第14話 新しい仲間

「ありゃ、なんだ? 化け物か?」

 源兵衛の下に走り寄り、抱き起こそうとする蒼龍に、馬から降りて近づいてきた男が尋ねた。兼光である。

「似たようなものだ。不死身の輩らしい」

 源兵衛に顔を向けたままで蒼龍は答える。

「あなたが尼子の百鬼夜行殿か」

 兼光の言葉に、ようやく蒼龍は顔を上げた。

「お初にお目にかかる。拙者、毛利の兵士で兼光と申す」

「毛利・・・」

 蒼龍は、兼光の背後にいるたくさんの兵士に目を遣った。さすがの蒼龍も、これだけの兵士が相手ではひとたまりもない。動くこともできず、蒼龍は黙って兼光に視線を移す。兼光は口元に笑みをたたえていた。

「なぜ助けた?」

「あなたのお仲間に会いましてな。さらわれた方がいるとお聞きしたが、まだ見つかってはいないようですな」

 蒼龍は、兼光の顔を睨んだまま何も話そうとしない。しばらくしてから、兼光は再び口を開いた。

「あの化け物どもが盗賊だったのですか?」

「そうだ。いや、そのうちの一部というべきか」

 兼光は、蒼龍の顔から、その向こうの暗がりへと視線を移した。そこには灰色の道が続いているだけ。何の気配も感じることはできない。

「俺をどうするつもりだ」

 蒼龍に尋ねられ、兼光は視線を蒼龍の顔に戻した。

「今まで、数多の同胞を葬ってきた男だ。その首を取れば、大きな誉れとなろう」

 蒼龍の顔が険しくなった。源兵衛を地面に横たえ、すっと立ち上がると、刀を抜いて構える。

「この数を相手に闘うと?」

 兼光の問いには答えず、蒼龍は構えたまま微動だにしなかった。

 しばらくの間、双方は睨み合っていた。何も聞かされていない兵士たちは皆、何が起ころうとしているのか理解できず、ただ二人の様子を眺めているだけである。静寂があたりを支配する中で、先に沈黙を破ったのは兼光だ。

