第6章 第110話
――そうだ。やはり、そうなのだ――
ペーター少尉は、視野角の影響か、目の前でくり広げられているのに今ひとつ現実感のない、光景を見ながら、遠近感も左右差もない会話を聞きながら、思った。
――私は、それに気付いていたはずなのに。認めたくない、理解したくなかったのだ。私自身がこの
私の周りには、言葉こそ通じないが同じような状態のチベット人の意識が幾人も居るのだから。
ある意味これは、この『都』では驚くに値しない事であって。
ああ、そうだ、だから、綺麗な
彼が、私が尊敬すら覚える彼、モーセス・グース師が、その頭の中にあるのは偽りの脳髄であり、本当の彼は
微妙に歪んだ視野の中で、棚の前に膝をついたドルマが、棚の右端に置かれた缶詰のようなものの表面の文字を読んだ。
「……ペーター・メークヴーディヒリーベ……」
――ああ、そうだ。今、この光景を見て、この声を聞いている私もまた、きっと、
ペーター少尉の視点は、入り口から見て棚の右横に固定されている。そこは、不可思議な直方体の機械の、
――あそこにあるのは、私の体。そして、今、ドルマさんが手を延ばした先にあるのが、恐らくは私の脳。そして、今、私は、それらを全く別の視点から見ている……何とも不思議なものだ……まるで、そうだ、これは、悪夢の光景だ――
自分の意のままにならない体を、勝手に動き、しゃべる自分の体を、その外から見ている。それだけなら、そんな悪夢を、ペーター少尉は昔見た事があるような気もした。
だが。
明らかにそんな記憶と違うのは、今、ドルマが手を延ばし、棚から引き出した缶詰――何本かのケーブルを引き摺って出てきた、不思議な質感の円筒――の中に、自分の脳が入っている事すらも理解出来てしまっている事。
そして。
これが、現実であるという、動かしがたい事実。
――ああ、体が無いというのは、こういう事なのか……――
興奮、困惑、驚愕、そして、恐怖。
ペーター少尉は、それらの感情を、感覚を、感じていないわけではなかったが、それと同時に、驚く程自分が冷静である事にも気付いていた。
――肉体が無いという事は、肉体由来の感情が無いという事と同義なのだ……なるほど、真理を得るために肉体を捨てるというのは、その意味では理にかなっているのだな……――
恐怖を『感じる』のは確かに脳だが、それに対する防衛反応を司るのは神経に支配された筋肉と体内各所の内分泌器官であり、筋組織の反応と、分泌される内分泌液である。これらの作用によって肉体は恐怖に対する準備を整え、同時に脳にも、高揚感や焦燥感といったいくつもの感覚、感情が励起される。
これらの肉体反応から物理的に切り離されているペーター少尉には、全くもって、目の前で起きている事の現実感が、無かった。
「……あたたかい……」
軽く腰を折って棚から脳缶を引き出したドルマは、そう言って、棚の前についたその膝の上に脳缶を乗せた。
「そうでしょうとも」
ペーター・メークヴーディヒリーベは、さもありなんと頷く。
「その中にあるのは、紛れもなくペーター・メークヴーディヒリーベの脳髄です。そして、脳という生体組織である以上は、頭蓋骨の中と同じ環境でなければ正常な活動を続ける事は出来ません。そう判断し、偉大なる『
「なるほど」
腕を組みながら、オーガストが言う。
「医者として、非常に興味深い。純粋に医学として、外科的方法で、そのように完全な状態で人の脳を取り出し得て、なおかつ脳も体も生きた状態を維持するなど、今の人類には到底出来ない事です。もし、この技術を得る事が出来たなら、人類の医学は爆発的な進歩を遂げるでしょう」
「ええ、ええ。まさしく、その通りです」
我が意を得たり、そのような笑顔で、ペーター・メークヴーディヒリーベはオーガストに同意する。
「モーリーさん、あなたが望むなら、その技術を偉大なる『
「それは、誰の言葉で、誰の意思かしら?」
今まで黙っていたユモが、腕組みしたまま、冷めた視線をペーター・メークヴーディヒリーベにに据えたまま、言う。
「少なくとも、ペーター少尉の言葉でも、彼の意思でもないわよね」
ちらりと、ユモはドルマに、ドルマが膝の上に乗せた脳缶に視線を流す。
その視線に気付いたドルマは、脳缶を両手で持ち上げ、ユモと視線を合わせ、小さく頷いて、脳缶を抱く。
「言葉としてはペーター少尉さんの体から出てるけど、その体に入っている出来損ないの脳ミソは、果たしてそんな大それた事を自分で判断出来るほどご立派なものなのかしら?」
