第5章 第81話

「ペーター様、お休みの所申し訳ありません」

 ノックに続いて、部屋の鍵を合い鍵で開けたのだろうラモチュンは、そういってペーター・メークヴーディヒリーベ少尉にあてがわれた客間に入った。

「用意は出来てます、参りましょう」

 外套チュパだけでなく、全てチベットの服で身を覆ったペーター少尉は、腰掛けていたベッドから立ち上がりつつ、答える。

「……よくお似合いですわ」

 元より細い目をさらに細め、ラモチュンがペーター少尉の着こなしを評価する。

上背うわぜいがおありになるから、大変に映えますこと。そう思いません?ドルマ?」

 銀糸の刺繍の入った白い外套チュパ、上位の同胞団員ブラザーのみ着れるそれを纏ったペーター少尉を見てそう言ってラモチュンは、自分のやや斜め後ろに居たドルマに声だけで尋ねる。

「……大変結構だと思います」

 抑揚のないドルマの声は、ペーター少尉の足下に落ちた視線同様に、地に沈み込む。

「そうでしょう?」

 それを知ってか知らずか、ラモチュンは振り向かず、続ける。

「国外の方が上位の同胞団員ブラザーに迎え入れられるなど、滅多にある事ではないけれど、貴き宝珠マニ・リンポチェがペーター様をご覧になって、そうすべきと決められたのだもの。お疑いしていたわけではないけれど、こうして絹の外套チュパを来たペーター様を見れば、やはり貴き宝珠マニ・リンポチェの御慧眼が如何に素晴らしいかが分かろうというものだわ。今のペーター様は、貴き宝珠マニ・リンポチェとも、『赤の女王』とも並び立たれても決して見劣りがしませんわ」

 ラモチュンの声には、高揚の色が濃くにじみ出ていた。そのラモチュンは、扉の前から一歩退いて、ペーター少尉に軽く会釈し、これから行くべき先をうやうやしく手で示す。

「さあ、参りましょう、ペーター様。お食事の用意が出来ております。貴き宝珠マニ・リンポチェがご一緒に、との事ですので、食堂とは別室にご案内いたします」

「ありがとうございます、ラモチュン」

 ペーター少尉に礼を言われ、ラモチュンは再び軽く会釈する。

「……そうだ、ペーター様、もう一つ、貴き宝珠マニ・リンポチェから言付ことづかっています、よろしければ、ケシュカル君も同席させたいとのことですが、よろしいでしょうか?」

