第2話 鬼と龍

 風呂から上がり、蒼龍とお蘭は縁側に出て、夜の庭を眺めながら涼んでいた。庭は静まり返り、時々吹く心地よい風が、二人の熱くなった肌を冷ましてくれる。

「さて、これからどうするかな」

「折角ここまで来たんですから、お伊勢さんにも行ってみましょうよ」

「伊勢はまだまだ先だよ。身体のほうは大丈夫かい?」

 お蘭は少し考えてから

「ええ・・・ でも、路銀のほうが足りるか、ちょっと心配ね」

 と答えた。

「今の時期なら、まだ田植え前の百姓もいるだろう。いざとなったら日雇いでもするさ」

 二人がそんな話をしているところに、茂吉が深刻な顔をしてやって来た。

「あの・・・ ご歓談中にすみません。お侍さんの腕を見込んで、お願いしたいことがありまして」

 茂吉の不安げな顔を見て、蒼龍は心配そうに

「どうなされた?」

 と問いかけた。茂吉は少し間を置いてから、ためらいがちに話し始めた。

「実は、倅が襲われた原因が分かりまして・・・ お恥ずかしい話ですが、倅は西極屋という土倉の一人娘に手を出したようなのです。その西極屋、実は裏稼業を営んでいるという噂がありまして・・・」

「裏稼業?」

 蒼龍が眉をひそめた。

「はい。あくまでも噂ですけど、西極屋は金さえ積めば要人の暗殺なども引き受けているそうです。十年ほど前、鹿野のお殿様が殺されたのも、西極屋の手のものだとか」

 永禄六年、因幡守護・山名誠通の遺児であり、鹿野城の城主であった源七郎が毒殺された。家臣であった武田高信が、年若く色を好む源七郎に刺客として舞女を送り込んだのだが、その女が西極屋の手下であったらしい。

「そのためか、雇っている用心棒も腕の立つ者ばかり。さらには暗殺を専門とする素破とも取引をしているらしいのです。そんな連中に狙われては、ひとたまりもありません」

 蒼龍は、茂吉の頼みが何なのか理解した。

「それで、用心棒になってほしいということか」

 茂吉は真剣な顔で

「倅から聞きました、貴方様は非常にお強いお方だと。どうか引き受けてはいただけないでしょうか」

 と懇願し、深々と頭を下げる。蒼龍は、お蘭の顔をちらりと見た。お蘭は茂吉に同情しているのか、蒼龍に悲しげな顔を向けてうなずいた。

「しかし、俺達は旅の途中。それを止めるわけにもいかない」

「失礼ながら、どちらまで旅をなさるご予定ですか?」

「伊勢にお参りに行くつもりだが」

 茂吉は長い間考え込んでいた。蒼龍もお蘭も、茂吉の顔に目を向けたまま動きを止めている。時々、風鈴が風に揺れて涼しげな音を奏でた。

「伊勢には私どもの親戚が商売をしておりまして、そこに倅を預けようと思います。どうか、倅を一緒に連れて行ってもらえませんか。もちろん、お礼はいたします。前金で十両、伊勢に到着してからさらに十両でいかがでしょうか」

「十両?」

 蒼龍は思わず叫び、お蘭も両手を口に当てて驚いた。もし、相手に知られずに済めば、ただ一緒に旅をするだけで大金が手に入るのだから、これほど美味しい話はない。

「分かった、引き受けようじゃないか」

 蒼龍は、そう答えてニヤリと笑った。


 翌朝、大部屋でくつろいでいた蒼龍夫妻の下に茂吉が現れた。

「倅の世話役に何名か同行させようと思いまして。いずれも腕に覚えのある者ばかり。貴方様の手助けくらいにはなるかと思います」

 そう言って茂吉が手を叩くと、部屋の中にぞろぞろと同行者が入ってくる。その数七名、茂吉の横に並んで座った。

「お松と申します。剣の指南役を務めております」

 長い髪を後ろで束ね、意志の強さを感じさせる目が印象的な女性だった。卵型の整った顔は美しく、しかし、人を寄せ付けない冷たさを兼ね備えている。菱形模様の赤い小袖に濃紺の袴という指南役らしい勇ましい姿で、凛として座っていた。

「一之助と申す。お見知り置きを」

 狼のように鋭い目つきで蒼龍の顔を凝視したまま挨拶したその男は、額に大きな傷跡を残していた。隣のお松同様、姿勢正しく座り、微動だにしない。小柄な体格で、お松のほうが背丈は大きいようだ。髪は後ろで束ねているが、前や横は下に垂らしたままで、野性的な顔と相まって、粗雑な印象を受ける。

