第6章 第105話

「いかに貴き宝珠マニ・リンポチェといえど、そこは一つの生物です。用を足すのにいちいち高低差100メートルの階段を上り下りするのはあまりに非合理です」

 ニーマントの問いに直接答えず、モーセス・グースは『謁見の間』の奥に歩みながら、言う。

「ですから、この『謁見の間』には、貴き宝珠マニ・リンポチェがここで謁見を行う間に必要とするものが一通り揃っています。もちろん、それらは直接見えないように、奥の間に置いてあるのですが」

 モーセスは、入り口の扉から見て真正面の壁に手を当てる。

「このように、この壁は全くもって奥に部屋がある事など気取られない作りになっています、見える所にドアなどありません」

 そのまま、モーセスは右手方向に移動し、壁の左右を飾るカーテンの隙間に手を入れる。

「そのかわり、ここに、入り口があります」

 カーテンをまくり上げ、モーセスはその入り口を示す。幅1メートルに満たないその入り口は、なるほどカーテンに巧妙に隠され、知らなければ気付く事は難しい。

 モーセスの視線に促され、ユモとオーガスト――と、ニーマント――は、モーセスに歩み寄り、モーセスがまくったカーテンの隙間から先を覗き込む。

「そして、この奥の間には、貴き宝珠マニ・リンポチェの世話をする為の世話役が常駐しています」

 ユモとオーガストは、見た。

 そこに、年老いた男が一人、微動だにせず立っているのを。

「……ご紹介が遅れました。彼こそは偉大なる師グル・リンポチェ

 その名を聞いて、ユモは身を固くし、オーガストの眼光が鋭くなる。

貴き宝珠マニ・リンポチェの世話役にして、先代の貴き宝珠マニ・リンポチェです」


「え……?」

 ユモは、モーセスの説明を咀嚼しつつ、違和感を覚える。

「先代の、貴き宝珠マニ・リンポチェ、ですか?これはまた……」

 唐突な紹介に、どう対応したものか戸惑ったオーガストは、とにかく一度脱帽し、軍帽を胸に当てる。

 当てて、会釈するが、偉大なる師グル・リンポチェと紹介された、この『都』では珍しい、老人と言えるその男は、挨拶を返すどころか、視線を動かす事すらしない。

「……ミスタ・グース、聞いてもよろしいですか」

「何なりと」

 ニーマントの問いかけに、モーセスが頷いて答える。

「この偉大なる師グル・リンポチェという方は、貴き宝珠マニ・リンポチェと同一人物なのでは?」

「……それだわ」

 薄気味の悪い違和感の正体を得て、ユモが呟く。

「でも、どういう事?」

 ユモも、モーセスに問いかける。

 放射閃オドのみで物を見るニーマントに対し、主に肉眼で物を見るユモの目には、同一と言ってよい程似た放射閃オドを放つその男は、しかし、面影こそあれ明らかに年格好の違う、青年寄りの壮年と言える貴き宝珠マニ・リンポチェの、三十年は年を重ねた姿に見えていた。

「確かによく似てるけど、どう見てもこの偉大なる師グル・リンポチェって人の方が貴き宝珠マニ・リンポチェより老けて見えるわ。けど、ニーマントの言うとおり、放射閃オドに関して言えば、同一人物と言っていい……そうね」

