第331話『智林の隠された才能:禅の心と公案の棚』(左近のターン)

 満昌寺の倉の中は、現代で言うところの戸建とだての一軒家ぐらいの大きさだ。


 中には、多少の刀剣と、寺を主の烈景から任され、禅宗の総本山・長建寺から派遣された、実質、寺の運営を取り仕切る宗林が、弟子の修行のため都や近隣から、また自身が問答で得た公案こうあん集がある。


公案の書物を壁一面、順に並んだ棚に積み上げているところもあれば、スカスカの棚もある。いや、宗林ともう一つの棚を除いては、公案は積みあがってはいない。


 公案とは、禅宗における修行である。師から弟子へ問いを出し、それを弟子が知識と実践、直感と洞察力どうさつりょくで、答えを出す修行である。


 智林は、満昌寺の静けさの中で、自らの心と向き合う修行積み重ねているのであろう。自然と、倉の中の宗林の手本を手に取って、深い呼吸を繰り返した。彼の心は、父・智猛の教えと師・宗林の師道の間で揺れ動いているようだ。


 左近は、おそらく、智林の師である宗林が書いたであろう公案を手に取った。


 ・隻手せきしゅの声 片手で拍手するとどんな音がするかの問いかけ


 ・狗子仏性くしぶっしょう 犬にも仏の心はあるか 1


 ・祖師西来意そしせいらいい 祖師が西から来た意は何か


 他にも、


 ・無門関 48の公案集


 ・碧巌録 100の公案集


 などが、積みあがる。


 師である宗林はもちろん、いくつもの棚を埋めている。


主の生臭坊主の烈景と、遠山家の家臣の子弟の公案は、皆無に近いようだ。


「むむ!」


 左近は、埋まった棚から一冊を開いた。


 美しく流麗な字で、これを認めた人物の姿勢が垣間見える。

(おそらく、これが、師である宗林の手によるものであろうな……)


 次に、左近は、棚を順に物色した。すると、宗林には劣るが、それなりに、棚を埋めている公案棚がある。


 左近は、それを手に取り、見聞した。


「うぬ、これは!」


 宗林の公案と比べれば、まだ、子供文字であるが、おそらく、宗林の公案を手本としたのであろう、それをまずは書き写し、それに自身で朱を入れ注釈をいれている。


 左近は、この公案の著者に興味を持って智林に尋ねた。


「智林殿、この寺には宗林殿の他にも、一角の御仁が居るようだ。この公案を書かれた御仁の名前を窺いたい」


 と、左近が聞いたのも思惑がある。主の烈景は、明知の里を治める遠山一族に連なるものだ。自身も、僧籍に入ったとはいえ、まだ、機会があれば僧兵を率いて、遠山家での影響力を示したいとの野心があるのは承知している。


 だが、ここにある公案を見れば、ホントに厄介なのは宗林だ。堅実な答えではあるが、解答には一切間違えがない。このような人物が僧兵の指揮をとれば、隙がなく、簡単に隊を打ち破ることはできない。


(しかし、宗林殿は根っからの僧侶だ。おそらく、殺生をする戦には加わるまい。だが、もう一人、子供の字ではあるが、この公案を書いた者、光るものがある)


 左近に、問われた智林は、恥ずかしそうに、丸めた頭を掻いて答えた。


「それを書いたのは私でございます」


 左近は、開いた公案と子供の智林を交互に見て、驚き唸った。


「うむ、さすが、あの下条智猛殿の嫡男だ。物事の見立てがしっかりしておる」


 智林は俯いて、眉を掻く。


「いえ、実は、その公案の解は、私の答えではないのです」


 左近は、眉を顰めて、


「自分の解ではない?」


 と、首を傾げた。


「はい、実は、その答えの数々は、父、智猛ならばどのように答えを出すかを頭の中で思考を辿って出しました」


 左近は、智林を見定めて頷いた。


(なんと、この子は賢い子だ。まだ、修行中の小僧の間に、頭だけとはいえ、父、智猛を手本にしたとは、師である宗林と同等。下手をするとそれ以上の解を出している。この子は見込みがある)


 智林はつづけた。


「父上はいつも言ってました。『公案はただの言葉遊びではない。心の奥底を見つめ、己を探求する教えだ』と、しかし、師・宗林は、公案を通じて自然との調和を学ぶことを教えてるれました。私は、いったいどちらの考えを受け入れればよいのでしょう」


 と、智林は、素直に左近に問うた。


 左近は、智林に興味を持った。


 智林は、答えに迷い、窓の外に目を向けた。そこには、厳しい冬を耐え抜いた枯れ木が立っており、枝には小判雪が静かに積もっていた。智林はその枯れ木を見つめながら、心の中で新たな公案を紡ぎ始めた。