「死んだものと聞いていたが、なぜ突然、姿を消したのですか?」

 蒼龍は何も答えなかった。

「人を殺めることが嫌になりましたか」

 表情を崩さない蒼龍の顔を注視しながらも、兼光はさらに言葉を重ねる。

「この戦乱の世を治めることができる力を持った武将が現れれば、平和な時代が訪れよう。それは遠い未来の話ではないと俺は思っている」

 兼光は、右手を挙げ、手の平を向けて制止する仕草をした。

「どうか刀を収めてほしい。蒼龍殿、毛利の殿様に仕える気はないですか?」

 蒼龍は、少しの間をおいてから、ゆっくりと構えを解いた。しかし、刀は手に握ったままだ。

「あなたの伝説的な御活躍の数々、我らの耳にも届いております。それを失うのは誠に惜しい。過去のことは水に流し、双方にとって利益となる道を選ぼうではありませんか」

 蒼龍は何も答えようとしなかったが、兼光は辛抱強く待った。どれだけの時間が流れただろうか。源兵衛が苦しげに口を開いた。

「蒼龍殿、逃げてくれ」

 源兵衛の声が耳に届き、蒼龍は屈んで源兵衛の顔を覗き込んだ。源兵衛はなおも訴えかける。

「わしに構うな」

「そんな訳にはいかない。大丈夫だ、心配するな」

 蒼龍は、源兵衛に微笑みかけ、再び兼光に視線を送った。立ち上がり、毅然とした態度で言葉を返す。

「俺は誰にも仕える気はない」

 兼光は、片方の眉を上げた。

「何故ですか?」

「お主がさっき言った通りだ」

 蒼龍と兼光は、それ以上言葉を発することなく、互いに相手の顔から目を外そうとしなかった。時々、源兵衛のうめき声が聞こえる以外、音を立てる者は誰もいない。

「闘わなければ、この世を鎮めることはできぬ」

 ついに兼光が口を開いた。その口調は段々と速く、そして荒々しくなっていく。

「失望したぞ、蒼龍殿。お主、逃げるつもりか?」

「闘って得られたものは後悔だけだ」

「それは覚悟が足りないからだ」

「今ここで闘う覚悟はできている」

 蒼龍は再び刀を構えた。兼光は、首を横に振って

「解せぬ」

 と一言、口にした。

「お主が助かる術は唯一つ。ここで毛利に仕えると宣言するだけでいい。一人でこの数と闘うなど、覚悟ではなく無謀というものだ」

「俺は再び戦に出ることはない。俺が闘う理由は一つだけ。生き抜くためだ」

「生き抜くため・・・」

 兼光は、背筋に冷たいものを感じた。どう考えても勝ち目のない闘いで、蒼龍は最後まで倒されない自信があるということだ。普通ならば、この場は毛利に仕えると嘘をついて何とか逃げようとするだろう。しかし、蒼龍ははっきりとそれを断った。再び戦場に立つことを拒んだ。そして、この闘いに勝ってみせると態度で示した。

「恐ろしい奴よ」

 兼光は唸るように一言漏らすと、地面にあぐらをかいて蒼龍を手招きした。

「お主のような男は初めてだ。いろいろと話を聞きたい。刀を収めてこちらに来てはくれぬか?」

 蒼龍は、険しい表情を兼光に向けたまま、ゆっくりと構えを解いた。源兵衛の喘ぐ声が耳に届き、地面にちらりと目を向けてから、すぐに兼光へ視線を戻す。

「その前に、源兵衛殿の手当てをせねば」

「そうであったな。誰か、あの方の容体を見てやってくれ」

 兼光は後ろに向かって大声で叫んだ。


 二つの動く死体を引き連れて、銀虫が鬼坊たちの下へ戻ってきた。焚き火の炎は小さくなり、消えかかっている。そのそばには鹿右衛門が、少し離れた場所には鬼坊とお蝶、猪三郎がいた。全員が地面に横たわり、まだ眠ったままだ。

 銀虫はすぐ、伊吹とお蘭の姿が見当たらないことに気づいた。

「おい、起きろ!」

 銀虫の大声でまず目を覚ましたのはお蝶だ。伊吹がいないことに気づき、慌てて隣の鬼坊の体を揺らした。

「あなた、起きて!」

 鬼坊はゆっくりと目を開け、起き上がると大きなあくびをした。眠気が取れず、一度思い切り頭を横に振ってから、お蝶の顔に視線を移す。

「どうした?」

 寝ぼけた顔の鬼坊を目にしたお蝶は腹立たしげに

「あなた、しっかりして。あれを見てちょうだい」

 と言いながら伊吹のいた場所を指差した。解かれた縄しか残されていないその状況に、鬼坊の顔がさっと赤くなる。

「馬鹿な、誰も気づかなかったのか?」

 鬼坊に対して、お蝶は首を横に振るだけだ。視線をお蝶から銀虫に移す。銀虫は、鬼坊を睨むだけで何も言わない。まさに鬼のような形相で、伊吹のいた場所へ近づくと、鬼坊は伊吹を縛っていた縄を拾い上げた。

