第12話 不死身の男

 伊吹を先頭に、三人は砂埃を巻き上げながら走る。源兵衛はお蘭に並走し、様子を窺っていた。お蘭は明らかに疲れた表情だ。伊吹は脇目も振らず、必死の形相で駆け続け、二人との距離は離れるばかりだった。

 しかし、伊吹は突然走るのを止めた。目を見開き、前方に顔を向けている。いつの間にか、銀虫が先を越していたのだ。

「逃げられると思ったか」

 銀虫は、獲物を目の前にした猫のように、ゆっくりと伊吹のほうへ近づいた。伊吹は後ずさり、逃げようとするが、足が震えて思うように動くことができない。

 ようやく源兵衛たちが伊吹の下へ駆けつけた。源兵衛は銀虫がいることに気づき、眉を上げる。

「お主・・・」

 伊吹の前に源兵衛が進み出た。銀虫は目の前に現れた老人を目にして薄っすらと笑う。

 二人を見守る伊吹の背後にお蘭が近づいた。

「伊吹様、逃げて」

 その声に振り返った時、後ろから迫ってきた熊のような巨体の猪三郎が目に入り、伊吹は挟み撃ちされていることに気づいた。伊吹の様子を見て、お蘭も敵が近づいていると分かり、たちまち表情が険しくなる。

 源兵衛が刀を抜いたのと、振り向いたお蘭が懐刀を手にしたのはほぼ同時であった。源兵衛は銀虫に、そしてお蘭は無謀にも猪三郎に挑みかかった。

 お蘭は、懐刀を握りしめて猪三郎に突進する。猪三郎は抜刀もせずにお蘭が来るのを待ち構えていた。猪三郎の懐に入り込み、もう少しで切先が腹を突き破るというところで、お蘭の体がピタリと止まった。

 猪三郎は、片手でお蘭の両手を握りしめていた。お蘭が、その手を振りほどこうと暴れる様子を、猪三郎はまるで戯れに小鳥でも捕まえたかのような顔で眺めている。

「こいつは上玉だ」

 もう一方の手でお蘭の懐刀を奪い、軽々とその体を肩に担ぐと、猪三郎は次に伊吹のそばへ寄った。

「お主が伊吹だな」

 伊吹は逃げる間もなく、首を掴まれ持ち上げられる。伊吹は、女性のような甲高い悲鳴を上げただけで、首を強く圧迫されて気を失ってしまった。

 猪三郎が二人を相手にしている間、源兵衛は銀虫と闘っていた。源兵衛の刀は全て銀虫の腕で弾かれ、相手を傷つけることができない。銀虫は防御するだけで、攻撃しようとしなかった。

「その程度か」

 一時的に攻撃が止み、銀虫は嘲笑気味につぶやいた。源兵衛は息を切らせながら銀虫を睨んでいる。対する銀虫は、腕を組んだまま涼しい顔で源兵衛に目を向けていた。

 その時、背後から奇声が聞こえてきたので、源兵衛が思わず振り返った。目に映ったのは、大男の肩に担がれたお蘭と、首を締められ気絶した伊吹の姿だ。

「若旦那!」

 源兵衛が猪三郎に気を取られた瞬間を銀虫は見逃さなかった。猛烈な速さで源兵衛に近づき、顔を思い切り殴りつける。しかし、源兵衛は銀虫の近づく気配に気が付き、なんとか攻撃をかわした。

 それでも銀虫は攻撃の手を緩めない。今度は、源兵衛が防御する側になった。その横を、猪三郎は二人を担いだまま悠々と通り抜ける。源兵衛は何もできないまま、ひたすら銀虫の攻撃に耐えた。

「逃げるのだけは得意なようだな」

 銀虫の挑発的な言葉を源兵衛は黙って聞いている。その顔は、怒りに燃えていた。

 源兵衛が、右手に持っていた刀を振り上げる。攻撃に気づいた銀虫はすかさず左腕で防ごうとした。

 その瞬間、銀虫の目は奇妙な光景を捉えた。源兵衛の刀が宙に浮いていたのだ。いつの間にか、刀は源兵衛の手を離れ、自分の真正面に移動していた。そして、次の瞬間、切先が胸元に迫ってきた。

 避ける暇もなく、刃が銀虫の胸を貫いた。

「因州無源流、水面月」

 源兵衛の不敵な笑みを前にして、銀虫は驚きの表情を隠せない。源兵衛は、相手に斬りつけると見せかけて途中で刀から手を離し、それを左手に持ち替えた。そして、銀虫の胸に目掛けて突いたのである。それはあまりにも速い動作で、銀虫にも正確に捉えることができなかった。

