追跡
逃走は、拍子抜けするほどあっさりと成功した。
何しろ、サプレッサーのような気の利いた物は装着していないのだ。
自分が発砲したということは一目瞭然であり、当然、押さえ込もうとする周囲の人間と格闘になるだろうと覚悟していたのである。
それが起こらなかったというのは、緊急事態において、人間という生物の対応力に限度があるということを如実に示していた。
もっとも、冷静な対応力があったとして、拳銃を所持する人間に立ち向かえる勇気のある人間が、どれだけいるのかという話であるが……。
「へへ、誰も邪魔してこないなんて、ついてるぜ……」
ともかく、首尾よく駐車場にたどり着くことのできた男は、自分の幸運に感謝しながら乗ってきた車へ乗り込んだのである。
そのまま発進し、植物園内の駐車場から表へ出た。
この植物園は大通りに面しており、交通の面でも便利な場所である。
それはすなわち、逃走経路が無限に分岐しているということ……。
当然ながら、長期間に渡って逃亡することは不可能だろう。
しかし、短時間――安全な所でこの車を乗り捨てるまでの間だけ、警察から逃れられればそれで十分だった。
それ以降は、彼に今回の仕事を依頼した者の手で、国外へ逃れられる手筈となっているのだ。
「新しい名前、新しい身分、新しい生活……。
大金もらって、しみったれた暮らしとはおさらばだぜ!」
ハンドルを握りながらの独り言が止まらないのは、極度の興奮状態にあるからだろう。
それも当然だ。
男は、人殺しという大罪を犯しての逃走中であり、しかも、殺した相手には一切の恨みがないのである。
その罪から目を背け、手前勝手な前途を祝ってしまうのは、精神的にも逃避状態にあることを意味していた。
「へ、へへ……」
薄暗い笑いは、止まらない。
男の目には、今走っているこの道路が、楽園へと至る道のように映っていた。
まさか、自分を執拗に追跡している者がいるとは、夢にも思っていなかったのである。
--
ナナにとって不運だったのは、騒ぎを聞いて駆けつけた野次馬たちが壁のように立ち塞がり、行く手を遮られてしまったことであった。
「通してください! 通して!」
そう
ホースの中を流れる水が決して逆流しないのと同じように、多数の人が同時に動けばそこへ流れが生まれ、それは容易にくつがえることはないのだ。
「くっ……!」
こうなってしまっては、仕方がない。
「なんだ!?」
「女の子だ!?」
「頭の上を跳び越えていったぞ!?」
ナナの跳躍を見た人々が、口々に驚きの声を上げる。
「いてっ!?」
「ごめんなさい!」
その肩が着地点になると同時に、次なる跳躍の踏み台となった男性には、一応ながら謝罪の言葉を入れた。
「何かのパフォーマンスか!?」
「映画の撮影でもしてるのか!?」
驚く人々の中から、そんな声が聞こえたのは、皮肉めいているといえるだろう。
「逃走するなら、車かバイクを使うはず!」
そのようにして人々の中を脱したナナは、急いで駐車場へと向かった。
手間取ったせいで、すでに下手人の姿は見失っており、頼りとなるのは勘働きのみである。
常人よりも強化された脚力を活かし、陸上選手もかくやという速度で駐車場の入り口へ向かったが……。
「……いた」
そこで、ついに発見した。
たった今、駐車場を出て走り去った車……。
その車内にある、バックミラー越しに映った顔であったが……。
「間違いない。
……あいつだ」
JSの視力をもってすれば、その判別は造作もないことだったのである。
自動車はすぐに走り去り、大通りを駆け抜けていく。
当然ながら、そのバックナンバーはすぐに記憶した。
記憶した、が、これを人任せにできる性格のナナではない。
「必ず、捕まえる……!」
決意と共に、周囲の景色を見回す。
『緑の都』とも呼ばれるリキウであるが、そこは一国の首都であり、商業ビルも林立している。
しかも、景観を意識しているのか、その高さはせいぜいが五、六階といった程度であり、この場合、ナナにとっては実に都合が良かった。
「ふっ……!
はっ……!」
一瞬のためらいもみせず、ビルの壁面をよじ登る。
当然、はしごのような気の利いたものは存在しないが、それを問題とするJSではない。
壁面に突き出した室外機や、窓の手すりなどが良い手がかりとなり、少女はするすると屋上へ辿り着いたのである。
強化された身体能力に加え、歩兵としては必要不可欠な技能である
「おい……!」
「なんだ……?」
「女の子がビルを登っているぞっ!?」
「君! 危ないからやめなさーい!」
下から聞こえてくる声のことごとくを無視し、よじ登った屋上をひた走る。
その間、眼下の景色をちらりと見て、追跡する車の位置を確認することは忘れなかった。
「多分、こっちだ……!」
車線から行き先を先読みし、方向を変える。
ビルの屋上などというものは広さが限られており、当然、そのようにして走り回ればすぐに端へと辿り着いてしまうのだが、何も問題はない。
そのすぐ先には――別のビルが存在するのだから。
――ダンッ!
見事な跳躍と着地をみせて、隣のビルへと降り立つ。
――ダンッ!
――ダンッ!
