第11話 八手の天狗

 月明かりを頼りに、蒼龍たちは平福の宿場町を歩いていた。他に出歩く者などなく、聞こえるのは自分たちの歩く足音ばかり。四人とも着物は汗に濡れ、疲れ切った表情をしている。

「あとは宿を探すだけだ。もう少しだよ」

 蒼龍が明るい声でお蘭に話しかけた。お蘭は蒼龍に顔を向け、少し微笑んでみせたが、誰が見ても明らかなほどやつれた顔をしている。

 峠を越える頃にはすでに日が暮れかかっていたから、四人はかなり急がなければならなかった。体の弱いお蘭にとっては辛い旅路であっただろう。他の三人も、早く宿に入って体を休めたいと思っていた。

 目印がないか、探しながら移動していた時、蒼龍が何かに気づいた。それを察知したお蘭が声を掛ける。

「あなた、どうしたの?」

「血の匂いがする」

 源兵衛とお松が驚いた顔で蒼龍に視線を移した。蒼龍は、嗅覚を頼りに暗がりへと目を凝らしながら前進する。

 やがて、他の三人にも生臭い匂いが風にのって運ばれてくるのを感じるようになった。そして、狭い路地に目を遣ると、誰かが座り込んでいる姿を発見した。その前には大きな塊がうずたかく積まれている。

「何があった?」

 蒼龍の声に、相手は顔を上げた。

「蒼龍殿?」

「三之丞か?」

 相手の声を聞いて源兵衛が叫んだ。放心した状態の三之丞は

「一之助が殺られた」

 と弱々しい声でつぶやく。目の前の塊が一之助の成れの果てであることに気づき、一同は声を失った。


 一之助の遺体を川のほとりまで運んで土に埋め、墓を作った。血まみれのまま宿に入り、その凄惨な姿に、出迎えた宿の女将は腰を抜かしてしまう。体を洗い、着物を替えて、ようやく落ち着いたのは夜も更けた頃であった。

「この先の墓地で待つと相手は言ったのだな?」

 蒼龍の問いに、三之丞は何度も首を縦に振る。源兵衛が不思議そうに

「一之助があんなに一方的に殺られるとは思えないのだが」

 と首を傾げた。

「相手は化け物だよ。俺には、刀を一度、横に薙いだようにしか見えなかった。しかし、気づいた時には、一之助の体はバラバラになっていたんだ」

 三之丞の言葉に蒼龍が反応した。

「一振りでバラバラに・・・」

 しばらく考え込んでいた蒼龍であったが、ふと顔を上げて三之丞に質問する。

「その男の特徴は?」

「恐ろしく痩せこけていたな。それから、朱塗りの鞘を持っていた」

「朱塗りの鞘か」

「知り合いか?」

 源兵衛が蒼龍に尋ねた。

「いや。しかし、その男の噂は聞いたことがある。死んだと思っていたのだが」

「誰なんだ?」

「一度も会ったことはないから詳しくは知らないが、昔、俺と同じ尼子の傭兵だった男だ。恐ろしく強いと評判だったな。いつも朱塗りの鞘を携えて、味方からも八手天狗と恐れられていた」

「八手天狗?」

「刀の一振りで八人の敵を討ったことがあるそうだ。手が八つあるとしか思えないかららしいな」

「その八手天狗という男が、一之助を倒したということですか」

 蒼龍に顔を向けて、お松が口を開いた。

「朱色の鞘を持ち、一振りで相手をバラバラにできる男なんて他にはなかろうな」

 蒼龍がそう答えた後、しばらくの間、静寂があたりを支配した。動くものはいない。その状況に耐えかねたのか、お蘭が蒼龍に話しかける。

「あなた、早く逃げたほうがいいわ」

 しかし、蒼龍は首を横に振り

「そいつも追手なら、いつかは闘わなければならないんだ。逃げても意味はないさ」

 お蘭に顔を向けた蒼龍は、いつもと変わらない優しい笑顔で話を続ける。

「それにな、俺にも剣客としての矜持がある」

 お蘭と蒼龍は互いに見つめ合ったまま無言になった。周囲も話しかける者はいない。その時間は、人によっては長く感じられたかも知れないし、あっという間の出来事に思えたかも知れない。しかし、最後にはお蘭が寂しげな顔で視線を外した。

