第6章 第109話

 珍しく、モーセス・グースは一度深呼吸してから、その部屋の扉をゆっくりと押し開けた。

 ひんやりとした空気が、開いてゆく扉から流れ出してくる。

「う……」

「これは……」

 ユモが、急に顔を顰めた。ニーマントも、思わず声を出す。

「どうかしたのですか?」

 驚いて、オーガストが声をかける。前に居るモーセスも、後ろに居たドルマとラモチュンも、何事かと見つめる。

「……凄い数……何て数の……これは……祈り?」

「無垢で、純粋な放射閃オドです。一心不乱に、何かを求めている……」

「彼らは、ひたすらに、真理に達する事を欲しているのです」

 不意に、扉の中から声がした。

 ここに居る皆が聞き覚えのある、声。

 はっとして扉の奥に視線を向けた一同が見たのは、手を広げ、微笑みをたたえた、ペーター・メークヴーディヒリーベだった。


「どうぞ、お入りください」

 ペーター・メークヴーディヒリーベは、扉の正面から脇に避けて、一同を促す。

「モーセス師範ロードには、今更説明の必要はありませんでしょうが、皆様には……」

 言いながら、ペーター・メークヴーディヒリーベは、一人ずつしばし目を留めながら、一同を見まわす。

「……ドルマ、ラモチュン、お二人はこの部屋に入るのは初めてのはず。そして、ユモ・タンク嬢フロイライン ユモ・タンクとモーリー中佐、それから……」

 微笑みをたたえたまま、ペーター・メークヴーディヒリーベは小さく首を傾げる。

「……先ほどお声の聞こえた、もう御一方。この部屋のことは、何も御存知ないはず」

――中に、ミスタ・メークヴーディヒリーベもいらっしゃいます。目の前の方とは別に――

 ニーマントの囁きに、小さく頷いてから、ユモが言う。

「お招きに預かり光栄ですわ、少尉さん。いえ、今は同胞団ブラザーフッドの階位で呼んだ方が良いのかしら?」

「どちらでも、ご自由に」

 小さく会釈しながら、ペーター・メークヴーディヒリーベが答える。

「呼び名は、あくまで呼び名でしかありません。私の本質が変わるわけではありません」

「名は体を表すけど、往々にして名前負けってのもあるわよね」

 辛辣に、ユモが返す。

哀れみの主第一階位ともあろう者が、あたし達に嘘をついたり閉じ込めたり、言いたいことは色々あるけど、その前に一つ」

 腰に手を当てて、ユモは強く言う。

「ニーマント!自己紹介なさい!」

――よろしいので?私の存在は、切り札にもなり得るかと……――

おおやけにすることで発生する抑止力ってのもあるって事よ」

 ユモの耳にのみ届いた声に、ユモは肉声で答える。それは、はたからは、先の言葉に続けて言っただけのようにも聞こえた。

 聞こえた、が……

「……こうして、私から声をおかけするのはこれが初めてになりますね。改めまして、エマノン・ニーマントと申します」

 ペーター・メークヴーディヒリーベは――ペーター少尉も――聞いた覚えのない男の声、ラモチュンとドルマは先ほどちらりとだけ聞いた声が、今、はっきりと名乗りを上げた。

「これは……」

「え?」

「だ、誰?」

「エマノン・ニーマント。ああ、お探しになっても無駄です」

 流石に驚きの表情を浮かべるペーター・メークヴーディヒリーベと、声のした方を見て固まるドルマ、あたりを見まわして声の主を探すラモチュンに、ニーマントは言葉を続ける。

