第8話 生と死の境で

 盲目であるにも関わらず、まるで猿のように木々を伝い、蝙蝠は仲間の元へ向かっている。手持ちの投げ矢では相手を倒せないと知り、作戦を練り直すためだ。

 蝙蝠にとって、信じられないことが二つもあった。

 一つは、相手に気配を悟られたこと。蝙蝠は、気配を完全に消して、相手に気づかれないまま暗殺するのを得意としていた。まさか、気配を悟られるなどとは予想もしていなかったのだ。

 そしてもう一つは投げ矢を弾かれたこと。目も耳も使えない蝙蝠がどうやってそれを感知できるのか不思議ではあるが、蒼龍によって見事に投げ矢を叩き落されたことを知り、蝙蝠は相手の強さが予想以上であることに改めて気づかされたのだ。

「兄者、どうでしたか?」

 戻ってきた蝙蝠に銀虫が尋ねた。銀虫が声を掛けたのが分かったらしく、それに対して蝙蝠は首を横に振るだけだ。

「ふん、失敗か」

 月光が嘲り笑うのを知ってか知らずか、蝙蝠はすぐに自分の手荷物の中から道具や材料を取り出し、手先を器用に動かしながら何かを作り始めた。

 その様子を眺めていた鬼坊が銀虫に尋ねる。

「蝙蝠殿は何をするおつもりなんだ?」

 銀虫が蝙蝠の姿を見つめたまま、ぶっきらぼうに答えた。

「火矢を作るらしい」

「火矢? 投げ矢に火を付けて当てようというのか?」

 鬼坊の問いに答えることなく、銀虫は蝙蝠の作業をただ眺めるだけだった。


「次の敵は投げ矢を使うらしい」

 拾ってきた投げ矢が皆の前に差し出された。先端の針の部分から持ち手までが金属製で、胴体と羽は木で作られている。

「もっとよく見せてくれよ」

 伊吹が手を差し出したが

「止めたほうがいい。針の部分に毒が塗られている可能性が高い」

 と蒼龍に言われ、慌てて手を引っ込めた。

「蒼龍様がいなかったら、私、今頃あの場所で死んでいたわ」

 お雪が少し身震いした。

「次も同じ奴が現れるかどうかは分からない。しかし、もし同じ奴なら、お雪さんの弓が役に立つだろう」

 蒼龍の判断にお松は同意した。

「それでは、明日も蒼龍殿とお雪は外回りをお願いします。私と源兵衛さんが夜の監視役ね」

「俺たちはどうする?」

 すでに目を覚ましていた一之助がお松に問いかけた。

「そうね・・・ 相手が投げ矢を使う以上、刀では太刀打ちできないわね」

「しかし、同じ奴が現れるのかは分からないぜ」

 三之丞が指摘する。

「もし、同じ奴だったとき、投げ矢を避ける自信はあるか?」

 蒼龍に尋ねられ、一之助は少し不機嫌な顔で

「馬鹿にするな。それくらい造作ない」

 と言い返した。

「一之助、本当に大丈夫? 蒼龍殿の話では、相手は投げる瞬間まで気配を消すことができるのよ」

 お松に言われ、一之助は三之丞の顔に視線を移した。三之丞は、一之助をちらりと見て首を横に振るだけだ。

「俺一人で三人の身を守る自信は正直言ってない。自分の身を守る自信がなければ、止めておいたほうがいいだろう」

「相手が一人じゃなかったらどうするんだ?」

 一之助がなおも食い下がる。

「奴ら、一人で勝負に挑むと断言したんだ、意地でも一人で来るだろうよ。二人倒しているから、油断もあるだろう」

 蒼龍の言葉を聞いて、お松が結論を出した。

「じゃあ、明日は蒼龍殿とお雪の二人で探索をお願いします。一之助と三之丞は休んでいて頂戴」

 全員が真剣な顔で議論する中、なぜかお雪だけは嬉しそうな顔をしていた。


 夜の森は静かで不気味だ。焚き火の赤い炎以外、闇夜を照らすものは何もない。その明かりの前にいるのは鬼坊と鹿右衛門の二人。少し離れたところに銀虫と蝙蝠が座っている。猪三郎が、銀虫に何か尋ねていた。月光と雪花はどこへ行ったのか、姿を消している。お蝶は、眠っているお菊の横で番をしていた。