「宗二です。よろしくお願いします」

 一之助の隣に座った宗二という男は、一之助とは対照的な雰囲気の男だ。大きく開かれた目で蒼龍とお蘭を交互に見ながら、口には微笑みを浮かべていた。一之助よりは一回り大きく、歳はかなり若く見える。この時代には珍しく、髪を肩のあたりできれいに切りそろえていた。

「お初にお目にかかります。三之丞と申します」

 三之丞は、四人の中では最も大柄だった。角張った顔は真っ黒に日焼けして、坊主頭は油で磨いたように光っている。小さく優しげな目で二人を眺め、笑う口元からは白い歯が顔を覗かせていた。

「この者たちは、護衛として付けるつもりです」

 茂吉が蒼龍に説明する。

「家のほうが手薄にならないのか?」

「用心棒は大勢いますからご心配なく。しかし、この四人はその中でも屈指の腕を持った者ばかり。貴方様も加われば、安心して旅ができるというものです」

 蒼龍は、茂吉の言葉に軽くうなずくだけだった。

「お雪と申します。以後、お見知り置き下さい」

 誰にでも好かれそうな愛嬌のある顔で、お松とは正反対の雰囲気を持った女性だった。淡い桜色の小袖を身に着け、髪はお松と同様に後ろで束ねている。その朗らかな笑顔に、蒼龍とお蘭も思わず顔をほころばせた。

「彼女には主に倅の世話をしてもらうつもりですが、実はこの界隈でも評判になるほどの弓矢の名手でしてな。護衛にもきっと役に立つことでしょう」

 茂吉がすかさず説明を加えた。

「源兵衛と申す。よろしく頼みましたぞ」

 七人の中では最年長と思われるその男性は、頭頂部が完全に禿げていて、残った髪をまとめて髷を結っていた。口髭と顎髭を生やし、面長の顔は仙人のようにも見える。しかし、灰色の小袖に包まれた身体は肩幅が広く、三之丞と同じくらい大柄であった。

「源兵衛は元々、忍びの者でしてな。護衛の役にも立ちますが、それより医学にも精通しておりますから、病や怪我のときも安心でしょう」

 まるで売り物でも紹介しているかのような口振りで、茂吉は合いの手を入れる。

「それは助かるな。お蘭は生まれつき身体が弱いから、何かあった時はよろしく頼むよ」

 蒼龍が源兵衛にそう依頼するのを聞いて、お蘭も頭を下げた。

「疾風です。足の速さなら誰にも負けませんよ」

 小柄でいかにも敏捷そうに見える疾風という男性、まだ少年と言ったほうが正しいかもしれない。頭はおかっぱで、丸顔に小さな目、常に笑顔を絶やさない口元は宗二に雰囲気が似ていた。