 ユモは、腕を組んで、言う。

「ユキなら、きっとこう言うわ。『加齢臭を除いて、同じ匂いがする』って」

 オーガストとモーセスは、思わず苦笑する。

「いやはや。しかし、流石は『福音の少女』とそのお付きのニーマントさんです」

 苦笑しつつ、モーセスが答える。

「そう、貴き宝珠マニ・リンポチェ偉大なる師グル・リンポチェは、同一人物と言って差し支えありません」

「それは、一体……親子、というならまだ分かるのですが」

 オーガストが、感想を差し挟む。

「然り、親子と言えなくもないですが、その意味では兄弟と言った方が良いのかも知れません」

 偉大なる師グル・リンポチェに視線を移しながら、モーセスが説明する。

「拙僧も、詳しい事は存じ上げないのですが。何しろ、偉大なる師グル・リンポチェが先代の貴き宝珠マニ・リンポチェであった時代は、拙僧がこの『都』に来るより前の事ですし、普段は『都』の外にいることの多い拙僧は、貴き宝珠マニ・リンポチェとは他の哀れみの主第一階位の者と一緒に寺院で『都』の運営に関する要件で話すことが殆どで、この『謁見の間』に来た事は片手に満たない程でしかありません。そして、偉大なる師グル・リンポチェもまた、この『謁見の間』から出る事は殆どありません。『元君』から、どのようなものかと言うのは聞き及んでおりますが、『元君』はあのようなお方でありますから、大事なところははぐらかしておいでになる。いやはや……」

「要するに、面白がってるのね、『元君』は」

 ため息交じりで言ったユモに、モーセスは苦笑で答える。

「……偉大なる師グル・リンポチェは、貴き宝珠マニ・リンポチェ以外と話すことはまず無く、貴き宝珠マニ・リンポチェ以外の誰かの言うことを聞くという事もまずありません。もちろん、拙僧が偉大なる師グル・リンポチェに何か命じるなどという事もあり得ませんし、そうしたところで偉大なる師グル・リンポチェが動く事は有り得ませんが……」

「……ねえ、この人、これで『生きてる』のかしら?」

 微動だにしない偉大なる師グル・リンポチェの顔を見上げながら、ユモが聞く。

「生きてるなら、今のあたし達の会話も、全部聞いてるはずよね?」

「それは、そうです」

 モーセスは、頷いて答える。

「そしたら、さっきみたいに、ここのエーテルをあたしがかき混ぜたら、何か起こるかしら?」

「それは……」

 モーセスは、答えに詰まる。

「……この偉大なる師グル・リンポチェという方が、今まさに誰か、あるいはどこかに『繋がっている』、そういう事ですか?」

 オーガストが、ユモに聞いた。

「有り得る話、て言うか、あたしが『このシステム』を作ったなら、間違いなくそうすると思う……さっき、下の部屋のエーテルをかき混ぜた時からずっと思ってるの。出来の悪い半自律型自動人形オートマータみたいだな、って」

 偉大なる師グル・リンポチェを見上げたまま、ユモが答える。片眉を上げたオーガスト、何か聞きたげに身を乗り出しそうなモーセスの気配を背後に知ってか知らずか、ユモは、そのまま言葉を続ける。

「あたしのママムティは、自動人形オートマータを作るのが本当に上手なの。それも、人工人格を載せた、人と全く見分けのつかないようなヤツ」

 ユモは、くるりと振り向く。M36オーバーコートMantel 36の下の黒いワンピースの裾がひるがえり、緩く三つ編みに結った長いブロンドが体を追って流れる。

おばあちゃんオーマも上手かったらしいんだけど、おばあちゃんオーマが作るのは基本的に半自律型ばっかりで、完全自律型はほとんど作らなかったらしいの。ママムティが作るのは完全自律型が多くて、逆に半自律型は逆にめんどくさいって言ってるけど。でも、どっちにしても、あたしはママムティの作る自動人形オートマータを見慣れてるから、他の魔法使いが作った自動人形オートマータが、言い方悪いけど、なんかこう、みすぼらしくって。特に半自律型はね……似てるのよ、さっきの人達の反応とか、この人とか」

 ユモは、偉大なる師グル・リンポチェを肩越しに見上げる。

「主人と繋がってないと途端にぎこちなくなったり、最悪停まっちゃったり、そういうところが、ね」

自動人形オートマータ……」

 オーガストが、呟く。

「……人形作家アハティスト ディ プペジュモー・・・・の、オートマータ……」

 19世紀中盤の人形作家、ピエール・ジュモーは、ビスクドールを芸術の域に引き上げた創始者であり、後年、『オートマータ』と呼ばれるオルゴール仕掛けの『自動人形メカニカル・ドール』も数多く作成している。

