第3話 半死半生
行灯の灯りが、二人の男性を弱々しく照らしている。
一人は、大きな両手を丸太のような腿の上に置き、正座したまま目の前にいる老人を注視している。昼間に茂吉の店へ押しかけた鬼坊だ。
対する老人は目が完全に見えないらしい。瞼は閉じたまま、顔だけ鬼坊へ向けていた。耳たぶがなく、頭頂部が禿げて、その周りに少し白髪が残っている。見た目はまるで骸骨のようであった。
「その男、蒼龍と名乗ったと申すか?」
老人が、かすれた声で鬼坊に問いかけた。
「はい。恐ろしく腕の立つ男でした。このあたりで蒼龍といえば、恐らく尼子にいた『百鬼夜行』かと」
「まだ生きておったのか、それとも単なる偽物か・・・ しかし、お前が腕の立つ男と言うのなら、それは少々厄介だな」
今から四年前の永禄十二年、毛利氏の手により滅亡した尼子氏の遺臣は尼子勝久を擁して出雲で挙兵し、毛利の勢力を次々と排除していた。それを知った尼子の残党が各地から集まり、たちまち国内を席巻する。
その闘いの中で、毛利軍に恐れられた一人の侍がいた。その姿を目にした者は死に至ると噂され、伝説の妖怪にちなんで『尼子の百鬼夜行』と呼ばれたその男は、しかし尼子が再び毛利に制圧されたと同時に姿を消し、その生死については誰も知らなかった。
「あの男を倒すのは骨の折れる仕事になるでしょうな」
「ふふ、鬼も恐れるものがあったか」
「恐れはしませぬ。もし許されるなら、奴と剣を交えてみたいと思います」
老人がすっと右手を上げて、鬼坊を制した。
「まあ待て。相手の力量も分からずに無闇に手を出すものではない。それにな・・・」
老人の顔が怒りに歪んだ。目が開き、白濁した眼球が不気味に光り輝く。
「獲物はあくまでも、わしの可愛い孫を傷物にした潮鳥屋の倅。もし願いが叶うのなら、自分の愚かさを悔いながら死んでいく様をこの目で拝みたいくらいだ」
老人の身体がわなわなと震えている。鬼坊はその様子を黙って見ているだけだった。
「あの男を恐怖に陥れ、じわじわと嬲り殺しにするのだ。そのためには、圧倒的な力で己の無力さを思い知らさねばならぬ。鬼坊よ、お前は霊石山まで足を運んでくれ」
「霊石山へ?」
「『天陰』の名は聞いたことがあるだろう」
「素破者の集団ということくらいは」
「この国で奴らの右に並ぶものはない。尼子の残党が敗れたのも、天陰の暗中飛躍があったからこそ。金さえ積めば、力を貸してくれるじゃろう」
老人の口元が緩んだ。
「分かりました。明日にでも行ってみましょう」
鬼坊は表情一つ変えず、老人に向かって頭を下げた。
空には青い月が浮かび、庭の草木は淡く光り輝いている。風もなく、何もかもが動きを止めていた。そんな誰もが寝静まった静かな夜に、一人の男が縁側を足音ひとつ立てずに歩いている。男は、とある部屋の前で立ち止まり、ゆっくりと障子を開けた。
部屋に入り、そっと障子を閉めた後、男は静かに座り、部屋の中に目を配った。そこには誰かが寝ているようだが、暗くてよく分からない。
「お蘭さん、起きて下さい。伊吹です」
男は伊吹、そして寝ているのはお蘭のようだ。どうやらこの男、お蘭を口説きにやって来たらしい。
「あなたの美しい顔をもっと間近で拝見したいのです。どうか、そのお召し物からお顔を出してくれませんか」
お蘭は頭をすっぽりと着物で覆っていた。伊吹は顔を近づけて語りかけるが、お蘭は全く反応しない。
焦れた伊吹は、着物の端を持って、ゆっくりとめくった。
突然、甲高い悲鳴が屋敷中に響き渡った。しばらくして、あちらこちらからバタバタと足音が聞こえてくる。最初にお蘭のいる部屋へ入ってきたのは、隣で寝ていた蒼龍だ。
「何があったんだ?」
部屋の奥で、伊吹がガタガタと身を震わせている。その顔色は、月明かりのせいなのか、それとも、あまりの衝撃のためか、真っ青であった。悲鳴を上げたのは、お蘭ではなく伊吹だったのだ。
続いてやって来たのは、夜番だった二人の用心棒、そして主人の茂吉も何事かと部屋の中に入った。