「刃物で切られているな」

 鬼坊は、猪三郎に顔を向けた。猪三郎は、この騒ぎで目を覚まし、何もできず呆然と立っている。

「お前が捕らえたあの女、刃物を持っていないか調べたのか?」

 鬼坊の質問に、猪三郎は、ゆっくりとうなずきながら

「武器は何も持っていませんでした」

 と答えた。鬼坊は、あたりを見回し、低い声でつぶやく。

「お嬢様の姿がない」

 驚きを隠せないお蝶は鬼坊に向かって叫んだ。

「まさか、あの女が?」

「それなら大声を上げて誰かを起こせばいい」

 鬼坊の言葉の意味するところを知り、お蝶は声を失った。鬼坊は、視線をいったん地面に下ろし、再びお蝶に顔を向けて

「お嬢様が二人を逃したのだろう」

 と断言した。

「待て、もう一人姿を消した奴がいる」

 銀虫の叫び声で、一同が彼のほうを向いた。

「雪花殿か」

 即答する鬼坊に向かって銀虫は言葉を続けた。

「あの女が指図した可能性もある」

「何のために?」

「金を出せば助けてやると伊吹に持ちかけたんじゃないのか?」

「伊吹を捕らえることができれば、さらに報酬を渡すと約束している。わざわざ、そんな真似をする必要はなかろう」

「それ以上に吹っ掛けたのかもしれないぜ。もしくは、伊吹のほうが交渉を始めたのかもしれない」

 鬼坊は黙り込んだ。顎を触りながら、しばらく考え事をしていたが、やがてポツリと口にした。

「それも一理あるかもな」

 その時、涼やかな鈴の音が聞こえてきた。音のするあたりに顔を向けた鬼坊は、少し驚いた顔で

「雪花殿!」

 と叫んだ。彼女はいつの間にか、一同の近くに立っていたのだ。その姿は、今にも消え入りそうな亡霊のようにも見えた。

「どうされましたか?」

 不思議そうな顔をして雪花が尋ねる。

「あっ、いや、どちらへお出でになったのかと思いまして」

「いつもの散歩ですわ。それより、何かあったのかしら?」

「伊吹たちが逃げました」

 鬼坊が答えた後、銀虫が続けて尋ねた。

「お前が逃したんじゃないのか?」

 雪花は眉を上げて

「そんなことをして何の得があるのでしょうか?」

 と聞き返す。

「伊吹から金を受け取ったんじゃないのか?」

「もし仮にそうだとして、また伊吹が捕らえられたときに白状されたら私はどうすればいいのかしら?」

 雪花は笑顔を見せながらも反論した。

「その時は逃げるつもりだろう」

 銀虫も不敵に笑いながら受け答える。

「報酬をふいにしてか? 銀虫殿、雪花殿も、内輪揉めは止めましょう。それよりも、伊吹とお嬢様を連れ戻さなければ」

 鬼坊が間に割って入った。お蝶が鬼坊のそばへ近づき

「どうやって連れ戻しますか? もし、本当にお嬢様が伊吹たちを逃したのだとしたら・・・」

 と問いかける。鬼坊は頭を掻きながら

「厄介だな」

 と言葉を漏らした。


「悪いが、ゆっくりと話をしている暇はない。仲間を助けに行かなければならぬ」

 兼光は、蒼龍の言葉を聞いて膝をポンと叩いた。

「そうであったな。しかし、どこにいるのか分かるまい」

 蒼龍の顔に苛立ちの表情が現れる。

「いや、すまぬ。ただ、闇雲に探し回っても見つからないと思ったのだ。少しここで思案してはいかがか」

 兼光の提案を聞いていた蒼龍は黙ったまま、地面に目を落としていた。その様子を眺めていた兼光が、蒼龍の背後の暗闇に動く何かに気づいた。

「何者か?」

 兼光が叫んだ。蒼龍が、その声に反応して後ろを振り返ると、走り寄る三人の姿が目に映った。人の気配に敏感な蒼龍が、姿を現すまで気づかなかったのも珍しい。

 月明かりに照らされて最初に姿を現したのは、背の高い男性だ。その美しい顔立ちを目にした蒼龍が声を上げた。

「伊吹殿!」

 その後ろから、今度は女性が姿を現した。可憐な花模様の小袖を身にまとったお菊だが、蒼龍には誰なのか分からない。

 そして、最後の一人が漆黒の闇から浮かび上がった時、蒼龍は我知らず駆け出していた。

「お蘭!」

「あなた!」

 蒼龍とお蘭、二人が同時に声を上げる。互いに固く抱き合い、蒼龍は泣きじゃくるお蘭の頭をそっと撫でながら

「よかった」

 とつぶやいた。

 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。蒼龍は、自分たちが全員から注目されていることに気づき、お蘭から手を離した。しかし、お蘭はまだ蒼龍にしがみついている。

「お蘭?」

 蒼龍は、そっとお蘭の肩を抱いた。ようやく背中に回していた腕を解き、お蘭は蒼龍に顔を向けた。涙で目が潤み、頬を伝って流れ落ちる。その天女のように美しい顔を間近にして、蒼龍はホッとしながらも

「もう大丈夫だから。ほら、皆が見ているよ」

 と優しく話し掛けた。お蘭は、あたりを見回してから慌てて涙を拭い、小さな声で蒼龍に謝った。

「ごめんなさい。もう、会えないんじゃないかと思っていたから」

「正直言って、俺も同じだよ。よくあの化け物たちから逃げてこられたね」

「お菊さんという方に助けていただいたのです」

 お蘭がそう言いながら顔を向けたほうへ、蒼龍が視線を移す。伊吹の隣に立っていたお菊が声をかけた。

「はじめまして。西極屋一長の孫でお菊と申します」

 丁重にお辞儀をするお菊を前にして、蒼龍は首を傾げた。西極屋といえば、今現在お互いに反目し合っている相手だ。つまり、お菊はその仲間ということになる。彼女がどうして伊吹とお蘭を助けたのか、蒼龍が不思議に思うのは当然であろう。その様子に気づき、お菊は説明を始めた。

