隔離施設で目覚めた"ヤツラ"は、引きこもってちゃいられない
けものさん
DAYS1 『KNOCKIN' "ON"』
DAYS1 -1- 『ストーーーーップ!』
悪夢を見ていた気がする。
いつまで経っても終わらなく、繰り返しても繰り返してもどうにもならない、そんな悪夢。何を繰り返しているのかも、何度繰り返したのかも分からないくらいに、泣いて叫んで、痛みを堪えながら前に進む夢。そうして、振り返っても誰もいない、誰かいたはずなのに、けれどそこにいた人達の名前すら思い出せない、そんな悪夢。
うなされていた事が分かるくらいの、汗に塗れて目が覚めた。見上げるとそこには灰色が広がっている。目の前に広がる無機質なコンクリートの天井には見覚えこそあったが、果たしてその景色がこの部屋の風景だったかは覚えていない。
寝違えたように痛む首を回し部屋を見回している内に、夢の内容の殆どを忘れてしまっていた。何故自分はこんな所で寝ているのか、記憶を辿ろうとするが頭がボウっとして上手く働かない。夢についても結局は悪夢だったという事しか思い出せない。
ただ、今時点で妙な状況に陥っているという自覚だけはあった。俺はベッドから立ち上がろうとして、身体の軋む痛みに気付く。その痛みに情けない声を漏らしながらも、体を起こしてベッドに座り部屋を見渡すと、そこは人間一人が生活するには広すぎるくらいの、大きなリビングルームのような部屋だった。
生活には不自由しなさそうな家具や電気製品は一通り揃っている。思考が覚束ない頭でもそれらに見覚えはあったし、使い方も覚えている事が分かる。しかし、遠目に見てもやけに古びている印象を受けた、少なくとも新品というわけでは無さそうだ。
それに、奇妙な事にこの部屋には窓が無く、ドアも前に一つ、後ろに一つあるだけだ。
「こんな不便な部屋、借りた記憶は無いんだけどな」
ベッドから起き上がろうとすると、足がガクガクと震える。だがそれも一時の事で、すぐにいつも通りの――何がいつも通りだっただろうか。一瞬湧いて出た疑問は、前に進む事の出来る足と、握りしめられる手が忘れさせてしまっていた。
けれど無理やり記憶を絞り出すと、ほんの少しだけ記憶が蘇る。
断片的な、暮らしの欠片。それと同時に、何らかの制限がかかっていた暮らし。
「そう、そうだ。実験、……実験?」
思わず呟いてしまっていた。自分はこんな声だった。それも覚えている。
――だが、これまでの人生の経緯が、一つも思い出せない。
何か、特別な事があったような……気がする。パニックにならない自分を少し不思議に思いながら、状況を確認する。
まだ頭の回転が悪い。
顔でも洗おうと思ったが、この部屋は広いにも関わらず水場が見当たらなかった。
せめてトイレくらいはと思い、出入り口であろうドアの逆側にあるドアを開いてみると、ビンゴ。入り口と逆側のドアの向こうはトイレ付きのバスルームで、洗面台もあった。顔を洗い、備え付けのタオルで顔を拭く。
「あぁ……そうだった。やっぱり新品じゃないよな……」
埃臭いタオル、口に入った埃を水場に吐き出し、もう一度顔と、タオルを洗った。
「でも、水は普通だ……」
電気もあって、水も通っている。けれど物だけは古びている。トイレの紙を触って見てもその事は分からなかったが、少なくとも経年劣化のきらいが見て取れた。
この部屋を自室と呼ぶにはどうにも気が進まないが、俺は自分のベッドに戻り、座ったまま今の状況を思い出す。
――――思い出す。
すると少しずつ、目覚める前の記憶が蘇ってきた。
「生活は、していた」
この部屋の俺の部屋だった。きっと間違い無い。そしてこの外は、確か施設だったはず。俺は、何らかの実験の被験者に選ばれたのだ。志望した記憶は無く、誰かに勝手に選ばれたはず。けれどその誰かは思い出せない。
謝礼金がたんまりもらえるだのと言われた気もするけれど、そういう事をはねのけた気もした。受け取っておけば良いものを、その時の感情が分からないから他人事のように思える。どうあれ半ば無理やり連れて来られたという嫌悪感のある感情は刻み込まれていたようだ。びっちりと文字が敷き詰められていた書類にいくつかのサインをした事を覚えている。
嫌悪感こそあれ、納得はしていたのだろう。けれど、どうして納得していたのかという事もまた、思い出せていない。施設に連れてこられた後の記憶と、自分がどうやって生きてきたのかという記憶が所々欠落している。
自分の生まれが何処だったということすら、思い出せなかった。けれど地名についての記憶は残っている。妙な気持ち悪さが続く。使い慣れた家具の事や、お気に入りのグラスの事のような、些細なことも思い出せた。
立ち上がって棚に近づき眺めると、埃が積もっている。
まるで、自分だけがこの場所で埃を避けていたと言わんばかりに、身体の痛みこそあれど自身の身体は清潔そうに見えた。しかし、部屋の方は掃除から初めなければいけないのかと思う程に異様に古びている。
施設での記憶は、おぼろげ過ぎて形にならない。だがおそらく説明は受けていただろう。納得をしていた自分の記憶を信じるのであれば、この部屋の何処かに書類があってもおかしくない。
この部屋の外に誰がいるか、何があるかはまだわからないが。答えがその向こうにあるのは間違いがない。ベッドの上から立ち上がって、未だ痛みが残る身体を叱咤するようにストレッチをする。そうして、進むべきであろうもう一つのドアを見つめた。
ドアノブとのぞき穴が一つのシンプルなドア。
鍵穴は見えないが、不用心なのか、それとも他に何か鍵をかける仕掛けがあるかは分からない。けれどもそれがこの部屋の外に繋がるドアなのは確かだ。
