夜夏の夢(後半)

「……ここ、本当に大丈夫なんですか?」


「うん。まー、よく来るんだけど問題になったことは無いかな」


 杏樹先輩に連れられてやってきたのは、教授たちの研究室が集められた別棟だった。

 当然深夜に入口から入る訳もなく。

 別棟の裏側には非常階段が付いていて、一応鎖で封鎖されていた。

 が、この通り鎖は簡単に跨ぐことのできるレベルのもので、侵入者を防ぐ役割はほぼほぼ果たされていなかった。

 階段を登った先は研究室のベランダに繋がっていて、広々としていて、且つ人気のない、確かに穴場な場所ではあるかもしれない。


「はい、これ横峯よこみねくんの」


 先輩は手に持ったコンビニの袋から缶チューハイを一本手渡してくれた。

 汗をかいた缶はまだ冷たさを残していた。


「じゃあ、乾杯だね」


 先輩も缶を一本手に持つとこちらに乾杯のジェスチャーを送ってきた。

 エアーで乾杯の仕草を見せると、彼女は笑った。

 蒸し暑い夜に更に暫く歩いて汗だくの身体に冷たいチューハイは良く沁み渡っていった。


「先輩はさっきまで飲んでたんじゃないんですか?」


「飲んでたんだけど、結構すぐに蔵田くらたくん潰れちゃったから。結局そこまで飲めてないんだよね」


「なるほど」


 友人、蔵田雄也は自分の記憶では酒に強い訳ではないが、決して弱くはないイメージだった。(ビール三杯、プラスで焼酎をロックで飲んでも顔色を変えていなかった)

 きっと先輩はかなりの酒豪なんだろう。

 なんたって彼女が今手に持っているのもストロングゼロのロング缶なのだから。


「そういや、ずっと気になってたんですけど」


「ん?」


「先輩ってどうして、……蔵田と二人で飲んでたんです?」


 先輩は少し困った様な顔をして頭をぽりぽりと掻いた。


「あー、まあ深い意味はないんだけど。前に新入生歓迎のイベントがあったとき、蔵田くんと番号を交換してたんだよね」


 彼女は右手で缶をくるくると回している。


「それから定期的に連絡がきてたんだけど、基本的にはスルーしてた。けど、ちょっと訳あって蔵田くんと飲んでもいいかなと思ったんだよね」


「訳あって、……というと」


 ちょっと噂を聞いていたことがあった。

 杏樹先輩が彼氏と別れそうだの、別れただの。結局真偽は本人たちにしか分からないので流し聞きした程度だったが。


「これちょっと聞いていいか、わかんないんですけど。あの……」


 先輩はちょっと困ったように笑う。


「遠慮しなくていいよ。別れたかどうかが気になるんでしょ」


 頷きで返答する。


「うーん。はっきりと別れた訳じゃないんだけどね。最近は会えてないし、殆ど口も聞けてない」


 「どうしてこうなっちゃったかなあ」と苦笑する。

 こんな美人な人をこんなふうに困らせることのできる男はすごいな、と純粋に思った。

 それに最近自分も似たようなことがあった。


「自分も最近似たようなことがありました。理由は分からないんですけど、気が付いたら彼女とはもう修復できない溝、みたいなものが出来ていたみたいで」


 手に持っていたチューハイをぐいっと流し込む。アルコール度数は高く無いはずなのに妙に苦く感じる。


「……恋愛って難しいよね」


 先輩は夜空を見上げてぼやいた。

 そんな先輩の横顔はとても綺麗だった。


「横峯くんは、もし私が誘ってきたらどうする?」


 急な問いかけに心臓が止まりそうになる。

 そりゃあ、先輩みたいな美人な人に誘われたら男なら誰でも受け入れるだろう。

 ………男なら、誰でも、か。


「嬉しいですけど。もっと、しっかりと先輩のことを知ることができるまでは、……その誘いには乗れないです」


 きっと先輩はその外見から色々と苦労した経験もあるに違いない。

 先輩はそのパッチリとした大きい目をさらに見開くと、一筋の涙を流した。


「……そっか、横峯くんみたいな人に早く出会っていれば良かったな」


不謹慎だと思うけれど、彼女の泣いている姿はとても美しかった。


「…………ごめん」


 殆ど無意識的にだった。

 衝動的に先輩を抱きしめていた。

 驚いたように一度びくっと身を震わせた先輩は、優しく微笑むと、そのあとは先輩からも抱きしめ返してきてくれた。


 そうして先輩と二人。気づけば朝になるまで、時を過ごしていた。



  ◆◇◆◇◆


「こないだは夜中に悪かった。おかげで助かったわ」


 先輩と過ごした夜から数日後。

 二限の講義に向かおうとしていたところ、先日酔い潰れていた雄也が声をかけてきた。


「結局あのあとは何もなかったん?」


「ああ、結局あれからは何も無いよ」


 先輩とはあの日以来、会ってもいないし、連絡も取っていない。

 ただ一言。メッセージアプリには先輩からの『ありがとう。』だけが残されていた。


「だよなー。なんか久々に先輩が彼氏と二人で歩いてるとこ見たって聞いたしな。なんか先輩だったらワンチャンあると思ったけど、結局ダメやったわ」


 そういってわざとらしく肩を落とす雄也もやはり本気で言っている訳ではなさそうだった。


「流石に杏樹先輩はハードル高いだろ。お前なんか最近仲良くしてるって子がいたろ。そっちはどうなんだよ」


「あ、聞いちゃう? それがさ、なんか今度の休みに一緒に飲みに行くことになってさ」


 テンション高く話し始めた雄也と講義室に向かって歩き出す。


 ケータイを見ると一通のメッセージ通知が届いていた。


『横峯くんにとって、私ってハードル高いかな?笑』


 



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夜夏の夢 雨宮悠理 @YuriAmemiya

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