「私どもの目的は伊吹様ただ一人です。お蘭さんを巻き込んでしまって申し訳ありません」

「俺達にとっては渡りに船だが、その目的まで逃してよかったのかい?」

 蒼龍にそう言われて、お菊は伊吹に顔を向けながら

「私の目的は、伊吹様の本心をお伺いすることでした。私への思いはもう消えたのですかと。そして、伊吹様は否と答えてくれました」

 と答えた。お菊の口元にはかすかな笑みが浮かんでいたが、蒼龍にはその横顔が何となく諦めの表情に見えた。

 ゆっくりと、お菊は蒼龍に顔を向ける。

「蒼龍様、でいらっしゃいますね」

 蒼龍は無言でうなずく。

「こんなことをしてしまった以上、戻ることはできません。私もご同行させてくださいまし」

 蒼龍の目をまっすぐ見据え、お菊は真剣な顔で訴えかけた。蒼龍も、しばらくお菊の目を凝視する。それは、まるで本心を探ろうとしているような雰囲気だった。

「一緒に付いてきて、その先どうしようというんだい?」

 お菊の目が少し泳いだ。

「それは・・・ まだ考えていません」

「俺が思うに、あなたが望めばこの争いは止められるんじゃないかな?」

「お祖父様が・・・ 一長がたやすく他人の考えに従うなんて考えられませんわ」

「孫の言う事なら聞くんじゃないか?」

 お菊の顔に、動揺とも狼狽とも取れる色が走った。しかし、極めて冷静な声でお菊は反論する。

「貴方様は、一長の恐ろしさを知らないのです。一長の指示の下、命を奪われた人は数知れません。しかも今回は、選りすぐりの暗殺者たちを雇っています。彼らが一度命じられたことを中断するなんてありえませぬ」

 蒼龍は顎を撫でながら、お菊の話を聞いていた。話が終わると、その手がピタリと止まり

「どうして伊吹殿は殺されなかったのかな?」

 と笑顔で問いかける。

「彼らの目的は、伊吹様を一長のいる因幡まで連れ戻すこと。もしそうなれば、伊吹様は例えようのない苦痛を受けることになるでしょう」

 お菊の言葉は、伊吹を震え上がらせるのには十分だった。頭を振りながら

「冗談じゃない。そんな目に合わされてたまるか」

 と叫んだ伊吹に、蒼龍は涼しい目で、こう助言する。

「いや、むしろ二人で一緒に因幡へ戻って謝罪するほうがいいんじゃないか? 孫の惚れた相手だ。互いに好き合っているなら、むしろ歓迎されると思うが」

 お菊は、伊吹の顔から目を離さなかった。その視線に伊吹は気づき、何か言おうと口を開けたが、言葉が出ない。代わりにお菊が話を始めた。

「もし、許してもらえなかったら、その時は死より辛い仕打ちを受けることになるでしょう。それでも伊吹様は因幡へ戻る覚悟がおありですか?」

 伊吹は、首を勢いよく横に振った。

「危険すぎる。このまま伊勢まで行って、ほとぼりが冷めるまで大人しくしているさ」

 そう断言した伊吹の顔を見据えたままのお菊は、表情を固くしたままきっぱりと言い放った。

「ならば、私も伊勢までお供するまでです」


 蒼龍の言う通り、一長に謝罪してよりを戻すのが最善の方法なのだろう。しかし、伊吹がそれを拒むのは、すでにお菊への興味がないからに違いないと蒼龍は思った。そして、お菊も薄々その事に気付いているのではないか、それでも伊吹から離れられないのではないかと哀れに感じ

「どうせ奴らも付いてくるのだろう。一緒にいてくれたほうが、奴らも手が出しにくくなる」

 と、お菊の願いを聞き入れることにした。しかし、伊吹はそれに反対する。

「勝手に決めないでくれ、蒼龍殿。お菊、お前が俺のことを想ってくれるのなら、刺客たちを説得して因幡に戻ってくれないか。今は父親の言いつけで伊勢へ行かなければならないが、いつか必ず二人の仲を認めさせるから」