「蝙蝠殿の話では、連中は宿に引きこもって様子を見ているらしいですね。結局、現れたのは蒼龍と女の二人のみだったそうです」

 焚き火のそばまでやって来た猪三郎が、銀虫から聞いてきたことを二人に報告した。

「このまま宿から出てこないと面倒ですね。やっぱり一気に叩いてしまうべきだったんですよ」

 鹿右衛門が不平を鳴らす。

「まあ、そう言うな。もし、蒼龍を倒すことができれば、他の連中を始末するのはかなり楽になる。しばらくは静観しておこう」

 鬼坊が笑顔で答える。鹿右衛門は額に手を遣ってため息をつくだけだ。

「それより、月光殿と雪花殿はいつも夜になるとどこかへ行ってしまわれるな。一体、何をしているのやら」

 猪三郎があたりに目を配りながら口を開いた。

「月光殿は、剣術の稽古だそうだ。お前たちも見習ったらどうだ?」

 鬼坊の言葉に、二人は首を横に振る。

「あの男、何を考えているのか、さっぱり分からん」

「そもそも何も話そうとしないからな。口を開けば、とんでもないことを言いやがる」

 鹿右衛門の言う、とんでもないこととは、各人が一人ずつ始末するという提案のことを指している。

「それだけ自信があるのだろうな。まだ剣の腕はお目にかかったことがないが」

 鬼坊は、森の奥へ目を遣った。


 暗闇の中、月光は竹林の中にいた。すでに何本かの竹が切られ、地面に横たわっている。

 月光は刀を鞘に収めたまま、自然体で眼前の竹に対峙している。目を閉じ、微動だにしないその姿は、遠くから目撃した人なら幽霊と勘違いするかも知れない。

 不意に、月光の細い腕が動いた。抜刀したと思う間もなく、刀が竹に当たる小気味よい音が三回連続して聞こえた時にはすでに、刀は鞘に戻っていた。

 竹は三ヶ所にわたって切断され、バサバサと音を立てて倒れた長い部分の他に、二つの短い破片も地面に転がっている。月光は、一瞬のうちに刀を三度振るっていたのだが、人の目にはただ一度斬りつけたようにしか見えなかっただろう。それほど、あっという間の出来事だった。