「ここをしばらく進むと、確かに墓地があるそうだ。さっき、宿の女中に聞いたよ」

 源兵衛が、わざと快活な口ぶりで話し始めた。

「それから、その手前に細い道が分岐していて、川沿いに進むまわり道になっているらしい。逃げるならそいつを使おうと考えていたのだが」

 蒼龍が、源兵衛に視線を移した。その顔は、いつもと変わらない穏やかな表情をしている。

「ならば、他の者はまわり道を使って逃げてくれ。奴ら、今のところは一人しか現れないが、俺が勝てば考えを変えるだろう。一斉に攻撃されるのは避けたいからな。その前に逃げてしまうんだ」

 負けた場合はどうするのか、それを口に出すものは当然いない。しかし、源兵衛は蒼龍に心配そうに尋ねた。

「その・・・ 八手天狗という男に必ず勝つという自信はあるのか?」

 すると蒼龍はこう言い放った。

「闘ってみなければ分からんよ」


 突然の出発が決まり、案の定、伊吹だけは駄々をこねたが

「ならば勝手にどうぞ」

 というお松の突き放すような言葉に根負けし、渋々ながら旅支度を始めた。

 宿の女将が唖然とするのも気に留めず、一行は暗闇の中で旅を再開した。しばらくは平地が続くが、それでもお蘭には辛いものになるだろう。蒼龍が傍らで

「大丈夫か?」

 と声を掛ける。お蘭は前を注視したまま、黙ってうなずくだけだった。

 やがて分かれ道に差し掛かった。左側に、木々に挟まれ、人がなんとか二人並んで歩けるくらいの幅の道が続いている。その奥は暗く、様子を窺うことはできない。

「さて、行くか」

 誰も、今から決闘に向かう者の声とは思えなかった。一同が見守る中、蒼龍は顔を向けて笑顔で

「また会おう」

 と言った。お蘭がたまらず駆け寄って、蒼龍にすがりつく。

「心配するな。俺はお前をおいて死ぬことは決してしない」

 蒼龍が、お蘭の背中をポンポンと軽く叩いた。

「約束してください。必ず戻ってきて」

 涙声のお蘭に蒼龍は

「約束するよ」

 と優しく話しかける。離れようとしないお蘭の肩に手を添えて、そっと体を離しながら

「じゃあ、行ってくる」

 と言い残し、蒼龍は踵を返して歩き出した。一同は、じっと後ろ姿を見送っている。ただ一人、顔を手で覆って泣き崩れるお蘭を除いて。

『武士道とは死ぬことと見つけたり』

 とは、江戸時代の書物『葉隠』の有名な一節だ。平和な時代には少々過激と言えるこの思想も、今日を生き延びられるのか分からないような戦国の世においては当たり前のことなのかも知れない。今、蒼龍は、敢えて勝敗の分からない闘いに挑もうとしている。その顔は、しかし、死地に赴く者の表情ではなかった。彼は、薄っすらと笑みを浮かべていたのだ。


 ひっそりと静まり返った墓地は、心做しか少し寒く感じられる。卒塔婆が剣のように並ぶ中、一か所だけ広い空地になった場所があった。そこに一人、月光が静かに立っている。月に照らされた顔は青白く光り、体からも燐光を放っているように見える。目を閉じ、自然体で佇むその姿は、誰かがそこを通りかかれば死体が独りでに歩いているのかと勘違いしてもおかしくはない。

 月光がゆっくりと目を開いた。その鋭い眼光は、少し離れた道のほうへ向けられている。暗闇に包まれたその場所から現れたのは蒼龍だ。蒼龍は、月光の眼力をまともに見据えていた。すでに、二人の勝負は始まっているかのようである。