 銀虫の口から血が流れ落ちた。しかし、それでも銀虫は倒れなかった。源兵衛に向かい、右の拳を振り上げる。源兵衛はたまらず刀を離し、後ろに倒れた。

 その後、源兵衛が目の当たりにした光景は信じられないものだった。銀虫は、自分で刀を胸から引き抜いた。胸から勢いよく血が噴き出すものの、それは一瞬で治まってしまう。その刀を投げ捨て、倒れている源兵衛に近づいてくるではないか。

 源兵衛はすぐに立ち上がり、素手で応戦しようとする。ちょうどその時、森の中から蒼龍が姿を現した。

 蒼龍の姿が視界に入り、さすがに形勢不利と考えた銀虫は、狼のような咆哮を上げながら逃げてしまった。

「大丈夫か?」

 蒼龍が、源兵衛の下に駆けつける。源兵衛はすぐさま

「大変だ、若旦那とお蘭殿がさらわれた」

 と蒼龍に告げた。蒼龍の顔から、にわかに血の気が失せた。


 闇に包まれた森の中に、朱色の炎がひとつ、あたりを暖かい光で照らしている。その周囲に人はだれもいない。火の勢いは弱くなり、もうしばらくすれば消えてしまいそうだ。

 その炎に向かって、大きな体の男が歩を進めていた。猪三郎である。

「雪花殿はどこへ?」

 そうつぶやきながら、猪三郎は肩に担いでいた伊吹とお蘭を地面に下ろした。伊吹はまだ気を失っていたが、お蘭は足を横にして座り、猪三郎を鋭い目つきで睨んだ。

「身震いするほどいい女だ。どれ、ひとつ味見してみるか」

 猪三郎は、卑猥な目つきでお蘭を眺める。

「私に触れたら、この場で舌を噛んで自害します」

 お蘭は身の危険を感じ、後ずさる。

 その時、足音が聞こえ、猪三郎が後ろを振り返った。銀虫がたどり着いたのである。

「おい、一人で楽しむつもりじゃないだろうな」

 猪三郎は、銀虫が戻ってきたことを知り舌打ちをした。そんなことは気にもせず、銀虫はお蘭の前にしゃがみ、顔から足の先まで舐めるように視線を送る。お蘭は恐怖のあまり、声を出すこともできない。

「あの髭の男はどうした?」

 背後から猪三郎が銀虫に尋ねた。

「あと少しというところで邪魔が入った。蒼龍だ」

 お蘭が息を呑んだ。目は真正面の銀虫に注がれる。その様子に気づいた銀虫は

「お前、蒼龍の女か? これは面白い」

 と言って、機械の腕でお蘭の顎を乱暴に掴んだ。

「本当か?」

 猪三郎の問いかけには答えず、銀虫はお蘭に顔を近づけていった。

 その時、パチンという大きな音がした。お蘭が、平手で銀虫の頬を叩いたのだ。

「此奴め・・・」

 銀虫の顔は笑っていたが、その目は明らかに怒りの色を帯びていた。乱暴にお蘭を押し倒し、着物に手を掛けようとしたところで背後から声が聞こえた。

「どうしたんだ?」

 鬼坊と鹿右衛門が到着したのだ。お蝶は宿へ戻ったようで、姿はない。

「あんたか・・・」

 銀虫は立ち上がり

「蒼龍が現れた。つまり、月光は敗れたということだな」

 と言って笑みを浮かべた。しかし、鬼坊は片方の眉を少し上げただけで

「そうか・・・」

 とつぶやくのみだ。

「やられたのか?」

 猪三郎が、胸の横を押さえている鹿右衛門に問いかけた。

「油断した」

 鹿右衛門は忌々しげにそう口にした後、苦しげに喘いだ。

「その女はどうしたんだ?」

 鬼坊が、お蘭を指差して銀虫に問いかける。猪三郎が代わりに答えた。

「ついでに捕まえてきたのです。戦利品ですよ」

 猪三郎はほくそ笑んでいる。その顔を見た鬼坊は嘆息し、さらに尋ねた。

「そこで倒れているのが伊吹か?」

 猪三郎は大きくうなずく。

「よし、逃げないように縄で縛っておけ。明日の朝には因幡へ戻るぞ」

「女はどうしますか?」

 そう尋ねる猪三郎に、鬼坊はニヤリと笑いながら

「好きにしろ」

 と言った。


 地面に落ちた懐刀を、蒼龍はそっと拾い上げた。そのそばには、黒地に白銀の見事な花飾りが施された鞘が落ちている。お蘭が持っていた刀だ。蒼龍は、敵の逃げた先に鋭い目を向けた。