 誰かの気配を感じ、月光が後ろを振り向いた。そこには雪花が立っている。

「あんたか」

 興味を失ったように、月光は前を向いた。

「私は剣術のことはよく存じませぬが、それでも見事な腕前であることは理解できますわ」

 月光は、黙したまま別の竹を凝視している。

「それに、その刀も非常に素晴らしいものなのでしょうね」

 雪花の褒め言葉にも無関心だった月光が、刀に話が及ぶやすぐに雪花の顔へ目を移して

「分かるか?」

 と嬉しそうに尋ねた。

「誰が鍛えたのかは分からぬが、よほどの名工に違いない」

「銘はないのですか?」

「見当たらぬ」

「では、どうやって手に入れたのですか?」

 月光は、血を浴びたように赤い鞘から刀を抜いて自分の前にかざした。

「ある男との決闘で勝利してな。その時、男が持っていた刀がこれだ」

 そう言いながら刀に向けられる月光の瞳が、暗闇の中で怪しく光る。

「その刀、数多の血を吸ってきたようですわね」

「その度に、ますます美しくなる」

 恍惚とした表情の月光を、穏やかな表情で眺めていた雪花は、ポツリと言った。

「手放す気はないようですね」

 月光の目が刀から雪花に素早く移った。

「何を馬鹿な」

「あなたは気づいているはずよ。それは危険な代物だと」

 月光の顔に、わずかながら強張った表情が現れる。瞳の奥にあった狂気の光が一瞬、消え失せた。その視線は雪花から離れ、ゆらゆらと揺れている。

 雪花は、月光の様子を静かに見守っていた。その眼差しは、まるで月光のことを憐れんでいるかのようであった。

 しばらくして、月光は笑い出した。

「俺がこいつを手放すのは死ぬときだ」

 そう言うと、月光は雪花を置いて立ち去っていった。雪花は、大きなため息をついて

「呪いを解くのは簡単ではありませんね」

 とつぶやいた後、わずかに微笑んだ。しかし、その表情はどこか哀しげだった。


「お蘭お姉ちゃん、突然いなくなってしまって、どこに行っていたの?」

 夢の世界に戻ってすぐ、お蘭はお初に声を掛けられた。

「ごめんね、私は夜しかこの世界にいられないの」

「ここには夜なんてないよ」

 夢の世界に夜は訪れたことがなかった。

「あっ、そうね。私は起きてる時に別の世界にいて、眠っている時だけこの世界にいるんだけど」

 お初は混乱しているらしく

「お蘭お姉ちゃん、今は眠っていないけど・・・」

 と言った。

「うーん、難しいわね。別の世界で眠っているとき、この世界にいることができるの。私にとって、ここは夢の世界なのよ」

 お蘭の説明を聞いて、お初は一応納得したようだ。

「そっか・・・ じゃあ、お蘭お姉ちゃんがこの世界に帰ってくるまで待っていればいいんだね」

 と言って微笑んだ。

 二人はまだ、あの巨木の下にいた。空は相変わらず曇っていて、低く垂れ込めた灰色の雲がゆっくりと流れている。周りは至るところ、くすんだ黄緑色の草原が広がり、風に吹かれて揺れる様が海のように映った。

「じゃあそろそろ、出発しましょう」

 お蘭に促され、お初は大きくうなずいた。二人は手をつなぎ、道伝いに歩き始める。

「まずは亡者の森というところまで行かなくちゃ」

「どんなところなの? なんだか怖そうなところね」

 お初の言葉を聞いて、お蘭は眉をひそめた。

「私もよく知らないの。でも、そこを通らないとお姉ちゃんのいる場所へはたどり着けないんだ」

 今までお蘭が通ってきたところは、いつも穏やかな場所だった。ただ、あるのはねずみ色の雲と広い草原、そして時折吹く穏やかな風だけ。寂しくて味気ない風景ばかりで退屈な場所でもあった。

 だから、怖そうな名前のところではあるが、いつもと違う雰囲気を想像してお蘭の心の中では恐怖心よりも好奇心のほうが勝っていた。

 草原の中の道は小高い丘へと続いている。その先に何があるのか、今のところは見えない。

「お初ちゃんは、長い間あの木の下にいたの?」

「ずっと昔は賽の河原というところにいたんだけど、そこには鬼がたくさんいて意地悪をするの。だから、逃げてきたんだ」

 賽の河原は、亡くなった子供が父母のために石を積む場所である。しかし、積んだ石は鬼が壊してしまい、また最初から石を積まなければならない。そんな責苦をお初も受けていたのだろう。

「それで、いろんな所を彷徨っていたんだけど、そしたらお初のお姉ちゃんの声が聞こえてくるようになってね。だから、お姉ちゃんのところへ行こうと思ったんだ。でも、一人では心細くて・・・」

「あの木の下で立ち止まっていたのね」

 言い淀んだお初の言葉を汲み取ったお蘭がさらに

「ところで、お姉さんの名前は何て言うの?」

 と尋ねたところ、お初は下を向いてしまった。

「どうしたの?」

「お姉ちゃんの名前が思い出せないの。がんばって思い出そうとしているのに、どうしても駄目なの」

「そっか・・・ でも、ちょっとした事できっと思い出すことができるわ。だから心配しないで」

 お蘭が元気づけようと励ましたが、お初は悲しい目をしてうつむくだけであった。

 やがて二人は丘の頂上へたどり着いた。遠くを眺めても、あるのは広い海のような草原だけだ。

「亡者の森は見当たらないわね」

 そうお初に話しかけたようとしたとき、お蘭は目を覚ました。


 朝になり、蒼龍とお雪は再び大原方面へと歩を進めていた。

 その日も空は晴れ渡り、雲ひとつ確認できない。時折、雀が降りてきて地面をつついている。二人が近づいてくると跳ねて離れていくが、飛んで逃げようとするものはいなかった。