 ラモチュンに問われたペーター少尉は、微笑んで返す。

「もちろん、何の問題もありません。是非」

「では……ドルマ」

 ラモチュンは、背後のドルマに半身ほど振り向き、視線を流す。

「ケシュカル君を呼んできてくれますか?行き先は……」

「……寺院の会食の間ですね」

 視線を上げてラモチュンの目を見たドルマが、答えた。

「そうです、よろしくお願いします……ではペーター少尉、こちらへ」

 ラモチュンに促されて、ペーター少尉は部屋を出る。

 すぐ側に居るドルマを、全く気にかける様子もなく。

 ドルマも、ペーター少尉を目で追うことはなかった。


「……ケシュカル君、居ますか?」

 部屋の扉越しに声をかけたドルマに、すぐに返事があった。

「はい。その声は、ドルマさん?」

「はい。開けてもいいかしら?」

「はい」

 鍵のかけられていない扉を開けて、ドルマはケシュカルにあてがわれた客間に入る。

 ケシュカルは、部屋の扉と反対側で、なにやら書き物をしていた様子で、笑顔でドルマに向き直った。

「俺に用ですか?」

「……お食事の用意が出来ました、呼びに来ました」

 その笑顔に当てられて、ドルマは、つっけんどんな言い方になってしまった事を心の隅で悔いる。

 が、まるで気にしていないのか、そもそも気付いてもいないのか、ケシュカルはパッと顔を輝かせた。

「やった、腹減ってしょうがなくて。お坊様にしばらく一人で練習しろと言われたけど、俺、もう、気が入らなくて」

 簡単に紙と鉛筆を片付け、ケシュカルは立ち上がるとドルマに小走りに寄り、部屋を出ようとする。

「あ、待って」

 慌てて手をのばし声をかけたドルマに、ケシュカルは立ち止まって振り向く。笑顔で、しかし若干怪訝そうなケシュカルに、ドルマは言う。

「……貴き宝珠マニ・リンポチェが、一緒に食事をされたいそうです。行きますか?」

 一瞬、意味が分からなかった様子のケシュカルは、すぐに満面の笑みになる。

「行く!」

 その笑顔は、ドルマの心の中の、暗くて敏感な部分に、針先のように細く、しかし深く突き刺さる。

「……では、案内します。食堂ではなく、寺院ですので」

 ドルマは、ケシュカルの笑顔から目を逸らすように、ケシュカルの前に立って、先導する。

 心の中の色々な思いを、強く噛み殺しながら。


「……ここです」

 オーガストは、すぐ後ろに居るユモと雪風――狼の姿の雪風と、そこに跨がるユモ――に振り向き、崖の一角の横穴を示した。

 御神木の前での一件から自室に戻り、昼食にすべく軍用ライ麦パンコミスブロートと最後のマーモット肉を片手に『都』から外に出ようとしていたユモと雪風は、ペーター少尉の居室に本人が居ないことを確認した後、オーガストに声をかけた。

 話の流れでマーモット肉が最後である事、缶詰等は今後を考えると出来れば手を付けたくないこと等を口にしたユモと雪風に、オーガストは自分が軍から提供されている物資であれば融通出来る事、自分の隠れ家はここから徒歩で半日ほどかかるが、自分や雪風であれば日が落ちてそれほど経つ前に『都』に戻れるだろう事を提案、二つ返事で即決したユモの指示で、二人は即席で作ったサンドイッチを腹に収め、雪風は狼の姿になり、ユモはその背に跨がってオーガストの道案内で雪山に挑み、今に至っている。

「確かにここなら、ちょっとそっとじゃ人も獣も寄りつかないわよね」

 それは、『神秘の都』と『ナチス一般SSアルゲマイネ・エスエス調査隊宿営地』の中間点から東北東に数キロ、ナムチャバルワ山の氷河の一つをいくらか登った所にある凍てついた崖の中腹の洞窟であった。

 夏に向かおうとする季節であってもなお気温は氷点を割り込み、ただでさえ標高の高いチベット東部においても最高峰の、ナムチャバルワ山の中腹に位置することもあって空気も非常に薄い。

「ここは生ける者の赴く所ではありません、放っておけば必ず死にます、てか?」

「何それ?」

「気にしないで、ただのネットミームだから」

「だから、そのネットミームって何よ?」

「まあ、言わんとする事は間違ってなさそうですね」

 よく分からない言い合いを始めそうなユモと雪風を制するように、ニーマントが口を挟む。

「この周囲に、生き物の放射閃オドは殆ど感じません」

「寒さを防げる場所も、食べるものもここにはありません。私を支援しているのは米軍と協定を結んでいるインド駐留英軍の情報部ですが、情報や物資の受け渡しは、別な場所で行いますから、彼らも私がここに居ること自体は知る由もないでしょう」

「まあ……ねえ」

 ユモは、軍用コートの襟を掻き合わせるようにして、言う。

「普通、生きられないわよね、こんな環境じゃ……」

「同感」

 ユモも雪風も、自分達にかけてある魔法のおかげで、寒さは感じるが命の危険はない。にも関わらず、むしろだからこそ、生き物の気配のないこの氷の世界は、異質であり、物理的ではなく心理的な『寒々しさ』を感じる。

「私にとっては、都合は良いのです。誰からも干渉される可能性は、ゼロと言って良い」

 言って、オーガストは肩をすくめ、寂しそうな、困ったような顔をユモと雪風に向ける。

「そのかわり、話し相手も居ませんが……まあ、私のような者が、便利に利用されているだけであったとしても、軍隊、人の社会の末端にぶら下がっていられるだけ幸運である、そうも言えますが」

 オーガストは、言いながら、ユモと雪風を洞窟の中に促す。崖から数メートル入った所に、木箱をバラして作ったとおぼしき扉があり、オーガストはこれをひょいとどかす――蝶番でもなんでもなく、ただ置いてあるだけの扉。

「常々疑問なのですが」

 ニーマントが、飄々と聞く。

「人は何故、群れを、社会というものを作りたがるのでしょう?私の見てきた限り、人の作る社会、集団は、小規模であれば共生の役に立つようですが、大きくなるにつれ、内部にも外部にも問題を抱えるように思えるのですが」

「辛辣ですな」

 苦笑して、オーガストが答える。

「群れをなすのは、生き物としての本能であり、そのように進化してきたから。そう考えるのが、最も分かりやすいのだと思います。そして、おっしゃる通り、群れが大きくなれば、他の群れとの縄張り争いも発生しますし、群れの中での軋轢も増える」