「今すぐお戻りになって、お祖父様とお話するのは駄目なのですか?」

「いや・・・ 今は危険だろう。他の刺客に狙われるかもしれない」

「私が一緒にいる限り、誰にも指一本触れさせません」

 伊吹は答えに窮して黙り込んでしまった。お菊が返答を待っていると、この様子を窺っていた兵士たちの中から声を上げる者がいた。

「誰だ?」

 兵士たちの前に姿を表したのは、お松と三之丞だった。

「若旦那!」

 お松が、伊吹の姿を見るなり叫んだ。三之丞も驚いた様子でその場に立ち尽くしている。

「あなた方でしたか」

 兼光がすっと立ち上がり、お松らに声を掛けた。二人は兼光に深々と頭を下げ

「助けていただいたのですね。ありがとうございます」

 と礼を言う。兼光は慌てて

「いやいや、我々は何もしておりませんぞ」

 と返した後、今度は蒼龍のほうを向いて話し始めた。

「いろいろと複雑な事情があるようで。拙者からの提案ですが、いったん宿へ引き上げてから話し合うのがよいのではないかな?」

 蒼龍はその意見を受け入れて、お蘭とともに伊吹とお菊のほうへ歩き始めた。

「源兵衛殿の容体が心配だ」

「まさか、傷を負ったのか?」

 伊吹が驚いて蒼龍に問いかける。無言のまま顔をそらす蒼龍の目を追って、伊吹はその視線の先へ体を向けた。そこでは、源兵衛が地面に横たわり、兵士たちに介抱されていた。

 源兵衛の下へ最初に駆けつけたのはお松だった。死んだものと思っていたらしく、源兵衛が顔をお松のほうへわずかに動かした時、お松は安堵のため息をついた。

 蒼龍たちもやって来て、お松の背後から源兵衛を覗き込む。

「毒にやられたが心配ない。先ほど飲んだ毒消しが効いてきたようだ」

 源兵衛はそう言うが、まだ身動きは取れないらしい。とりあえず大丈夫であることを確認したお松は、伊吹に視線を向けた。

「若旦那、よくぞご無事で。それにお蘭さんも」

 言葉を掛けられたお蘭が深々と頭を下げた。それに対して伊吹は、何も答えずむっつりとしている。お松が、伊吹の素っ気ない態度を苦笑しながら眺めていた時、その隣りにいたお菊と目が合った。お菊は軽く会釈しながら

「お初にお目にかかります。西極屋のお菊と申します」

 と挨拶する。お松は、目を丸くしてお菊を凝視した。


「また、いつの日か会えることを願っているよ」

 別れ際、兼光は蒼龍に声を掛けた。蒼龍は振り向きざま、兼光の顔をじっと見つめながら無言でうなずき、また正面に顔を向けると、他の者達とともに立ち去っていった。

「いいのですか? 敵を討つ絶好の機会ですぞ」

 兵士の一人が兼光に耳打ちする。しかし、兼光は首を横に振った。

「あの男、これだけの人数と剣を交える覚悟があると断言した。たとえ倒せたとしても、こちらにどれだけの犠牲が出るか想像できない。下手に手出しはしないほうが良いというものよ」

 一呼吸置いてから、兵士に向かって笑顔を向けた後、兼光はさらに言葉を続ける。

「それにな、ここで失うには惜しいと思ったのだ。あれほどの男、なかなかおらぬ。何とか味方にしたいものだがな」

 すでに闇の中へ姿を消してしまった蒼龍たちのいるであろう方向に目を遣った兼光は、さらに小さな声でつぶやいたが、それが兵士に聞こえたのかは分からない。

「今は、あの女性のために尽くしているようだな」

 蒼龍たち一行は、山の麓まで進んでいた。目の前には藍色にぼんやりと蛍光を放つ田畑が広がっている。

 先頭にお松と三之丞、その後ろに伊吹と源兵衛が並んで歩いている。伊吹の後ろには、お菊がピッタリ貼り付いていた。その横にお蘭、そしてしんがりが蒼龍だ。

 お菊は結局、同行することになった。戻れと言っても、一人で山道を歩かせるのは危険だし、かと言って兼光に託すというわけにもいかない。伊吹が最後まで反対したが、最終的には譲歩する形となった。

