。

「とても眠る気にはなれませんわ」

 不安げなその様子に、お菊は少しためらいながらも、お蘭の隣に腰掛けた。

「では、しばらく話し相手になっていただけますか」

 お菊にそう尋ねられ、お蘭は少し間をおいてから「はい」と答えた。

「私、あまり遠出をしたことがないの。出雲にも訪れたことがないのです。どんな国なのか伺いたくて」

「他と変わりませんわ。戦のせいで、随分と荒れ果ててしまって・・・ 」

「確か、立派なお社があるんですよね」

「ええ、杵築大社ですね。何度か足を運んだことがあります」

「何かお願いごとでもされたのですか?」

「ええ、まあ・・・」

 お蘭の顔が曇ったのに気づき、お菊は話題を変えた。

「お蘭さんは、伊勢まで旅をされるのでしたね」

 ゆっくりとうなずくお蘭を目にして、お菊は話を続けた。

「神宮を参られる・・・」

 また参拝の話になると思い、お菊は途中で口をつぐんだ。

「そのつもりです」

 お蘭が答えてくれたので、お菊は別の質問をする。

「どうして伊吹様と御同行することに?」

 お蘭は口を閉ざした。その意味を理解したお菊が

「あら、ごめんなさい。別に何か聞き出そうとしているわけではないのよ。ただ、興味本位で尋ねただけ」

 と慌てて付け加える。頭を下げるお蘭の様子を窺い、お菊はさらに話題を変えてみた。

「伊吹様にお会いになるまでは、どなたと? まさか、お一人で?」

「いえ、夫とともに」

「もしかして、蒼龍というお方ですか?」

 目を丸くするお蘭の顔に、お菊は図星だったと思いながら

「お強いお方のようですね。皆が目の敵にしているみたい。このことは内緒にしておいたほうがよさそうだわ」

 と言ってお蘭に笑いかけた。しかし、お蘭はずっと、うつむいたままだ。

 これ以上、話すことができなくなり、お菊は口をつぐんだ。しばらく経って、遠くから足音が聞こえてくる。振り向いた先には、雪花がこちらに向かって歩く姿があった。

「あら、お菊さん、こちらにいらしていたのですね」

 雪花が、お菊の姿を認め、声を掛ける。お菊は一礼して

「どちらへ?」

 と尋ねた。

「いつもの散歩ですわ」

 そう言いながら、雪花はお蘭の隣に座り、彼女に微笑みかける。

「もう、落ち着いたようですね」

 雪花に優しく話しかけられ、お蘭はコクリとうなずいた。

「雪花様、何かお召し上がりになりますか? お酒もありますのよ」

「ありがとうございます。でも、今は何もいらないわ」

 雪花にそう返答され、お菊は雪花が飲食をしている姿を見た記憶がないことにふと気づいた。一体、いつ食事をしているのかと不思議に思いつつ、それよりお菊は少し焦りを感じ始めた。それを察したのか、雪花がお菊に対して話しかける。

「お菊さん、私は、これからあなたがすることに対して邪魔はいたしません。だから安心して」

 お菊は意表を突かれたらしく、目を大きく見開いた。雪花は美しい顔に笑みを浮かべたまま、その顔に視線を向けている。お菊は、何か言おうとして口を開いたが、やがて言葉を発しないまま立ち上がり、周囲を見渡した。

「起きる者はいません。よく寝られるように、少しおまじないをしましたから」

 雪花の言葉に、お菊は意を決して伊吹のいる方向へ駆け出した。伊吹はうなだれ、力なく座り込んでいたが、近づいてきたお菊の気配を察知して頭を上げた。彼女の顔が目に映り、一瞬戸惑いを見せた伊吹は、すぐに憎しみを込めた目で相手を睨みつける。対するお菊の顔は能面のように表情なく、冷たい視線を伊吹に向けていた。

 しばらくの間、二人は微動だにせず見つめ合っていた。先に視線を外したのは伊吹のほうだ。その瞬間、お菊の顔に悲しみの表情が浮かんだことを、伊吹が知る由もない。

 お菊は、ゆっくりと伊吹の背後に周り、しゃがんで伊吹の耳元に囁き掛けた。

「お久しゅうございます、伊吹様」

 伊吹は黙っている。それでも構わずお菊は話を続けた。

「なぜ、私をお捨てになったのですか?」

 お菊の問いに答えるつもりは、伊吹にはないようだ。黙秘を続ける相手に対して、なおもお菊の質問は続く。

「はじめから、遊びだったのですか?」

 お菊は、懐から何かを取り出した。それは短剣だった。首に充てがわれた伊吹は震え上がり、かすれた声で話し始める。

「ち、違う、遊びなんかじゃなかった」

「では、どうして?」

「父親に反対されたんだ。西極屋の娘と付き合うんじゃないと」

 父親の茂吉がそれを知ったのは旅に出る直前のことだから、当然これは嘘である。あらゆる感情を押し殺したような顔をしたお菊の様子からは、それを信じたのかどうかは分からない。しかし、彼女は短剣を伊吹の首から離し、固く結ばれた手縄を斬り始めた。

 両手が使えるようになった伊吹は、急いで足と体に巻き付いた縄をほどき始める。その姿に目を向けながら、お菊は言った。

「ならば、私を連れて逃げてくださいまし」

 伊吹の手がピタリと止まった。お菊に視線を移した伊吹は、何度も首を大きく上下しながら、再び手を動かし始めた。

 二人がお蘭の下へ駆けつけると、雪花の姿はどこにもなかった。

「あの方はどちらに?」

 お菊が問いかけても、お蘭は首を横に振るだけだ。

「とにかく、早く逃げましょう。さあ」

 お菊は、唖然とするお蘭の手を握って立ち上がらせた。こうして三人は夜の森の中に飛び込み、闇に紛れて見えなくなった。

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