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そして今、僕の目の前にいる噂の張本人が、もしかしたら産みの母かもしれない事実を突きつけられていた。
数少ない写真で見た自分を抱く母の姿に、年を経てなお、面影がある気がしたからだ。
ただ今は、げっそりとやつれていて、目の焦点も定まっていない。それに僕がいるにも関わらず、その目は僕を捉えていなかった。
人違いかもしれない。そうであって欲しいと僕は心の底で願っていた。
自分の母親が、周囲から噂されるような変人である事実を受け入れたくなかった。
だけど女は、またしても言ったのだ。
「久しぶりね。元気にしてた」
どうやら僕の疑念は本物だったようだ。僕は固まったまま、その女を凝視した。今更、お母さんだと言えるほどに、その人に対しての情はない。だけど、人違いですとも言えなかった。
「……僕が誰だか、分かるんですか?」
関わらない方が良い。そう脳裏に警鐘が鳴っている。
女がニターッと笑う。かさついた唇が切れて、縦に血が浮いていた。
「もちろん。あなたは私の息子でしょ」
僕は凍り付いたように動けなくなっていた。感動の再会だからというわけではなく、思考が停止したようになっていたからだ。
「会いたかった」と言って、女が僕を抱きしめる。魚のような生臭いニオイがした。くさいし、誰かに見られたらという恐れに、僕は生きた心地がしなかった。
やっと女が僕の体を離すと、今度は父に裏切られたのだと語り出した。
「私が人魚だと知っていて結婚したのに、いざ私が戻りたいと言ったら、彼は反対したのよ。それだけじゃなくて、私は人間なんだから、変な事を言うんじゃないとまで言われて……」
にわかには信じられない発言を聞きながら、だから父は死んだ事にしたのかもしれないと思えた。
「本当に、人魚なんですか?」
僕の問いに女の目の色が変わり、僕の事を睨みつけた。
「あなたも私を疑うのね。お父さんにそっくり」
さっきまでの穏やかな表情から一転して、空気が凍り付く。
僕が立ち竦んでいると、女は再び赤い尾ひれを引きずりながら、何処かに行ってしまった。
これ以上は、関わらない方がいい。
現実と妄想が入り交じった世界を持つ人間を前にして、たとえそれが母親であったとしても足が震える程に恐ろしかったのだ。
だけど気にもなっていた。本当にあの女が産みの親なのか。どうして、あんなことをしているのか。
恐怖を味わったにも関わらず、やっぱり僕は好奇心には勝てなかった。
バイトと大学で忙しい合間を縫っては、あの川に足を向けてしまう。
なかなか会うのは難しかったが、女は僕に会うと、この間の剣幕が嘘のように穏やかに話しかけてきた。
「私はね、ただ帰りたいだけなの。あなたにも分かるでしょ?」
女の言葉に僕は、実家を思い出していた。
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