第16話 支配

 高田哲夫の幼少期は窮屈なものだった。

「痛っ!」

 小学一年生の時、同級生の友達が苦痛に顔を歪めた。哲夫はただ、無邪気に戯れあっているつもりだった。

「高田くん! 何してるの!」

「先生、ちょっと遊んでただけ……」

 全員、弱い方を心配して、哲夫の言い分など聞き入れてはくれない。

「ご、ごめん。こんなつもりじゃ……」

 それ以来、哲夫は周りを怪我させないよう大人しく生きることにした。休み時間に外で遊ぶのをやめ、とにかく力を抜いて、目立たないようにした。

 しかし、思ったようにはいかなかった。

「痛ぇな。おい、気をつけろよデクノボウ」.

「ご、ごめん……」

 お互いの不注意で少しぶつかっただけだが、相手は痛そうにぶつかった肩をさすっている。

「ったく、邪魔なんだよ」

 その男子は哲夫の腹を一発殴ると、拳をさすりながらどこかへ歩いていった。ブツブツと横にいた友達に文句を言いながら。

 当時中学二年生、ぶつかった相手はサッカー部の次期キャプテンと噂される生徒だった。部活も何もしていない哲夫に自分が敵わないのが癇に障ったのだろう。

 当時は今よりも新人類に対する対応が追いついておらず、体育会系の部活に新人類は入らないのが暗黙の了解となっていた。

 そして、それ以来、何をされても手を出さない哲夫は同級生や先輩から目をつけられ、イジメの標的となってしまった。もっとも、強靭な身体を持つ哲夫にとっては浴びせられる暴力は痛くも痒くもなく、自分より遥かに生物として弱い人間たちに怒りは湧かなかった。

 ある日、押し付けられた係の仕事で帰りが遅くなった哲夫を数人が取り囲んだ。

 またか、とさすがの哲夫もため息吐いて天を仰いだその時。

「…………!」

 いつもは絶対にない“痛み”がじわじわと血の味と共に口の中に広がった。

 見ると、いつものメンバーの中に一人、見慣れない人間がいた。哲夫は聞かずとも、今の一撃でその人間が『新人類』だとわかった。

「そうそうその顔。お前いっつも余裕そうでつまらねぇんだよなぁ。同じ新人類の鎌瀬さん前にしたら、ちょっと図体がデカいだけのお前なんか大したことねぇんだよ」

 鎌瀬は得意げな顔で首を鳴らすと、哲夫の腹と顔に一発ずつ、拳を放り込んだ。それを見た周りの人間が楽しそうに声を上げて盛り上がる。

 哲夫はふわふわとした頭で考えていた。

 この程度の痛み、なんてことはない。

 この程度の不快感、大したことではない。

 この程度の現実、慣れている。

 他人を傷つけてしまったあの時の苦しみに比べたら、こんなものいくらでも我慢できる。

 だけど、なんとなく。

 なんとなく、納得できない。

 頭で何度も言い聞かせていた。みんなは自分より弱い生き物なんだと。だから、我慢しないといけない。柔くて繊細なみんなを壊してしまうから。

 しかし、鎌瀬おまえは――新人類おまえは。

「お前は違うだろ――」

 今までの理不尽に対する溜め込んだものが吐き出される瞬間。

 ――突然、飛びこんできた男が鎌瀬の顔面に蹴りを喰らわせた。

 鎌瀬は漫画のように数十メートル吹っ飛ぶと動かなくなった。

「よっぇぇの。雑魚じゃん。キモ、そのまま死ね」

 男は鎌瀬を罵倒すると哲夫の方に向き直り言った。

「お前、強い癖に何やってんの? あんなやつ、こんなクソ雑魚虫に好き放題されて」

 哲夫が困惑していると男の言葉を聞いた周りの人間が怒りを露わにする。

「あ? お前、何言ってんだ! 言っとくがな、鎌瀬より強い先輩なんざどこにでもいんだよ! それに、俺たちに手出してみろ。『新人類』様が暴力事件起こしたって外に言いふらして大事にしてやるよ。退学で済んだら運がいい……その後の人生もどうなるかわから……」

 男は話終わりを待たず、相手の前髪を掴み、そのまま引きちぎり、顔面に張り手をかました。

「や、やりやがった!」

 騒然とする場でただ一人、男はまったく動じていなかった。

「お前ら、やり返されないと思ってたの? おめでてぇな! 死ぬほどムカつきゃ、殺すだろ。特に、お前らみたいな世の中汚してる腐った連中はな!」

 男が本当に殺しそうな勢いだったので、哲夫は慌てて止めに入るが、男の蹴り一発で膝をついた。

「ぐっ……こ、これは」

 哲夫にとって自分の脅威となる暴力と出会ったのはこれが初めてだった。

「お前! こんなの! 教師が、学校が、社会が許さねぇぞ! どうなるかわかってやってんのか!」

 男は爽やかに笑って見せると、高らかに、まるでこの世の真実がそうであるかのように堂々と言い放った。

「虫けらが何言ってんだか。てめぇらが勝手に作ったルールでイキがってんじゃねぇよ! お前らはなんの価値もねぇから大人しく死んどけ!」

 暴君という言葉が相応しいその行動と滅茶苦茶な発言は哲夫にとって何よりも眩しかった。

 全員を叩きのめした後、ギリギリ意識のあった一人に男は囁くように伝えた。

「これはチャンスであり、慈悲だ。このこと誰かに言ったら、全員殺すぞ」

 男は制服の胸ぐらを掴み、遥かに重いはずの哲夫の巨体を難なく持ち上げた。

「お前、名前は?」

 呆気に取られていた哲夫は我に帰ると、何をされるかわからないと、急いで自分の名前を答えた。

「ふーん、俺、帝」

 帝はそれだけ言うと、鼻歌混じりにどこかへ歩いていった。

「帝……」

 呆然としていた哲夫だったが、この現場を見られると疑われるので急いでその場から離れた。

 帝の脅しが効いたのか、本当にあの日のことは告げ口されず、あれ以来哲夫が絡まれることもなくなった。帝の仲間だと勝手に勘違いしたのだろう。

 このまま、周りに気を遣い、弱い立場で社会に支配されるなら。

 哲夫は勝手に帝についていくことを決めたのだった。

 しかし、それから高田哲夫は嫌というほど思い知った。帝優という生物の恐ろしさを。

 帝にはリミッターがない。普通なら良心や理性がブレーキをかける場面でも手を緩めない。

 帝の圧倒的な強さに哲夫は怯え従い、媚びへつらうようになっていた。

 転校生である大門唯我の一件で帝に見捨てられた哲夫は、唯我の言葉であることに気がついた。

 それは支配するのが弱者から帝に代わっているだけだということ。

 弱者たちの支配から抜け出し自分への一歩を踏み出したと哲夫は思っていたが、その実、支配する側が交代しただけだったのだ。

「俺は……俺は……」

 そんな時だった。

 大門唯我が停学になったのは。

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