「さて、奴らが意地になって約束を守ってくれればよいが」

「もし、大勢で待ち構えていたらどうしますか?」

 刺客たちの野営した跡を見つけたことは、お松たちから報告を受けていた。蒼龍たちは、彼らがすでに先行して全員で待ち伏せしている可能性もゼロではないと考えているのだ。

「気配を察知できれば、奴らが気づく前に逃げられるさ。しかし、昨日の奴みたいに気配を消されてしまうと厄介だな。そんなことはないと思うが」

 そう答えた蒼龍の顔を、お雪がじっと凝視しているのを知り、蒼龍もお雪のほうへ視線を移した。

「どうしましたか?」

「蒼龍様は、どうして気配が分かるのですか? 私には、人がいる気配なんて気づくことができませんわ」

 蒼龍は、少し困った顔をした。どうやって答えればよいのか分からないからだ。

「難しい質問だな。例えば話をしているときに、相手がどんな気分なのか、漠然と分かるときがあるだろ。あの感覚に近いかな」

「相手の気持ちを汲み取るということですか」

「気配を読むのも大差はないよ。違うのは、自分が危険な状況にあるかどうか、というところだね」

「なるほど、闘いの中で養われていくものなのですね」

「そういうことになるね。戦では常に死と隣り合わせだから、自ずと身についてしまうものさ」

「今の世の中では必要な能力ですよね」

 お雪がうんうんと首を縦に振りながら、そう口にするので、蒼龍は

「できれば、こんな能力が不要になる世の中になってほしいな」

 と言いながら空を見上げた。

 二人は、森と小川に挟まれた道にたどり着いた。昨日、蝙蝠に襲われた場所である。蒼龍は、森から離れ小川に近いほうを歩くようにした。投げ矢と弓矢なら、弓矢のほうが圧倒的に飛距離が長い。投げ矢が届かず、かつ弓矢の射程距離内に標的が入る位置を選んだのだ。

(これで投げ矢については安心できるだろうが・・・)

 蒼龍は、そんなに甘い相手ではないと予想していた。自分の手の内が相手に知れてしまった以上、投げ矢以外の武器で勝負を挑んでくる確率は非常に高い。

「このあたりから森にいる相手を狙い撃つことはできますか?」

「大丈夫だと思います」

 お雪は、森を眺めた後、視線を蒼龍に戻して答えた。

「よし、あとは相手が現れるのを待つだけか」

「まだ気配は感じられませんか?」

「今のところはまだですね。もっとも、完全に気配を消されてしまえば、いるかどうか知ることはできませんがね」

 そう言いながらも、蒼龍は余裕の笑みを見せた。


 森の中、杉の大木の枝の上で、蝙蝠は静かに敵が訪れるのを待った。

 鬼の目は、確実に二人のいる位置を捉えている。相手が投げ矢の届かない場所を選ぶことは想定済みだ。だから、今回は武器を別のものに切り替えていた。長い紐の中央に、ものを包み込める幅の広い布を取り付けた投石器だ。通常は、石を布に包んで紐を振り回し、その遠心力で遠くへ石を投げるために使われる。これなら、弓矢と同等の射程を持つことができるだろう。しかし、確かに当たりどころが悪ければ相手を殺傷することもできるだろうが、投げ矢と同じく刀で弾かれれば意味はない。一体、蝙蝠は何をするつもりなのだろうか。

 蒼龍とお雪は、蝙蝠がいることに気づかぬまま道沿いを歩いている。そして、蝙蝠のいる木のそばを二人が通り過ぎようとした時、蝙蝠は、持っていた投石器に黒い玉のようなものを包み、振り回し始めた。

 ここでようやく蒼龍が気配に気づいた。一本の木に視線を移すと、そこには蝙蝠の姿があった。

「お雪さん、あそこ!」

 お雪は、蒼龍の言葉に反応してすぐに矢を番えた。蒼龍の指差す方向へ矢を向け、蝙蝠の姿を確認するや、パッと矢を放つ。

 蝙蝠は、振り回していた玉を蒼龍たち目掛けて投げつけようと構えたところだった。しかし、ほんの一瞬だけお雪のほうが早かった。お雪の矢は、見事に蝙蝠の左目を貫き、矢じりが後頭部から突き出した。

 蝙蝠が投げようとしていた玉は地面へ落下し、大きな音を立てて破裂した。中から飛び出た無数の鋭い鉄の破片が周囲の木肌を切り裂く。それは蝙蝠にも襲いかかり、体中に穴を空けた。