「もっと大柄な男を想像していたのだが」

 蒼龍が、月光から少し離れた場所で止まるや、月光が口を開いた。

「お主が八手の天狗か?」

「ほう・・・ あの置き土産だけで見抜いたか。さすがは尼子の百鬼夜行」

 月光は口角を上げたが、目だけは笑っていない。蒼龍は、その顔に薄気味悪さを感じた。

「同じ尼子の兵でありながら、一度も会うことはできなかった。俺は、それが残念でならなかったのだ」

 月光は再び話し始める。

「しかし、今こうして相見えることができた。全てはデウス様のお導きであろう」

 デウスとはキリスト教の神を意味する。月光はキリシタンらしい。

「いや、違うな。こいつがお前を引き寄せたのだ」

 月光はそう言って朱色の鞘から刀を抜いた。刃が光を反射して妖しくきらめく。その刀が目に入った途端、蒼龍は自分がその所有者となることを想像した。月光を倒し、刀を自分のものにしたいと思うようになったのだ。

 蒼龍も刀を鞘から抜く。二人の間はまだ六歩幅ほど離れている。双方とも正眼に構えたまま、しばらく動きを止めた。

 いや、二人ともわずかに動いていた。足をゆっくりと前へ踏み出し、間合いを詰めていたのだ。ただ、その動作はあまりにも遅く、よく観察していなければ気づけない。

 いつの間にか、蒼龍は刀を腰のあたりに落とし、横向きに構えていた。対する月光も同様の構えだ。

 二人は、両者が互いにあと一歩踏み出しても、まだ切先が相手に届かない距離にあった。しかし、どちらもその場から動かなくなった。蒼龍は深く腰を落とし、月光を見上げるような形で対峙している。その様子を目にして、月光は相手がどんな手を使おうとしているのか判断ができずにいるのだ。

 どれだけの時間が流れたか分からない。二人にとっては、かなり長い時間が経ったように感じただろう。それに痺れを切らしたのか、それとも相手の隙を見つけたのか、先に動いたのは月光だった。静かに、しかし驚くべき速さで、月光は一歩踏み出した。

 その刹那、今度は蒼龍が一歩踏み出した。蒼龍の身体が跳ね上がり、ダンという大きな音を響かせて地面を踏み込んだと同時に刀を横に薙ぐ。その動作はあまりにも速く、さすがの月光も避ける暇など全くない。

 しかし、間合いが広すぎて蒼龍の刃は空を切っただけであった。月光は勝利を確信し、蒼龍の首に目掛けて刀を振るった。刃が恐るべき速さで蒼龍へ向かう。蒼龍は即座に後ろへ飛び、その剣閃を避けようとした。

 月光の刃は蒼龍の胸あたりをかすめ、血しぶきが舞った。さらに月光は前に踏み込み第二撃を加える。最初の一閃から僅かな間での連撃に、蒼龍は逃げるだけで精一杯だ。

 今度は蒼龍の左足が斬られた。月光はとどめの一撃とばかりに脳天へ刀を振り下ろす。蒼龍は、その刃を辛うじて刀で受け止めた。

 終始、月光が蒼龍を圧倒した。その素早い連続技に、蒼龍は防御に徹するしかなかった。しかし、最後の一撃が止められたのを知って月光は愕然としている。

「馬鹿な・・・」

 今まで、月光の技を受けて生きていた者は皆無である。その必殺の剣がかわされたことが月光には信じられなかったのだ。

 さらに信じ難いことが月光の身に起きた。なにか違和感を覚えた月光が自分の体を見下ろすと、着物が脇腹から胸のあたりまで斬られていた。いや、着物だけではない。自分の体にも深い傷が刻まれているのを知り、月光は驚きのあまり刮目した。

 月光の胸から、勢いよく血が噴き出し始める。彼は刀を落とし、膝から崩れ落ちた後、バタリと地面に伏した。

「俺の・・・ 血を吸え・・・」

 自分の下敷きになった刀に対して月光は語りかけた。その顔は不気味に笑っている。もう一度、刀を握ろうと月光は血溜まりの中で手を動かしていたが、しばらくしてその動きも止まり、体がわずかに痙攣した後、完全に息絶えた。