 オーガストは、洞窟の奥のやや広い空間で、石油ランプに火を点ける。

「そのあたりも、群れを作る他の動物と大差ないのではないでしょうか。違いがあるとすれば、人の作る群れはあまりに巨大で、あまりに複雑であるという事かと思いますが」

「……寂しいから、じゃ、ダメなのかな?」

 ぼそりと、雪風が呟く。

「あ、いや、その」

 思わず注目を集めてしまい、雪風は咄嗟に『狼の顔のまま、困った笑顔で』取り繕う。

「基本、あたし達・・・・は家族単位の群れで生活するから。一人で居るってことは、家族が居ないってことで、寂しいから、だからせめて他の群れに入れて欲しくて、受け入れられることも、ダメなこともあるけど、そういう事かなって……」

「その格好で言うと、なんか説得力あるわね」

 狼の姿の雪風の背中から降りながら、ユモが言う。

「確かにそれは一つの真理でしょうね。そして、家族単位の群れだからこそ、生きるために縄張りを死守する、って事?」

「殺し合いになる事は滅多に無いって、ばあちゃん言ってたけどね」

 ユモに答えてから、雪風は小さくコマンドワードを呟き、その閃光の中で人の姿、いつもの黒いセーラー服姿に成る。

「寂しくて群れを作るのに、他の群れとは相容れない。矛盾よね」

 雪風は、言って、肩をすくめる。

「つまるところ、何?オーガスト、あんたも寂しかったってこと?」

 ユモは、話の行き先をあさっての方に方向転換させた。

「そう……だったかも知れません」

 オーガストは、そこらにいくつかある木箱に腰を下ろすようユモと雪風に勧めながら、自分も腰を下ろす。

「この体になってから、本当に数える程しか人と口をきいた覚えはありません。そういうものだ、自分はもう人ではないのだ、そう思っていましたが……いやはや」

 オーガストは、揉んでいた手を広げ、自嘲的に小さく笑う。

「お二人に再会して、思い知らされたようです。自分は、か弱い人間に過ぎない、少なくとも精神は、体ほど頑丈に生まれ変わってはいなかった、と……お二人は、いずれまた別のどこかに行かれるのですよね?」

「明日、だっけ?」

 オーガストに聞かれ、ユモは雪風に確認する。

「多分。少なくとも、新月は明日ね」

 種族的特性から、月齢を正確に把握出来る雪風が、ユモの問いに答える。

「やれやれ……『福音の少女』とはよくぞ言ったものと思いますが、こうなると『呪い』ですらあるかもしれないですな」

「何よ人聞きの悪い」

 オーガストのぼやきに、ユモが即座に反応する。

「いやいや。お二人が去られたら、私はまた一人になってしまう。今まではともかく、これからはその寂しさに耐えられるのかと思うと……」

「……ペーター少尉は、もうしばらくここいらに居るんじゃないですか?」

 雪風が、何となく、言う。

「だとしても、いずれは本国に戻られるでしょう」

「モーセス・グースは?」

 ユモが、言葉を重ねる。

「あの人間離れしたお坊さんなら、なんなら『ここ』まででも来るんじゃないかしら?」

「はは……いや、本当にそうなら有難い、嬉しいですな。ここには、彼の故郷のスコッチも少しは置いてあります。私には意味のないものなのですが……」

「難儀なものね、その……何?イタクァに魅入られた体、とでも言うのかしら?」

「ウェンディゴ症候群の患者とは明らかに違いますから、何と呼ぶべきか分かりませんが……寒さと低気圧にめっぽう強く、疲れも感じなければ食事の必要も感じない、暑さは苦手ですが、まあ、使い方次第で便利な体ではありますが、そうですね、人の生業なりわいからはかなり遠ざかってしまいましたね」

「とはいえ、寂しさは感じるのですね?」

 ニーマントが、畳み込むように、聞く。

「肉体的には変化しても、精神的には変化していなかったようです」

「良かったですよ、オーガストさんがオーガストさんのままで。体に引っ張られて無感情なロボットになられてたら、正直、哀しかったですよ」

「そうね」

 頬杖ついて、雪風の言葉にユモが付け足す。

「そういう、血の通ってないのはニーマントだけで充分だわ」

「これはまた手厳しい」

 これっぽっちも感情の震えを見せずに、ニーマントが言い返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る