第353話『戦略の夜明け』(左近のターン)

 夜明け前、左近は、山県やまがた昌景まさかげの陣代で嫡男の昌満まさみつをはじめ山県隊の主だった重臣の寝所に忍び込んで、「織田が動いた!」と怒声を次々に浴びせて叩き起こした。


 まだ、織田家の援軍は、隣の陶里すえのさと・八王子神社に陣を張ったにすぎない。信忠の兵は、遠く大和国やまとのくに多聞城たもんじょうからの強行軍で到着した。兵は、昼夜、駆け通しで疲れ果て使い物にならない。それに、先発隊が到着しただけで、全軍到着したわけではない。鶴岡山へ攻めかかるには、兵が揃い、休養が必要で、まだ数日を要する。


 昌満も他の重臣をも、散々に苦しめた下条智猛の罠、音罠・落とし穴、殺し場といたる所に張り巡らされているのを思い知っている。自分たちも、智猛の罠には散々に苦しめられたのだ。味方の足を削ぎ、命からがら逃げ戻った凄惨な光景は脳裏に焼き付いてはなれない。あれだけの罠があるのだ。例え、織田家の兵が多くとも、この山には容易に踏み込めないと安心しきっている。その慢心を左近は、見透かしたように、まるで奇襲で叩き起こしたのだ。


 集められた昌満、三枝さえぐさ昌貞まささだ広瀬ひろせ景家かげいえ孕石はらみいし元泰もとやすは、寝込みを左近の偽報ぎほうで叩き起こされ、頭に来ている。


 いつもは、控えめで実直で言葉少なな先鋒隊長の三枝昌貞が、めずらしく、声を荒げて左近を叱責した。


「左近! 戦場での睡眠は重要だ。奇襲に見せかけて、我らを叩き起こしたからには、それなりの理由があるのだろうな!」と、左近をどやしつけた。


「理由は、ござる。これから、鶴岡山に罠を張り巡らしまする」


 昌貞は、左近をいきなり怒鳴りつけた。


「すでに、鶴岡山は、下条智殿の手によって罠が張り巡らされ、要塞と化しているではないか。それに、どこに手を加える必要があるのだ!」


 と、納得できない様子だ。


 味方が同志が、こんなことで、分裂していては、どんな難攻不落の要塞でも、そこを織田に突かれては、案外脆くなる。筆頭家老の景家が話を引き取って、左近を問質した。


「左近、お主は、智猛殿の罠だけでは、織田家の援軍を防ぎ切れないと申すのか」


 左近は、「いかにも」と言葉少なく頷いた。


 次席家老の戦術眼に長けた元泰が、目を細めて左近に問うた。


「左近、いかにもじゃわからぬ。まさか、鶴岡山の弱点を見つけたのでは、なかろうな?」


 と、疑問を投げかけた。


 左近は、やはり、言葉少なく「いかにも」と答えた。


 山県昌景率いる”赤備え”として、近隣にその武勇を誇る重臣連中を、「そんなこともわからず枕を高くして寝ておったのか」と言わんばかりの小馬鹿にしたような左近の返答に、一緒に夜通しで、鶴岡山の防備を見直した智猛が、取り成すように説明を付け加えた。


「鶴岡山は、山県の重臣衆おとなしゅうは、初めての攻城戦ゆへ、気づかれませなんだが、明知の里からは、山の起伏があって見通しが利かず攻めにくうございますが、西のすえ里側、北面の小里おり側から見れば、案外、裸城にも映り申す」


 智猛の言葉に、昌満は目を見開いた。


「なに、すると、鶴岡山は、我ら東よりの攻めには強いが西からの攻めには弱いと申すのか」


 智猛が、説明しようとすると、左近が、「それ以上の説明は不要」とでも言わんばかりに腕で言葉を制して呟いた。


「いかにも」


「おのれ、左近!」×4


 昌満はじめ、重臣3人が、怒りと驚きが同時に飛び出したように、一斉に立ち上がった。


 左近は、微動だにしない。むしろ、昌満たちがが本気で目覚めたことに満足げ気な表情を浮かべ、側に控えた智猛の嫡男の智林に絵図面をもって来させた。智林の持ち込んだ絵図面の詳細さに、昌満たちは息を飲んだ。