 蒼龍の剣術の極意は『空を斬る』ことにある。それは誰かから伝授されたわけではなく、蒼龍オリジナルの技だ。

 『かまいたち』という現象がある。特に理由もなく、気がついた時には皮膚が割れたように傷ついていた。痛みはなく、血も全く出ていない。そんな経験をされた方はいないだろうか。昔は、それを妖怪の仕業だと考えていたが、現代ではいろいろな解釈がされているようである。空気中に何らかの理由で真空状態が発生し、それに触れることで発生するというのが主流であるが、この見解については異論もあり、実はまだ原因が分からないそうだ。いずれにしても、蒼龍の技がかまいたちと同じ現象を生んでいることは確かである。そして、当の本人も、どうしてこんな芸当が可能なのか、理解していない。死と隣合わせの闘いの中、偶然に、この恐るべき能力を発見したのだ。

 蒼龍は、刀を静かに鞘へ収めた。胸と足を斬られたものの、どちらも傷は浅く、蒼龍は気にすることもなく月光の死体を眺めている。そして、その視線は月光の刀へと吸い寄せられていった。

 一歩ずつ、まるで操られた人形のように、蒼龍は月光へ近づいていく。その目は、月光の刀を凝視したままだ。少し笑みをこぼし、口を半開きにしたその顔は明らかにいつもの蒼龍とは違っていた。月光の死体を見下ろしていた蒼龍は、その下にある刀へゆっくりと手を伸ばしていった。

 そのとき、絹を引き裂くような悲鳴が上がった。以前にも聞いたことのある声だった。伊吹だ。蒼龍は我に返り、思い切り頭を振った。

 伊吹たちが襲われていることを知り、蒼龍は息絶えた月光とその刀をそのまま残し、慌てて駆け出す。蒼龍が去った後、そこには静寂だけが残った。

 風もなく、何もかもが動かない状態の中で、周囲を浄化させるような軽やかな鈴の音を鳴らしながら、月光の死体に近づく者がいた。純白の着物に身を包み、青い瞳を月光の死体に向ける女性、雪花であった。

「あなたは、その呪われた刀の所有者よ、永遠に」

 そうつぶやいた雪花は、月光の額にそっと触れる。こうして月光は、雪花に従う忠実な下僕として蘇った。無表情なまま立ち上がり、血に濡れた着物を気にすることなく刀を鞘に収め、その場を立ち去ろうとする雪花に従い歩き始めた。


 源兵衛とお松を先頭に、一行は裏道を進んでいた。初めは狭かった道も、川に沿って進むようになってからは五、六人が横に並ぶことのできる程度まで広くなった。左手を流れる川は底が浅く、流れも緩やかだ。その気になれば、反対側に渡ることも可能だろう。しかし、向こう岸は背が高く、その上には家々がぎっしりと建ち並んでいた。右手は木々が密集しており、中は暗くてよく分からない。

 ふと、先頭にいた源兵衛が立ち止まった。その様子を認めたお松も歩くのを止め、源兵衛の方へ顔を向ける。

「どうしましたか?」

 お松が尋ねた。

「敵だ」

 源兵衛は静かに答える。その声に、他の者は皆あたりを見渡すが、誰かがいる気配は感じられない。

「出てこい!」

 源兵衛が叫んだ。すると、少し先の茂みの中から鬼坊が姿を現した。

 鬼坊だけではない。その背後から、鹿右衛門、猪三郎、銀虫、そしてお蝶も出てきた。彼らは、蒼龍たちの考えを読んでいたのだ。月光が決闘を申し入れた時、蒼龍がそれを受けようと拒もうと、夜には平福を立ち去ろうとすることは予想していた。問題は、蒼龍が一緒に逃げるか、それとも月光との決闘に応じるか、ということだ。そして、鬼坊たちにとっては運のいいことに、蒼龍の姿は見当たらなかった。

「蒼龍は決闘に応じてくれたか。それは好都合だ」

 鬼坊が不敵に笑う。お松がさっと刀を抜き、一歩前へ出た。

「源兵衛さん、若旦那とお蘭殿を連れて逃げてください」

 お松は、数の上でも勝っている相手を前に分が悪いと判断した。それを察した源兵衛は何も言わず、伊吹の下へ駆け寄る。

「若旦那、お蘭さん、早く!」

 まるで鞭で叩かれた馬のように走り出す伊吹に対し、お蘭は逃げるのに躊躇していた。そんなお蘭の手を掴み、源兵衛は伊吹の後を追う。

 お松の前に、刀を抜いた鹿右衛門が薄笑いを浮かべながら近づいた。それを見た三之丞もお松の横に並ぶが、その前には鬼坊が腕を組んで待ち構えている。後ろではお雪が弓に矢を番えて構えようとした。