 源兵衛は、まだ指に痺れが残っているようで、時折手を握ったり開いたりしている。蝙蝠の投げ矢は頬をかすめただけなのに、これだけの効果があるのだから、まともに受けていたら死んでいたかもしれない。源兵衛はそう思いながら、自分の手を眺めていた。

「まだ痺れるのか?」

 横を歩いていた伊吹が尋ねる。

「ほんの少し・・・ でも、もう大丈夫です」

「そうか・・・ もうすぐ宿に着くから、すぐに休んだほうがいいな」

 源兵衛の体を気遣い、普段は口にしないような言葉を伊吹が投げ掛けた。

 伊吹と源兵衛は、古くからの知り合いというわけではない。しかし、源兵衛に対して伊吹は大きな信頼を寄せていた。医者としての腕だけではなく、剣術や武術にも秀でていた彼の才能を認めていたし、困った時にはいつも助けてくれる頼もしい存在である。だから、その源兵衛が手傷を負ったことに対しては不安も感じていたし、敵への恐怖心も大きくなっていた。それを感じ取ったのか、源兵衛は

「なに、少し休めば元に戻りますよ。心配しないで下され」

 と明るく返した後、今度は背後にいる蒼龍に向かって言葉を投げた。

「あの銀虫という奴、通常の武器では倒せないようだな」

 蒼龍が、真剣な表情の源兵衛を目にして微笑んだ。

「普通の人間なら、そんな奴などいないさ。何かからくりがあるはずだが」

「しかし、他の二人も倒したはずなのに生き返ったのだろう?」

 蒼龍は言葉を返すことができない。長い間、鼻から息を吐いた後、源兵衛はお菊にも尋ねた。

「今日、現れた敵は全部で・・・ 七人か。男の剣士が三人に、女性が一人、そして銀虫と、生き返った二人の男、それ以外にまだ誰かいるのかな?」

 下を向いていたお菊は顔を上げ、少し間をおいてから話し始めた。

「あと一人おります。妖術を使う女性が」

「妖術?」

 源兵衛は眉をひそめた。

「そんなものが、この世にあるのか?」

 蒼龍の質問に、お菊はコクリと首を縦に振りながら答える。

「私もこの目で見るまでは信じられませんでしたが。鬼坊は、目を合わせた途端、幻術に掛けられ、気がついた時には首に懐刀を突きつけられていたそうで」

「目を合わせるのは危険ということか」

 すると、二人の会話にお蘭が割り込んだ。

「でも、あの方は私を助けて下さいました。とても悪い人には思えませんが」

 お菊はうなずいて

「確かに、普段はすごく優しいお方でしたわ。でも、お金さえ渡せば何でもするみたい」

 と答える。

「その女性も不死身なのか?」

 蒼龍が尋ねると、お菊は目を丸くした。

「まあ、不死身だなんて・・・ そんな人間はいませんわ」

 お菊は、蘇生した蝙蝠と月光を目にしてはいない。銀虫が致命傷を負って平気でいられることも知らない。だから、彼の問いに驚くのも仕方ないだろう。蒼龍もそれ以上は聞かず、会話はそこで途切れた。やがて、家々の建ち並ぶ町中に入り、人の気配もなく静まり返った道を進む頃、今までの緊張が解けて急に疲労を感じた伊吹が

「とにかく今は眠りたい」

 と漏らした。気がつけば、東の空が赤く染まり、山々の輪郭を浮かび上がらせていた。山の頂上に、立派な山城が光り輝いている。間もなく夜が明けようとしていたのだ。

 宿の前で待つお雪の姿が皆の目に映った。向こうも気づいたようで、手を大きく振っている。その嬉しそうな表情まで捉えることができるようになった時、あたりがさっと明るくなり、闇を一掃した。

「皆、無事だったんですね。よかった」

 お雪の目から大粒の涙がこぼれる。しかし、彼女には目もくれず、伊吹が宿に目を遣りながら独り言のようにつぶやいた。

「早く宿に入ろう。もう、くたくただ」

 お松がため息をついた後、お雪に言葉を掛ける。

「ごめんなさい。一人で不安だったでしょ」

 お雪の頬にそっと手を当てながら、お松は微笑みを投げかけた。その手に触れたお雪もまた陽の光のように明るい笑顔を返す。

 ちょうどその時、宿の戸が開いた。中から現れた丸刈り坊主の男の子が、目の前にいるたくさんの大人たちを唖然とした表情で眺めていた。

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