彼らは、めくれ上がった着物から覗いているお蘭の姿を目にして愕然とした。そこにあったのは、半ば白骨と化した死体だったのである。
「これは一体どうしたことだ?」
茂吉は、何が起こったのか理解できず、思わず口にしたが、それに答えられる者はいなかった。
蒼龍は、未だ身を縮めて震えている伊吹に向かって
「どうしてお前がここにいるんだ?」
と問い詰めた。しかし、伊吹はあまりの恐しさに加え、真実を語ることもできず、一切、口を開こうとしない。
「まさか・・・ 夜這いか?」
蒼龍のその言葉を耳にして、茂吉が腰を抜かしたようにその場に座り込んだ。
「お前、なんて事を・・・」
「俺は知らない・・・ もう死んでいたんだ」
訳がわからないといった表情で、伊吹は叫ぶ。
蒼龍は、今まで見せたことのない怒りの表情で伊吹を睨んでいた。やがて、手に持っていた刀を鞘から抜いて
「この場で斬り伏せてやる」
と一喝する。それを聞いた茂吉は、蒼龍と伊吹の間に割って入り、土下座しながら叫んだ。
「どうか、それだけは勘弁して下さい。お願いします」
用心棒たちは、どうしたらよいのか分からず、ただ呆然と眺めていることしかできない。蒼龍の強さはすでに聞き及んでいて、自分たちでは敵わないと思っていたからである。
誰もが動けないまま時間だけが過ぎていく中で、一つだけ変化があった。お蘭の死体である。骨だけの顔の周りに肉が蘇り、抜け落ちた髪の毛も元に戻っていく。やがて生き返ったお蘭が目を覚ました。
すっと起き上がってあたりを見渡せば、夫が伊吹に刀を向け、その間で茂吉が土下座している。
「あなた、どうか止めて下さい」
思わずお蘭は叫んだ。その声を聞いてようやく、お蘭が生き返ったことに全員が気づいた。
元の姿に戻ったお蘭に目を移し、蒼龍はすっと目を閉じてから刀を収めた。
「お蘭は生まれつき身体が弱くてな」
蒼龍は、床にあぐらをかいた状態で話を始めた。その横にはお蘭がうつむいたまま正座している。二人の目の前には、茂吉と伊吹が、お蘭と同じように正座していた。
部屋の外には、騒ぎを聞いて目を覚ました用心棒たちが集まっていた。その中には、お松たち旅の仲間の姿もあった。
「それだけならまだいいが、なぜか眠ると死体になってしまう。赤ん坊の時からそうだったらしい。お蘭の両親は懸命に原因を調べたが、結局なにも分からなかった。それで、今は俺たちが手がかりを探しているというわけだ」
蒼龍は、茂吉のほうに顔を向けて
「茂吉さん、何か知っていることがあれば教えてくれないか。どんな些細なことでもいい」
と問いかけた。しかし、茂吉は首を横に振った。
「私が存じ上げていることは何もありません」
蒼龍は、ため息をついた。
「そうか・・・」
「あなた様は、そのために旅をなさっているのですか?」
「陰陽師に占ってもらってな。卯の方角に旅をしろと言われたんだ。それが兆しになるだろうと」
「なるほど、私どもに会われたことが、その兆しなのかもしれませぬな」
茂吉の言葉に、もしかしたらという希望が湧いたのか、蒼龍は
「お蘭も両親も、村の中では相談できる者がいなくてずっと苦労してきた。そのせいで両親は早くに亡くなってしまってな。俺が秘密を打ち明けられたのは、母君が亡くなる直前だった。その時、ようやく夫婦になることを認めてもらったよ。お蘭のことは、俺に託されたんだ。なんとしても、お蘭を治してやりたい」
と早口で話した後、今度は背後で見守っていたお松たちのほうへ顔を向けた。
「誰でもいい、何か知っていたら教えてくれ。頼む」
ひれ伏す蒼龍の横にいたお蘭も後ろへ向き直り、手をついて頭を下げる。しかし、誰もそれに答えられなかった。ただ、お雪は涙を流し、それに釣られたのか、一之助までが袖で涙を拭っていた。
「ごめんなさい。私たちに答えられることはありませんわ。でも、これが兆しとなるなら、伊勢に行くことで何か分かるのかもしれません」