 そこで、左近が問うた。


「では、智林殿、格子窓から見える枯れ木を見てどう思うな?」


 と、試すように問うた。


 窓から見える枯れ木の枝には、小判雪が積もっている。


 智林は、即妙な答えを出した。


「枯れ木は、もうすぐやってくる春に向けて、内なる力を蓄えているのでございましょう。ほら、あのように、雪が積もっても枝にはそれを支える力があります」


 そう言って、智林は自ずからの内なる声に耳を傾けた。父と師の間で揺れる心を整えている。智林は、公案の書を閉じ、座禅を組んで瞑想に入った。その心は、とても子供には見えないほど平穏で壮厳にみえた。


「うむ、なかなかの答えだ」


 つづいて、左近は、問うた。


「では、あの枯れ木が春を迎えたらどうなるな?」


 智林は、少し考えて答えた。


「はい、あの枯れ木は、春を迎えると生まれ変わって、花を咲かせることでしょう」


「うん、良い答えだ」


 左近は、少し意地悪く、問うた。


「では、もう一度問う。あの枯れ木は春になったらどうなる?」


「はて?」


 智林は、解答に困った。先ほどと、まったく、同じ問だ。しかし、今度の佐近の問いかけは、単純に枯れ木について問うているのではないような気がする。そこで、問い返した。


乞食おこもさん、あの枯れ木は……」



 と、言いかけて、智林は、何かに気が付きハッとした顔をした。


「おそらく、春までにあの枯れ木は花を咲かせずに、焼かれるか、切り倒されてしまいます」


 左近は、智林が真意を見抜いたのに目を細めた。


「よく、気が付いた。窓からみえる枯れ木は、何事もなければ、毎年、毎年、春になれば花を咲かせるであろう。だが、智林殿が気が付いたように、この度は違う。目の前に、明知を囲う武田軍がおるのだ。例年のようにはなるまいよ。そこで、さらに問う。智林殿お主は、あの枯れ木をどうしたいな?」


 これは、ある種の佐近の謎かけだ。


 智林は、座禅を組み、しばし、瞑目した。

(これは、おそらく敗軍濃厚の遠山家に忠義を尽くす父、智猛の身の振り方を問うているのだ。誇り高い忠義の士の父が、簡単には武田には下るまい。だが、母は、武田信玄の娘だか、養女だと聞く、なのに、なぜ、武田に着かぬのだ……!)


 智林は、目を開き、刮目した。


「乞食さん、父が、遠山を裏切れぬ原因のすべては、私に有るのでございますね」


 と、智林は、今にも泣きださんばかりに答えた。


 それを聞いた、左近は、大きく頷いて答えた。


「そうだ、智林殿。お主の父上、下条智猛は、お主の将来を心配して動けぬのだ」


 すると、智林は、左近に縋りつかんばかりに、詰め寄った。


「乞食さん、私は父の足手まといにならないためにはどうすればよいのですか!」


 すると、左近は、答えず。じっと、智林の目の奥を見た。素直な美しい目だ。



 智林は、「あっ!」と、自分で答えを出した。


「父を無駄死にさせぬためには、私が自力でここを出て、父を説得せねばなりませんね」


 と、左近に問い返した。


「そうだ、智猛殿は、無駄死にさせるには惜しい御仁だ。某は、武田家山県昌景が家臣、島左近と申す。下条智猛殿調略のため、智林殿、お主を人質から解放に来た。しかし、それだけでは、忠義の士、下条智猛殿は素直に首を縦には振るまい。そこで、嫡男の智林殿、お主が、自ら父、智猛殿と問答をし、遠山家に忠義を尽くすことの愚かさを説き伏せ、父を超えるのだ」


 と、左近は、倉の中の一本の拵えのよさそうな刀を見定めて「これがよい」と、波紋を確かめ、外からかんぬきされた扉の前に立った。


「ええい!」


 気合と共に、左近の振り下ろした一刀は、扉を一閃の元に切り拓いていた。


 切り拓かれた扉の切り口から、智林に日輪の明かりが照たった。


 左近は、智林を振り返って、言った。


「智林殿、一緒に、智猛殿を説得に参ろう」


「左近殿、その前に、ここを去ることを師・宗林様に許しを請わねばなりません。どうか、左近殿、しばし、時を下さい」


師を慕う智林の願いに左近が頷いた時、二人を照らす明かりに一瞬、影がかかってスグに消えた。

 つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る