小さい頃から母親のいない寂しさはあったけれど、父は精一杯の事はしてくれていたように思う。家事に仕事、休日には遊園地や水族館にも連れて行ってくれていた。

 父の苦労を知っていたからこそ、僕は肩身が狭くとも再婚には賛成したし、早々に家を出ている。

 だけど、僕にとっての実家は一つしかない。

 いつでも帰って来いと言っていた二人の言葉と、当時のままの自室や地元の友達を思い出していた。

「ねぇ、そうでしょ? どうしたらいいと思う? 私、どうしたら帰れると思う?」

 女の声は切実だった。たとえ、妄想だったとしても、帰してあげたいと思えるような気持ちにさせられる。

「僕には分かりません。ただ、人間になる前と同じ場所に行ってみてはどうですか?」

 その時と同じ場所や行動をすると、元に戻れるというのがよくあるお決まりだ。

「この場所なの。私が初めて人間になったのは」

 目の前を流れる川を見ながら、女が言った。

 だからこの場所を徘徊しているのかと、僕は納得した。

 人魚なのだから海だとも思うけれど、この川は海につながっているのだから、流れ着いたというのも否めない。そもそも、それが本当の話なのかも謎なままだ。

「それなら、その時と同じ状況になれば、戻れるんじゃないんですか?」

「……同じ状況ねぇ」

 女は思案したのちに、「なるほどね」と言った。そのまま女は、僕を残してどこかに行ってしまう。

 僕が慌てて何をするのか聞こうとしたところで、「ちょっと、あなた」と背後から呼び止められた。

 振り返ると険しい表情をした大家さんの姿があって、僕は気まずい顔をした。

「ダメじゃない。関わったりしたら」

「……すみません」

「相手が女性だからって、油断したらダメよ」

 あの人は僕の母親かもしれないんですと、言えるはずもなく……僕はただ「すみません」とだけ繰り返す。

 僕が殊勝に謝ったからか、大家さんは一つ溜息を吐くと、「これからは気をつけてね」と言った。

「それから、近々台風がくるらしいのよ。なおさら危ないから、近づいちゃダメよ」

「あの女の人は、大丈夫なんですか?」

 さすがに台風の日まで来るとは思えなかったけれど、僕は少しだけ心配になっていた。

「さぁ……人魚なんだから、溺れないんじゃない」

 冗談とも本気ともつかない大家さんの言葉に、僕は唖然とするしかなかった。


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