「待ちな」

 女の鋭い声に、お雪は前方へ視線を移した。そこには手裏剣を手にしたお蝶が、今にもお雪に向かってそれを投げようとしていた。

「お前は動くんじゃないよ」

 お蝶の標的にされたお雪は身動きが取れず、お松と三之丞の様子を眺めることしかできなかった。

 鬼坊が刀を抜いたのを目にして三之丞も慌てて抜刀する。すぐさま、鬼坊は刀を振り上げて三之丞に襲いかかった。鬼坊の攻撃を三之丞が受け止める。腕の骨が折れるかと思うほどの衝撃を受けたものの、なんとか攻撃を食い止めることができた。しかし、それ以上、何もすることができない。まるで金縛りにでもあったかのように体が動かないのだ。鬼坊は余裕の笑みを浮かべていた。

 鹿右衛門が、お松にゆっくりと近づく。もはや動けない三人を尻目に、銀虫と猪三郎が伊吹たちを追って悠々と横を通り過ぎていった。このままでは伊吹たちが彼らに捕らえられてしまうだろう。そう分かっていながら、誰も何一つできないのだ。

 鬼坊たちは明らかに、相手を格下だと侮っていた。

「女、俺が倒せるか?」

 鹿右衛門はお松にそう言い放ち、上段に構えた刀をお松の頭上に思い切り振り下ろした。すると、下段に構えていたお松は素早く相手の刀を横に払う。切先はお松の左側に逸れ、勢い付いていた鹿右衛門はバランスを崩した。その絶好の機会をお松は逃さず、すぐさま胸の横あたりに向けて刀を振るう。

 鈍い音とともに、鹿右衛門は倒れた。お松は刀の峰を使ったのだ。斬られはしないものの、肋骨の一本や二本は折れただろう。鹿右衛門は胸を押さえながら地面を転がっている。

 これほど恥ずかしいこともないだろう。格下と思っていた相手にあっさりと倒され、しかも情けをかけられた。今、鹿右衛門は自分が油断していたことを後悔している。

 お松は、すぐに鬼坊へ刀を向けた。予想外の展開に、さすがの鬼坊も焦りを感じる。三之丞を刀で押し倒し、一歩退いた。お蝶がお松に向けて手裏剣を投げようとする。しかし、自分への注意が逸れたその瞬間を逃さず、お雪がお蝶に向かって矢を放った。至近距離からの矢はお蝶のそばをかすめただけだったものの、お雪から目が離せなくなり、鬼坊を助けることは不可能だ。

 二人を相手するのは鬼坊にとって分が悪い。三之丞は、すぐに起き上がり、お松の横に並んだ。同時に斬りかかれば、お松たちにも勝機がある。だが、二人は動くことができなかった。鬼坊の放つ圧倒的な気に萎縮してしまったのだ。

「来るか」

 鬼坊は不敵にも笑っている。お松たちは、たとえ十人の仲間がいても、鬼坊を倒すことはできないのではないかという気さえし始めた。

 互いに一歩も動かないまま時間だけが経過していく。どれだけ時間が過ぎただろうか。遠くから悲鳴が聞こえた。伊吹の叫び声である。しばらくして、今度は狼の遠吠えのような声がする。

「合図だ。逃げるぞ、お蝶」

 鬼坊とお蝶が後退し始めた。鹿右衛門もなんとか立ち上がり、刀を拾って逃げようとする。お松たちは追いかけようとはしなかった。伊吹たちのほうが心配だったこともある。しかし、それ以上に鬼坊に対して恐怖を抱いたからでもあった。

 鬼坊たちの姿が視界から消え去ると、お松たちはようやく動けるようになり、無言のまま伊吹たちの下へと駆け出した。

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