 この状況に最も驚いたのは蒼龍だ。こんなにも素早く正確にお雪が矢を射るとは思ってなかったからだ。

「すごいじゃないか、お雪さん」

 お雪の顔に視線を移して、蒼龍が思わず叫んだ。

 そのお雪は、自分が倒した相手が地面に落下するのを呆然と眺めている。その様子に気づいた蒼龍は

「大丈夫ですか?」

 と声を掛けた。お雪の視線がふらふらと揺れながら、蒼龍の顔へ向けられる。

「私・・・」

 今のお雪の心情を、蒼龍はすぐに把握した。

「落ち着いて、深呼吸しなさい。あなたは敵から自分の身を守るために行動しただけだ。何も悪いことはしていない」

 お雪はうなずき、深く息を吸い込んだ。初めて人を殺めた者が、どんな心情になるのか、蒼龍はよく理解していた。特に相手を倒さなければ自分が死ぬような状況下では、理性を保つことが難しくなる。

 しばらくすると、お雪はパニックを起こすことなく、落ち着きを取り戻した。

「少しここで休んでいなさい。俺は死体を確認してくる」

 お雪を一人残し、蒼龍は森の中へ入っていった。

 蝙蝠の死体は、木のそばに仰向けで転がっていた。自分の落とした武器によって傷だらけになった刺客の体を前にして、その威力の凄さに蒼龍は驚いた。もし、少しでもこちらの攻撃が遅れていたら、死んでいたのは自分たちであっただろう。

 険しい顔をしたまま蝙蝠の下へ近づいた蒼龍は、死体の顔を覗き込んで思わず叫びそうになった。右目の赤い瞳が、自分のほうへ向けられたからだ。蒼龍はすぐに抜刀した。

 しかし、蝙蝠の身体は全く動かない。ただ鬼の目だけが、持ち主が死んでもなお動いていたのだ。その目に凝視され、蒼龍は背筋に冷たいものを感じた。


 お雪は、自分のほうへ近づいてくる蒼龍を、無表情な顔でぼんやり眺めていた。それに気づいた蒼龍が微笑んだので、釣られてお雪も笑顔になる。

「落ち着きましたか?」

 お雪は「はい」と答え

「私、人を殺めたのは初めてなので」

 と吐露した。

「今はあまり思い詰めないほうがいい。敵を倒したのだと考えることだ」

「でも、相手も一人の人間です」

 お雪は目を伏せてしまった。顔には微笑みがまだ残っているものの、悲しげな表情をしている。蒼龍は長い間、お雪の様子を窺っていた。お雪も、何も言わずに立ちすくんだままだった。

「俺は今まで、多くの人間を斬り殺してきた」

 突然の蒼龍の言葉に、お雪が目を大きく見開いて蒼龍に視線を戻した。今にも涙がこぼれそうだ。

「大義があるわけでも、正義感でもない。ただ、お金が必要だったから傭兵になった。実戦で初めて人を殺した時は体が震えたことをよく覚えているよ」

 蒼龍は、お雪の肩に手を乗せて話を続けた。

「戦を重ねるうちに感覚が麻痺してきた。人を殺める毎に名が知られるようになった。富と名声が得られ、人を斬り殺すことに抵抗がなくなった。ある日、そんな自分に気が付いたんだ。深い闇に沈んだような気分だった」

 お雪の目から涙があふれ、頬を伝って地面へと落ちてゆく。

「おかしいですよね。人斬りが富と名声を得られるなんて、狂ってますよ、今の世の中。でも、自分もそれに適応してしまった」

 涙で霞む蒼龍の顔が、お雪の目には苦痛に耐えている表情のように映った。

「お雪さん、今の気持ちを大切にして下さい。これから先も、相手を倒さねばならない時が来るかもしれない。自分の身が危うければ、迷ってはいけません」

 蒼龍は一呼吸おいて話を続けた。

「でも、後悔の念を忘れてはいけない。かつての俺のようにならないためにも」

 真剣な顔をした蒼龍に対して、お雪は涙を拭い笑顔を見せた。蒼龍はすぐに優しい顔に戻り

「よし、それでは宿へ戻ろうか」

 と言った。

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