ドルマからペーター・メークヴーディヒリーベの体に視線を戻したユモが、ぴしゃりと言い切った。
「これは。出来損ないとは、辛辣ですな……」
「ニーマント!あの出来損ないの
何か文句の一言も言おうとしたのだろうペーター・メークヴーディヒリーベの言葉を遮り、その目をひたと見据えたまま、ユモが聞く。
「私が言うまでもなく、ユモさんはお気づきだと思いますが……」
もし体があれば、一同を見まわしたであろう間を置いて、ニーマントが続けた。
「……はい。酷く揺らぎの少ない、誰かの意思をそのまま鏡映しにしているような、そう、まるで先ほどの『
ドルマの目が、ペーター・メークヴーディヒリーベの目を
それまでモーセスに向いていたラモチュンの視線も、ペーター・メークヴーディヒリーベの体に向く。
「……おど、というのは、一体何の事でしょう?」
ペーター・メークヴーディヒリーベの体は、笑顔のまま、首を傾げる。
「初めて聞く言葉です」
「生きとし生けるものが必ず発する、生命現象そのものの証の
腰に手を当てて、ユモは見下すように、言う。
「
突然、ユモが頭を抑えて体を折った。
一斉に、一同の目がユモに集中する。
「どうしました!」
オーガストが駆け寄り、その肩を支える。
「……え?なんて……」
しかし、ユモはオーガストには答えず、床の上のあらぬ方向に視線を逸らしたまま、何事か呟く。
「……ケシュカルが、どうしたの?」
「ケシュカル君?」
モーセス・グースは、眉根を寄せ、次いでオーガストに視線を移す。
オーガストも、モーセスに向いて、軽く頷く。
最前の経験から、二人は、ユモが雪風と『繋がって』いるのだと理解した。
「……ちょっと待ってなさい!今行くから!」
強く言い切って、ユモは顔を上げる。
上げて、後ろも見ずに走り出す。
ユモの耳に届いた、雪風の言葉。絞り出すような、悲痛な
「……あたし……ケシュカル君……殺しちゃう……」
「あ!ユモさん!……失敬!」
駆け出したユモを見て、一瞬躊躇したオーガストも、一言言い残してその後を追う。
「ケシュカル君……?」
ユモの背中を見送ったドルマは、ペーター少尉の脳缶を抱いたまま、モーセスを見上げる。
「……任せましょう」
モーセスは、ドルマを見て、ラモチュンを見てから、ペーター・メークヴーディヒリーベに視線を戻す。
「モーリーさんはユモさんとは旧知でいらっしゃるようですから、我々より適任でしょう。それよりも……」
「……わかりません……」
モーセスの背中を見ながら、ラモチュンが呟く。
「……何もかも……一体……何がなんだか……」
全力疾走で、ユモは回廊を通って一度『控えの間』の前室まで戻り、改めて『処置室』に繋がる回廊に入り直す。その距離、合計およそ五百メートル。
もちろん、ユモの体力と脚力では、その全行程を全力疾走し続ける事など出来ようはずもない。
ほんの五十メートルほど全力で走った後は、一瞬停まって、喘ぎながらなんとか呼吸を整えて、再度走り出す、小走りほどの速度で。
「……持ちましょう」
そこは仮にも大人でしかも軍人、あっさりとユモに追いついたオーガストは、ユモの背中の
「……」
二度目の小休止で、膝に手をついてあえぎつつ上半身を支えていたユモは、何か言いたそうな視線で肩越しにオーガストに振り向き、一度唾を飲み込んでから、頷く。
オーガストが
オーガストは、その背中を、激しく揺れる緩い三つ編みの長い金髪を見ながら
開け放たれた『処置室』の大扉を、躊躇なくユモは小走りに駆け抜ける。後を追って扉をくぐったオーガストは、何かに気付いて、足を停めた。
「……ミスタ・ニーマント?」
「はい?」
虚空に向けて呼びかけたオーガストに、ユモの胸元のニーマントが答える。
「この匂い、お気づきですか?」
「匂い、ですか?残念ながら、私には嗅覚と味覚はありませんので……しかし、ミスタ・モーリー、あなたが言いたい事は分かります」
ニーマントは、一瞬間を置いてから、言う。
「
「そうです。これは、この独特のカビ臭さと土の匂いは」
オーガストが、周囲を見まわしながら、言う。
「ほんの少しだけ、『イタクァ』に連れられて行った『ユゴス』で嗅いだ匂いです」
その時。ユモの声が、奥の半開きの扉から響いた。
「ユキ!……ケシュカル?」
「おっと」
オーガストは、改めて駆け出す。
「今は、こちらが先決でしたね」
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