お松が皆を代表して答える。普段は表情を変えないお松も、今は悲しげな顔で蒼龍たちを見つめていた。
因幡を南北に流れる千代川。その千代川沿いに南へ下ると、西側に低い山々が現れる。その中の一つ、霊石山には、天照大神臨行の際、道案内役を務めた猿田彦命が冠を置いたと伝えられる『御子岩』があり、今でも道行く人の道標となっていた。
その巨大な岩の近くを、負けず劣らずの大男が一人、通り過ぎていく。背中には太刀を背負い、鋭い目で周囲を探る姿をもし旅人が見れば、猿田彦命が舞い降りたのかと勘違いしたかもしれない。しかし、この場所を通る者は誰もいない。この山には最勝寺という古刹があった。言い伝えによれば、伊豆の修禅寺に幽閉されていた源範頼が因幡に落ち延びた後、荒廃した寺を見て嘆き、修築して潜居したという。今の寺の姿を目の当たりにしたら、範頼は何と言うだろうか。寺を護る者はなく、放置された状態であった。
「ここに本当に人がいるのか?」
その大男が独り言をつぶやいた後、足を止めた。
何やら殺気を感じる。それも一人ではない。
突如、頭上から何かが落ちてきた。男は背中の刀を抜いてそれを斬り払おうとした。
金属同士がぶつかり合う鋭い音が鳴り響いた。落ちてきたのは人だ。小刀を逆手に持ち、首めがけて斬りつけてきたところを、男が太刀で弾き返した。
そのあまりの怪力に、刺客は遠くまで飛ばされ、木に衝突した。持っていた小刀は折れてしまい、腕に傷を受けて血が流れている。
「待て、俺は怪しいものではない」
次の刺客が現れる前に、男は懐から一通の書状を出した。
「西極屋壱長の命により参った鬼坊と申す。長に会わせてほしい」
鬼坊はそう叫んで書状を高く掲げた。
最勝寺には数多くの僧堂がある。かつては、ここで多くの僧侶が修行に励んでいたのだろうが、今は壁が崩れ、草木に侵食された荒れ放題の状態であった。
鬼坊は、そんな僧堂の一つに招かれ、白装束に身を包んだ老人と相対していた。
老人が、鬼坊の携えていた書状を読んでいる間、鬼坊は正座したまま、じっと老人の顔を見つめている。その顔は皺で覆われ、男女の判別さえできない。ぼさぼさの白髪が肩のあたりまで伸びて、木の皮のような首の周りに巻き付いている。異様に大きな右目の黒い瞳が、書状の文字を一つずつ丹念に読み取っている様子が鬼坊にも分かった。
「お主が鬼坊か。噂に違わぬ怪力の持ち主のようじゃのう」
老人が、嗄れた声で話し始める。刺客に怪我を負わせたことを言っていると気づき、鬼坊は恐縮して頭を下げた。
「いや、気にせずともよい。実はな、お主を天陰に迎え入れようと考えたことがあったのじゃ」
鬼坊が頭を上げた。
「しかし、壱長はお主を手放したくないらしい。残念ながら諦めた」
そう言って口元を緩める老人に、鬼坊がまた頭を下げた時、外から声がした。
「蝙蝠と銀虫でごさいます」
「来たか。入りなさい」
老人に命じられ、入ってきたのは二人の男だった。一人は背が高く、右の頬に髑髏、左の頬に美女の顔の入れ墨がある。赤く染めた髪は逆立ち、細く鋭い目には相手を萎縮させる異様な光を湛えていた。もう一方は小男で、左の目は白く濁っているのに対して、右の目は燃えるような赤い色だ。総髪にした髪は銀色に輝き、黒く焼けた肌を際立たせていた。
「銀虫は、生まれつき両手と両足がなかった」
老人は、背の高い男を指差して言った。そのとき鬼坊は、男の両手と両足が鋼鉄製の義肢であることに気づいた。
「そこで、赤ん坊の頃から身体を改造してな。こうして立派な刺客に育て上げた。その強さはわしが保証しよう」
銀虫は、無表情なまま軽くお辞儀をした。その目は、まるで相手の強さを確かめようとしているかのように、鬼坊の顔を捉えている。
「蝙蝠は、鬼の目を持っておる」
今度は小男のほうを指差して老人が話し始めた。
「鬼の目?」
「蝙蝠は、目と耳が使えない。だから、右側を鬼の目に入れ替えたのじゃ。わしの左目も同じじゃよ」