「待て、一人では危険だ。他の者が集まるのを待つんだ」

 蒼龍が駆け出そうとするところを、源兵衛が慌てて引き止めた。

「そんな悠長なことは言ってられない。お蘭の身が危ない」

 源兵衛は、それ以上、何も言うことができない。一瞬の間の後、蒼龍は駆け出した。追うべきかどうか一瞬迷った源兵衛だったが、今はお松に状況を報告する必要があると考え、そのまま待つことにした。

 待っている間、源兵衛は、なぜ銀虫が倒れなかったのか不思議に思っていた。刃は確実に急所を貫いていたはずであった。普通なら生きている訳がない。いくら考えても、相手が不死身であるという結論しか思い浮かばなかった。

「まさかな・・・」

 自分の考えが滑稽で、源兵衛は思わず笑った。

 しばらくして、お松たちがやって来た。

「若旦那は? お蘭殿もいない」

 源兵衛に尋ねるお松の顔は、いつになく焦りの表情を浮かべている。

「済まない、連れ去られてしまった」

「そんな、お蘭殿まで・・・」

「今、蒼龍殿が奴らを追っている。わしは蒼龍殿を追いかけるから、皆は手分けしてこのあたりに敵が潜んでいないか調べてくれないか。一刻ほどしたら、宿まで戻ってそこで落ち合おう」

 一同の顔にさっと目配りして、源兵衛は駆け出した。月光との決闘のために蒼龍が皆と別れた分岐点を過ぎ、周囲の木々がまばらになって田畑ばかりになると、遠くまで見渡せるようになった。しかし、暗い中では敵はおろか蒼龍の姿も探すことができない。

 とうとう宿の前に着いた源兵衛は、止まることなくさらに北へ進んだ。このまま峠のあたりまで探してみるつもりらしい。

 蒼龍の焦る気持ちは源兵衛にも痛いほどよく理解できた。お蘭を連れ去る目的などないはずである。すぐに殺されるか、助かったとしても彼らの慰みものにされてしまうだろう。そうなる前に救出しなければならない。