「私自身に、あなた方と同じような体はありません。声だけの存在と思っていただければよろしいでしょう」

――と、言う事にしておくべきと思います、念のためですが――

「そうね」

 耳の奥に聞こえたニーマントの声に、口の中だけでユモは答えてから、言う。

「あんた達の言う『悪霊』ってヤツかしら?そんなようなものだと思ってもらって結構よ」

「これは酷い」

 含み笑いしつつ、ニーマントも相槌を打つ。

「ですが、確かにそのようなものでもあります。よろしくお見知りおきの程を」

「……いつから、いらしたのですか?」

 平静を取りもどしたように見えるペーター・メークヴーディヒリーベが、ニーマントに尋ねる。

「最初からです」

 あっさりと、ニーマントは答える。

 一瞬、言葉に詰まったペーター・メークヴーディヒリーベは、その顔に笑みを取りもどすと、

「……これは、ユモ・タンク嬢フロイライン ユモ・タンクもお人が悪い。もっと早くにご紹介頂きたかったものです」

「出来れば、最後まで紹介したくなかったんだけど!」

 ユモに向けて微笑みつつ言った言葉に、語気荒目にユモが返す。

「まあ、いいタイミングだったかもね」

「……悪霊……」

 ラモチュンが、ユモの方を見ながら、呟く。

「心外ではありますが、そのように思われても仕方ありませんね」

「最初の頃のあんたは、悪霊そのものだったわよ」

「今は、思いを新たにしております」

「まあ、根は気の良い方ではありますよ。それは、私が保証します」

 過去の事で言い合いを始めそうなニーマントとユモの間に、オーガストが割り込む。

「それに、今更これくらいの事、驚くには値しませんでしょう。この『都』とやらは、なかなかに脅威に満ちていらっしゃるようですから」

 オーガストの皮肉に、しかし、ペーター・メークヴーディヒリーベは顔色を変えない。

「これは、これは。どうやら、既に色々と御存知なのですね?」

 言いながら、ペーター・メークヴーディヒリーベはモーセス・グースに視線を移す。

「グース師範ロード、あなたの差配ですか?」

「然り」

 鷹揚に頷いて、モーセスも答える。

「拙僧の判断であり、また、『元君』の御意志でもあると自負しております」

「なるほど?」

 微笑みを崩さないまま、ペーター・メークヴーディヒリーベは視線をラモチュンとドルマに移す。

「この二人をここに連れていらしたのも、ラモチュンとドルマが光の使徒第三階位を得るに値すると判断なさった?」

「秘密を知るべき時期である、とは思いました」

 モーセスの言葉は、重い。

「ですが、拙僧は、かつて光の使徒第三階位を得た同胞ブラザーと同じようにすべきかどうかについては、異を唱えたいと考えています」

 ぴくりと、ペーター・メークヴーディヒリーベの眉が動く。

「……まあ、良いでしょう」

 しかし、ペーター・メークヴーディヒリーベは、笑顔を崩そうとせず、

「遅かれ早かれ、いずれ彼女たちも知る事になるのでしょうから。さあ、ラモチュン、ドルマ、ご覧下さい」

 一同から部屋の中が見渡せるように脇に下がりつつ、左手で部屋の奥を示し、そこにあるものを見るように促す。

「あなた方の先達、既に光の使徒第三階位を得た同胞ブラザー達の姿を!」

 そこにあるのは、無機質な金属の棚と、得体の知れない複数の機械と、前部で半グロスほどになろうかという、縦横三十センチ程の、金属の缶だった。


「……え?」

 ラモチュンは、ドルマも、すぐにはその意味を理解出来なかった。

 そこに何があるのか理解出来ず、理解しようとして、数歩、前に出る。

「この棚を管理する方は、たいそう整理整頓がお好きなようでして。故に、彼らは、左上から右下に、時代順に並んでいます」

 ペーター・メークヴーディヒリーベは、問わず語りに言う。その言葉に、真ん中辺から右側を見ていたドルマと、左側を見ていたラモチュンは、一旦振り向いた後に改めて、右下と左上に視線を戻す。

 その大きな缶詰のようなものの、不思議な質感の缶の表面に、浅く彫り込まれるように描かれた文字らしきもの、一番上に書かれているのは、文字とも絵ともつかない模様だが、その下にあるのはチベット語の文字であり、読み取れる事に気付いたドルマが、書かれている事をそのままに口にする。

「……シロー?」

 チベット語で『死んで戻った子』の意味のその名前を読んで、ドルマの顔に疑問符が浮かぶ。

「……テンジン……ドージェ……?」

 上から二番目に書かれているその名前は、言葉を交わした事こそ殆ど無いが、ドルマも顔と名前は知っている『接見の間』に侍っていた高官達の名前だった。

「……ミクマル……ナムカン……こっちは知らない名前だわ……」

 左上から適当に選んで読んでいたラモチュンが、そう言って流した視線が、ある缶の上で停まる。

「……モーセス・グース……」

 呟いて、ラモチュンはそのまま動かず、はっとしてドルマは振り向く。

 そこには、仏像のように固い、微笑みであるはずなのに岩のように固いモーセスの顔があった。

「ラモチュン、ドルマ、先ほど拙僧が、拙僧とペーター少尉がここに居ると言った事を覚えていますか?」

「……はい」

 ラモチュンが、背中で答える。

「これが、その答えです」

 モーセス・グースが、脳缶の納められた棚の前に進み出て、ラモチュンとドルマの間に入る形になる。

 そしてモーセスは、手を延ばし、自分と同じ名の刻まれた缶の表面に、優しく指で触れる。

「ここに。この缶の中に、拙僧のオリジナル、人間であった頃のモーセス・グースの脳が納められているのです」

 はっと、ラモチュンはモーセスの顔を見上げる。ラモチュンは、そのモーセスの顔から、慈しみと同時に幾許いくばくかの哀しみも読み取る。

「これが、光の使徒第三階位を得る、という事です。より深く真理を学び、真理に近づくために、肉体を捨て、脳だけになって瞑想し、あるいは英智を授かる。ここにあるのは、そうして真理に近づく努力を続けている脳達です」

「では……では、モーセス師範ロード、あなたは……他の光の使徒第三階位の方々は、一体……」

 ラモチュンの声を聞きながらモーセスの顔を注視していたドルマは、何かに気付いて、棚の右端に振り向く。長い黒髪が乱れ、揺れる。

 そこに書かれている文字を見つけて、ドルマの肩がぴくりと揺れ、次いで動かなくなる。

「拙僧は、拙僧の頭の中にあるのは、人であった頃のモーセス・グースのそれを写し取った脳のコピーです。光の使徒第三階位以上の同胞団員ブラザーも同様。頭の中にあるのは、『奉仕種族の脳』に他なりません」

「……そんな……」

「……ペーター・メークヴーディヒリーベ……」

 唖然として、モーセスから一歩退くラモチュンの呟きを覆い隠すように、一番右端の缶の表面の文字を、ドルマは、読み上げる。

 読み上げて、斜め左後ろ、五、六歩離れたペーター・メークヴーディヒリーベに視線を移す。

 その目に、微笑みを絶やさないペーター・メークヴーディヒリーベの顔を見つめるドルマの目の奥に、ゆっくりと、くらい炎が灯った。

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