広い部屋とベッド。そうしてそのベッドに座って頭を抱える自分。確かに自分はこの場所にある程度の期間住んでいたのであろう。自分の私物の全てを押し込まれたように感じる見慣れた家具達。けれど、その姿かたちこそ見慣れているようで、少しも見慣れていない古めかしさは、何処か得体の知れない恐怖を感じるには充分だった。
確かこの施設ではしばらく生活をしていたはずだ。あまり思い出せないが、そもそも名前を覚えきれないくらいの被験者がこの施設にいたはず。数にして百人か、被験者を除けばもっともっと多かった気がする。
そこで急に思い出した。確か最後の実験とやらで、全員が簡単な手術を受けた後に数週間の長期睡眠を余儀なくされたのだ。
「あぁ……起き上がった時に体が痛んだのはそのせいか」
改めて今の状態を確認しようと思い、見慣れた木製のテーブルの上に置きっぱなしの冊子を探す。そんな物は貰ったはず、するとそれは気付けと言わんばかりに、何も置かれていないテーブルの上に無造作に置かれていたが、初めて見た時よりも分厚いような気がした。
表紙を見ると、それは実験前にもらった冊子とは明らかに違う冊子だと言う事が分かった。どうしてかと言えば、表紙に書いてあることが明らかに異質な文章だったからだ。
『施設内で生き残る為に必要なこと』
「……は?」
最初に目に飛び込んだ表紙を見て、そうして目次の項目を見て目眩がした。けれど次の文言について、少し目を覆ってから、大きな溜息をつく。
「生き残るって、何だよ……」
目頭を揉みながら溜息をつくと、出入り口のドアが二度小さくノックされた。そしてドアノブが少しだけ動き、止まる。
俺はその音に怯みながら、冊子の表紙の言葉をもう一度思い出す。
――生き残る為に
つまりは、俺は何か大事な事を、とても大事な事を忘れている。そうして、生き残る為の事を教えてくれるというのなら、そこに死ぬ危険性があるということ。
「まさか、化け物との共同生活なんて言わないよな」
本当に何かいたとして、ノックされて尚ドアノブを触られ、開かなかったのなら鍵は閉まっているはず。だがその行為は決して好感を持てる物ではない。
俺はドアに近づいて覗き穴を覗くが、その先には無機質なコンクリート製であろう廊下の壁があるだけ。一瞬、覗き穴が光ったように感じて目を閉じてしまったが、ゆっくりと目を開くとやはりその向こうには何の生物もいなかった。目覚めたばかりで寝惚けているなんていうつもりは無い。けれど情報過多で混乱しているのは明らかだ。
「なんだってんだよ……」
ベッドに座ろうと振り返ると、真後ろでもう一度ノックの音が聞こえた。しかし外には誰もいなかったはず、イタズラにしては度が過ぎる。俺の目が覚めた途端に、ほんの十分も経たずにノックの音だ。相手は俺が起きた事に気付いているのだろう。
冊子の表紙の言葉に惑わされ、敵意の無い人間に失礼があってはいけないが、それでも敵意を持った存在が外にいる可能性を考えると流石に怖い。何かされたとして、最悪な事態を想定するとして、自分の筋力が弱かったという記憶はないが、強いと思い込む程の物でもなかった。身長は高い方だったが、それでも姿だけで相手を威圧する程の体型でも無かった。
俺は情けないとは思いながらも丸めた冊子を持ち、右手でドアノブを回す。
だが、どれだけ力を入れてもドアノブは少ししか回らなかった。小さな機械音が響いているのが聞こえる、鳴っているのはこちらの部屋側で、ノックをした外側から鳴っている物では無さそうだ。だが、結局は俺が内側からドアノブを回しても外から回された時と同じ程度しか回らず、鍵穴も無いので開けられないということだ。
数秒の間力を込めてドアノブを回そうとしていると、不意にカチリと鍵が開く音が音がして、ドアノブが回った。つまりあの奇妙な機械音はドアの解錠の音だったのだろう。
そうしてドアノブが回る。その瞬間に聞こえたのは少女の叫び声。
「ストーーーーップ!」
その声が聞こえるやいなや、俺を部屋から引っ張り出そうとするかのような力がドアにかかり、俺はドアごと廊下へ飛び出しそうになる。持っていかれそうになるのをギリギリでドアノブを掴み力んでいると、開きかけたドアの向こうに赤く湿った手のような物が見えた。
――生き残る為に。
そういう事だったのだなと思う暇もなく、その異形への困惑と恐怖の声は、耳が張り裂けるような破裂音にかき消された。
――それは紛れもない銃声。
聞き慣れないであろうその音が銃声と分かったのは、つまりは目の前の腕が吹き飛んだからだ。開きかけたドアの隙間から見えた廊下が真っ赤に染まり、数秒後には見るもおぞましい赤い姿をした化け物の死体が何も無い空間に浮かびあがった。
人間を剥き身にしたような赤い姿の化け物は、死んでいるにしろいないにしろ、吐き気を覚えるには充分すぎる程には酷い見た目だった。銃で撃たれたであろう部分以外も、そもそもが大きなミンチの様にすら見える。
開ききったドア、吐き気を堪えながら呆然と立ち尽くす自分。そしてその横からこちらに駆け寄ってくる誰かの足音。
少しずつ、本当の意味で目が醒めていくような気がしていた。
「――あぁ、こいつらと、共同生活か……」
どうやらこれは想像出来うる最低を更に越えた現実。俺はこれから眼の前の化け物との生存競争を強いられるのだろうという事実が嘘であって欲しいと思いながら、混濁した記憶の最重要事項に『生き残る』という言葉を刻み込んでいた。
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