「この子は源兵衛の弟子でして、将来は医者を志しています。足が速い上に十里くらいなら休まず走れますから、なにかお困りの際には伝達係として使うこともできるでしょう」

 茂吉の説明の後、蒼龍は

「拙者は蒼龍と申す。こちらは女房のお蘭。旅の間、よろしく頼むよ」

 と挨拶した。お蘭も軽く会釈する。

「出発は三日後くらいを予定していますが、よろしいでしょうか?」

「急ぐ旅でもないし、問題はないよ」

 蒼龍の返答を聞いてから、茂吉は丁寧にお辞儀をして立ち去っていった。他の者もその後に続く。

「あれだけ揃うのなら、俺達は要らないんじゃないか?」

 全員が立ち去った後、蒼龍はお蘭に問いかけた。

「それだけ相手を恐れているということでしょうか」

「・・・ふむ、どんな奴がいるのだろうか」

 口元に笑みをたたえたまま、蒼龍は天井を見上げた。


「蒼龍と名乗っていたな。本当に強いのだろうか」

 一之助が、顎にまばらに生えた髭を触りながら、誰にともなく問いかけた。

「見た目だけでは判断できませんわ」

 お松がそれに答える。相変わらず冷たい表情をしていた。

「旅までは日がありますから、一度お手合わせしたいですね。案外、お松さんのほうが強かったりして」

 宗二が刀の柄をポンと叩きながら話しかけてきた。

「若旦那の話では、瞬きしている間に一人倒されていたらしい。相手は防御する暇もなかったそうだ」

 今度は源兵衛が話に加わる。七人の同行者が、部屋の中で輪になって立っていた。これからの旅程について話し合うつもりなのだろうが、蒼龍のことに話題が移っていた。

「まあ、出番はないだろうな。山賊や落ち武者にでも遭遇したときは、先頭に立って頑張ってもらうかな」

 三之丞が、源兵衛に向かってそう言った後、ニヤリと笑った。

「それよりも、若旦那が大人しく伊勢まで付いてきてくれるんですかね。まだ、このことは話していないと旦那様はおっしゃってましたが」

 宗二が話題を変える。他の者もそれが心配らしく、何度も首を縦に振る。

「旦那様の言う事なら若旦那もお聞きになるでしょう。さあ、早いところ役回りを決めてしまいましょう。伊勢までは遠いから、準備も念入りにしておかなくては」

 お松が全員の顔を見回して、本来の議題に話を戻そうとしたときである。奉公人の一人が青ざめた顔で部屋に入ってきた。

「大変です、お松さん。西極屋の用心棒どもがやって来ました。若旦那を呼んでこいと、えらい剣幕で・・・」

 全員が一斉に、奉公人の顔に目を向けた。


 店の入口の前で、二人の男が互いに向かい合っている。周りには人だかりができていた。

「若旦那にどんなご用件でしょうか」

 番頭らしき老年の男が、怯えた顔で尋ねた。

「それはお宅の若旦那がよくご存知だろうよ。いいから早く呼んで来い」

 凄む相手に番頭は

「勘弁して下さい。お願いします」

 と頭を下げるしかない。番頭が恐れるのも無理のない話である。相手は筋骨隆々な大男。太い腕を組み、鬼のような目で睨みつけてくる。大きな刀を背負い、自分の胴体ほどもありそうな太さの足で大地を踏みしめ、猛烈な闘気を発しながら迫る相手を前にして、番頭が気を失っても不思議ではなかった。