そのまま、同じようにして端まで駆け抜けると、屋上から屋上へと跳び移った。
時には、屋上同士の高さが合わぬビルもあったが、関係ない。
降り立つ先が低所にあるならば、転がることで着地の衝撃を軽減し、その逆であるならば、壁面へ取りつきよじ登るだけだ。
――パルクール。
あらゆるものを踏み台や手がかりとして利用し、最短距離を駆け抜ける少女のそれは、もはや兵士に必要な
文字通りの、フリーランを体現しているのだ。
そして、それは自動車と人間の間に存在する、埋めがたき速度の差を埋めることへと成功していた。
「……回り込めた」
ちらりと眼下を見て、目的の車両を確認する。
降りる時は、登る時の数段速い。
ビルとビルとの間へ身を踊らせ、二つの壁面を交互に三角跳びすることで、最速の下降を実現する。
そして、最後のひと跳びには渾身の力を込め、道路へと飛び出した。
――ダアンッ!
最後の落下点にして着地点へと選んだのは、逃走車のボンネットだ。
突然、眼の前に少女が姿を現すことで、運転者――間違いない、あの襲撃者だ――は、ぎょっとした顔をみせる。
気が動転したことに加え、ナナの着地による衝撃が加わったのだから、これはたまらない。
たちまちハンドルを取られ、逃走車は道路の真ん中でスピンすることになったのである。
「――――――――――ッ!」
歯を食いしばり、ボンネットの上で腹ばいとなりながら慣性に耐えた。
すると、逃走車は少女に取り付かれたまま、近くのビルへと横腹をぶつけ、ようやく停車したのである。
周囲の人間や車両を巻き込まなかったのは、奇跡的であるといえるだろう。
「つっ……!?
な、なんだあ……?」
膨らんだエアバッグと悪戦苦闘し、ようやく外へと出ることに成功した運転者が、ふらつきながら悪態をつく。
その時にはもう、ナナは体勢を整えて待ち構えていた。
「――なあっ!?」
男の襟首を掴み、力任せに逃走車の窓ガラスへと叩きつける。
余人がそうしたわけではない。
マスタービーグル社が科学の
「――ぐあっ!?」
叩きつけられたガラスは蜘蛛の巣状にひび割れ、男は頭部から多量の出血をすることになった。
恐ろしいのは、これでも手加減をしているということだろう。
少女がその気になっていたならば、今の一撃で男は致命傷を負っていたにちがいない。
それをしなかったのは、聞き出したかったからだ。
……何故、あのような凶行に及んだのかを。
「ま、待て……!
やめてくれっ……! やめて……!」
訳も分からないなりに、男がそう
「何で……?
何で、あんなこと、したの……?」
ナナは襟首に込める力を緩めず、静かに問いかけた。
「あんなこと……?」
「――ッ!?
とぼけるなあっ!」
――ガアンッ!
再び、窓ガラスへ頭を叩きつける。
今度こそ、ガラスは衝撃を受け止めきれず、粉々に砕け散った。
「――があっ!?
や、やめてくれっ!」
意識も
「何で、ヴァレンさんを撃った!?
答えろっ!」
そして、再び質問をぶつけた。
「ヴァ、ヴァレン……?
俺が撃った女か?
と、とにかく、やめてくれ」
しかし、男の返事は、期待したものではなかったのである。
ヴァレン女史の名をつぶやく男は、初めてその名を聞いたかのようであり……。
その事実が、襟首を掴んでいた手から力を奪った。
「はあっ……!
はあっ……!」
ようやく自由を得た男が、ドアに背を預けながらへたりこむ。
「何の騒ぎだ……?」
「女の子が、あの人をいたぶって……」
「その前に、自動車へ飛び乗ったように見えたぞ」
「とにかく、警察だ! 救急車も呼ばないと!」
先程の事故へ巻き込まれそうになったドライバーたちや、通りがかった通行人……。
そして、付近のビルで働いている人々が、次々と集まってそんな会話を交わす。
人々の視線を浴びたナナは、しかし、それに構わず眼前の男を睨みつけた。
「あの人が、どこの誰だかも知らずに、撃ったっていうの!?」
「あ、ああ……知らねえ……。
俺はただ、写真と銃を渡されて、それで頼まれたんだ」
「何のために!?」
「へ、へへ……」
そう問いかけると、男は笑みを浮かべてみせる。
それは、ひどく薄暗く……見ているだけで、本能的な嫌悪感が刺激されるような代物であった。
「そんなの、金に決まってるじゃねえか……」
「お金……?」
男の吐き出した言葉からは、その外見以上に薄汚いものが感じられる。
それへ眉をしかめたナナに対し、男は立て続けにまくし立てた。
「そうだよ! 金だよ! 金!
戦争が始まって、俺の商売は終わった! 借金まみれだ!
だから、何かで補わなくっちゃさあ!」
「っ!?
それで! 誰かを殺してもいいとでも――」
「――いいに決まってるさあ!
いいかあ? しょせん、この世は奪い合いなんだよ!
俺は、この戦争でそのことを、嫌ってほど痛感したのさあ!」
にごりきった目を向ける男に対し、ナナは返す言葉を持たない。
だから、その代わりに拳を見舞ったのである。
「――あぐっ!?」
横殴りにされた男は、そのまま路面に横たわって気絶した。
殺してはいない。
頭蓋骨にひびくらいは入っているだろうが、最後の最後、命を奪わない冷静さが少女には残されていたのである。
「……頼まれたって言ってた。
誰が頼んだのかを調べる前に、殺す訳にはいかない」
ぼそりと、そうつぶやく。
野次馬たちは、ますますその数を増やしており、遠くからパトカーのサイレンが鳴り響いているのを聞くことができた。
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