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僕の母は、僕が小さい頃に死んだらしい。
らしい、というのは、父からはそう説明されていたからだ。
だけど、家に仏壇もなければ、お墓参りをしない所を見ると、よくある便宜上の嘘なのだろう。歳を重ねるにつれて、さすがの僕も察していた。
父が母の話をしないことからして、母に非があることは間違いない。浮気による蒸発。そんなありそうな理由だろうと。
寂しさも、もちろんあった。だけど、それを口にだせるような空気は、家庭にはなかった。
それに僕が中学に上がる頃には、父が再婚して僕に新しい母親が出来た。義理とはいえ、とても良い人で、思春期だった僕でもすぐに心を許すことが出来るような人だ。
それから僕は、大学入学を機に家を出た。
たとえ良い人であっても、他人は他人。気を遣わずにいられるほどの親しみは、持ち合わせてはいなかった。
家を出ることに二人は心配はせども、反対はしなかった。それが二人の答えなのだろう。
僕は家を出てから、物価の安い少し都心を離れた地域に引っ越しを決めた。
バイトで貯めたお金と父からの支援で、なんとか住めるアパートを探したところ、今いるこの場所に決まった。
家の近くには大きな川が流れ、電車の中からでもよく見えるような静かな場所だ。
住んでいる住人も、どこか年配の人が多いようにも思える。
騒がしい場所を好まない僕には、駅から遠いことを除けば住みよい場所だった。
人魚の話を聞いたのも、アパートの大家さんからだった。上京したてで無知な僕に、色々と世話を焼いてくれている。老齢の女性で、僕を息子のように思っているのかもしれない。
「あそこに、おっきな川があるじゃない? 普段は静かだけど、雨の日は危ないから行っちゃダメよ」
最初は普通の注意喚起だった。
傘を差してこれから大学に行こうとしていた僕に、大家さんがそう言ってきたのだ。
「そうなんですか。気をつけます」
僕はそう返して、軽く会釈して立ち去ろうとする。
だけど、大家さんは「そうそう」と言って、僕を引き留める。
「それからね、あそこは人魚が出るの。見かけても話しかけちゃダメよ。話しかけられたら、無視しなさいね」
電車の時間もあったのにも関わらず、僕の足は完全に止まっていた。聞き逃せない単語に、僕は「人魚ですか?」と聞き返していた。
「そうなのよ。自分を人魚だって言って、川沿いをずっと歩いている女の人なんだけど……不気味なのよねぇ」
大家さんの顔に、困惑とも好奇心とも言えない表情が滲む。僕が食いついたことが嬉しかったのか、その後も嘘か誠か判断の付かない話を嬉々として話してくる。
彼女は数年前に突然現れて、赤い布のような物を引きずりながら徘徊していた。散歩していた人がそれは何かと訊ねると、昔は人魚だったのだけど、人間に恋をして人になった。結婚して子供が生まれたのだけど、急に故郷が恋しくなってしまった。だけど戻る方法が分からない。だからこうして、外れてしまった尾ひれを持って戻る方法を探している。という、何とも不可解な解答をしてきたそうだ。
それから、その女は何度となく、現れてはその尾ひれと言い張る赤い布のような物を持って、徘徊しているらしい。
学校帰りの子供に声をかけた事案もあるらしく、地域では要注意人物でもあるそうだ。
僕はその話を結局は最後まで聞いてしまい、一限目の授業を欠席した。
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