「あたしの名前の由来のひとつ、らしいわ」

 流石ね、よく知ってるわね、そんな目つきで、ユモはオーガストに微笑んでみせる。

「綴りは、違うけどね」

「なるほど、それで納得がいきます」

 ニーマントが、言う。

「つまるところ、彼らは皆、どこかの誰かに集中制御されている、半自動の操り人形である、そういう事ですね?」

「そんなところでしょうね」

 フンスと鼻息荒く、ユモはニーマントに同意する。

「ある程度の自律性はあるみたいだけど。何の事はない、根本的なところで下男下女の造りと大差ないって事よね。悪趣味だったらありゃしないわ」

「操り人形、ですか」

 やや硬い声で、モーセスが呟いた。

「言い得て妙、ですね……なるほど、『ユゴスキノコ』の、操り人形。得心がいきます」

 呟いて、視線を偉大なる師グル・リンポチェに向ける。

「あくまで『ユゴスキノコ』が安泰である為の、擬装、カモフラージュとしての『都』であるならば。その運営も、意思決定も、『ユゴスキノコ』の意思を反映したものになる……」

 ユモとオーガストに振り向いたモーセスの顔は、どこか自嘲的な微笑みを浮かべている。

「……拙僧は、この『都』においては最高位であっても、運営に携わる権はなく、また拙僧も携わる気は毛頭ありませんでした。それは、拙僧はあくまで『元君』の眷属であったがゆえですが、拙僧などが口を出さずとも、この『都』の運営は安定し、安泰であると見て取れたからでもあります。しかし……」

 モーセスの視線は、ユモに注がれる。

「……昨今、この数年、その安泰も揺らいできているようにも、拙僧には感じられました。そう、チェディが、テオドール・イリオンが来たのもその証であったのでしょう、昨今、時代が急速に動くにつれ、『都』の有り様ありようも変わらざるを得なくなってきたのでしょう。そして、ついに、『福音の少女』が現れるに至り、揺らぎは、頂点に達した……」

「止めてちょうだい」

 眉根を寄せ、唇をとがらせ、腰に手を当てたユモは下からモーセスをめつける。

「あたしは、あたし達は、そんなたいそうなものじゃないわ。あたしとユキは、ただうちに帰りたいだけの子供に過ぎない、ママムティの元に還りたいだけの、取るに足らない女の子よ」

「そうでありましょうとも」

 ユモの胸元から、相槌を打つ声。

「ユモさんとユキさんに関する限り、まさしく、その通りでありましょう。しかし、当の本人がそう思うことと、周りから見た、感じたその影響力というのは、これまた往々にして大きく違っているもの。そうではありませんか?ミスタ・モーリー?」

「まあ、その通りですな」

 オーガストは、ニーマントに同意する。

「お二人がいなければ、私はここには居ないし、そもそもこの十年、文字通り存在してすら居なかったでしょう。このような姿に成れ果てたとしても、今ここにこうして存在する、この僥倖ぎょうこうは『福音の少女』によってもたらされた、それもまた、間違いのない事実です」

「……ったく、もう……」

 ユモは、片手で顔を覆い、横を向く。

「大の大人がってたかって……おだてても何も出ないからね!」

 指の間からその大人達に視線を向けるユモの目は、しかし、まんざらでもなさそうでもある。

「で?この魔女、ユモ・タンカ・ツマンスカヤをおだてそやして、一体何をさせようって言うのよ?」

「言うまでもありません」

 モーセスが、岩のような顔に柔らかい微笑みを載せて、言った。

「ドルマとケシュカル君を救い、『都』の求道者達を救う、そのお手伝いをしていただきたく、拙僧、切に願う次第です」

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