第343話『鶴岡山の猛虎の目(左近のターン)』

 鶴岡山の広場で、下条猛が仕掛けた落とし穴を、左近と智林が確かめていると、茂みの中から、ギラり、視線が二人を捉えているような感覚が走った。


 左近は、右に左に鋭い視線を飛ばして、智林に言った。


「智林殿、ここは落とし穴ではなく、命の狩場ぞ!」


 左近が、そう言うやいなや、ヒュンと、矢が飛んできた。


 左近は、腰の刀を引き寄せて、抜刀し、飛来した矢を叩き落す。


 ヒュン!


 ヒュン!


 ヒュン!


 つづけ様に、左近と智林を狙って矢が飛来する。


 カツン!


 カツン!


 カツン!


 と、飛来する矢を叩き落すが、これでは切りがない。


「智林殿、森へ戻るぞ!」


 左近は、後ろ手で智林を庇いながら、元来た森へ戻って行った。



 その頃、鶴岡山の頂にある下条智猛の元へ、足軽が、息を切らして走り込んできた。


 足軽は、智猛を目の前にすると、片膝を着いて、謹んで言葉を伝えた。


「以前、こちらに現れた左近とか申す侍と、おそらく、満昌寺におわすはずの智千代様と思しき小僧が、いくつもの罠を掻い潜り、こちらへ向かっております」


 報告を受けた智猛は、信じられないといった表情で足軽を問いただした。


「真に、智千代を、左近が連れ戻したのか?」


 足軽は、頭を下げたまま答える。


「森に張り巡らした糸を掻い潜り、狩場に仕掛けた落とし穴を見破り、隠れるところのないところを襲う矢を、ことごとく、打ち落として、森に身を隠しました。左近とやらは、相当な使い手にございます」


 智猛は、唸るように首肯しゅこうした。


「我らの前に立ちはだかる真の強敵は、赤備えの山県ではなくて、むしろ、島左近の方やも知れぬのう。それより、智千代はどうなった」


「はっ、左近が、智千代様を庇いつつ、見事にすべての矢を打ち落とし森へ逃れ、おそらく、こちらへ、向かっております」


 智猛は、眉間に皺を寄せ、虎のように、目を見開いて、山を見下ろした。



 智林を道案に、迷い迷って、左近は、鶴岡山の小川へ出た。


「左近様、ここまで来れば安全です。山を走って、喉が渇いたでしょう。一息つきましょう」


 左近は、一応、四方に人の気配がないかを確かめて、小川の水を手で掬った。


「ん?」


 智林は、今すぐ、顔を小川に着けて水を飲もうとしている。


 左近は、水に顔をつけんとする智林に、静かに言った。


「待て!」


 智林が、左近を見上げると、川下を指さしている。


「見よ、魚が浮いている」


 智林は、目を見開いた。


「まさか!」


 左近は、声を殺して、答えた。


「智林殿、お主の父上は、隙のない真に恐ろしき男よ」


 智林は、左近に目をしっかり合わせて、頷いた。


「はい、私も、敵としてこの鶴岡山に登って、真の父の恐ろしさを知りました。左近様、このままでは、私たちは、頂までたどり着くまでに、父の獲物になってしまうでしょう。どうします」


 左近は、腕を組み、頂の鶴岡砦を睨む。


「腹を空かせた虎は、人を襲うが、腹を満たした虎は、おとなしくなるものだ」


「左近様、まさか!」


 左近は、智林に静かに頷いた。




 ホー。


 ホー。


 ホー。


 鶴岡山の夜梟よるふくろうが鳴き、静寂が訪れた。


 ボワッ!


 松明を灯した赤い具足の侍たちが、山裾を四方から登ってくる。


 昼間の間、何度も、襲撃したがことごとく、智猛に跳ね返された昌満の意地の攻城である。


 昌満は、矢継ぎ早に届く、武田勝頼よりの文が危機感を募らせる。


 ”そんな、小城の城攻めに、幾日、かけるつもりだ。グズグズしておっては、織田信長の援軍が到着するぞ! 攻めに、攻めて、城を落とすのだ”


 この文は、勝頼の焦る言葉ではあるが、勝頼本人から発した言葉ではない。最側近の長坂釣閉斎が勝頼の心を斟酌して、勝手に、勝頼の名を騙って昌満を急き立てているのだ。


 これが、昌景であれば、矢継ぎ早の文の主が、長坂釣閉斎であると見抜いたであろうが、年若い、昌満も、副将の娘婿・三枝昌貞も、二人の家老も釣閉斎の腹芸を見抜けないのだ。


 鶴岡山の四方より、北に昌満、西に筆頭家老の広瀬景家、南に昌貞、東に次席家老の孕石元泰が指揮して登ってくる。



 智猛は、山の四方から、頂目指して、登ってくる灯りを、眼下に見据えながら、虎が獲物を食らうように、目を爛々らんらんと輝かせている。


 鶴岡砦の智猛は、わずか、30人ばかりの配下に向かって、力強い号令をかける。


「武田の赤備えが、ワシの牙を知らずにノコノコと、自ら口に入って来おったぞ、皆の者、手筈どおり、ことごとく討ち取るのだ!」


 武田の赤備えと、鶴岡山の猛虎が、牙を剥いて今まさにぶつかろうとする時、左近と智林は、鶴岡山の一位の木の上で、赤と芥子の動きを眼下に捉えていた。


 左近が、智林に、呟く。


「智林殿、よく、見ておくのだ、鶴岡山の猛虎と呼ばれる父上の戦いを」


 智林は、頭に疑問がよぎった。


「左近様、お味方の武田勢を囮のように、捨て駒に使ってもよろしいので?」


 左近は、苦い顔をしながら、静かに頷く。


「昌景殿ならば、どんなことがあっても夜に、山を攻めなかったであろう。だが、息子の昌満殿は、まだ、若い。戦の本質がわかっておらん」


「左近様、昌満様が父の牙にかかっても、よろしいのですか?」


 智林は、父・智猛調略のため織田方の満昌寺から連れ出された。


 満昌寺では、織田家の支配下にある遠山家の専横によって、師・宗林を殺された恨みもある。出来れば、父を説得し武田家へ寝返らせたい気持ちはある。だが、智猛は誇り高い男だ。嫡男である智林のためとはいえ、裏切り者の汚名をおとなしく受け入れるとは思えない。


 左近は、頂の鶴岡砦を睨んで、少しの動きも見逃さぬように目を見開いて答えた。



「いいや、ワシがそうはさせぬ。昌満殿も、お主の父上も、決して殺させはせぬ。昌景殿が、回復されるまで、ワシの懐の手駒とさせてもらおう。さあーて、面白くなってきた」




 つづく

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