 家々が姿を消し、再び田畑が広がる平地にやって来た源兵衛は、前方にある人影に気がついた。近づくにつれて、それは蒼龍であると分かった。

「見失ったのか?」

 源兵衛の声に、蒼龍は後ろを振り向いた。

「恐ろしく逃げ足の速い連中だ。それとも、方向を間違えたか」

「今、お松殿たちも向こう側を探している。わしらはこちら側をもう少し探してみよう」

 蒼龍は首を縦に振り、また北の方角に目を移した。


「どう、見つかった?」

「駄目だ。向こうにはいない。そちらは?」

 三之丞に尋ねられ、お雪は首を横に振った。森の中は暗く、遠くまで見通すことはできない。それでも二人は懸命に周囲を隈なく探し回った。

 しばらくして、お松が姿を現した。二人の視線を受けて、お松もまた首を横に振る。

「このあたりには潜んでなさそうね」

 お松がそう言うと、お雪も三之丞もため息をついた。

「もう手遅れかもしれないな」

 三之丞が気弱な発言をするが、二人ともそれに反論することができない。三人はまるで人形のように動かなくなった。

「そろそろ時間だな。宿に向かうか」

 しばらくしてポツリと発した三之丞の言葉に従い、歩き出そうとしたときである。遠くから甲冑のぶつかる音が聞こえてきた。

 振り向けば後方から、松明を持った足軽を先頭に、兵士がこちらへ向かっているのが目に映った。高く掲げられた旗には一の字に三つの丸が描かれている。毛利の兵士だ。

 兵士たちは隊列を組んで、三人に近づいてくる。お松たちは道を空け、彼らが通り過ぎるのを待つことにした。

 すると、足軽の後ろにいた馬上の男が右手を挙げた。兵士の行進がピタリと止まる。やかましく鳴り響いていた金属音や足音もしなくなり、あたりは静寂に包まれた。

「いかがなされた?」

 馬上の男はお松たちに問いかけた。三人は互いに顔を見合わせた後、まずはお松が口を開いた。

「実は、仲間が盗賊にさらわれてしまって。手分けして行方を探していたところです」

「それは難儀な」

「このあたりは隈なく探してみましたが見つからず、集合場所へ向かおうとしていたところでございます」

 お雪が後に続いて説明した。兵士は大きくうなずき

「その場所とはどこですか?」

 と尋ねた。

「この先にある平福の宿です」

 お松が答える。兵士は北の方角に目を遣った後、お松に視線を移して話を再開した。

「我々は出雲まで帰る途中です。宿まで一緒にいかがですか? もし、盗賊が見つかったら、我々も仲間を救うのを手伝いましょう。失礼ながら、どちらから参られた?」

「因幡でございます」

「ならば、我々がお手伝いする見返りに因幡までの街道の状況を教えていただければありがたい。いかがかな?」

 お松は二人の顔に目を遣った。三之丞もお雪も同意したのを確認し

「分かりました。よろしくお願いします」

 と、お松は兵士の提案を受け入れることにした。

「こちらこそ、よろしくお願いします。申し遅れましたが、拙者、兼光という者です」

 馬上の兵士は慇懃に自分の名を名乗った。


 夜の闇を切り裂くような激しい叫び声が、森の中に響き渡った。

「止めてください!」

 お蘭は、抵抗しようと必死にもがいたが、猪三郎の力に敵うはずがない。地面に両手を押さえつけられ、動けなくなってしまった。

「おい、自分だけ楽しむつもりじゃないだろうな」

 横から銀虫が猪三郎に話しかける。お蘭から銀虫へ視線を移し、何か言おうと猪三郎が口を開いた時、鋭い声が森に響き渡った。

「あなた方、何をしているのですか?」

 声のした方向へ顔を向けると、そこには雪花が立っていた。普段はあまり感情を表に出さない彼女が、怒りの表情に顔を歪めている。その瞳は血のように赤くなっていた。

 その顔を目にした途端、猪三郎だけでなく、滅多に動じることのない銀虫までもが激しい恐怖を感じた。それでも銀虫は強がって

「こいつは戦利品だ。あんたには関係ないだろう」

 と言い放った。

「その人を傷つけることはこの私が許しません。従わないのなら、死を覚悟するのですね」

 雪花の言葉を聞いて、猪三郎はお蘭から離れた。しかし、銀虫は歩み寄ってくる雪花とお蘭の間に立ちはだかる。

「お前の技は知っている。目を合わせなければどうということはない」

「私の秘密はそれだけだと思っているのかしら」

「お前こそ、俺の恐ろしさが分かっていないようだな」

 一触即発の状況の中、仲裁に入ったのは鬼坊だった。

「仲間割れはよさないか。月光殿が倒されたのだ。これ以上、仲間を失うわけにはいかない」

 話を聞いた雪花は、鬼坊に笑顔を向けて言った。

「月光様ならこちらに」

 雪花が後ろに目を向ける。その視線を鬼坊が追うと、暗がりから月光が現れた。

「おお、生きていたのか」

「いいえ、彼はすでに死んでいます。これからは私の忠実な下僕として働いてもらいますわ」

 鬼坊は開いた口が塞がらない。死人が動くなどとは信じられないからだ。

「何を馬鹿なことを」

 銀虫が失笑するのを見た雪花はこう言い放った。

「あなたの兄弟子さんも一緒ですわ」

 月光のさらに後ろから、小男がゆっくりと姿を現す。銀虫が思わず大声で叫んだ。

「兄者!」

 なんと、蝙蝠までもが雪花の術で蘇っていたのだ。銀虫に呼ばれても蝙蝠は反応しない。左目には未だに、お雪に射られた矢が刺さっていた。

「この姿で同行などできませんからね。密かに後を付けるように指示していたのです。これなら、たとえ命を失っても戦力が減ることはありません。銀虫様、あなたもお仲間に加わりますか?」

 鬼坊、猪三郎、そして銀虫までもが戦慄を覚えた。死人を蘇生させるという恐るべき術そのものよりも、普通なら使うのをためらうようなものを軽々しく用いる雪花に対する恐怖のほうが強かった。

「冗談は止めてくれ」

 銀虫は顔をひきつらせながらも笑顔を返し、雪花に道を空けた。雪花は、上半身を起こして様子を窺っていたお蘭に近づき、そっと立ち上がらせる。

「もう大丈夫ですよ」

 お蘭は、涙を浮かべながら雪花の顔に目を遣った。その瞳は、普段の澄んだ青に変わっていた。

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