そう言って、今まで閉じていた左目を開けた。鬼坊は、不気味な赤い瞳の目に睨まれ、身を固くした。
「この鬼の目はな、動物の血液に反応する。人の血の流れは千差万別じゃ。顔を見るより簡単に人を見分けられる。さらに、障害物をすり抜けて相手を捉えることも可能じゃ。それだけじゃない」
老人は不気味な笑顔を浮かべた。
「十里先にいても相手を見逃すことはない。一度お主の姿を記憶すれば、お主がいつ、どこにいるか把握できるということじゃ」
老人はそう言って、甲高い声で笑った。鬼坊は背筋にひんやりしたものを感じながら
「彼は索敵専門ということですか」
と問いかける。
「蝙蝠は投げ矢の名手でもある。銀虫が戦っている間、蝙蝠が援護すれば、ほとんど無敵の状態になるぞ」
「なるほど・・・」
しばし無言の時が流れた。話を再開したのは老人のほうだ。
「残念ながら、今、貸し出せる人材はこれだけしかおらぬ。近々、戦がありそうでな。強い者はほとんど出払っておるのじゃ」
「そうですか・・・ では、他に強い刺客をご存知ありませんか?」
老人の右目がキラリと光った。そして、少し間をおいた後、重々しく話し始めた。
「危険を承知の上なら、二人ほど紹介しよう」
鬼坊は、同意の意味を込めてうなずいた。
「一人は月光という。剣客だが、恐ろしく腕が立つ」
「危険というのは?」
「人斬りが天職という男じゃ。女子供であろうが何の迷いもなく刀を向ける。特に、強い相手には目がなくてな。それが味方であっても関係なく闘いを挑もうとする。お主も例外ではないということじゃよ」
老人は、鬼坊の顔に右目を向けて様子を探っている。しかし、鬼坊は少し唸っただけで、あまり反応を示さない。
「普通ならすぐに身を滅ぼすようなものじゃが、未だ負けたことがない。月光はそれだけ強いということじゃな」
「どこに行けば、その月光に会えるのですか?」
「ふむ・・・ 少し待ちなさい」
老人が目を閉じてから長い時間が過ぎた。横にあった香が燃え尽きた頃、ようやく老人は目を開いた。
「ようやく見つけたわい。乾の方角、鹿野の城下、少々遠いな」
「馬を使いますよ」
老人は首を縦に振りながら
「詳細な場所は蝙蝠に案内してもらえばよいじゃろう」
と言って、蝙蝠のほうに視線を送った。
「もう一人は誰ですか?」
鬼坊に先を促された老人は、少し声を低くして話を続けた。
「名前は分からぬ。我々は雪花と呼んでおるが」
「女性ですか」
「危険な女じゃ。一度狙われたら、待つのは死のみ」
「ほう・・・ それだけ強い剣士ということですか」
老人は厳しい表情で、鬼坊の目を凝視した。
「彼女は剣士ではない。妖術使いじゃ」
「妖術? そんなものが、この世に?」
「お主は、この鬼の目をどう説明するのかのう?」
老人は口元を緩めながら話を続ける。
「世の中には説明できないことが多い。彼女の使う術は法力や忍術の類ではない、我々にも分からんのじゃよ。しかしな・・・」
老人は再び真顔になった。
「あの女がその気になれば、どれだけ兵を集めても太刀打ちできぬ。欲しいのは金だけで、天下に興味がないことが、せめてもの救いじゃて」
鬼坊は、しばらく黙していた。老人の言葉を、にわかには信じることができなかったのだ。しかし、嘘をついているとも思えない。もし本当なら、恐るべき相手を雇うことになる。
膝の上にある自分の手に視線を落とす鬼坊の様子を、老人だけでなく銀虫と蝙蝠も窺っていた。
「その女性の居場所を教えていただけますか」
老人は不気味に微笑んだ。
「美徳山三佛寺の近くに、二体の地蔵が安置された祠がある。満月の夜に、その場所を訪れると雪花に会える。そこで何をしているのかは、わしにも分からぬが・・・ あとはお主の頼み方次第じゃろうな」
「満月の夜・・・ 明日じゃないか」
鬼坊は頭を掻きながらつぶやいた。
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