 智林は、砦の広い板間に、陶里から見た鶴岡山の詳細な絵図面を広げた。畳2畳ほどのおおきさで、細部まで描かれたその絵図面に昌満は息を飲んだ。


 智林は、顔色の変わった昌満たちに、顔色一つ変えず、「左近様、これをどうぞ」と、陶里側に立つ左近と、鶴岡山側に立つ智猛に、それぞれ、黒と白の碁石を渡した。


 左近は、黒の碁石を、八王子神社から歩むように進めて、黒の碁石を北面と南面にポツリ、ポツリ、と打ち込んだ。


 懸念けねんの北面は、切り立った崖が立ちはだかる。そう簡単に池田恒興は崖をよじ登り鶴岡城へは迫れない。


 南面は、智猛の罠が張り巡らせている。獣道を明知に通過するだけならば、被害もないが、昌満たち山県隊がしたように、山を登ればたちまち大損害となるのは必至だ。もちろん、それを知っている昌満と赤備えが、易々と通過は許さない。


 東面は、秋山虎繁が、明知城を攻め、そこに、北面の小里城の池田恒興を牽制しながら、武田の本隊・勝頼が1万を越える部隊が着陣する。


 弱点は、織田家の本軍が迫る西面。なだらかな丘陵で、確かに高所にある山県隊は有利だが、備えが無く危ない。


 西面は、智猛にとってそれまで味方であった織田家だ。守る必要がない。これが、左近の調略に応じて寝返ったから、備えがあるはずはがない。ここを、なんとかせねばなるまい。


 左近は、落ち着いた声で、解説をはじめた。


それがしの手の者の知らせでは、八王子神社本陣には、織田信忠が総大将として、参謀として付いた家老の明智光秀が1万7000で残る。鶴岡山の北面・小里おり城を領する池田いけだ恒興つねおきもり長可ながよしが、南下して山岡の里を目指す。そして、原、釜屋を抑え鶴岡山の頭を抑えにくるだろう。南道は河尻秀隆・長秀親子が進軍し明知城を目指す。それぞれ、兵は南北5000。その、ずっと後方に荷駄隊の蜂屋はちや頼隆よりたかが3000人ほどで兵站を担うとのことだ」


 昌満は、智猛との戦いの間に、これほど詳細な織田家の布陣を見通す左近の智謀に、眉を泳がせた。だが、昌満は、昌景の代理だ。左近に食らいついた。


「まさか、織田の援軍は、鶴岡山は獲りに来ないと申すのか!」


 左近は、静かに、言った。


「いかにも」


 左近の重ね重ねの言葉に、昌満と重臣は、再び立ち上がった。


 左近は、今度は、話を逸らすように、智猛に話を振った。


「智猛殿、お主も、同じ策を執るであろう」


 智猛は、大きく頷いて言った。


「いかにも、赤備えが待ち構える鶴岡山に挑む必要は、信忠には、ござらん。家老の光秀は切れ者との噂。左近殿と同じ策をとるでしょうな」


 昌満と3人の重臣は、智猛にまでこう言われては、床几に座りなおすしかなかった。


 昌満は、代理でも、山県昌景の嫡男で山県隊の大将である。左近への個人的な怒りよりも、昌景の代わりに鶴岡山を盾に、織田家の援軍をその先に一歩も進めてはならない役目がある。父・昌景が背負うはずの重責を、いずれ自分も武田の代名詞”赤備え”を率いる大将になるのだ。短気を起こして、戦の本質を見失うようでは、父・昌満は越えられない。一歩も引いてはならない。


 昌満は、左近に頭を下げて、教えを乞うように尋ねた。


「左近、お主は、どうやって、鶴岡山を無視する織田軍を足止めいたすのだ」


 左近は、不敵に笑って答えた。


「兵法は、古く、鎌倉の世、千早赤阪城を守る大楠公おおくすこうに学ぶといたしましょう」


 昌満は、首を捻った。


「大楠公?」


 左近は、満昌寺で、師・宗林から、古今の書物に学んだ智林に、解説するように命じた。


「智林殿、少し、教えて下され」


 と、左近は、まだ幼い智林に教えを乞うように頭を下げた。


「わかりました」智林は、懐より、『楠木流兵法書』を取り出した。




 つづく






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