「下がるんだ。あとは俺が相手をする」

 番頭の背後から声がした。番頭が振り向いた先には蒼龍が立っている。番頭と交代するようにして、蒼龍は大男と対峙した。

「用心棒か・・・ ここには、手練の女がいると聞いたが、まさかお前のことか?」

 男はそう言って鼻で笑った。しかし、蒼龍は意にも介さず

「伊吹殿を渡すわけには参らぬ。お帰りいただこう」

 と返す。その肝が据わった様を見た男は眉を上げ

「辰!」

 と叫んだ。今まで隠れて見えなかったが、大男の後ろには何人かの連れがいた。その中の一人が男の横に並ぶ。

「お前が相手してみろ」

 そう命じてから、大男は後ろに一歩退いた。辰と呼ばれたその剣客は、蒼龍の姿を値踏みするように眺めながら、ゆっくりと刀を鞘から抜いて

「抜け」

 と一言だけ発した。蒼龍も刀をすっと抜いて、正眼に構える。対する相手は左足を前に出し、刀を立てて顔の右側に寄せた。八相の構えだ。

 ちょうどその時、お松たちがやって来た。すでに二人が対峙していることを知り、誰もが息を呑んでその場に立ち尽くす。

 先に動いたのは蒼龍だ。しかし、相手は即座に反応し、蒼龍の左肩めがけて刀を振り下ろす。

 誰もが、蒼龍が袈裟斬りにされたと思った。しかし、現実は違っていた。いつの間にか、蒼龍は相手の刀を弾き返し、切先を眼前に突きつけていたのだ。

 それは一瞬の出来事だった。周囲の人間はおろか、蒼龍と対峙していた辰ですら、何が起こったのか把握できなかった。

「なぜ殺さぬ?」

 辰がようやく口を開く。蒼龍は

「店の前を血で汚したくはないからな」

 と言ってかすかに笑った。その凄絶な表情に、辰は全く動くことができない。

「もういい、下がれ、辰!」

 大男が吠えるように発した言葉に反応し、辰はゆっくりと後ずさりした。

「俺は鬼坊という。お主、名は何という?」

 大男の問いに、少し間をおいてから

「・・・蒼龍」

 と答えた。その名前を聞いた鬼坊という名の大男は、また眉を上げる。

「引き上げるぞ」

 そう言って鬼坊は立ち去っていった。


 お松たちは、一言も発することができないまま部屋に戻った。

「わしらは必要ないんじゃないか?」

 全員が座ってから、ようやく源兵衛が蒼龍と同じことを言い出した。

「・・・いくら強くても、大勢に囲まれたらひとたまりもありません。それを防ぐことはできるでしょう」

「じゃあ、俺達はあいつの盾になるのか?」

 お松の意見を聞いた一之助が皮肉まじりに口を開く。

「お松さんはそんなこと言ってませんよ。それより、我々が旅に出た後、店のほうは大丈夫なんでしょうか。あの鬼坊という男、今まで見たことがありませんが・・・」

 宗二がすかさず話題を変えた。

「あれは用心棒というより人斬りの類だろう。遠くからでも感じるくらい凄まじい威圧感だった」

 源兵衛が顎髭を触りながら応える。

「あんなのに目をつけられたら、たまったもんじゃない。旅に出るほうが安全なのかもしれないな」

 三之丞は、お松の顔を横目に口を開いた。お松は三之丞の視線に気づいて

「あの男が今後も現れるようなら、人選を考え直さなければならないかも知れませんね。三之丞は残りますか?」

 と言葉を返し、初めて笑顔を見せた。三之丞は笑いながら

「そいつは勘弁してくれ」

 と答えた。


「先程、お前に来客があったことは聞いておるな」

 茂吉は、ゆっくりとした口調で伊吹に問いかけた。伊吹はこの日も父親の前で正座していた。

 何も言わない伊吹に対して、茂吉はさらに話を続ける。

「おそらく西極屋の手の者だろうが、ついに店まで押しかけてくるようになった。お前は今後、一歩も外には出られぬだろうな」

 いつの間にか雨が降り出したようだ。屋根から滴が地面に落ちるピタピタという音が聞こえてくる。二人とも黙ったままで、時間だけが流れていった。

 やがて茂吉は大きなため息をつき、話を再開した。

「もはや、ほとぼりが冷めるまでは伊勢へ逃げる以外に手はあるまい。ここにいて無事で済むとは思えない」

「店はどうなるのさ?」

 伊吹がようやく口を開いた。

「分からぬ。相手も下手な真似はしないと思うが、今度はわしが命を狙われるかも知れんのう」

「そんな・・・」

 茂吉の言葉に対して、伊吹は何も言えなかった。

「よいか伊吹。先代が残してくれたこの店を、わしの代で終わらせるわけにはいかぬ。お前は生きなければならないのじゃ。頼む、伊勢へ行ってくれ」

「いつまで伊勢にいればいいんだい?」

「そんなことは分からんよ。一年先、あるいは十年先かもしれぬ。しかし、その時が来れば必ず迎えに行く」

「奴らが伊勢まで追ってきたらどうするのさ?」

 茂吉は、少し間をおいてから

「お前が伊勢に行くことは絶対に知られないようにする」

 と答えた。

「でも、俺がいなくなれば、奴らだってどこかに逃げたと勘付くだろ。隠し通しておくことなんてできないよ」

「嘘を教えればいいだろう」

「でも・・・」

「いい加減に観念せんか!」

 茂吉の一喝で伊吹は黙ってしまった。茂吉は、もう一度大きなため息を漏らした後、話を続けた。

「わしはお前を甘やかし過ぎたようじゃ。伊勢に行って、商売のいろはを学んできなさい」

 伊吹は、もはや何も言えず、ただうつむくだけだった。


「この仕事、引き受けてもよかったのかしら」

 お蘭は、誰に言うとでもなくつぶやいた。

「心配要らないさ。ただ、一緒に旅をするだけだ」

 縁側の近くに寝転がって頬杖をつき、雨に濡れる庭を眺めながら、蒼龍は軽い口調で答えた。お蘭は奥側で、着物の袖に開いた穴を繕っている。

「今日ここへ来た連中に後を追いかけられるかもしれないわ」

 そう言われた蒼龍が、頬杖をついたままお蘭のほうへ振り向いた。その顔にはいつもの優しげな笑みを浮かべている。

「そのときは追っ払うまでさ」

 お蘭は、縫い物をしていた手を休めた。

「もう、争いごとはしなくて済むと思ったのに」

「こんなご時世じゃ、平和に暮らすのは難しいのかもな」

 蒼龍は、両手を頭の後ろに組んで仰向けになった。天井を見つめる目がどこか悲しげに見える。

「早く平和な時代にならないかしら」

「どこかに強いお殿様がいないものかな。聞くところによると、尾張の殿様は大層お強いらしいが」

 この時代、出雲から因幡までは毛利氏が支配していた。しかし、安芸の国人領主に過ぎなかった毛利家を、一代で中国地方全土を支配する戦国大名にまで大きくした毛利元就はすでにこの世にはいなかった。その後、孫の毛利輝元と激しい争いを繰り広げることになるのが、尾張の織田信長である。

「あなた、また戦に行くなんて言わないでね」

「しかし、平和な世の中にするためには戦も必要だよ」

「私にはあなたが必要なのよ」

 蒼龍は、しばらく黙っていた。お蘭も口を開こうとはしない。いつの間にか、雨は止んでいた。

「分かっているよ」

 一言、ため息まじりに発した後、蒼龍は目を閉じた。

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